他人の不幸は蜜の味、そして私は“蜜の味”が大嫌いだ
“他人の不幸は蜜の味”という言葉がある。
他人の不幸は楽しいとか、何よりの娯楽だとか、そういう意味であるが、私にとってはそうではない。
なぜなら、私は本当に蜜の味を感じてしまい、そしてこの“蜜の味”が大嫌いだからだ。
私には奇妙な体質が備わっていた。
それは、不幸な人を見かけると舌の中にとろりと甘い味が広がるのだ。
なんでもこれは“共感覚”とか言うらしい。
世の中には音を聞くと色が見えたり、数字に性格を感じたりする人がいるようだ。
私の場合、「不幸な人」と「蜜の味」がくっついてしまっているということになる。
面白い、羨ましい、と思う人もいるかもしれない。
だが、この体質は私にとっては不幸しか生まない。
なぜなら、私はこの“蜜の味”が大嫌いだからだ。
甘ったるくて、口の中にギトギトになるような粘りが広がり、胸やけするような不快感を覚える。
実際には何も口に含んでいないのに、だ。
少しでも困っている人を見かけると、この大嫌いな味が舌にまとわりつくのだからたまったものではない。
だから、私は人助けが日課となった。
荷物が重そうな人を見かけたら手伝ってあげる。
乗り物で席に座りたそうな人がいたら譲ってあげる。
荒っぽい人間に絡まれている人がいたら助けてあげる。
機械の操作に戸惑っている人がいたら代わりに操作してあげる。
体調が悪そうな人を目にしたら介抱してあげる。
一日一善どころか一日百善ぐらいはやっていたはず。
じゃあ私が善なる心を持っているのかというと、そんなことはない。
私はとにかくこの不幸な人を見ると浮かび上がってくる蜜の味が大嫌いだから、その味を消すためにやっているだけ。
私の善行は明らかにニセモノの善、つまり“偽善”である。
時折、私のことを偽善者呼ばわりする輩に出くわすこともあるが、私としては「まさにその通り」としか思えないので、さして気にすることもない。素直に受け入れてしまう。
そうすると、そういう輩は私を不気味がって、向こうから去っていった。
話は変わるが、人助けをしていると分かることがある。
それは人助けには能力がいるということだ。いくら他人の不幸を消したくても、能力がなければそれは叶わない。
重い荷物を運んでいる人を手伝うなら腕力がいるし、勉強で悩んでいる人を助けるならそれなりの知力は不可欠だ。
しかも、世の中の不幸な人の不幸な理由なんてものは、とにかく多岐に渡る。
スペシャリストではダメ。私は色んな分野に長けたゼネラリストにならなければならなかった。
だから、あらゆる他人の不幸に対応できるよう自分を磨き上げていった。
猛勉強し、筋トレをし、財を成し、コミュ力だって必要だ。
成人し、いい大人になる頃には私は文武両道、あらゆる分野に精通しているといっていい人間になっていた。
そして、その力をフル稼働させて、人助けをする。
全ては、少しでも不幸な人間を減らし、私の舌に蜜の味が生まれないようにするために。
しかし、人助けをしていると分かることが、もう一つある。
それは――いくら人助けをしたって、不幸な人間をゼロにするなど不可能だということだ。
こんなことは当たり前であり、小学生だって分かることである。
今この瞬間にも赤ん坊が生まれているように、不幸な人間は新しく誕生している。
ある人に手を差し伸べても、また別の人が不幸になっている。そして、その不幸さは私の舌に甘ったるい蜜の味を与える。まるでモグラ叩きだ。
他人を不幸から救えば救うほど、私の心は荒んでいった。
ある時、助けた人間からこんなことを言われたことがある。
「私のような人生の落伍者にまで手を差し伸べてくれるのに、なぜあなたはそんなに不幸そうな顔をしているのですか?」
不幸そう、なのではない。不幸なんだよ。
何度やめようと思ったか分からない。
例えば山奥などにこもってしまえば、不幸な人を見なくて済むだろう。
しかし、私にも意地があった。それは逃げだと思った。
この甘ったるい、胸やけするような、気持ちの悪い、大嫌いな蜜の味と徹底的に戦ってやる、と決意した。
