二の巻
なんだか、屋敷の中全体が騒がしい。寝殿――大納言様がいる中央の建物を、こういうんだって――の方は、人々があたふたと出入りしている気配が感じられる。
外は蝉の声がうるさいくらいで、空はよく晴れていた。でも、山よりも高く積乱雲がわきあがって、それがどんどん大きくなっていくのがわかる。そんな庭にも下人たちが、忙しそうに走り回ってた。みんな鎧なんか着て。
「大夫の君、何ごと?」
私は思いあまって、大夫の君に聞いてみた。
なにしろ昨日までは今までどおり静かだったこの屋敷が、今日になって急に天地がひっくりかえったような大騒ぎになっているのだ。
「ウィンのフォフワウの、隠れさせ給ひてなん」
ウィンのフォフワウって?
きっと偉い人なんだろう。だから、こんな大騒ぎになってるんだ。でも、なんでそれで下人が鎧を?
「隆浩!」
ちょうど他のケラオとかカマキリまるとかの下人たちといっしょに隆浩が庭を走っているのが見えたので、私は簾の中から呼んだ。なんと隆浩まで、鎧着てるじゃない。
「なんだよ。忙しいんだよ!」
「忙しいって、いったい何があったのさ」
隆浩は縁側の下で、駆け足踏みをしたまま。
「なんか、たいへんなことになってるらしいよ。このクソ暑い時によ、こんなの着せられて、マジ勘弁! これ、ちょー重いんだぜ!」
たしかに隆浩、汗が顔じゅう滝のよう。
「なんだかねえ、ウィンのフォフワウってのが死んだんだって!」
「ウィンのフォフワウ……? あ、それ、院の法皇だよ、きっと。そっか、それでか」
「なあに? それ」
「法皇つったら、出家した上皇のことで、天皇以上に権力を持ってた人だよ」
「それでみんな、大騒ぎしてんだ」
「それだけじゃねえんだよ。おめえはのん気でいいよな。なんか、大きな騒動が起こりそうになってんだってよ。だからこんなちょー重たい鎧着せられて、俺なんか朝からあっち行けこっち行けって、命令されてばっかなんだぜ。とにかく、そういうこと!」
よっぽど急いでいるらしく、隆浩は肩で息をしながらも走って行ってしまった。
私はしかたなく、いつものところに座った。どうやら私には、何もすることはないみたい。
この建物の中に限っては、今までと何も変わってはいなかったから、ただボーッとして座っていた。
そこへ男の声が、大声で響いた。
「大納言殿、渡らせ給ふ!」
大納言様が来るんだ。あの笛を聞かせてくれた日以来、会うもの何ヶ月ぶりかな。でも今は、こんな屋敷じゅうが大騒ぎしている時だから、ふつうの用事じゃないかもしれない。
今日の大納言様は、いつもと違って真っ黒い着物を着てる。かたちは今までのと同じだから、喪服かなって思う。さっき、外出から帰って来たばかりのようで、たぶん法皇っていう人のお葬式にでも行ってたんだろう。
私が畳からおりて、板の間に座って手をついても、大納言様は廊下から入ってこようとはしない。立ったままで、私に言う。
「とくいそぎせよ。明日には鳥羽の田中殿へぞ移らんずる」
何を急げって?
よくわからないけど、引っ越しかなあ。たしかに大納言様が戻ってから、女たちは急に部屋の中をかたづけはじめたりしていた。
でも、やっぱ私は何をしたらいいのかわからなくて、またボーッとしてた。
なんか、大納言様、鳥羽って言ってたなあ。そこに引越しするのかなあ。また、なんで急に……。
隆浩の言葉が思い出される。やっぱ、騒動が起こるから逃げるってわけ?
「大夫の君、鳥羽っていづこ?」
大夫の君も落ち着かない様子だったけど、とりあえずって感じで私の前に座った。
「鳥羽のアンラクジュウィンにてこそ。法皇は失せさせ給ふるに、われらが行くべきは同じき鳥羽の田中殿にてなむ。そにはシンウィンのおはしますれば。ウディにおはしまする左大臣も、やがて馳せ参り給ひなん。われらもシンウィン、ならびにウディのタイカフデンクァとの縁によりて、今はシンウィンの御元に参り侍らんず。ロクファラのもののふどもも、縁にてすべからく参るべし。殿の御ひと声にて動く輩にて侍れば。さは、若御前もとく、いそぎせさせ給へ」
こんなこみいった話、チンプンカンプン。固有名詞が入ったらお手あげ。でも、なんだか切迫した事態になってるってことだけは、なんとなく伝わってくる。
状況を整理してみよう。
まず、法皇が死んだ。
でも問題はそれだけではないようで、大納言様だけじゃなくて一家そろって、鳥羽というところに引っ越しをしなきゃならないという事態が起こっているらしい。
それに隆浩は、騒動が起こりかけているって言ってた。なんだか本当に、大変なことになるみたい。
気持ちばかりいらだつけど、それでも私は何もすることがない。隆浩に相談したいけど、こんな時に限ってあいつの姿は見えない。
「隆浩!」
