第四部
「なにか気に障ることでも言ったとか?」
と、ネクタイを解きながら平野が言うと、
「なにも言ってないわ。リビングの鏡をジッと見ていたから、津山さんなら関心があると思っていましたって言っただけよ」
と、美鈴は平野が脱いだスーツをハンガーに掛けながら言った。
「確かに、それを言われたぐらいで機嫌を損ねる人がいるとは思えないなあ」
「それより、私が声をかける以前から津山さん、様子が変だったわ」
「変ってどんな風に?」
「洋菓子と紅茶をトレーに乗せてリビングに行くと、津山さんは鏡の前に立っていたの。西洋趣味があるって聞いていたから、てっきり鏡の装飾に見惚れているんだと思ったんだけど、津山さんは鏡に向かってなにかブツブツと独り言をつぶやいていたの。そこに私が声をかけたら、突然『失礼します』って言って部屋を出て行ったのよ」
「鏡に向かって独り言を? 気味が悪いな」
「正直、ちょっと怖かった。異質な様子だったし、あんな表情の津山さんを今まで見た記憶がなかったから」
「とりあえず、美鈴の言葉に気を悪くしたわけじゃないのは分かったけど、だとしたら津山さんはどうしていきなりそんな態度を取ったんだろう?」
「さっぱり分からない」
と、美鈴は憔悴した顔で言った。
津山研一郎はこれまでマンションの住民たちとの良好な関係を大切にしており、それは美鈴と平野も同じだった。ところが、美鈴の厚意で部屋に招かれた津山は、事情は不明だが突然異様な態度で部屋を飛び出してしまった。
美鈴自身、彼の逆鱗に触れるようなことをした覚えはまったくなかったのだが、津山の態度を思い出すたびになにかやらかしてしまったのではないか、という正体不明の自責の念にイヤでもかられてしまうのだ。
「美鈴が気を病む必要なんてないよ。話を聞いた限り、キミが津山さんを怒らせた要素はどこにもないんだから」
と、平野は言ってくれた。
「それなら、どうして津山さんはいきなり部屋を飛び出したと思う?」
う~ん、と平野は部屋の中をウロウロした。
それから、鏡の前で立ち止まった。
「津山さんはこの鏡を見つめていたんだね」
「そう。見ていただけじゃなくて、独り言もつぶやいてた」
「西洋趣味に凝ってるんだっけ?」
「ええ、そう。だから、手伝ってもらったお礼に紅茶と洋菓子を用意したのよ。喜んでもらえると思ったから」
「これはボクの勝手な考えだけど、津山さんはこの鏡があまりにも自分の好みに合っていたから、つい見惚れていたんじゃないかな」
「独り言を言っていたのは?」
「簡単さ。よくある専門家が見せる癖だよ。例えば、古美術商が数百年前の芸術品を目の当たりにしたとする。その瞬間、専門家は感激のあまり自分の世界にどっぷり浸かり、周囲の視線もはばからず芸術品の素晴らしさを、誰かに話しているわけでもなく一人で黙々と語り始める。西洋の趣をたしなむ津山さんもその口だった。どう?」
と、平野が自信に満ちた笑みで推理した。
が、美鈴は懐疑的な面持ちを浮かべた。
「そんなドラマか小説みたいな人が本当にいるかしら?」
「ボクの勝手な想像だからあしからず」
「軽く言ってくれるよね。津山さんとは親しい付き合いだったから結構気にしてるっていうのに。進だって津山さんとは友達みたいに接してるって言ってたじゃない」
美鈴が語気を強めて詰め寄ると、平野はまあまあとなだめて、
「確かにボクと津山さんは友達みたいな関係だよ。年下のボクに対してもフランクに接してくれて構わないって言ってくれるぐらい寛容な人だし、人間関係をなによりも大切にする人なのは承知してる。だけど、ボクはまだ彼の部屋に招かれたことがない」
「お互い様、それは私もよ」
「まあ、ともかく様子を見よう。きっと、鏡を見てなにか大切な用事でも思い出したんだよ。だから、大好きな紅茶や洋菓子に目もくれず部屋を出て行ったんだ。津山さんの性格なら明日か明後日になれば美鈴に謝りに来るかもしれない。だから、ゆっくり待とう」
と、平野は呑気に言った。