星降る夜の花嫁
その年、王国では十年に一度の星祭りが近づいていた。
夜空を彩る流星群とともに、神の祝福が地に降り注ぐと言われる神秘の祭り。
街では提灯が灯され、広場には露店が立ち並ぶ準備が進められている。
だが、リュカ・フェルシュタインにはそんな喧騒とは無縁の任務が下されていた。辺境の巡回。
貴族の出だが平民寄りの考えを持ち、他の騎士たちとは距離を置く彼にとっては、むしろ気楽な仕事だった。
山間の森を馬で抜け、見回りを終えた帰り道。日はすでに暮れ、夜の帳が静かに降りようとしていた。
「……道、間違えたか?」
馬をつなぎ、簡易地図を取り出すも、手描きの地形図は頼りにならない。木々のざわめきが増し、空を見上げれば、やがて最初の星が瞬いていた。
その瞬間だった。
――しゃらん、と。
音もなく、空から一粒の光が降ってきた。いや、二つ、三つ。まるで天から銀の粒が零れ落ちるように。
「星の雨……本当に、降るんだな」
リュカが小さく呟いたその時、彼の視界の先――森の奥に、淡い光が揺れた。
それは幻ではなかった。
細い枝の隙間から見えるその光は、焚き火ではない、何かもっと柔らかで温かい――人の気配を感じさせるものだった。
興味を引かれるように、リュカは馬をその場に残し、森の中へと足を踏み入れた。
やがて視界が開け、そこには開けた小さな泉が広がっていた。
そのほとりに、彼女はいた。
――銀の髪。透き通るような白い肌。星明かりに照らされたその少女は、まるでこの世のものとは思えないほどに美しかった。
少女は泉のほとりに腰を下ろし、空を見上げていた。星々が次々と降り注ぐ中、静かに、微笑みながら。
気配に気づいたのか、彼女がゆっくりと振り返る。
「こんばんは、旅の方」
「……こんばんは。君は……この森で、ひとりなのか?」
「ええ。でも、寂しくなんてありません。星たちが、私の友だちですから」
その言葉は、奇妙なようで、不思議と納得できる響きを持っていた。
リュカは少し距離を置いて座り、簡単に自己紹介をした。王都の騎士であること、この森を通るのは任務の一環であること、そして道に迷ったこと。
少女は微笑みながら、名を「フィーネ」と名乗った。
「フィーネ……不思議な名前だな」
「よく言われます。でも、気に入っているの。優しい音でしょう?」
その口調はどこか浮世離れしていたが、拒絶の気配はなかった。リュカは携行していた干し肉と水を取り出し、彼女にも勧める。フィーネはそれを受け取ると、まるで初めて味わうように丁寧に口にした。
「おいしい。……人間の食べ物って、温かいんですね」
その言葉に、リュカは眉をひそめる。
「……人間?」
「ふふっ、ただの冗談よ」
微笑むフィーネの顔はどこか儚げで、触れれば消えてしまいそうだった。
しばらくして、空を見上げた彼女が言う。
「星って、不思議よね。見る人の心によって、違う願いを聞いてくれるの。あなたは、何を願うの?」
「願い……?」
リュカは答えに詰まった。
長い間、何かを願うことなどなかった。忠誠、任務、誇り。それらのために生きてきた彼にとって、「願い」とはあまりにも個人的すぎる言葉だった。
「まだわからない。でも……もし、願えるなら。君ともう少し、こうしていたい」
思わずこぼれた言葉に、フィーネはそっと目を伏せた。
「それは、きっと叶うわ」
その声には、なぜか悲しみが滲んでいた。
静寂の中に、星の音があった。無音のはずの星の雨が、どこか遠くで鈴を鳴らすような、澄んだ音を立てている気がした。
リュカとフィーネは、泉のそばで並んで空を見上げていた。言葉は少なかったが、不思議と心地よい沈黙だった。
「こんなに星が降る夜は、そう何度もないわ。……あなたは幸運な人」
「そうかもな。でも、本当に幸運なのは……君に会えたことかもしれない」
リュカが冗談めかして言うと、フィーネは微かに頬を染めたように見えた。
「そうやって簡単にそういうことを言う人、好きじゃないのに」
