第八部
美鈴は、角田の自室へと案内された。
入室して早々、彼女は壁一杯に掛けられた鏡の数に驚かされた。
独創的な形のフレームから質素な物までと、豊富な種類の鏡たちが壁にかけられてある。絵画のように少しの歪みがないところから、角田が重宝として大切にしているのが窺えた。
六畳ほどのスペースにソファとテーブル、そして小さなイスがあるだけの簡素な室内だったが、四方八方の壁を埋め尽くす鏡が互いの姿を映しているため、合わせ鏡のような状態だった。そのため、それぞれの鏡には果てしない空間が続いていた。
てっきりゴミに溢れた不衛生な部屋に住んでいると思っていただけに、美鈴は拍子抜けしてしまった。
角田は自分専用と思しきソファにどっかりと座り込んだ。
「テキトーにどーぞ」
と、角田が小さなイスを指差した。
遊園地のミラーハウスに迷い込んだような錯覚に陥った美鈴は頭がクラクラしたが、どうにかイスに腰を下ろした。
「さっきK骨董品店から聞いたって言ってたけど、店主のオヤジさんがボクの家を教えたってこと?」
「はい。少しお尋ねしたい用件があったもので」
「あのオヤジ、人の住所をベラベラと教えやがって…」
と、角田は不機嫌そうにチッと舌打ちした。
初対面のときからあまり印象がよくなかったが、言葉遣いといい態度といい美鈴はやはりこの男が好きになれなかった。言い分は一理あるが。
「それで用件ってなに?」
角田がつっけんどんに聞いた。
「角田さんが骨董品店にお譲りした鏡のことですけど」
「ああ、そう言ってたね。なにを聞きたいの?」
「あの鏡を購入したんですけどーー」
「へえ、買ったんだ。あんな鏡」
と、角田は美鈴がしゃべっているにも関わらず言葉をかぶせた。
美鈴は空咳をしてから、
「もし差しつかえなければ、入手した経緯についてお教えいただけないでしょうか?」
「どうして? 悪いけど、物品に対する苦情をボクに言いに来たのならお門違いもいいとこだよ。ボクの手元から離れた今、れっきとした鏡の所有者は骨董品店のオヤジなんだから」
「苦情を言いに来たわけではありません。ただ、どういう過去が秘められた鏡なのか、使っているうちに個人的な興味が湧いたというかなんというか…」
「ふうん…。まあ、話してもいいよ。丁度、暇してたし」
角田はようやくもたれていた体を前に乗り出した。
「ボクは元々、世界中のあらゆる鏡を収集するのが趣味でね。この部屋にあるのを見ても分かる通り、歴史的に古いアンティークな物から比較的新しいモダンな物までと、幅広い鏡を集め回っている。ちなみに、ほかの場所にもたくさんコレクションが保管されているから、ここにあるのは氷山の一角に過ぎない。とにかく、鏡の魅力に異常なほど憑かれた人間なのさ」
「あの鏡はどちらで?」
「とある筋から譲ってもらったんだよ。装飾はありきたりで、恐らくどこか庶民的な家で使われていただろうつまらないのだったけど、持ってなかったからもらったんだ」
「ほかの方からもらった物を骨董品店に譲ったんですか?」
「理由はちゃんとあるよ。もらってから、あの鏡をここじゃない別の部屋に飾っておいたんだけど、それ以降その部屋でいつも誰かに見つめられているような気配を感じたんだ」
「ほ、本当ですか?」
と、美鈴はゾッとしながら聞いた。
「ウソなんて吐かないよ。しかも、それだけじゃない。女のすすり泣く声も聞こえたし、その鏡の前に女ものの長い髪の毛が落ちていることが何度かあった」
それはあなたの髪の毛じゃないのか、と美鈴は相手のふしだらに伸ばした髪の毛を見ながら思ったが、無論口には出さなかった。
「あの鏡を飾ってから、妙な現象が立て続けに起きるようになった。当然、薄気味悪くなったボクは手放すべきだと思って、あの骨董品店に無料で譲ったってわけさ」
「そのとき、店主のおじさんに譲る理由は話したんですか?」
美鈴が聞くと角田は笑いながら手を振り、
「言うわけがないだろう。そんなこと正直に話したら、いくらお人好しのオヤジでも引き取ってくれなかっただろうからね」
「さっき、『庶民的な家で使われていたつまらないの』とおっしゃっていましたけど、骨董品店の店主は角田さんから歴史的な過去を秘められた鏡と聞いたみたいですが?」
「あー、そんなのウソウソ。引き取ってもらうための完全なデタラメ」
と、悪びれる様子もなく言った。
(なんて無責任な人)
美鈴は露骨に顔をしかめた。そんないわくつきの鏡を一言も打ち明けず身勝手な都合で譲渡し、万が一それによって誰かに迷惑が及んだ場合のことをこの男はなに一つ考えていないことが、今の言葉の端々から感じ取れたからだ。
美鈴は腹立たしさを覚えたが、角田は気にする素振りも見せず言葉を続けた。
「譲り受ける際に聞いた話だけど、なんでもあの鏡の前で一人の女性が首吊り自殺をしたんだってさ。男と大恋愛中だったのに別れ話を持ちかけられ、そのショックで男からプレゼントされた鏡の前で首を吊ったらしい」
「その女性ですけど、名前って聞いたりしていませんか?」
相手への嫌悪感を一旦忘れた美鈴が身を乗り出して尋ねた。
「聞いたよ。『ミズヌマチエコ』だったかな、確か」
(やっぱり)
美鈴は確信した。
津山の部屋を盗み聞きした木下悦子が聞いた名前と同じだった。
(とすると、相手の男が…)
そのとき、美鈴は角田がジッと自分を見ているのに気付いた。
「あ…、どうも長々とすみません。興味深い話をしていただいてありがとうございました。それじゃあ、お邪魔します」
と、美鈴はイスから立ち上がった。
「ちょっと待ちなよ。あんた、中々カワイイ顔してるじゃん。どうだい、ボクと付き合わない? なんなら、コレクションから一つ欲しい鏡をプレゼントしてもいいぜ。あんな縁起の悪い鏡なんか捨てて、こっから気に入ったのを選びなよ」
美鈴は角田に背を向けながら、鏡に映った彼の顔を見た。
下品な笑みを浮かべる角田の歯は黄色く汚れていた。
美鈴は振り返るとあえて笑顔を浮かべ、
「どちらもケッコーです。失礼します」
と、素っ気なくいって出て行った。