庭に向かって呼んでみたけど、返事はない。そのかわり、鎧をつけた他の下人たちがこっちを見るから、こわくなって私は奥に引っ込んだ。
すると夕暮れも近くなってから、庭の方で声がした。
「ミッコ」
隆浩だ。
さいわい大夫の君も他の女たちも、自分の仕度のためにここにはいない。私は簾をあげて、縁側の方に身を乗り出した。
「おい! なんかますます、ただごとじゃねえって感じになってきたぜ!」
「でしょ、でしょ! でも、いったい何が起こるん?」
「もし大きな歴史的事件なら、これに書いてあると思うんだけどな」
隆浩はまた懐から、例の日本史暗記カードを取り出した。
「えっと、どれかなあ」
「今がいつの時代かも分からないのに、分かるの?」
「うるさいなあ、ちょっと待ってろよ」
「もう、じれったい。ちょっと、貸して!」
「おめえが見たって、分かんねえだろ!」
「いいから!」
とにかく私は、自分の目で見なければ気がすまなかった。隆浩は暗記カードを、投げてよこした。その時、速足の足音が建物の中に聞こえてきた。
「いそぎは、終へたるや」
大納言様の声だ。いつもなら来るってことを先に告げる大きな声が響いてから来るのに、今はそれすらなくて突然現れた。
私は慌てて部屋の中に戻って座ろうとした時、ポトンと音がした。しまったと思ったけど遅かった。袖の中に入れたはずの暗記カードが、廊下に落ちて残っていた。しかも私がそれを拾いに行こうする前に、大納言様がそれを拾ってしまった。まさか「見ないで。返して!」なんて言って、ひったくれるわけがない。急に全身が固くなったけど、そのまま両手がついていると、大納言様は暗記カードをめくりながら畳の上に座った。
「こは、何ぞ」
そう言いながらもゆっくりと一枚一枚、大納言様は暗記カードをめくっている。
「こは、これまでありつることどもを、記したるものにてやあらん。ん? んんッ?」
急にひとつのページで、大納言様は目をとめた。
「こは今の年号……。んん?」
その裏をめくった大納言様の表情がたちまちひきつっていくのが、はっきりとわかった。
「若御前、などこれを持ちたる」
「あ、あの、は、はい。あのう、それは……それファ、エー、今までのことや、これからのことを記した文にて……」
「これからのこと? 行く末のことにか。などなれが、こを持ちたる」
見据えられて、ますますからだは固くなってしまう。
「ゆ、有名な事件が書いてあって……エット……」
「やや! 幽冥の文とや!」
大納言様は急にうなりはじめ、また暗記カードに目を落とした。
「文字を横ざまに書きたるも、げにあやしき書きやうかな。まこと、こは、今の年号。さらに、乱とはいかに」
そしてもう一度、裏のページを見てる。
「左大臣の名、げに今の左府殿の御諱、さらにそが敗れてとや……さらに……上皇は流され……左大臣……戦死……」
すっごいマジな表情。全く身動きもしない。
いや、手だけが震えている。それも小刻みに。
なんだか、まずい状況になってきたなあ。私はこれから、どうなるんだろう。
そう思っていると、あとの方のページも大納言様はパラパラとめくっていた。
「こに記されしは、いづれもまことのことなるや?」
その声は、弱々しかった。そして震えていた。
「ま、まことにて……」
すると大納言様は、すくっと立ち上がった。私は心臓が縮みあがって、一瞬息もできなかった。
でも、大納言様はそのまま廊下の方へと歩いていった。そして寝殿の方に向かって、大きな声で叫んでいた。
「侍所の別当、参れ!」
しばらくして、
「おう!」
と、いう大きな声とともに、ドタドタという足音が響いて来た。その足音は廊下の大納言の前でピタッと止まり、歩いてきた人はその場に畏まった。
「田中殿へは参るに及ばず。さらにロクファラに使ひせよ。いかにシンウィンとの縁ありといへども、シンウィン方に参るに及ばず。ただちにウチへ参れと!」
「承りて候ふ」
またドタドタと音を立てて、今来た人は駆けていった。そのまま大納言様も、行ってしまった。一瞬ホッとしたけど、まだ何がどうなったのか、まったく分かっていない。そのあとすぐに、女たちが格子を下ろしに来た。もう、かなり外は薄暗くなっていた。
その晩私は、これからどうなるのかってことが気になって、なかなか眠れなかった。
だってあんなにもあの暗記カードが大納言様に血相を変えさせたんだし、しかも私がそれを持っていたってことになってるんだから。本当の持ち主の隆浩だったら、どういうふうに言いのがれしただろう。
とにかく明日、事態の急変を大夫の君から聞き出して、隆浩に相談するしかない。
どうやら引っ越しは、中止になったみたい。しかもその原因が、どうも隆浩の暗記カードにあるみたいだから、やっぱ気になる。
「大夫の君こそ」
少しだけ落ち着きをとりもどして、大夫の君はやって来た。