「簡単じゃない。……こういうの、慣れてないから」
その正直な言葉に、フィーネはふっと笑った。風が吹き、彼女の銀の髪が揺れる。まるで夜空の一部を切り取ったような光景だった。
「ねえ、リュカ。人って、何のために生きていると思う?」
「……それはまた、難しい質問だな」
「でも、あなたは騎士でしょ? 誰かを守るために戦っている人なら、そういうことをちゃんと考えてるのかと思ったの」
リュカは少しだけ考えて、答えた。
「俺は……正直に言えば、今までそんなこと、ちゃんとは考えてなかった。与えられた任務を果たして、国のために剣を振るう。それが当然だと思ってた」
「でも、今は?」
「今は……わからない。でも、こうして星を見てると、なんか、もっと別の生き方もあるんじゃないかって思えてくる」
フィーネは嬉しそうに微笑み、そっと泉に手を浸した。
「星って、そういうものなのよ。人の心を静かに、でも確かに変える。
何か大切なものを思い出させてくれるの」
泉の水面に広がる光は、まるで星そのもののようだった。リュカはその輝きを見つめながら、ふと問いかける。
「君は……この森で、ずっと一人で?」
「ええ。でも、寂しくないわ。私は――」
そこまで言いかけて、フィーネは言葉を切った。何かを言いかけて、飲み込むように。
「私は、この森を愛しているの。星が降るこの場所も、人々の賑わいも、すべて」
リュカは彼女の横顔を見つめた。どこかこの世のものとは思えない、儚さと永遠を同時に抱えたような存在。
夜が深まるにつれ、二人は自然に焚き火を起こした。枝を集め、小さな火を育てる。
炎の赤い光が、フィーネの白い肌に暖かな色を灯す。
「リュカは、怖くないの? 私みたいな、よく知らない女を、こんな森の中で」
「怖くなんかないさ。君が危害を加えるような人には、どうしても思えない」
リュカはそう言いながら、笑った。その笑顔に、フィーネもそっと微笑み返す。
「……ありがとう。あなたに、会えてよかった」
その言葉に、リュカの胸に小さな痛みが走った。なぜだかわからないが、別れを予感させるような――そんな響きだった。
火がはぜる音が、二人の間に優しく満ちる。
「昔、この森には精霊が住んでいたって、伝説があるんだ」
リュカが話し始めると、フィーネは興味深そうに顔を向けた。
「星の降る夜、精霊たちは地上に降りてきて、人間に一つだけ願いを叶える。でも、代わりに、大切な何かを失うことになる……そんな話さ」
「ふふっ、それって、悲しい伝説ね。でも、どこか真実を感じる」
フィーネは火を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「ねえ、リュカ。もしも願いが叶うとしたら……あなたは何を願う?」
再び、彼女は問いかけた。
リュカは焚き火の赤を見つめながら、言葉を選ぶ。
「……君が、この夜だけじゃなく、明日も、明後日も。ずっと隣にいてくれたらいいって、願うと思う」
フィーネの肩が小さく震えた。
しばらく沈黙があった後、彼女はとても静かに答えた。
「それは、叶えられない願いかもしれない。でも――私は、嬉しい」
彼女の瞳には、焚き火の光と、星の光が映っていた。
夜空では、星が途切れることなく降り続けている。
リュカはふと、彼女に何か大切なものを話してもらわなければならない気がした。だが、それが何なのか、まだ彼にはわからなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
――この夜を、終わらせたくない。
それだけは、痛いほど胸に刻まれていた。
夜は深まり、森を包む静けさはさらに濃くなった。焚き火の炎も小さくなり、あたりを照らすのはほとんど星の光だけになっていた。
リュカとフィーネは、言葉少なに寄り添っていた。もう互いに多くを語る必要はない。星々のきらめきが、すべてを代弁してくれているかのようだった。
「ねえ、リュカ」
