第九部
帰りのバスに揺られながら、美鈴はスマホを使って角田から聞いた首吊り自殺を調べてみることにした。
自殺した女性の具体的な漢字は分からなかったので「みずぬまちえこ」とひらながで入力し検索した。
小さくではあったが、それらしい記事にヒットした。
最初に飛び込んできたのはミズヌマチエコの生前の写真だった。
はにかんだような笑みに優しい目を覗かせている女性だった。
(可愛い)
と、美鈴は思ってから記事に目を通した。
記事によると、大企業社長と夫人の間に生まれた水沼千恵子(二十八歳)は、交際していた男性から別れ話を告げられ、ショックのあまり自宅の自室で首を吊って自ら命を絶ったという。母親の社長夫人が遺体を発見したとき、青白い顔の水沼千恵子が首にロープを巻き付けた状態でぶら下がっていたという。
当然ながら細かく記事に書かれていないが、角田の話が事実であれば水沼千恵子は例の鏡の前で亡くなっていたことになる。
現場からは遺書が発見され、交際していた男に裏切られたショックが計り知れなかったことを示す文面が記されていたという。
交際していた男は水沼千恵子の葬儀に訪れたが、両親は頑なに線香を上げるのを許さなかった、と最後に書かれていた。
(交際していた男の人が津山さんだったのかもしれない)
もしそうなら、木下悦子が津山の部屋で水沼千恵子の名前を聞いたのも納得がいく。
ただ、そうなると美鈴には一つだけ分からないことがあった。
記事を読む限り、水沼千恵子は交際していた相手から別れ話を持ちかけられ、そのショックで自殺したことになっている。
つまり、津山が千恵子をフッたのだ。
だが、その津山は千恵子にプレゼントした鏡を偶然美鈴の部屋で見付け、なにがなんでも手に入れようと必死になった。有り金をはたいたり膝を突いて哀願したりして、である。
自ら水沼千恵子をフッたはずなのに、彼女が生前に使っていた鏡を必死に手に入れようとする津山の心理が、美鈴には理解できなかった。
仮に美鈴が津山の立場なら、相手を自殺させてしまった苦い過去を思い出さないためにも、鏡のことは決して触れないように努めるだろう。それが人間として当然の心理だ。
(ひょっとして、不本意だったのかしら?)
と、美鈴はふと思った。
水沼千恵子が本気だったように、実は津山も本気で交際するつもりだった。
ところが、彼女との交際が続けられないなにかしらの事情が生じ、別れ話を持ち出したのではないか、と美鈴は考えてみた。
もしそうなら、津山が千恵子に対して未練を残しているのも頷けるし、彼女にプレゼントした鏡をどうしても手に入れたいと思う気持ちになるのも理解が出来る。
しかし、仮に今の説が正しかったとしても、美鈴はあの鏡を手放すのだけは忍びなかった。例えどんな過去を秘めていようと、あれは平野が自分のためにプレゼントしてくれた大切な鏡だからだ。
交際を絶つという辛い選択を迫られた上、自身の行いで千恵子を自殺に追いやってしまったときの津山の精神状態を考慮するとあきらかに自分とは境遇が違い過ぎるのを、美鈴は承知していた。
それでもあの鏡だけは手放したくなかった。
(でも、それだと津山さんが…)
「不憫」という文字が美鈴の脳裏に浮かんだ。
鏡を手放すべきか手放さないかで美鈴は悩んだ。
バスを降りた後も美鈴の葛藤は続いた。
マンションの前に来たとき、津山とバッタリ鉢合わせしてしまった。
津山は居心地の悪そうな顔を浮かべてその場から離れようとしたが、それを美鈴が呼び止めた。
「丁度お話ししたいことがあったんです」
「…なんでしょう?」
先日の美鈴に対する態度の後ろめたさがあるからだろう、津山はいつになく腰を低くしながら言った。
そんな津山に美鈴は、交際相手から別れ話を切り出され自殺を遂げた水沼千恵子の名前を切り出してみた。
途端に、津山は驚きの表情を浮かべた。
(思った通り、水沼千恵子さんの交際相手は津山さんだったんだ)
そう確信を得た美鈴は、そのまま言葉を続けた。
「私の勝手な推測で申し訳ありませんが、恐らく津山さんが水沼千恵子さんとの交際を諦めたのにはやむを得ない事情があったんだと思います。だから、津山さんが千恵子さんにプレゼントされたあの鏡…今、私たちの部屋に飾ってある鏡を手元に置いておきたいんだと。ですが…」
美鈴は、平野からプレゼントされた鏡はどうしても譲れないことも素直に話そうとしたが、結局口をもごもごさせながら目を泳がせてしまった。不憫な過去を過ごした津山への遠慮が込み上げてきたからだ。
美鈴が優柔不断な自分に腹立たしさを覚えたときだった。
「分かっています」
「え?」
「手放したくない気持ちになるのは充分分かります。ボクが千恵子に鏡をプレゼントしたときも、彼女はボクからの贈り物だから絶対に手放さないと言ってくれたのを覚えています。そのときに見た千恵子の強い意思が、今の下崎さんからもハッキリ見えましたから。だから、ボクは鏡を諦めます」
「ごめんなさい」
「いいんです。ただ、彼女が納得するかどうか…」
「?」
「…あ、ごめんなさい。なんでもありません」
と、津山は作り笑いを浮かべると頭を下げてその場を離れた。