「いったい、何ごと? 教へ給へ。何ごとかありつる」
しばらく大夫の君は、目を伏せていた。それが思い切ったように目をあげて、私を見つめて言った。
「若御前を殿の御女と心得てこそ、聞こえさせ侍るなれ。聞けばイチウィンの法皇の失せさせ給ひし夜、シンウィンはやがて参らせ給ひけれど、もののふどもにはばまれて、え見え給はずなりてんとなん。今、シンウィンは田中殿にこそ、おはしますなれ。さればこそ殿は、田中殿へぞ参らんずる。そには、左大臣殿も参り給ひ侍りぬなり」
一応は分かっているふりをして、うなずいて私は聞いていた。
「左大臣殿は関白殿とは御兄弟とはいへども、その仲は早うから悪しうなりてなん。されど、ウディのタイカフデンクァは、次郎君の左大臣殿を早うよりかなしうし給へれば、強き御後見なりかし。今、シンウィン、左大臣殿、さらに宰相左京大夫殿も、もろともに田中殿におはしますらん。殿の失せさせ給ひし御兄人の中御門右大臣の、ありし頃にウディのタイカフデンクァといとねんごろにてありつる縁にて、殿も田中殿へと参り給はんとし侍んめり」
今日はこのおばさん、よくしゃべる。たしかに私の知りたいことには、答えてくれるみたい。
でも、とにかく何が何だか、全く分からない。分からない話に相づちをを打って聞くってのは、ずいぶん忍耐がいる。
「ロクファラの棟梁の安芸守も、その郎党率ゐて田中殿へ参らんとすなり。安芸守の父の後添ひは、シンウィンの一の宮の御乳母たりし人にて侍りしかば」
シンウィン、シンウィンって何度も出てくるけど、シンウィンっていったい誰? もういいかげん、固有名詞はやめてよって感じ。分かんないんだもん! でも、大夫の君の話は、まだ終わりそうもない。今度は目を伏せて話してる。
「されど、殿はにはかに心がはりせさせ給ひて、田中殿には参り給はで、しかのみならず、ロクファラへもウチへ参れと仰せ侍りしとかや。何ごとぞやとは、われこそ聞かめ。何ごとのありつるぞや。あまりににはかなり」
今度は大夫の君の方が、私につめよってくる。もう、何言ってるの? 何言ってるの? 何言ってるの? 聞いてて余計にイライラしてきちゃった。
とにかく、ただごとではないことだけは確か。夜になるのを待って、何とか隆浩をつかまえた。
私は暗記カードを見ての大納言様の様子、引っ越しが中止になったこと、大夫の君の話――内容はわからないけれど、その表情や態度などを隆浩に話した。
隆浩はしばらく、腕を組んで考えてた。
「おい、俺、とんでもないことしちまったのかなあ」
「え? なんで? なんで隆浩が?」
「あの暗記カードを持ってきちまったことだよ」
「何でそれが?」
「だって、あの暗記カードを見て、大納言様の態度が変わったんだろう。そして引っ越しも中止になったなんて」
「うん、そう言われてみれば、確かに」
私は手で格子を押し上げて身を乗り出しているから、ちょっと苦しい体勢。空には半月。隆浩の姿も、満月の時の半分の明るさの中でしか見えない。
「俺、歴史を変えちまったのかもしんねえ」
「え、なんで?」
「今なあ、きっとクーデターが起ころうとしてるんだよ。そんでひとりの人物を、ある側からその敵方へと、心変わりさせちまったんだよ。あの暗記カードが」
「え、なんで、なんでさ!?」
「きっとそうだぜ。そうに違えねえや」
「そういえば、ロクファラがどうのこうのって、あのおばさん、言ってたっけ。そのロクファラのナントカにも、うちへ行けって、大納言様が言ってた」
「うち?」
「正確にはウチ」
「それってもしかして、内裏のことじゃねえか」
「そんで、やたらシンウィン、シンウィンとも言ってた」
「なんだ、それ」
「シンウィンからウチへ行けって、ロクファラには言ったみたい」
「そうか」
隆浩は、ため息をひとつついた。
「内裏と争うのが、そのシンウィンってヤツだ。内裏と争うってことは、天皇を敵にするってことだぜ。つまりそのシンウィンってヤツが、クーデターの張本人ってことだよ。そんで大納言様ははじめはクーデター側だったんだけど、あの暗記カードのせいで、体制側に寝返ったってわけだ。だんだん見えてきた」
「それって、そんでよかったの?」
「まだ、分かんねえよ。それより、何の事件なんだろうなあ。あの暗記カード見て心を変えったってことは、少なくともあのカードに書いてある事件ってことになるよなあ。そんで、自分たちの側が負けるってことを読んで、気を変えたんだろう。えっと、なんだっけ、ほら、シンウィンの他にもうひとつ、なんか言ってたよな、おめえ」
「ロクファラ?」
「そう、それそれ。それって何だろうな。ロクファラ……ロックフェラーじゃねえよな……ロクファラ……ロクハラ……、あっ! 六波羅か」
「何? それ」
「六波羅探題。鎌倉幕府の京都出先機関。じゃあ、このクーデターは、承久の乱か!?」
