白く清く、咲きそうに
人が世に創造され、結果地上が悪に満ちてしまったのは果たして全く想定の埒外であったのだろうか。
少なくとも彼らは偶然にもそこで生まれたわけではなく、何らかの意思によって存在を許されたはずであった。
しかし、その何らかの意思とは一体。
そして彼らはあの時、如何なる期待を背負って地上に生まれ落ちたのか。
如何なる生を全うするべきであったのか。
様々な思考、思想、それらのなかに万が一の真理があったとする。
あったとして、既に無意味なのであった。
地上は悪に満ち、またある意思は自戒し、決定を下してしまったのだから。
何よりも確かな、揺るぎ無い事実。来るべき未来。
彼らが楽園と錯覚していた地上は、じき終わりを迎える。
◆
あれは一カ月前。
午後イチにあった水泳の授業の後、微睡みの中で過ごしていた現国の時間、私は声を聞いた。
それはまるで通り雨のように、ふとして降りて来たのだった。
正確にはたくさんの情報が突如として脳へ流れ込み、様々な理解のプロセスを経ることなく私の中に直接刻み込まれたのである。
自分でも何が起きたのか分からなかったが、声が私に告げたすべては新たな世の理、そして私たちが辿るべき未来を示し、疑うことすら許してはくれなかった。
悪意に満ちたこの世界は、もうじき終わってしまう。
この時私は、それを認識させられた。
微睡みに代わる、どこか霞がかったような意識。
風が薄いレースのカーテンを揺らし、ぼうっと熱い私の体を撫でた。
外の景色。空は青く、雲はない。小さな山々に囲まれた私たちの街。
その中でも割と高い山のてっぺんに、船が泊まっていた。
ここからでもそれが船であると分かるほどに巨大な方舟が、嘘みたいな積木遊びのようにちょこんと山の上に乗っていたのだ。
「先生」
私は手を挙げ、それからまた山のてっぺんへ視線を戻した。
「船が……」
「授業に集中しなさい」
先生はそう言って、いつもの丁寧な文字で黒板へ綴る。
〈積み重ねた本の上に檸檬を置いた意味とは?〉
――私はあの船に乗らなければならなかった。
唯一救われる清い心。
肉体に命を宿した、それら一つがい。
私はヒトの雌として、救われなければならなかった。
◆
「この船、船ってことは何処かへ行くのよね。いったい何処へ連れて行かれるのかしら」
広い甲板を囲む欄干に頬杖をつき、私は独りごちた。
見下ろす街は穏やかで、遠く小さい学校のグラウンドでは生徒たちがサッカーの試合をしている。
校舎の中までは見えないが、きっといつものように授業が行われているのだろう。
彼らは何も知らない。もしくは知っていても、疑いなど持たないのだ。
船は当然のようにこの場所に存在していて、数多の生物を乗せていること。
私もその一つ。この糸杉で出来た大船に乗っているということ。
何もかもが当たり前のことで、それをおかしいと思うなんて――。
「アキ、心配しないで。これは救いの船、何があろうと私たちだけは大丈夫」
いつからそこにいたのか、背後から聞こえたのはノゾミの声だった。
こつこつと、ローファーの底で甲板を踏む音が近づいて来る。
私は振り返らずに、そのまま顔を伏せた。
ノゾミとは小学校からの付き合いだ。
「あなたは私と友達になるのよ」。ノゾミの一言が全ての始まりで、妙な迫力にその時の私は「うん」とだけ答えたのだった。
『何を考えているのか分からない人』。第一印象は当然と言うべきかそんなところで、それは今でもそうなんだけど、こんなに長いこと仲良くやって来られたのは結局ウマが合うってことなんだと思う。
とにかく私たちはずっと一緒だった。
でも高校に進学してノゾミだけが急に大人っぽくなって、対して私は子供のままだったから「ノゾミには彼氏なんてすぐ作れるんだから」なんてたまに自暴自棄になったりしたけど、それでも相変わらず何を考えているのか分からない顔で彼女は私の傍にいてくれた。
大切な友達。
だけど今はそれとこれとは別の話。こんなの、絶対にあってはいけないことなのだから。
「……なんでノゾミなの」
そう言うも、ノゾミは隣へ来て私に体を寄せる。
「アキはどうして不機嫌なの?」
そして耳元で囁く。彼女の長い髪が私の頬をくすぐった。
不機嫌なんかじゃない。そんな幼稚なことではない。
私とノゾミがこの船に乗っているという不条理に、憤りを感じているのだ。
「犬だって、猫だって、象だってライオンだってみんなつがいでこの船に乗ってんのよ。こんなのおかしいでしょ。お終いよ。ヒトだけが絶滅してしまうんだわ」