不意にフィーネが口を開いた。その声は、今までよりずっと小さく、震えていた。
「私、あなたに隠していることがあるの」
リュカは驚き、真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「……なんでも話してくれ」
フィーネは胸の前で手を組み、しばらく躊躇った後、ぽつりと語り始めた。
「私は――人間じゃないの。あなたが言ってた伝説、あれ、本当なのよ」
リュカは一瞬、言葉を失った。
「私は、星の精霊。百年に一度、星が降るこの夜だけ、人の姿をとって地上に降りることが許されているの」
フィーネの瞳には、痛みと寂しさが滲んでいた。
「あなたとこうして出会えたことは……奇跡だった。でも、夜が明けたら、私はこの世界から消える。次に目覚めるのは、また百年後」
リュカの心臓が強く脈打った。信じられない話だった。けれど、彼女の言葉には、何の嘘もなかった。
「そんな……!」
リュカは思わず立ち上がり、フィーネの肩を掴んだ。
「じゃあ、どうすればいい? どうすれば、君を引き止められる?」
フィーネはそっと、リュカの手に自分の手を重ねた。温かい、確かな体温がそこにあった。
「無理よ。私の存在は、この夜だけのもの。人の時間とは違う。私がここに留まれば、世界の均衡が崩れてしまう」
リュカは唇を噛んだ。何か方法はないかと、必死に頭を回す。
「だったら、俺が……!」
「リュカ」
フィーネは静かに遮った。その声音には、深い優しさと、決意があった。
「あなたに、悲しい思いをさせたくない。だから、私は……行く」
リュカは拳を握りしめた。
無力だった。騎士として、多くのものを守ってきたはずなのに、たった一人の少女を救うことすらできない。
泉の水面が、星の光を映してきらめいている。
リュカは膝をつき、フィーネを見上げた。
「……だったら、せめて。最後の瞬間まで、そばにいさせてくれ」
フィーネは微笑んだ。その笑顔は、どこまでも穏やかで、美しかった。
「もちろんよ。あなたがいてくれるなら、怖くないわ」
小さな肩を抱き寄せると、フィーネはすっと身を委ねた。彼女の髪から、微かな花の香りがした。
リュカはその香りを胸いっぱいに吸い込み、耳元で囁いた。
「また、会えるか?」
フィーネは、そっと目を閉じて答えた。
「――約束する。百年後、この森で、また会いましょう」
夜空では、最後の流星が尾を引いていた。
そして、リュカの腕の中で、フィーネの身体は徐々に光となり、消え始めた。
「フィーネ……!」
叫びにも似たその声に応えるように、フィーネの声が、星の音と共に響いた。
「ありがとう、リュカ。あなたに……会えて、よかった」
光が弾け、消える。
静寂だけが、森に残った。
リュカは、ただその場に立ち尽くしていた。
両腕には、もう何もなかった。抱きしめていたはずの温もりも、香りも、光に溶けて消えてしまった。
星空は、先ほどまでの喧騒が嘘だったかのように、静まり返っている。まるで、フィーネという存在が、最初からこの世界に存在していなかったかのように。
けれど――リュカの胸の内には、確かに彼女がいた。
彼女の微笑み、声、温もり、そして約束。
「……百年後、か」
リュカは自嘲するように呟き、星空を仰いだ。
人の一生は百年にも満たない。彼にとって、次に彼女に会うということは――もう、この命では叶わないことを意味していた。
それでも、彼は思った。
あの夜、たった一晩だけでも、彼女に出会えた奇跡に感謝したいと。
焚き火の残り火をそっと踏み消し、リュカは泉に向かって深く一礼した。
「フィーネ。また、必ず会いに来る」
それがたとえ、この身が滅びた後だとしても。たとえ記憶が風に散ったとしても。
誓いは、魂に刻まれる。
森を抜けた時、東の空が白み始めていた。
リュカは静かに馬にまたがり、王都への道を歩み始めた。
あの星降る夜の出会いを、誰にも語ることなく、ただ胸に秘めて。
それから、リュカは毎年、星の夜には森を訪れるようになった。