「なあに、それ?」
「ちょっと、黙ってろよ」
隆浩はまだ腕組みしたまま、じっと考えていた。
「いや、違う! 六波羅探題は、承久の乱のあとに設置されたんだ、確か。て、ことは、後醒醐天皇の鎌倉幕府討伐か? ああ、分かんねえ! 日本史の勉強、まだそこまでいってねえんだよ。ああ、あの暗記カード……。おい、あのカードは?」
「大納言様が、持ってっちゃった」
隆浩は舌を鳴らし、少しうつむいてからすぐに顔をあげた。
「俺たちなあ、歴史を変えちまったんだなあ。だって、俺たちが来なければあのお爺さんも六波羅も、クーデターを起こす側についてたんだろ。それが俺たちのせいでよ、反対側についちまったんだからよ」
「ねえ、それよりさあ」
私はさらに身を乗り出した。苦しい体勢だから、夜なのに汗が出てきた。
「クーデターって、一種の戦争だよね? これから戦争が起こるってことでしょ! だったら、やめさせなきゃ!」
「そんなこと言ったってなあ」
隆浩は目をむいて、私を見た。
「どうやってやめさせるんだよ。だいいちそんなことしたら、ますます歴史を変えてしまうことになんじゃんかよ。そんなだいそれたこと、できっかよ」
「だって、戦争が!」
「いいか、歴史を変えたりしたら、どんな作用が俺たちに及ぶか、考えてみろよ」
「その作用で、現代に戻れるかもしんないじゃん」
「バカ、おめえな、現代にもどっても歴史が変わっていたらな、今までどおりの現代じゃなくなってるかもしんねえんだぜ。それによ、歴史が変わっていたら、今までせっかく覚えた日本史の勉強がパーになっちまうじゃんかよ」
「そんなこと、言ってる時じゃないでしょ! 戦争が始まったら、たくさんの人が死ぬんだよ」
「だっておめえ、死なんて生物学上の一形態だって、今まで言ってたじゃんかよ」
「そりゃ、そうだけど……」
一瞬、口をつぐんでしまったけど、やっぱこのままじゃいけない。
「人が死ぬって分かってんのに、なんにもしないわけにはいかないでしょ! お願い! ねえ、隆浩ォ。協力して! なんとかしてこの戦争、やめさせようよ」
隆浩はしばらく沈黙。下を向いてうなだれてる。
そのうち顔をあげたけど、なんか力ない様子。
「でもなあ、協力するったってなあ、何をどうすりゃいいんだよ」
そう言われたら私も弱い。出るのはため息だけ。でもここで私たちがこうしているうちにも、事態はどんどん戦争に向かって進んでいるはず。
「とにかく!」
「だから、どうしたらいいんだって?」
「一晩、考える。隆浩も考えてよ」
それしか私には、言えることはなかった。
とにかくゴチャゴチャになってる頭を、まずは整理しなきゃなんない。
とりあえずその日は、それで隆浩とは別れた。
2
眠れないままに朝を迎え、格子をあげる人が来る前に縁側に出た。今日も暑くなりそうだけど、今はまだ涼しい空気が肌をさしている。
「隆浩」
小声で呼んでみたら、しばらくして隆浩は眠そうな目で現れた。
「寝てたの? 呼んだの、よくわかったね」
「眠れなくって、ちょうど歩き回ってたんだよ。それより何か、思いついたのか」
「うん。これしかない」
私うなずいて、縁側にしゃがみこんだ。
「あのさあ、シンウィンってのが、クーデターを起こそうとしてるんだよね。そうでしょ」
「ああ、たぶんな」
「そんでもって、大納言様がシンウィンを裏切って、天皇の方につくことになったってのが、今の状況だよね」
「ああ、あのカードのせいでな」
「ねえ、クーデターってさあ、起こす前は秘密にしておくよね。ばれたらやめるよね」
「さあ、それはどうかなあ」
「だって大納言様が天皇の方に行ったら、クーデター計画が相手にばれるってことになるじゃない。そうしたら、クーデターを中止にするんじゃない?」
「でもなあ、大納言様の方だって、裏切ることを秘密にしてりゃあ」
「そこ、そこ」
私は立ち上がった。
「知らせてやればいいじゃない、シンウィンの方に。大納言様が裏切りました。あなたたちのクーデター計画は、天皇側につつぬけです。だからクーデターを中止して下さいって、手紙を書けば」
「そんなの、信用するかあ?」
「だって大納言様がカードを見て心変わりしたってことは、少なくともあのカードにはシンウィンの方が負けるって書いてあったことになるじゃない。そのことも書いてあげれば」
「それはダメ! もう、あのカードは使いたくない。だいいちもう、カードが手元にないじゃないかよ」
「あ、そっか。じゃあ、裏切りのことだけでも」
「でも、どうやって届けんだよ、その手紙」
私はあごで、隆浩を示した。
「冗談! 俺、やだよ。これ以上自分の手で歴史を変えるの、絶対にいやだ!」
「たくさんの人の命が、かかってるんだよ!」
なんだかもう、イライラしてくる!
