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  作者: 志賀将治
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第五部

 平野の言葉通りになることを願いつつ、美鈴は翌日を過ごした。

 家事に精を入れている間は津山を忘れることができたが、どうしてもリビングの鏡に目が行くごとに昨日の出来事が甦ってしまう。

 平野が買ってくれた思い入れのある鏡だったが、美鈴は今度の一件が無事に解決するまでは、極力見ないように努めた。

 結局、その日は津山が訪れることはなかった。

 次の日、美鈴は自分から津山の部屋に訪問して話をしに行こうかと思い立ったが、それを平野が制した。

「美鈴に否があるわけじゃないから行くことないよ。大丈夫、待っていればそのうち津山さんから来るさ」

 と、平野は神経質な美鈴とは逆に余裕な様子で言った。

 平野が出勤するとき、美鈴は日課通りマンションから彼を見送ったが、部屋に戻るともどかしい気持ちが拭い切れない状態で家事に取りかかった。

 あんまり味わえなかった昼食を摂ってから、美鈴は買い出しに出かける準備をした。一昨日のように鏡の前に立たず、エコバッグと財布と自転車のカギを手にするとそのまま部屋を出た。

 エレベーターへ向かうときに津山が住む部屋の玄関前を通った際、美鈴は一瞬呼び鈴を押そうか押さないかで悩んだが、平野の言葉が脳裏をよぎったのでため息を吐いて素通りした。

 いつも通りパンパンに膨らんだエコバッグを持ってマンションに到着したとき、美鈴はエレベーターでまた津山と遭遇するのではと期待したが、結局淡い希望で終わった。

 スーパーで買った食品を冷蔵庫にしまってから洗濯物を干すと、美鈴はイスに腰かけぐったりとテーブルに突っ伏した。妙なことで気を病んでいるせいか、いつにない倦怠感に襲われていた。

 しばらく眠って気をまぎらわそうかな、と美鈴は思ったがこんな時間に寝ては寝覚めの悪さで余計気分が優れなくなるのが目に見えたので、やめておくことにした。

 美鈴は考えた末にむくりと体を起こすと、最近オープンしたばかりのスイーツを取り扱う店に行ってみようと思い立った。甘党の美鈴は昔からスイーツ類が好物で、食べるのはもちろん店のショーケースに並んだ豊富なスイーツの種類を眺めているだけでも気持ちが高揚するので、間違いなく気晴らしになると思ったからだ。

 エプロンを外してラフな私服に着替えてから、美鈴は財布をポケットに突っ込んだ。

 靴を履いて玄関の扉を開けた美鈴の口からアッと声が漏れた。

「あっ、津山さん」

 目の前に津山研一郎が立っていた。

 突然の対面に動揺する美鈴とは対照的に、津山は冷静な様子で律儀に両手を前に組んでいた。着ている服こそ一般的な普段着だったが、雰囲気はピシッとしたスーツに身を包んだ営業マンそのものだった。

「一昨日は申し訳ありませんでした。いきなり部屋を出て行ってしまったので、さぞ驚かせてしまったと思います。せっかく、下崎さんの厚意で部屋に招かれたというのに、ボクときたらとんだ失礼を…。本当にすみませんでした」

 と、津山はサラリーマンのように深々と頭を下げた。

 いきなりの津山の出現に動揺が隠し切れなかった美鈴だったが、平野の予想通り津山が自ら謝罪に訪れたんだと気付き、彼女の表情にようやく笑顔が戻った。

「そんな大げさに謝ることありませんよ、津山さん。ちょっとビックリはしましたけど、私はまったく怒っていませんから」

「本当ですか?」

「もちろん。…あ、もしよろしかったらお入りになりません? あのとき津山さんにお出しするはずだった洋菓子と紅茶がまだ残っていますから」

 と、美鈴は勧めた。気を晴らすために出かけるつもりだったが、津山がこうして謝罪に訪れたことでもうその理由も無くなったからだ。

 しかし、津山は硬い表情を浮かべたまま動こうとしない。

「津山さん?」

「…下崎さん、一つご相談したいことがあるんですが」

「相談事ですか? それなら中へーー」

「いや、ここでお願いします。あの鏡を見たら、またボクは取り乱してしまうかもしれませんから」

「あの鏡って、リビングのですか?」

「はい。あの鏡ですが、ボクに譲っていただけないでしょうか?」

 美鈴はキョトンとした顔で津山を見つめた。

「鏡を?」

「はい」

「申し訳ありませんが、それはちょっと…」

「図々しいお願いなのは承知しています」

「そうではないんです。ただ、あの鏡はーー」

「どこでお求めになったかは存じませんが、買い取ったときの金額を支払います。…いや、それで満足いただけなければその倍額を支払っても構いません」

 と、津山は後ろポケットに入れていた財布を取り出すやいなや、中身の札を鷲掴みにして差し出した。

 美鈴は慌てて、

「津山さん、落ち着いてください」

 と、津山をなだめた。

「まだ足りませんか? でしたら、納得する値段までーー」

「お金の問題じゃないんです。あの鏡は進が私にプレゼントしてくれた大切な鏡なんです。ですから、譲るわけにはいきません」

 美鈴はキッパリと言った。

 そのとき、津山は持っていた財布と札を床に落とすと、膝を突いて両手を握り締めながら美鈴を見上げた。教会で、信仰者がキリストの像を見上げるかのようにである。

「な、なにしてるんですか」

「一生のお願いです。ボクはあの鏡がどうしても欲しいんです。どうしても…。一生のお願いです。どうか、どうか…」

 津山が地面に突いた膝を交互に動かしながら美鈴に迫った。

 もしも第三者がこの状況を見ていたら失笑していただろう。今にも泣き出しそうな表情を浮かべながら、トコトコと膝で歩く津山の奇行はそれほど滑稽だった。

 しかし、それを目の当たりにした美鈴にとっては、ただただ恐怖だった。

 青ざめた顔で後ずさりした美鈴が、玄関の段差につまずき尻もちをついた。

 目を泳がせた津山が玄関に侵入し、グングンと美鈴に迫る。

 美鈴が小さな悲鳴を上げた。

「なにやってるのっ」

 俄然、津山の背後から声が聞こえた。

 美鈴たちの隣の隣、つまり津山のもう一人の隣人である主婦の木下悦子が、買い物袋を持ったまま立っていた。

 ハッと彼女を振り返った津山は慌てて立ち上がると、困惑顔を浮かべて自分の部屋へと戻って行った。

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