ピアノ線と
グロテスクな物語が書きたくなったので書きました。
夜中に走る人とピアノ線の物語。
R15ほどではないけれど、少しエグいです。
淡々と描かれる狂気を2000字ぴったりで、どうぞお楽しみください。
『そいつ』は地面に垂直に立ち、真っ直ぐに月の光を弾く。
誰かがそこに来るのを待っているように。
その存在はあまりに凛々しく、それがむしろ幻のようにもおもえた。
まるで空間を二分するかのように、まるで異次元世界に繋がるスリットかのように。
冷ややかなその直線は濡れたような鋭さを放つ。
心苦しくなるほどの美しさを感じさせる魅了がそこにはあった。
ただ、『そいつ』はそこに確実に立っていた。
その人は走っていた。
夜遅くに走っていた。
いつから走っているのだろうか?
その人の走り方は?
汗をどのくらいかいているのか?
そんなことは問題ではない。
ただ、その人は走っていた。
その人が走っていると、目の前に『そいつ』が立っていた。
本来は「ある」といった方が正しいが、ここでは「立つ」と表すべきだと思えるくらい、『そいつ』はありありと存在していた。
走っているその人は、『そいつ』の存在に全く気付いていない。
『そいつ』は確かに見えにくかった。
細く、黒く、見る角度によっては月の光の反射で見えたが、その人は少しも気が付かなかった。
焦っていたのだろうか、汗が目にしみていたのだろうか。
満月が出ているが、暗い暗い夜の道だ。
ただ、その人には『そいつ』が見えなかった。
その人の右足が、『そいつ』の立っている所の少し右手前のあたりを踏んだ。
その人の体は、そのまままっすぐ吸い込まれるように『そいつ』に向かっていく。
左手が前に出る。
左手が『そいつ』の左側をかすめる。
一滴の汗が宙を飛び、月の光をうけて輝いてから、『そいつ』に当たり潰れた。
その人はなにも気づかず、まっすぐに走り続ける。
ただ、その人は『そいつ』の存在に、まだ気付いていなかった。
左手を前に出し切った所で、その人の額の少し上あたりが、『そいつ』に当たった。
その人の目の中に、一瞬細い何かが見えた。
そこで初めて『そいつ』の存在に気付いた。
しかしその人は走っていた。
勢いは消せず、そのまま『そいつ』に突っ込んだ。
額が少し切れる。
『そいつ』は鋭かった。
上下がきっちりと固定されているかのように、ぴんと張っていた。
何に固定されていたかは問題ではない。
ただ、『そいつ』の鋭さは、その人を切るに至った。
その人はそのままつき進む。
額からずぶずぶと切れる。
一筋の裂け目をさらに深くもぐっていき『そいつ』はその人の頭蓋骨にまで達した。
そこでやっとその人は痛みを感じた。
そこでやっとその人は避けようとした。
しかし勢いを消すことは簡単には出来ない。
脳からの指示が体に行き渡るまで、まだ時間がかかる。
そして『そいつ』は本当に鋭かった。
どうしてそんな事がおこったのか。
もしかしたらその人の骨が弱かったのか。
もしかしたら『そいつ』は細かく振動していたのか。
ただ、頭蓋骨までもが切れはじめた。
その人はまだ前に進む。
頭蓋骨が切れ、脳に『そいつ』は触れた。
そのまま脳がちょうど真ん中で切れる。
同時に鼻も中心で切れる。
ここに来て、やっと血が噴き出した。
満月に血潮が照り輝き、辺りにほとばしる。
その血は『そいつ』にベッタリと付く。
細く見えにくかった『そいつ』は赤く染めあげられた。
上に付いた鮮血がぽたぽたと下へ垂れならが、一方で下からは次々と噴出し『そいつ』をにぎやかしていた。
ただ、その人は綺麗に、はかったかのように、まっぷたつになっていった。
前頭葉が真ん中で切れる。
右脳と左脳が、脳の模型のようにちょうどふたつに分かれていく。
二本の前歯のぴったり中央を『そいつ』は通る。
そして切れ目は次々と体の下の方へと進んでいく。
舌ものどちんこも脳幹も小脳もきれいに真ん中で切開されていく。
ただ、その人が切れていく中、『そいつ』は微動だにしなかった。
その人の頭の中に走馬灯のように記憶が駆け巡る。
溢れる血の中で唯一出来る事なのだろう。
過去の自分を振り返る。
今までの自分の人生はどのような物だったか。
短い人生か、長い人生か。
悔いは有るか無いか。
たくさんの出来事が思い浮かんでいた。
しかし、それはここでは問題ではない。
ただ、その人の意識はじきになくなっていった。
切れ目は頭から体の方へと移る。
喉が切れ、胸骨、食道、背骨、次々と切れていく。
その人の服まで『そいつ』により切断されていった。
ここで頭の先が分かれ始めた。
心臓の近くが切れたとき、特に多く血が噴き出した。
大腸が切れ、小腸が切り刻まれる。
直腸や肛門が分断された。
シャツやズボンも中央で切れた。
完全に二つの物体となった後、その人はぼちゃっと地面に倒れた。
左半身は『そいつ』の左側に、右半身は『そいつ』の右側に。
手足には傷一つ無い。
ただ、その人の真ん中だけが、切れた。
夜も更け、満月が真上に昇る。
その人はその場に倒れたままだ。
朝まで誰も気付きはしない。
『そいつ』は赤い血を垂らしながら、満月の光を妖しく歪ませ、跳ね返す。
ただ、『そいつ』はそこに立っていただけだった。
ただ、それだけだった。