バス停と
ピアノ教室の後、母親のおむかえを待つ子供の物語。
本当になんでもない、普通の夜の話です。
そのなんでもないことが不気味に感じられてしまう子供の感覚を2000字ぴったりで、どうぞお楽しみください。
「ピアノ、終わったから。迎えに来て。いつものところ」
習い事が終わったことをお母さんに連絡してから、携帯電話を手さげ袋にすぽっと入れた。
下駄箱にある自分の靴を持って、タタタッと音楽教室の階段を駆け下りる。
今日は先生に誉められたってことをお母さんに伝えるんだ。
『引』と書かれたガラスの扉をギギッと押すと、冬の寒い空気がぐぐっと押し返してきた。
音楽教室を出てから歩いてすぐの所にバス停がある。
そこがいつもの待ち合わせ場所だ。
とことことバス停まで歩き、そこにあるベンチにすとんと座ってお母さんを待つんだ。
今日は満月、キラキラと明るい夜だった。
来ない。
いつもならもう来てる時間なのに、お母さんが来ない。
体がだんだん寒くなってきた。
肩を縮めてぶるぶると寒さを堪える。
手を頬にピタッと当てると、手がびっくりするほどヒヤッとしていた。
手袋を持ってくるのを忘れちゃったことを後悔した。
忘れたんじゃないや。
いつもは学校へ行くときの手袋を付けてたけど、今日は持って来なかったんだ。
手袋をつけて雪だるまを作ってたせいでびしょ濡れだったから。
寒い手をすり合わせて、あたたかい息をはぁっとかける。
それでも指先は冷たくてコチコチだ。
ほかにあたためる物がないか探すけれど、持っているのは楽譜と筆記用具の入った手さげ袋だけ。
手さげ袋のぺらぺらした薄さがよけいに寒く感じる。
手を袖の中に入れて、少しでも温まろうと縮こまるしか思いつかなかった。
バス停の前の大きな道を、車がビュンビュン走りぬける。
信号が赤になると、次々と止まる。
車が溜まってくると、信号が青になり、またビュンビュン走り出す。
通過する車をひとつひとつ見ていたけれど、その中にお母さんの車は見つからない。
街の光と、ちらちらと通り抜けて行くたくさんのヘッドライト。
空を見上げると満月が私を見下ろしている。
満月はにたにた笑っているように見えた。
一人の男の人が私の横に立った。
ビクッとして見上げたら、その人はバス停をジロジロ見てからタバコに火をつけた。
その人を見ていたらなんだか怖く思えて、また前を向いて道路を見ることにした。
やっぱりお母さんの車は来ない。
ざぁっざぁっと知らない車が通り過ぎていく。
男の人から感じるぴりぴりした怖い感覚が、背中にビクビクと響いてくる。
男の人が襲いかかってきたらどうしよう。
もしかして私は殺されるかもしれない。
ひぃっという声が出そうになる。
怖くて私は手さげ袋の中からピアノの本を出して読むことにした。
ドソミソドソミソ、シソファソシソレソ。
八分音符は全音符を八つに割ったもの、付点四分音符は一拍半。
なんでだろう、頭に入らない。
音符をじいっと見てるのに目に入った音符が頭に届かずこぼれ落ちる。
タタタタ、タタタタと口ずさもうとする。
けど喉から出てきた声が口から出ていかず、ひゅうひゅうと変な声しか出ない。
諦めて私は本を片付けた。
気付けば人が増えてきた。
あたりを見回すと男の人だけでなく、お爺さんやお婆さんも辺りで静かに立っている。
みんなまるで墓石みたい。
誰も何も喋らず、ただ静かに。
まわりの人がトゲトゲした視線で私の背中を睨む。
私は怖くてどんどん小さくなる。
お母さんはまだ来ない。
私は立ち上がることも出来ず、身動きもとれず、ただじっとベンチに座っていた。
ときどき寒い風がひゅぅっと私を動かそうとする。
それでも恐怖と寒さで凍りついた私の体は、ちっとも動かない。
突然、周りの人がいっせいにごそごそと動き出した。
私はドキッとして、怖くなって、叫びそうになる。
出てくる声を押さえつけなくちゃ。
ぎゅっと口と目を閉じる。
するとどこからか温かい風が私の顔に向けてふわりと流れてきた。
目を開けると、いつのまにか私の前に大きなバスが止まっていた。
まわりの人がざわっとバスの中へ流れ込んでいく。
ピッ、ピッと手に持ったカードが軽い音を奏でる。
入っていく人はチラッと私を見ては、何も無かったかのようにそっぽを向く。
私はあっけにとられてそれを見ていた。
そしてバスの扉は閉まり、ブロロロと低音を立てながらバスは去って行った。
私はまた、一人になった。
バスが見えなくなると同時にお母さんの車がバス停に入ってきた。
私は無言で車のドアを開け、すとっと暖かい車内へ飛び乗った。
「ごめんね遅れて。ちょっといろいろあって。ここで待ってたの? 教室の中で待っていたらよかったのに。寒かったでしょ」
違う。
中で待ってたらいけないの。
心の中で根拠の無い話が出来上がっていく。
でもそれを口に出せなかった。
その後も私はしゃべらないつもりだった。
でも暖かくなって口が緩んだのかするするっと声が出た。
「お母さんが来るまでに車が百台以上通ったんだよ。でも、満月が綺麗だったよ」
「そう。ごめんね」
車は明るい町並みを通り抜ける二つのヘッドライトとなり、家まで私たちを送った。
そういえば、先生に誉められたことを話しそこねたな。