私がノゾミから体を離すと、彼女はもうくっついては来なかった。
二人の間に風が吹き、スカートの裾を揺らす。
ノゾミの優しさは、度々私を不安にさせる。
近すぎたり、遠すぎたりして、良く分からなかった。
何年も一緒に居るのに距離感が上手く掴めなくて、マイペースな彼女に私だけが振り回されていた。
「2組のサトウ君なら良かった?」
そしてまた突拍子もなくこんなことを聞くのだ。
サトウ君。
バスケ部の部長で、背が高くて、とんでもないイケメンで。春に彼女と別れたとか。
理由は知らないけど、きっと外から眺めるサトウ君と内から眺めるサトウ君は違うのだと思う。
それは一緒にならないと分からないことだ。
もしもこの船に彼がいたら私は喜んだかもしれない。
でも、それは偶像であるサトウ君への憧れであったり、身勝手な下心がそうさせるのだ。
私は彼のことを良く知らないし、何を話せば良いのかも分からない。
きっと気を遣って、ぎくしゃくしてしまうに違いない。
それならノゾミと一緒のほうが、全然良い。
「なんでサトウ君なの……」
「みんな好きだから。彼のこと」
「私は、別に」
「……そう」
そうしてノゾミはまた横へ来るが、今度はお互いの肘が当たる距離で私と同じように欄干へ体を預けた。
そして口ずさむように、小さく言う。
「あなたの言う通りよ。もうお終い。実のところこの船は唯一の救いなんかじゃないの。全ての生き物が平等に一つがいずつなんて、そんなの不平等すぎるもの。何処へ行こうと、何処へも行かなくても、待っているのは過酷な種間競争、それも種ごとに異なるハンデを背負った状態で。みんなが仲良しって、そんなわけないんだから。私、とてもじゃないけど生き残れる気がしないわ」
見ると、ノゾミはなぜか少しだけ笑っていた。
私の視線を感じ、彼女の色素の薄い瞳が微かに揺れる。
「私がアキを選んだの。初めに声が私を選んで、それからもう一人、パートナーを探すようにって」
「なんで?」
「たぶん、ヒトはどうしても滅んでしまう運命なのよ。だから私たちが船に乗るのなんて、別に何の問題も……」
「そうじゃなくて」
見つめる私を、ノゾミが見つめ返した。
ふと彼女の右腕が何かに触れようと少しだけ動く。でもそれだけだった。
ノゾミは再び街を見下ろす。
「最後は誰と一緒にいるべきか、ずっと考えていたの。それにアキをあっち側に残すなんて、やっぱり無理だったから」
「ありがとう」
「だって、……友達だもの」
「でも、それってワガママだよね」
ノゾミが諦めたようにふっと息をもらした。
本当に我儘だ。
私の気持ちなんてどうでもいいみたいに、そうやっていつも自己完結して。
何かを恐れて、有無を言わさず自らのペースに巻き込んで。
私、あなたの偶像じゃないんだよ。
「そうね。私っていっつもそうね」
「そういう感じ、やめてよ。ここには私とノゾミしかいないんだよ」
「ごめんなさい、こんなに嫌がられるなんて、思っていなくて」
ノゾミ。
不器用なノゾミ。
どこまで極端なの。
こんな場所で、終わりつつある地上を目の前に、私が大人しくあなたと一緒にいるのに、なぜあなたのほうから遠ざかって行ってしまうの。
これが特別なことだと、どうして分からないの。
私だってノゾミみたいになりたいよ。
この一カ月間、どんなに苦しかったと思ってるの。
今だって。
たくさんの犠牲とかヒトの未来とかは忘れて、ノゾミとまた一緒にいられて嬉しいってそれだけの感情に甘えることが出来たらどんなに良いか。
ただでさえどっちつかずの私から離れて行って、これ以上不安にさせないでよ。
「私、アキのことなら全て知っているとばかり」
そして今度はそうやって肩を落として、どういうつもりよ。
なに勝手に泣きそうになってんの。
私だって……。
――ああ、そうか。
なんだ。ノゾミ、あなたも――。
「あのさ。私が考えてること、たぶんノゾミとそんなに違わないんだってば」
「私の考えている事……?」
「馬鹿じゃないの。いつも一緒に居るんだから普通分かるでしょ。勝手に人の気持ちを深読みして。私は檸檬じゃないんだから」
「檸檬? ああ、あれ」
「そう。あれ」
「ふふっ」
ノゾミが口に手を当て、静かに肩を震わせた。
胸元のリボンもつられて揺れる。
制服。
ノゾミも、出来ればまだあそこにいたかったんだよね。
私もそう。だからわざわざこんな格好で山のてっぺんまで来たんでしょ?
