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『村ノ掟』  作者: 雨徒然
7/27

1-7

 夜風はまだ冷たかったが、春人の頬に当たる風は、ほんのわずかに春の匂いを含んでいた。杜宮家での団欒を終え、楓と一緒に杜宮家を辞したのは、時刻にして八時を少し回った頃だった。


 二人並んで歩く夜道。外灯の届かない田畑のあぜ道は、足元もおぼつかないほど暗かったが、楓が小さな懐中電灯を照らしてくれていた。


「今日は……ありがとう、春人君」


 ぽつりと、楓が言った。


「え?」


「夕飯、一緒に食べてくれて。……お父さんも椿姉さんも、嬉しそうだったし」


「うん。俺も、楽しかったよ」


 それは本音だった。杜宮家での食事は、なんだか懐かしくて、居心地が良かった。誰かに囲まれて食卓を囲むことの、あたたかさ。両親との夕食よりも、ずっと賑やかで、笑いの多い時間だった。


 それでも――。


(……俺は何をしに行ったんだろう)


 ふと、春人の胸の奥で、言いようのない違和感がもやを巻いていた。


 楽しかった。椿にも会えた。子供のころの懐かしい空気に包まれて、少しだけ昔に戻ったような気持ちにもなれた。


 けれど、今の自分は――椿の前で笑うのが、少しだけ苦しかった。


「……春人君、最近、なんか考えごと多くない?」


 楓の声が、夜の静けさを切るように入ってくる。


「えっ……そう、かな?」


「うん。笑ってても、目が笑ってない時ある。……今日の夜も、少しだけ、そうだった」


 春人は返す言葉を探しながらも、うまく出てこなかった。


 楓はそれ以上追及せず、足元を照らしながら小さく息を吐く。


 沈黙が、またふたりの間に落ちた。


 しばらくして、村の通り沿いにぽつりぽつりと家々の明かりが見えてくると、春人の家も近づいてきた。歩みを緩めながら、楓がふと顔を上げる。


「……春人君。椿お姉ちゃん、昔から春人君のこと、可愛がってたよね」


「え、あ、うん……。なんか、弟みたいに思ってるって、前にも言ってた」


「そっか……そっか」


 楓はそれだけ言うと、視線を前へ戻す。春人の横顔をちらりと見たが、その表情は読めなかった。


 やがて春人の家の前に着くと、楓は懐中電灯を消した。


「今日はありがと。……また、ね」


「うん。おやすみ」


 春人が手を振ろうとすると、楓が小さく付け足した。


「椿姉さんって、綺麗だよね」


「……うん」


 楓は春人の答えを聞くと、何も言わずにくるりと背を向けて歩き出した。


 その背中を見送る春人は、心の中にじわじわと広がる妙な痛みに戸惑っていた。自分でもよくわからない、むずがゆさと息苦しさが、胸の奥で音もなく揺れていた。


 自宅の玄関をくぐったときには、家の中はすでに静まり返っていた。


 母親はいつも通り食器を片付け、早々に自室へ引っ込んだようだった。父の姿は見えなかったが、きっと作業場にでもいるのだろう。春人は足音を忍ばせて自室に戻ると、鞄も制服も投げ出したまま、畳の上にどさりと腰を下ろした。


 部屋の中には、静寂だけがあった。窓の外で風が枝葉を揺らす音だけが、かすかに耳を打つ。


 春人はしばらく天井を見上げていた。意味もなく、ぼんやりと、ただ漠然と考えごとをしていた。


 ――椿さんは、本当に綺麗だった。


 そう思うたびに、胸がざわめいた。

 目を合わせるたび、言葉をかけられるたび、何かが心の奥で揺れた。子どものころに感じた安心感や憧れとは、少し違う。


(でも……)


 春人は目を伏せる。

 その感情がどういったものなのか、複雑なものとして自身の中で渦巻いていた。ただ、どうして自分が今日あの家に行きたかったのか、楓や真希といるときとは違う気持ちがあったのか――なんとなく、自分でも分かってきた気がした。


 椿の前では、大人でいたいと思った。

 子ども扱いされるのが悔しくて、もっと強くなりたいと、そう思った。

 彼女に、弟ではなく「男の子」として見てもらいたいと――そう、願っていた。


 気づけば、春人は自分の胸に手を当てていた。

 鼓動がまだ少し早いままだった。あの縁側で隣に座ったときの距離、椿の声、そしてふいに向けられた「可愛い」という言葉――全部が頭の中に焼きついていた。


(……可愛い、か)


 自嘲気味に呟くと、ふと楓の言葉がよみがえった。


『椿お姉ちゃん……綺麗だよね』


 春人は、そのとき楓がどんな気持ちでそれを言ったのか、今になってようやくわかったような気がした。

 楓は笑っていた。いつも通り、穏やかに。だけど、あれは――。


 春人は畳の上に寝転がり、ぼんやりと天井を見つめる。


 感情というのは、思っているよりもずっと複雑で、絡み合って、答えを出すにはまだ自分は幼いのかもしれない。だけど、少なくとも――。


(俺は、大人になりたい)


 漠然と、だけどはっきりと、春人はそう思った。


 椿にふさわしい「大人」になるために。

 そして、自分の中に芽生えたこの気持ちを、ちゃんと形にするために。


 そう思うと、胸の奥に小さな灯がともったような気がした。

 それはまだ頼りない光だったが、確かにあたたかさを持っていた。


 春人は目を閉じた。

 遠くで風の音がまた、ふわりと窓を揺らした。

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