だから私は人助けをし続けた。
そして、ますます顔と心は荒んでいった。
***
ある日の昼すぎ、私はとある路地を歩いていた。
人気はなく寂れていて、まるで人の運気をはぎ取ってしまうような、そんな印象を抱く通りだった。
体が重いのが分かる。
連日の人助けで疲れが溜まっている。体内に鉛を流し込まれたかのようだ。
よたよたと歩き、ついには電柱にもたれかかってしまう。
なんで、こんなことに。日頃の“偽善”に対し、ついに神様が罰を与えたか。こんなことまで考えてしまう。
目がかすむ。本当にこのまま死んでしまうのか、そんな予感まで抱く。
五分か、十分か、私がそうしていると――
「あの……大丈夫ですか?」
声をかけられた。
振り向くと、若い娘が立っていた。
髪型はお下げ、二十代前半ぐらいだろうか。可愛らしい顔立ちだが、私の舌に甘ったるい味が広がる。つまり、この女性は不幸なのだ。
「よかったら、家で休んでいって下さい」
優しい言葉が身に染みる。
断るつもりだったが、その声が出ない。
甘いのが苦手な私だが、お言葉に甘えることにした。
女性は小さな店をやっていた。赤い屋根のホットケーキ屋。
一目で繁盛していないのが分かる。
こんなところでホットケーキ屋などやって、流行るわけがない。
店内に入る。テーブル席が三つあるが、やはり客はいない。私はそのうちの一つに座らせてもらう。
「お水をどうぞ」
透明なコップに入った一杯の水。常温にしてくれているのがありがたい。
一気に飲み干す。
これだけでずいぶん生き返った。ミミズかナメクジにでもなったような気分だ。
「ありがとう、だいぶ落ち着いたよ」
「よかったです……」
彼女はにこりと微笑む。
その顔を見ると、私の舌にあの甘ったるさが増す。まるで他人の不幸測定器だ。
しばらく休むと、体調が戻ってきたので、私は彼女に尋ねる。
「あなたは……不幸だな?」
「え?」
彼女は怪訝な顔をするが、こういう時は有無を言わせず畳みかけるに限る。
これも私が人助け生活で培ったテクニックの一つだ。
「この店、お世辞にも繁盛してるとはいえない。今は午後2時、こうしたスイーツの店なら、むしろ客が来る時間のはずなのにだ」
「……はい」
助けてもらったにもかかわらず、店の閑古鳥具合を指摘する。
恩を仇で返すような行為だ。
しかし、私の舌のためなのだから仕方ない。罪悪感など抱かない。
彼女の事情を聞いてみる。
この店は亡き両親から受け継いだものらしい。彼女はしっかりとその味を受け継いだのだが、商才を受け継ぐことはできなかった。
両親亡き後、しばらく店を休んでいたことも祟り、今ではぽつりぽつりと馴染みの客が来るぐらい。
このままでは閉店まっしぐらだという。
まあ、私からすればよくある話である。一流の外科医の元に、盲腸の患者が運ばれてくるようなものだ。
「実は私はこういう者でね。経営コンサルタントを営んでいる」
名刺を渡す。
実際には、私は人助けのため数々の商売をしているので、これは数ある身分のうちの一つに過ぎない。
この場で出すには最適の身分を選んだだけだ。
「こうして助けられたのも何かの縁、店の立て直しに協力させてもらえないか?」
「え、でも……」
こんな話を聞かされれば、大抵の人は警戒する。詐欺の類ではないかと疑ってかかる。
とはいえ、ここからが私の腕の見せ所。
相手に私の力を借りたいと思わせねばならない。
先にも述べたが、人助けにはコミュ力も不可欠なのだ。
口調を柔らかくし、ぺらぺらと私の実績をまくし立て、金銭は求めていないことを強調し、時には笑い話も交え、どうにか彼女を説き伏せた。私が外科医だとするなら、盲腸患者を手術台に寝かせた段階といったところだろう。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
彼女が私に任せてきた。
あとはもう簡単だ。店を改装し、宣伝をし、繁盛するように盛り立ててやろう。
これで、この娘は不幸ではなくなり、私の舌から甘ったるさが消える。一応の恩返しにもなる。