泉のほとりで、フィーネが座っていた場所に、そっと花を手向ける。誰にも見られることなく、誰にも知られることなく。
何十年も、変わらずに。
騎士として名声を得ても、歳を重ねても、それだけは変わらなかった。
やがてリュカは、静かにこの世を去った。星の降る夜、眠るように。
彼の墓標には、たった一行の言葉が刻まれていた。
――「星の夜に、また会おう。」
***
それから百年後。
森は変わらずそこにあり、泉も澄んだ水を湛えていた。
星が降る夜、フィーネは目を覚ました。
長い眠りの果てに、泉のほとりに立つ自分に気づいた。銀の髪に冷たい夜風が絡みつく。体は軽く、けれど確かに、百年の時が流れたことを、心が知っていた。
見上げた夜空は、変わらなかった。
流れる星々が織りなす天の川。静かに降り注ぐ光の粒。それはかつて、リュカと共に見上げた景色そのものだった。
「リュカ……」
思わず名前を呼ぶ。だが、答える声はない。
当然だ。彼はもう、この世にいない。フィーネはそれを知っていた。星の精霊として、人間の儚さも、寿命というものも。
それでも、約束だった。
――また、星の夜に、ここで会おう。
たとえ相手がいなくても、たとえ千年が過ぎても。
フィーネは泉のほとりに座り、静かに星を見上げた。胸の奥に宿る温かい痛み。それは、彼と過ごしたあの短い夜の名残だった。
どれくらいの時が流れただろう。
ふと、森の奥から足音が聞こえた。
フィーネは顔を上げる。こんな夜更けに、この森に人が来るなど、ありえないはずだった。
やがて、月明かりの中に一人の青年が現れた。
短く切り揃えた栗色の髪、しっかりとした体格。何より、どこか懐かしさを感じさせる鋭くも優しい眼差し。
リュカ――いや、違う。
彼ではない。
だが、その面影を濃く宿している。
青年もまた、フィーネを見つけて足を止めた。驚き、そして、どこか心当たりがあるかのように、目を見開く。
「……君は」
低く、温かい声だった。
フィーネは、思わず立ち上がっていた。言葉が出ない。ただ、胸が高鳴るのを感じていた。
青年は一歩、また一歩と近づく。
「……僕、ずっと、誰かを探してた気がするんだ。理由も、名前もわからない。でも、君を見た瞬間に思った。――きっと、この人だって」
フィーネの視界が滲んだ。頬を伝うものが、夜風に冷たくなった。
これは、運命だろうか。奇跡だろうか。
彼女はかすかに震える声で、問いかけた。
「あなたの、名前は?」
青年は、少しだけ照れたように笑った。
「リュシオン。リュカ・フェルシュタインの、子孫だって聞いてる」
リュカの名に、フィーネは胸が熱くなるのを感じた。
彼が守り、愛した世界は、ちゃんと続いていたのだ。
そして今――彼の血を引くこの青年が、こうして彼女の前に現れた。
それは、リュカが願った「未来」の形だったのかもしれない。
リュシオンは、手を差し出した。
白くて、力強い手。
「君の名前を、教えてくれる?」
フィーネは小さく頷き、そっと彼の手を取った。
「フィーネ」
その瞬間、泉の水面がきらめき、夜空の星たちがさらに強く輝いた。
新たな物語が、静かに幕を開ける音が、たしかに聞こえた気がした。
星の雨が降り注ぐ森の中、フィーネとリュシオンは、泉のほとりに並んで座っていた。
静かな時間だった。
リュシオンは、何も聞かなかった。フィーネの正体を、どこから来たのかを。
ただそこにいて、彼女の存在を受け止めてくれていた。
フィーネは、それが嬉しかった。
「君は、この森に住んでるの?」
リュシオンがぽつりと尋ねた。柔らかな声だった。
フィーネは少しだけ考え、頷いた。
「ええ。この森と、星の夜を愛しているから」
嘘ではない。ただ、すべてを語るには、まだ時が早い気がした。
リュシオンは、「そうか」と静かに微笑んだ。それだけで、フィーネは心が満たされるのを感じた。
かつてリュカと過ごしたあの夜。
短いけれど、永遠に続くと錯覚しそうな幸福な時間。