「もう、いい! 他の下人にいいつけるから。ケラオ!」
私が庭に向かって叫ぼうとすると、隆浩があわてて両手を振った。
「分かった分かった。分かったからちょっと待て。他のやつに頼むくらいなら、俺が行くよ」
そこでそれまで眉をしかめていた顔を、私はパッと笑顔にした。
「そうこなきゃ。頼むね」
「で、手紙は?」
「これから」
「おめえ、書けんのかよ」
そう言われば、自信がない。そこで一度部屋に戻って、硯箱を持ってきた。紙は見当たらなかったから、しかたなく硯箱のふたをとってひっくりかえした。
「ここに書くしかないね。隆浩、書いて」
「やっぱ、結局俺かよ。で、なんて書くんだ?」
「さっき、私が言ったようなこと」
舌を鳴らして、隆浩は筆をとった。
――民部卿大納言、うちへ行く。謀反のこと皆知る。謀反中止願ふ。大納言民部卿女――
「これでいいか?」
隆浩がそれを、私に見せた。
「女ってなにさ」
「バカ、むすめって読むんだよ。じゃ、みんなが起きる前に行って来っからよ」
「場所、知ってんの?」
「鳥羽の田中殿だよ。使いで何度も行かされてるから」
「鳥羽って、三重県の?」
「バカ、京の南。すぐんとこだよ。昼前には着けると思うよ」
「お願いね。たくさんの人の命がかかってるから!」
隆浩の姿は、そのまま朝もやの中に消えた。
その日は、何ごともなく暮れた。
広い屋敷のひと部屋に籠っていると、まるで世の中には何も起こってはいないかのようにも感じられてしまうほどの静けさだった。
私も今までと何ら変わりなく、虫を観察しながら過ごしてた。
それでも、気持ちは落ち着かない。それどころか、高ぶってさえいる。
現代では私たちはやっと選挙権があたえられたっていっても、国会で政治家たちがああでもないこうでもないと言い合っているのは自分とは関係ない世界と思ってる。
でも今は、そんな私たちが、世の中を動かそうとしてるんだ。
とうとうその日は、夜になっても隆浩は姿を見せなかった。
大納言様も帰ってきていないみたい。
そして次の日、夕方も近くなってから、慌ただしく大納言様が、私がいる建物に来た。なんと大納言様まで、鎧を着けている。こんな偉い人までが鎧を着るなんて、よっぽどの一大事なんだ。
結局、クーデターは中止にはできなかったのかなあ。隆浩はいったい、どこで何してるんだろう。
大納言様は今帰ってきたばかりみたいで、かなり慌てている様子だった。
「シンウィンも左府殿も、昨夜白河北殿に遷らせ給ひぬ。まろもしばしは、内裏となりたる高松殿に参らうずるぞ。これもいと危ふく思はるるに、とく六波羅に渡り給へ。六波羅はすでに内裏へ馳せ参じ、上へぞ合力しにける。なれもとく」
立ったまま早口でそれだけ言うと、大納言様は行ってしまった。あんなに優しく笛を吹いてくれた大納言様とはまるで別人みたい。
「仰せのまにまに」
大夫の君も、そう言ってうなずいている。
それからというもの、今度はほんとうに引っ越しの準備が始まった。
と、いってもやはり私は、何もすることはない。どうやら今度は、六波羅というところに連れていかれるみたい。隆浩は、まだ戻っては来ない。
そして日が沈む直前には、私はすでに車に乗せられてた。
車には、大夫の君がいっしょに乗っている。私が右側、大夫の君が左側で向かい合って座っていた。
久しぶりに出る屋敷の外。でも今は、見物なんかしているような心の余裕はない。町の人たちも、何かがはじまりかけているってことは分かってるみたいで、荷物を背負って逃げていく姿も多い。
車はすぐに、大きな川沿いの道に出た。そのまま川に沿って、下流の方へと進む。
六波羅ってどこにあるんだろう。遠いのかなあ。
そんなことを考えていると、急に車は停まった。
見ると、鎧を着た人たちがたくさん、この車を囲んでいる。
すっごい鎧! 五月人形みたいな、大きな兜をかぶった人もいる。
こちらの車についていたお供の、やはり鎧を着たさむらいたちが車を守るようにして向かい合って立って、大声で叫びはじめた。
「こを民部卿大納言殿の御女の御車と知りての狼籍なるや!」
「おうよ! われらは左大臣の手のもの。憎き大納言めの娘、捕らへて参れとのわれらが御主の仰せにて、推参仕まつるなり。いで、おり給へ」
さむらいよりも、車の中の私たちに向かって吠えてるみたい。大夫の君なんかは震えあがっちゃって、一所懸命お経なんか唱えてる。
「いかに左府殿の御家の子といへども、下郎どもが手に渡せらるる御身かは」
左府殿ってたしか、シンウィン側の人。て、ことは、クーデターを中止するどころか、私を人質にして裏切った大納言様をこらしめるつもり? やり方が、汚い!
一瞬そう思っているうちに、車の外ではチャンバラが始まってた。これ、ほんとうにやってんだ!
怒鳴りあいの大声と金属音が響いて、車の中にまで血しぶきが飛んでくる。すぐそばで、人が殺されてる! 殺人事件が起こってる!
なんだか私、恐怖感を通り越しちゃって、全身が硬くなって動けなくなった。頭の中も、真っ白。大夫の君だけが悲鳴をあげて、背を丸めて震えてた。
そのうち、車が揺れはじめた。敵のさむらいたちがあざ笑う声も聞こえる。
この頃になってやっと私、恐いって実感しはじめた。からだ全体が勝手に震えだし、いつまでもとまらない。
「やめてーッ!」
何かを突き破るように激しく悲鳴をあげた私は、大夫の君とひたすら抱きあっていた。
その時、牛が放された。
尻を叩かれた牛は、一目散に駆けていく。
牛がいなくなった分だけ支えを失って、車は大きく前へと傾いた。私と大夫の君は、地面の上にまっさかさま。大夫の君は、あわてて自分の顔を袖で隠す。
すっかり敵に囲まれているけど、私はひらき直って顔も隠さず、敵のさむらいを見上げてにらみつけてやった。
「おう、音に聞きし虫めづる姫君は、ここにおはしますにや。げに化粧もせで眉もぬかず、歯も白きままなり」
兜をかぶった男が叫びたてると、みんな血のついた刀をぶらさげたまま、一斉に大声をあげて笑った。味方はっていうと、十人くらいいたはずなのに、あっちこっちに倒れてる。げ! まじ!? 死んでる! やばい! ガチ殺人事件!