「アキは私の考えている本当のことなんて知らないわ」
そう言ったノゾミはもう笑ってはいなかった。
やけに悲しそうに遠くの街を見つめている。
いや、もっと遠くを。
「そんなことないって」
大丈夫、私だってちゃんと恐いよ。
この船に乗ることが私の役目だって知っていても、この先なにがあるのかまでは分からないんだもん。
不安だし、恐い。
ノゾミはそれを、私となら耐えられると思ったから選んでくれたんだよね。
嬉しいよ。素直に。
ほんと、語彙力無いから上手く言えないけど。
「でもやっぱり、ノゾミは勝手だよ」
「それなら結局、サトウ君でも選んでおくのが正解だった?」
「この船で彼と何を話すのよ」
「知らない。とりあえず自己紹介から始めるわ」
ノゾミがクールに髪をかき上げる。
「私も、彼はタイプじゃないのよね」
「サトウ君、実はモテない説」
「私たちがずれているのよ」
「同じように、ずれてんだよね」
だからこそ、これまで一緒に居てこられたのだ。
ぱっと見は大違いでも、私たちはたぶん根っこでは通じているのだから。
それはもう、心配しなくて良いことだよね。
「私たちはお終いなんかじゃないよ」
「……どうしたの」
「ノゾミが私を選ぶことくらい、声は知っていたに違いないわ」
「ふうん。それで?」
「それ込みでなんとかしてくれるわよ」
「アキもなかなか馬鹿なのね」
私たちはまた笑った。いつもみたいに。
間違いなかった。私はノゾミとじゃなきゃ駄目だ。
終わりでも、始まりでも、ノゾミがいれば笑っていられる。
清い心なんて知らないけど、私たちが選ばれたのには意味がある筈なのだ。
その意味だって、今は分からないけど。
「いよいよね」
不意にノゾミが空を見上げた。声を聞いたのだ。
もちろんそれは私にも聞こえていた。
はっきりとしたメッセージではない。『何かが始まる』、声はそのことだけを私たちに伝えたのだった。
「何が始まるの」
不安と恐怖に、私はノゾミの制服の袖を掴む。
ノゾミはその手を取って、私たちは互いに体を寄せた。
「大丈夫」
そう言ったノゾミは小さく震えていた。
私も、足が竦んで今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
その時、船が大きく揺れた。
甲板の至る所が軋みを上げ、欄干で羽を休ませていた鳥たちが一斉に飛び立つ。
揺れはすぐに収まり、私は街がさらに少しづつ小さくなっていることに気が付く。
船はゆっくりと、空へ近付いていた。
『清らかな命たちよ、これより我々は新天地へと旅立つ。悪など存在しない無垢なる大地で、また無垢なるお前たちは生きるのだ。畏れることはない、これは希望のみに満ちた始まりである』
「新たな大地? 地上は滅ぶんじゃ……」
「見捨てられたのよ。もしくは可能性を捨てきれなかったか……。とにかくここは危ないわ。船が加速して吹き飛ばされでもしたら大変。特にアキは薄っぺらいから」
「どういうことよそれ」
「中に入りましょう。私たちの部屋が用意されているみたい。ほら」
ノゾミが手を差し出す。
わたしはそれを握りしめた。
「アキに話しておきたいことがあるの。今ならちゃんと言えると思うから」
「何?」
「……やっぱり辞めておくわ」
「いいから」
「これからよろしくね」
無垢なアキさん。からかうように言ってノゾミは歩く。
「ちょっと。ノゾミだって見た目ばっかり大人で中身は子供でしょうが」
私は握った手に力を込めた。
ノゾミは少し驚いたけど、すぐに大人ぶった微笑みで全てを包み込む。
ねえノゾミ、今さら私たちがあれこれ話し合うことなんて無いんじゃないかな。
これから喧嘩とか、するかもしれないけど、心配いらないよ。
もう全部、上手くいくって分かってるんだから。
私はそれを認識したんだから。
「私たち地球一の友達でしょ」
そう言った私の手を、ノゾミはもっと強く握り返した。
何考えてるのか分からないような顔で。
困難でも不安でも、二人はお互いを信じて強く生きていきます。
これは私なりのハッピーエンドです。
どうか暖かな気持ちになってくれたら嬉しく思います。
読んで頂きありがとうございました。