今、同じような温もりが、胸に広がっていく。
――けれど。
フィーネの中には、拭えない不安もあった。
私は、また同じ過ちを繰り返すのではないか。
人の世界に深く関われば、また別れの痛みを背負うことになるのではないか。
百年という時を超えても、精霊である彼女の運命は変わらない。
現世に留まれるのは、星の夜だけ。夜が明ければ、再び眠りにつかねばならない。
「リュシオン……」
そっと彼の名を呼ぶと、彼は顔を向けた。
「どうした?」
夜風に髪がなびき、フィーネは目を伏せた。
「……私と一緒にいると、きっと悲しい思いをする。だから、もうこれ以上、近づかないほうがいい」
精一杯、理性を働かせた言葉だった。
でもリュシオンは、ゆっくりと首を振った。
「悲しくたって、後悔したくない。君と出会えたことを、なかったことになんて、したくないんだ」
そのまっすぐな瞳に、フィーネは胸を打たれた。
「君は、僕を知らないかもしれないけど……僕は、初めて君を見たときから、ずっと知っていたような気がするんだ」
「知っていた?」
「うん。ずっと前から、君を探していた気がする。理由もわからないまま。でも、やっと辿り着けた」
リュシオンは、手を伸ばしてフィーネの手を優しく包んだ。
暖かかった。
血の通った、生きた人間の温もりだった。
「だから、たとえどんな運命でも……僕は君と向き合いたい」
フィーネの瞳に、星の光が映り込んだ。
涙が溢れた。
どうして、こんなにも――リュカに似ているのだろう。
いや、それだけではない。
リュシオン自身が、彼の言葉で、彼の想いで、彼女の心を救おうとしてくれている。
「……ありがとう、リュシオン」
フィーネは、震える声でそう言った。
この星の夜に出会った奇跡を、無駄にしたくなかった。
たとえ、どんな結末が待っていても。
だから、フィーネは心を決めた。
今夜だけは――すべてを忘れて、彼と共に星を見上げよう。
そう、決めた。
***
二人は泉のほとりに座り、肩を寄せ合った。
夜空には、流星がいくつも尾を引きながら流れていく。
どの星にも、願いを込めることができるという。
フィーネはそっと目を閉じ、胸の奥で一つだけ願った。
――どうか、この時間が、永遠に続きますように。
だが、彼女は知っていた。
願いは必ずしも叶うとは限らないことを。
それでも、祈らずにはいられなかった。
リュシオンの手を、フィーネはそっと握りしめた。
夜空に、さらに大きな流星が走った。
夜が、静かに終わろうとしていた。
星々の雨は細くなり、空の色が、ほんの少しだけ淡い藍色へと変わりつつある。
フィーネの心に、焦りが滲んだ。
わかっていた。この時間が永遠に続くことなどないと。
精霊である自分には、夜明けと共に、再び長い眠りに戻らなければならない宿命がある。
けれど、今、隣にいるリュシオンの温もりを、声を、手の感触を、どうしても手放したくなかった。
ふと、リュシオンが優しく囁いた。
「もうすぐ、朝だね」
「……ええ」
フィーネは微笑みながらも、胸の奥に鋭い痛みを感じていた。
「君がいなくなるみたいな顔をしてる」
リュシオンは冗談めかして言ったが、フィーネは小さく首を振った。
「リュシオン、聞いてほしいの」
フィーネは、そっと彼から手を離した。泉のほとりに立ち、星明かりを浴びながら、静かに語り出す。
「私は――人間じゃない。星の精霊なの。百年に一度、星が降るこの夜だけ、地上に降りてこれる存在」
リュシオンは言葉を失ったまま、彼女を見つめていた。
「あなたに出会えて、本当に幸せだった。でも、夜が明けたら、私はまた、眠りにつかなきゃならないの」
声が震える。必死に涙をこらえる。
「……だから、もうすぐ、私はいなくなる」
沈黙が、二人の間に落ちた。
リュシオンは、やがて、静かに立ち上がった。
「そんなの、嫌だ」
強い声だった。
「君が精霊だろうと、何だろうと、関係ない。君がここにいて、僕と出会ってくれた。それが、すべてだ」