「待てーッ!」
その時、遠くで叫び声があがって、駆け足がものすごい勢いで近づいてきた。
「隆浩ーッ!」
「ミッコーッ! 大丈夫かあ!」
この時ほど、隆浩が男として頼もしく見えたことはなかった。
ぼろぼろの服に鎧をつけて、顔も泥だらけ。そんな隆浩が、槍を振り回しながら走ってくる。
かっこいい!
「何者ぞ。まだこりぬ輩やある」
さむらいたちはその刀を、一斉に隆浩に向ける。肩で息をしながらも、隆浩は槍を構えてさむらいたちをにらんでいた。
「何者ぞ。名乗れ、名乗れ!」
「大納言家の下人よ。武蔵の国の住人、佐々木次郎隆浩、見参!」
かっこいいのはそこまでだった。隆浩はまだ槍を振り回し続けている。ただメチャクチャに振り回してるだけで、当たるはずがない。
もう、見てらんない! かえってひやひやしちゃう。
「ばか、槍って突くんだよ! 突くの!」
思わず私が叫ぶと、隆浩はその体勢になって、一人を突いた。
でも槍は鎧の胴に当たって、突き刺さらない。その槍は、相手の刀で斬り落とされた。また一斉に笑い声があがる。
みんな、刀を下げてしまってさえいるじゃない。隆浩はたちまち、何人かにねじ伏せられた。
「下郎の首ひとつとらんも、益なきことのやうにはあれど、御主への手持ちにこそせめ」
刀が振り上げられた。
隆浩の首がはねられる。
隆浩が殺される!
私は思わず、目をギュッと閉じていた。
何が起こったのか、はじめはよく分からなかった。目をあけると、隆浩の首めがけて刀を振り上げていた人の頭に、一本の矢が刺さっていた。
「待てーッ!」
また遠くで、別の人の叫び声が上がった。
今度は馬が走る音が響いてきた。そして鎧を着た若武者が、馬の上で刀を振りかざしながら飛び込んでくる。
私たちを取り囲んでいたさむらいを、バッタバッタとなぎ倒す。
こういうのが、ほんとうの「かっこいい」っていうんだ!
そのうち若武者は私をすくいあげて馬の前にのせ、隆浩に向かって叫んだ。
「ついてまゐれ!」
「あッ、あんたは!」
若武者の顔を見て隆浩は叫んでいたが、若武者は微笑さえ浮かべていた。
「とく!」
そのまま馬は、速歩で走りだした。隆浩は必死になって、走って追いかけてきている。
「大夫の君は? 大夫の君はどうなるのさ!」
私は夢中で叫んだけど現代語だったから分からなかったみたいで、若武者はそれを全く無視して、馬を走らせていた。
もうすっかり薄暗くなった頃に、川を渡った。都を背にして、山の方に向かっていく。
馬だから橋もないところを、水しぶきをあげて渡る。
そして、目の前にある山が、はじめてこの時代に来た時に登った山だと気づく。
左前方には、大寺のいくつもの屋根が見える。そしてあの巨大な八角形の九重塔が、山にも負けないくらいに高くそびえて、夕陽を受けて赤く染まっていた。
川を渡りきった時、右手にもすごい数の灯りが灯されているのが見えた。
大きなお屋敷があるみたい。若武者は言った。
「あれなん、六波羅にて侍る」
「いづれかの大臣などのお屋敷にて?」
私は、そう尋ねてみた。
「いな。主はいまだ安芸守にして、すなはち遙任国司にて侍る」
よく分からないけれど、そう身分は高くない人みたい。それがあんな大きなお屋敷に住んでるってことは、よっぽど勢力のある人なんだろうなって思う。
大納言様のお屋敷より、ずっと大きいよ。
で、大納言様はその六波羅へ行けって、私に言ったんだ。それで途中でクーデター側に襲われて、この人が助けてくれた――助けてくれたってことは味方なんだろうから、きっとこれからあの六波羅に連れていってくれるんだ。
そう思っていたけど、馬はどんどん山の中に入っていく。隆浩もなんとかついてきてはいるけど……。
「ちょっと、待って! どこへ連れていく気!?」
私は思わず現代語で叫んでだ。
「悪しき心には侍らず。ただ心安く、おはしませ」
心安く――安心しろって言ったって、森の中はもう暗いのに。
隆浩もへんだと思ったらしく、馬の前まで出て両手を広げて立った。
「やや、待ち給へ! わどのはさいつ頃、姫に蛇をおくりし公達にてやあらん」
「え? なんですって?」
私は首をひねって、後ろの男を見た。
イケメン!。鼻筋がとおってる。
こんな顔、この時代に来てからは、見たことがなかった。
でもこれが、あの蛇のおもちゃでいたずらしてきたストーカー変態男――右馬佐?
「ちょっと、おろして!」
私はあばれた。右馬佐は馬をとめて、丁寧に私をおろしてくれた。
わりと紳士的だったけど、でも私は逆上している。
「あんたね、あの変態は! 今度は人の不幸にかこつけてこんな山の中に連れてきて、そんでへんなことしようってんでしょ!」
私は立ったまま、右馬佐をにらみつけた。
空には半月よりだいぶふくらんで満月に近くなった月が出ていたので、その顔もよく見えた。
なんと笑顔のまま右馬佐は、馬を木につないで戻ってきた。
「さにあらず。ゐさせ給へ」
座れって?
