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ピアノと

暗い話が続きますね。

何もない部屋で延々とピアノを引き続ける男の物語です。

その人生の無情感を2000字ぴったりで、どうぞお楽しみください。

吹き抜けの上にある天窓からさぁっと月の光が差し込み、十畳ある広いフローリングの部屋の床を蒼に染めていた。

部屋に有るのは1台のグランドピアノのみ。

部屋の中央に置かれたピアノは、まるで部屋に大穴が空いたかのように真っ黒だった。

男は部屋の照明も付けず、月明かりしかない部屋の中でグランドピアノの天蓋を開ける。


「……弾くか」


男はピアノ用の椅子に座り、鍵盤に指を置く。

精神を集中させるように上を向き沈黙する。

ピアノの真上にある天窓の端から満月が顔を覗かせていた。

男は一度深く呼吸をしてから、ピアノを弾き始めた。


 タタタ タタタ タタタ タタタ


真夜中の静寂の中におだやかなピアノの音が響きだす。

曲は、ルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェン作曲『月光』第一楽章。

この男には、この曲しか弾くことは出来ない。

同じ『月光』でも第二楽章も第三楽章も弾けない。

そんな唯一弾ける曲であっても、お世辞にも上手いと言える演奏ではなかった。

音はたまに間違うしリズムの取り方もバラバラである。

四十路を過ぎてから始めたピアノだ。

そう簡単には上達しない。


 ターンタターン ターンタターン


曲のメロディー部分が始まる。

この曲は右手でメロディーと伴奏を同時に弾かなくてはならない。

弾き始めた頃はまともにメロディーを演奏できなかった。

それでも男は弾き続け、曲として聞こえるレベルまでは上達した。

この下手で苦しい演奏はむしろ男の苦悩の表れのようにも聞こえる。

自身の人生の苦しさをピアノから捻り出しているかのようだった。


 タン タン タン ターン


この部屋にはもうピアノしか無い。

男が他の家財道具を全て捨ててしまったからだ。

このピアノも既に回収業者への連絡が済んだ状態で、数日後には粗大ゴミとして廃棄される。

そんなピアノと共にこの部屋にこもってから、もう丸三日が経過する。

その間に何度この曲を弾いただろうか……。

この家にはこの男一人きりであり、それを止める人は誰一人として居なかった。


 ターターターターターン


曲が転調する。

この楽譜にある解説のいう展開部にあたるところだ。

短調から長調に変わることで、曲の雰囲気が少しだけ明るくなる。

苦悩の中に現れた一筋の光のようで、男はここを弾くとき少しだけ心が和らぐ。

ならばもっと明るい曲でも弾けばもっと心が明るくなるだろうか?

そんなことはないだろう。

この男はこの曲しか弾けないし、他の曲を弾こうという気はもう無い。

傷口に風邪薬を塗っても意味はないように、心の傷は明るい曲で癒やせない。

物は時と場合に応じて、悲しみだって……。


 タタ タタ タタ タタ タタ タタ


曲の半分が過ぎ、終わりに向けて盛り上がる。

妖艶なメロディーが上がったり下がったりする。

男は頭の中でこのメロディーを自身の人生と重ねていた。

自分は何でもできると思い好き放題暴れていた10代。

付き合うたび女にフラれ、仕事も辞め、やさぐれていた20代。

結婚し子供をもうけ、人生が全てが昇り調子になった30代。

そして、その家族と死に別れた40代。 

上がったり下がったりしながら、底まで来た。

思い出しながら、まるで昔話のようだと男は思った。

自分の事だという事も忘れそうなほど。


 ターンタターン ターンタターン


曲がまた最初の主題に戻る。

男の回想が、また現実に引き戻される。

誰も聞いていない、誰も聞いてくれない曲がまた終わろうとしている。

これだけ上手くなった、こんなにも弾けるようになったと自慢する相手は居ない。

聞かせたい相手はもう居ない。

聞いていて欲しい。

聞こえて欲しい。

聞こえてるかもしれない。

聞き続けてくれてるに違いない。

男は想いを曲にぶつけ、リピートの無いところで無理やり曲を繰り返した。


 タタ タタ タタ タタ タタ タタ


家族が消えてから、男は生きる気力を無くしていた。

遺品に囲まれても家族は帰ってこないという現実にうちひしがれていた。

最も大切な家族が居ないのに遺品を大切にしてなんの意味がある、という思いに焦がれた。

そして遺品を捨て始めた。

遺品の中のピアノを見たとき、子供が『月の光』という曲が好きだと言っていたことを男は思い出した。

そして家にある楽譜を探して最初に見つけたのが『月光』という違う曲だった。

その後にも探し続けたが『月の光』は見つからなかった。

そして最初に見つけたこの曲を、家族への唯一の鎮魂歌として弾き始めた。


 タータターン タータターン


月の光が天窓からまっすぐに差し込んでいた。

男の指が震えはじめた。

三日間飲まず食わずで弾いていたためだ。

男は自分がどこを演奏しているかも認識できなくなっていた。

しかし、それでも弾き続ける。

聞いてほしい人に聞かせるため。


 タタタ タタ・ タタ・・ ガタン


男は椅子と共に倒れた。


 ・・・


床に寝そべった男の顔に、月の光がさしこむ。

締め切った窓のカーテンがふわりと揺れる。

男の体が浮き上がり、窓から外へと出た。

これでやっと大切なものを取り戻せる。

男は安らかに満月へと歩みを進めた。


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