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春が来た。
そう言っても、この山あいの村に届く春は、町よりもずっと遅く、ずっと静かだった。
雪はすっかり溶け、ぬかるんだ道端に野花が顔を出しはじめたころ、小川では水かさが増し、岩のあいだからせせらぎが音を立てる。空気はまだ冷たかったが、風の匂いに、確かに季節の変わり目の気配があった。
ただ、この村に咲く春の花は、どこか異様だった。
白く、透き通った薄い花弁。人の骨を思わせるような形。風に揺れるたび、まるで何かの鼓動のように、花が脈打っているようにも見えた。
誰もその花の名前を教えてはくれない。
けれど村人たちは口を揃えて言う。
――春の花が咲く頃、神が目覚める。
そして、成人を迎えた者は、神のもとへと進み、村の真の一員となるのだと。
その意味を、子どもたちは知らない。ただ、「大人になったら神社に行く」と教えられるだけだ。
けれど、和泉春人は思っていた。
(どうして、“子ども”じゃ駄目なんだろう)
村の外れにある神社は、いつも静かだった。木々に囲まれたその場所には、季節の色彩も届かない。鳥居は黒ずんだ古木で、年月の重みに耐えているように軋んでいる。
その鳥居の中央、肩の高さにも満たない位置に、異様に低い注連縄が張られていた。まるで人が通ることを拒んでいるかのように、わざとそう設計されているようにしか思えない。
春人はそこに立ち、しばらくじっと鳥居を見上げていた。
山あいの空気は冷たく、耳の奥まで静けさが染みてくる。木々のざわめきもなく、まるでそこだけ時間が止まっているようだった。
春人はこの村で生まれ育ったが、閉じた空気がずっと苦手だった。何もかもが決まりきっていて、みんながそれを当たり前のように受け入れていた。
この春、彼は村の小学校を卒業した。
本当は、隣町の中学校に進学したかった。
新しい景色を見てみたかった。知らない人と出会いたかった。この村の外には、自分の知らない何かがあると信じていた。
けれど、両親は反対した。
「村の掟を知らない場所で育つのは、よくない」
そう母が言った。父は無言で頷いていた。
和泉家は代々、この村に根を張って生きてきた家だった。といっても特別な血筋ではない。ただ、春人の両親はともにこの村の出身であり、村のしきたりを守ることが当たり前のように身に染みついていた。
母は口うるさい人だったが、悪い人ではない。むしろ春人にとっては、誰よりも村のことを考えてくれる存在だった。父は寡黙で、滅多に口を出すことはないが、母と同じ考えの持ち主だった。
そうして春人は、結局この村の中学校に通うことになった。
それが、仕方のない選択だったことは分かっている。
でも、胸の奥にはずっと、言葉にならないしこりが残っていた。
(ずっとここにいて、俺は“何”になるんだろう)
同じ春を繰り返し、同じ道を歩いて、大人になっていく。
そして、春の祭りを迎えたとき、自分もまた、神社へと向かうのだろうか。
けれどそのとき、自分が“何に”なるのかは、誰も教えてくれなかった。