しかたなく近くの倒れている木の幹に、腰をおろした。右馬佐も座った。
「さやうなる心もちならば、など隆浩殿をも率て来つるや」
それはそうかも……
えっ? なんかこの人、まるで私が感情まかせに言った現代語を理解してるみたい。
しかも今たしかに、隆浩って言ったよねえ。
私と隆浩は、思わず顔を見あわせていた。
隆浩が、口をひらいた。
「何ひとにておはしまするや。大納言殿の御身内なるや。あるひは六波羅の手の者にてか」
右馬佐は黙って、首を横に振っていた。
「隆浩殿。首尾はいかがなり侍りしや」
もう私、呆気にとられていたので、しばらくは何も言えなかった。
やがて隆浩は、ゆっくりと話しはじめた。
「田中殿にては、皆人われを大納言殿の家人と知りたれば、たやすく門の中に入れたれど、箱のふたの裏の文を案内のものが見るままに、すなはち顔色変はりぬ。やがてわれは牢に押し込められ、そのうち多くの車や人々が、門を出でにしを見き。今日になりてやうやく逃げ出てて戻るに、姫の車の出でおはしませれば、ただあとをつけていきを(ウォ)りたるに……」
隆浩ったら、ずいぶん流暢にしゃべれるようになったじゃない。本物のこの時代の人の言葉とはちょっと違うような気もするけど。それにしてもとにかくそういうことだったんだ。
でもせっかく知らせてあげたのに、なんで隆浩を牢屋に?
私は、右馬佐を見た。右馬佐は言った。
「戦さやめさせてんずる心の、なかなか火に油をこそ注ぎたんめれ。謀反の相手に知らるればつとにことを起こさんとての、シンウィンや左大臣の、鳥羽田中殿より白河北殿への御遷りとぞ覚ゆる」
「ああ」
私は頭を抱え込みたい気分だった。
私のしたことがかえって火に油を注いだなんて。戦争をやめさせようと思ってしたことが、結局は戦争をやめさせるどころか、戦争がはじまるきっかけを作ってしまったんだ。
「だから、歴史を変えちゃいけないって言っただろ」
隆浩が食ってかかってくる。
私はただくちびるをかみしめて、泣きだしそうになるのを必死でこらえていた。なんだかとりかえしのつかないことを私はしでかしてしまったみたいで、いたたまれない気持ちになってしまった。
こんな私に対して、隆浩も悪いと思ったのか、急に優しくなった。
「なあ、ミッコ、見てみろよ。今日も星がきれいだぜ」
隆浩にしては、歯が浮くようなセリフ。
でも今日は、なぜか心にしみる。見上げると、たしかにきれいな星空。月のある分だけ星は少ないけど、それでも満天の星といえる。天の川もくっきり。
そしてその夜空の一角にはあの無気味な彗星がまだあって、白く長い尾をひいていた。この前見た時よりも、はっきり見えるくらい。
隆浩が立ち上がった。そして町が見える崖の上まで歩いていく。私もすぐに立って、その隣まで行った。
二人並んで、夜の都を見下ろした。
この時代には、夜景ってものが存在しないみたい。都は暗闇の底にある。これだけ大きな都市なのに、夜は全く明かりもない。
「なあ、ミッコ」
いつのまにか隆浩ったら、私の肩なんか抱いてる。図々しいと思ったけど、なぜかそのままそうしていてほしいと思った自分が、不思議にも思えてくる。
「俺、今日、死ぬって思ったよ。自分めがけて刀が振り上げられた時、現代には帰れないでここで死ぬのかって思ったんだよ。でも、まだ生きてるんだよな。これから、どうなるんだろうな」
私の肩にまわされた隆浩の手が、肩から少しはみ出していたので、私はそれを握っていた。
「ねえ、隆浩。現代に帰ることができたら、最初に何がしたい?」
「そうだなあ、音楽が聞きてえな。CD聞きまくりたいよ。ミッコは?」
「友達に会いたい。お風呂に入りたい。あといろいろ」
言っているうちに、目がうるんできちゃった。隆浩も黙ってる。男だから言わないだろうけど、きっとおんなじなんだ。
「俺たち、現代に帰れるのかなあ」
私は、鼻をしゃくりあげた、もう何もものを言うことはできそうにもなかった。
隆浩の手を握った自分の手に、黙って力を入れた。
そのまま二人は、しばらくそうしていた。
自分のすぐ隣からも、同じような鼻をすする音が聞こえた。私の手を握る力が、強くなっていた。
うるんだ目で、もう一度町を見てから。右の方の手前の一角にだけ、煌々と明かりがともっている屋敷があるのに、このとき私ははじめて気がついた。
そして、川の向こうにも、ぼんやりと明かりがともっている屋敷が見える。
いつの間にか私たちのうしろに、右馬佐が来て立っていた。
「あの手前なるはシンウィンの御所の白河殿。川の向かふが、上の内裏の高松殿にて侍り」
右馬佐は、そう説明してくれる。
本当なら真っ暗なはずの夜の都の底に、今は二つだけ明かりがともっている所がある。それが、これから戦争をはじめようとしている、二つの存在の明かりなのだ。
なんだか私またやりきれなくなって、その場に泣いてしゃがみこんでしまった。
「今夜はここにて、大殿籠らせよ」
右馬佐は言った。
「え? ここで?」
ここで休めってことは野宿……だよね。夏だから寒くはないけど……。
「まろは眠らずて、賊や獣などより護りせんほどに」
右馬佐の言葉に続いて、隆浩も叫んだ。
「俺も! 俺も寝ないで見張ってるから!」
でも、その目は半分寝てるくせに。
私は右馬佐に言った。
「でも……われ、そこもとのことを聞かまほしく覚ゆるに、今まだしばしは。こたび助けくれたること、さらにはかの蛇のことなども」
右馬佐は少しだけ、さわやかに笑った。
「そは明日にでも。仔細あることなれば」
何よ、もったいぶって、とも思ったけど、やっぱ私も眠たくなっていた。
言うとおりにして木に寄りかかっていると、いつの間にか眠ってしまっていた。
どれくらい眠ったのかなあ。隆浩に叩き起こされた。まだ周りは暗いのに。
でも、空はなんとなく明るくなりかけているような気もする。朝も近いのかなあ?