もっともこれも、延々続くモグラ叩きのモグラを一つ叩いたに過ぎない徒労なのだが。
詳しいことは後ほど連絡します、と席を立とうとすると――
「あの……よかったらホットケーキを食べていきませんか?」
「え?」
呼び止められ、ホットケーキを勧められた。
冗談じゃない。私は蜜の味が大嫌いなんだ。あんなもの食えるか。
「いえ、結構。お腹はすいていないので」
「じゃあ、一口だけでも……」
「いえ、いりません」
「ですが、これからお力を貸してくれるというのでしたら、ぜひ店の味を……」
「結構ですので……」
「せめて一口だけ……」
なかなかしつこいな、この女。
意外な一面だった。この粘り強さをもっと商売にも生かせ、と思ってしまう。
おしとやかそうでいて、自分のホットケーキには絶対の自信があるらしい。私としたことが、断り切ることができない。
結局、押し切られる形で、ホットケーキをひと切れだけ食べることになった。
皿に載った切り分けられたホットケーキを見て、なんでこんなものを……心の中で舌打ちする。
ちなみに私は飲食店を立て直す時、その店のメニューを味わうことはほとんどない。
よほどのマズさでなければ、店の繁盛に味なんかほとんど関係ないからだ。適切な宣伝と工作をしてやれば、大抵の店は上手くいく。事実、私は上手くやってきた。
それなのに、よりによってホットケーキを味わうはめになってしまった。
シロップ、つまり蜜がたっぷりかかっており、非常に甘ったるそうだ。吐き気がする。
一口だけ食べて、「美味しいよ、これなら絶対繁盛する」と言って、とっとと店を出よう。そう決めた。
せめて吐き出さないように覚悟を決めると、私はひと切れのホットケーキを口に含んだ。
「……っ!」
口の中に至福が広がった。
なんという絶妙な甘さ。
噛むとホットケーキの程よい弾力とともに、シロップの味が染み出し、私の口内を楽園に変えてくれる。
ホットケーキとはこんなに美味かったのか。
蜜とはこんなに美味かったのか。
なぜ、今の今まで気づかなかったんだ。こんな思いにさせてくれた。
私はホットケーキを飲み込むと、彼女に告げた。
「すまない! もう少しだけ、君のホットケーキをくれないだろうか!」
「はい、すぐにご用意いたします」
彼女はにこりと笑って、先ほど食べたホットケーキの残りと、さらにもう一枚を出してくれた。
私は瞬く間に平らげてしまった。
私は今食べた味を反芻していた。
これだ。これこそが“蜜の味”だったんだ。
あの、いつも、昔から、私を胸やけさせていた、あの味は蜜の味でもなんでもない。全くの別物――
きっと蜜を騙っていた“何か”だ。
私は自分の舌で革命が起こるのを感じていた。
***
さあ、ここからは私の本領発揮だ。
すぐさまこのホットケーキ屋を改築し、あらゆるメディアを使って宣伝し、たちまち人気店に生まれ変わらせた。
潰れかかっている不幸な店を立て直すなど、私にかかれば造作もないことである。
あれほど素晴らしい味ならば、なおさらだ。
しばらくして私が店を訪ねると、彼女は笑顔で私を迎えてくれる。
忙しくなりすぎて、かえって不幸になっているということはなさそうだ。
「あなたのおかげで、店を守れそうです。本当にありがとうございました」
しかし、私はこう返す。
「いや、私こそあなたに救われたんですよ」
「え?」
「本当に……ありがとう。店は忙しいでしょうが、どうか頑張って下さい」
きょとんとしている彼女を背に、私は歩き出す。
あれ以来、私が不幸な人を見て、あの甘ったるさを感じることはなくなった。
しかし、私は人助けを続けている。
それは“蜜の味”のため。
“革命”が起きてからというもの、私の舌は不幸な人を助けるたび、彼女のホットケーキの味のような“蜜の味”を感じるようになったのだ。
不幸な人を助け、その幸せな姿を見るたび、私の舌にそれ以上の幸せが広がる。
不幸な人だらけのこの世界が、私には輝いて見える。
だから今日も私は人を助ける。全てはこの“蜜の味”のために。
ああ、人の不幸は蜜の味だ――
完
お読み下さいましてありがとうございました。