リュシオンは泉を越え、フィーネの前に立った。
そして、真剣な眼差しで言った。
「たとえ、今夜限りでもいい。たとえ、君がまた眠りについても、僕はこの出会いを、奇跡を、絶対に忘れない」
フィーネの頬に、涙が一筋、流れ落ちた。
リュシオンは、そんな彼女の頬にそっと手を添えた。
「だから、最後まで、一緒にいよう」
フィーネは小さく、微笑んだ。
「……うん」
それは、世界のすべてが許された瞬間だった。
***
二人はもう一度、肩を寄せ合い、最後の星の雨を見上げた。
言葉はなかった。ただ、互いの存在を感じるだけで、十分だった。
そして。
東の空が、うっすらと白み始める。
夜明け。
フィーネの身体が、かすかに光を帯び始めた。
リュシオンは、彼女の手を強く握りしめた。
「フィーネ……!」
「大丈夫。私は、きっとまた、目を覚ます。星の夜に、またあなたに――」
声が、細くなっていく。
光が、彼女を包み始める。
フィーネは、最後に微笑んだ。
「リュシオン……あなたに、出会えてよかった」
そして、彼女は光となって、消えた。
リュシオンは、空を仰いだ。
涙は出なかった。ただ、胸に、確かな誓いが刻まれた。
フィーネとの出会いは、幻なんかじゃない。
彼女は、確かにここにいて、自分に微笑んでくれた。
それだけは、何があっても忘れない。
流れる星たちが、静かに夜空を飾っていた。
朝陽が、森に差し込み始めた。
泉のほとりには、もうフィーネの姿はなかった。
けれど、リュシオンはそこを離れなかった。ただ静かに、夜明けを迎える森の空気を吸い込んでいた。
フィーネと過ごした、短くも永遠に感じた時間。
それは夢ではなかった。確かにこの手で触れ、心で交わした、かけがえのない現実だった。
リュシオンはそっとポケットから、小さなものを取り出した。
それは、昨夜、フィーネが彼の手にそっと押し付けたもの――。
星の欠片だった。
透き通った小さな石。
まるで夜空から零れ落ちたようなその光は、今も、微かに瞬いている。
「必ず、また会おう。フィーネ」
リュシオンは静かに誓った。
***
季節は巡った。
リュシオンは、騎士団に入った。
王都での生活は忙しく、剣と誇りに生きる日々だったが、彼の胸にはいつも、星の夜の記憶があった。
そして、年に一度――星祭りの夜には、必ずあの森を訪れた。
泉のほとりに立ち、夜空を見上げる。
誰もいない静かな森の中で、ただ一人、誓いを繰り返す。
「待ってるよ、フィーネ」
人は彼を「星に恋した騎士」と呼んだ。
独り身を貫き、何年、何十年経っても、誰かを待ち続ける男。
だが、リュシオンにとって、それは苦しいことではなかった。
彼は、信じていた。
星たちは、想いを越えて、必ず巡り合わせてくれるのだと。
***
やがて、リュシオンも老いを迎えた。
白髪が混じり、剣を振るうことも少なくなった。
それでも、星の夜には変わらず森へと向かった。
最後の星祭りの夜。
リュシオンは、泉のほとりに腰を下ろした。
星たちは、変わらず空を流れていた。
「フィーネ……」
目を閉じ、彼女の名を呼ぶ。
すると。
微かな気配が、風に乗って届いた。
そっと目を開けた先に――
あの日と同じ、銀の髪、白い肌の少女が立っていた。
変わらない微笑み。
変わらない瞳。
フィーネだった。
「……遅くなって、ごめんなさい」
フィーネは、静かに言った。
「でも、ちゃんと来たわ。あなたの元へ」
リュシオンは、力を振り絞って手を伸ばす。
フィーネはその手を、しっかりと握り返した。
その瞬間、リュシオンの身体からふっと力が抜けた。
けれど、怖くなかった。
彼は最後に、心からの笑みを浮かべた。
星たちが、祝福するように、輝きを増す。
***
誰も知らない森の奥深く。
泉のほとりに、ふたりの影が寄り添うように並んでいた。
それは、星降る夜に結ばれた、永遠の約束だった。
そして、夜空には――
今日もまた、果てしない数の星たちが流れていった。
――永遠よりも長く、彼らは共に在り続ける。