「ミッコ、たいへんだ! あれ、見てみろ!」
眠い目をこすって隆浩が指さす方角を見ると、――火事!
しかも、川の手前の右側の、明かりがともっていたお屋敷。それだけでなくって人々の騒ぎ声、武士が名乗りを上げる声、馬の蹄の音なんかが微かに聞こえる。
「戦争が始まった!」
私は思わず叫んでいた。もう寝気もふっとんでいた。お屋敷は炎をあげて燃えている。その照明で、武士たちが戦っている様子もよく見える。
「夜討ちなり。内裏の兵の、白河殿へ夜討ちをかけたるならん」
右馬佐も背後に立っていた。まだ空は暗い。こんな真夜中に戦争がはじまるなんて思ってもみなかったし。隆浩なんかただ口をあけてポカンとしてる。
「ちょっと! たいへん! 隆浩、行こう!」
「行って何すんだよ!」
「私のせいではじまった戦争なんだから、黙って見ているわけにはいかないでしょう!」
「おめえなんか行ったって、なんになるってんだよ! 死ぬぞ!」
それでも私、山を駆け下りて町の方に駆けて行こうとした。その私の着物を、右馬佐が慌ててつかんだ。
「待ちなさい! 行っちゃだめだ!」
「だって……はなして!」
「隆浩君の言うとおり、君が行ったからってどうにもなることじゃあない。これは歴史なんだから」
それでも私、なんとか右馬佐の手を振り払おうとした。その時……
「え! ええっ!」
私は大声をあげてた。
「あ、あなた、なんで……?」
右馬佐は驚く私と隆浩の顔を見て、ゆっくりとうなずいた。
「小島美千子さん、それから佐々木隆浩君。君たちに大事な話があるんだ。朝になってからと思っていたけど、君たちは目を覚ましてしまったことだし、それにもうすぐ夜も明ける。今言っておかないと、これから戦争が大きくなったら君たちは何をしでかすかわからない。生命も危なくなる。早く本当のことを知っておいた方がいい」
もう私も隆浩も、言葉も出ないという感じだった。やっと私が先に、口を開いた。
「あなたももしかして、タイムスリップして……?」
「いや、そうじゃあない」
「そうじゃないって……」
「まあ、座って」
右馬佐は妙に落ち着いている。そのまま私たちを、草の上に座らせた。その頃にはもう、少しずつ夜の闇の中に、明るさがもたらされていた。
3
ほのかに朝の光が森を包み、小鳥の声が響きわたる。
人間たちが戦争をしていようとも、生物界はおかまいなし。
自然はきちんとさわやかな朝をもたらしてくれる。
「あなたも、現代人?」
私の問いかけに、右馬佐は静かに首を横に振った。
「いや、違う」
「違うって……。じゃあ、なんで現代の言葉なんか」
「私は君たちの二十一世紀よりも約千年後の三十世紀、つまり君たちの時代から見ても未来ってことになる時代から来たんだ」
「千年後の時代?」
私たちが驚いていると右馬佐は、懐からなんかキャッシュカードのようなのを取り出した。
「時際救助隊隊員証」
と、それには書かれてあった。そしてその漢字の下には、見たこともない文字。なんだか韓国のハングルみたいな気もするけど、でもちょっと違う。
「この文字は神代文字の一種で、天日流文字っていうんだ」
「あひるって、あの鳥の?」
隆浩が口をはさむと、右馬佐は少し笑った。
「そのあひるじゃない。それとはぜんぜん関係ないんだ。神代文字っていうのは超太古の日本で使われていた文字で、私の時代にはそれが復活しているんだよ。君たちの時代の人は、知らないだろうけどね。われわれの時代では、人類の本当の歴史が分かっているから」
「じゃあ、俺たちが学校で習った日本史や世界史は、みんな嘘だったってこと?」
「いや、嘘ってわけじゃあじゃあないんだけど、君たちが習った歴史っていうのは、本当の歴史からいえば近代史ってことになるかな。いや、現代史かもしれない」
「繩文時代とかが?」
「ああ、そんなの現代だよ。その前が長いんだ」
「だって」
そこで私が、口をはさんだ。日本史や世界史は専門外だけど、その前ってことになったら、生物学の領域だものね。
「その前って、文明の歴史なんてないんじゃないの? 生物の進化の過程だけでしょ、あるのは」
右馬佐はまた含み笑いをした。
「そのへんになると、嘘の歴史といわなければならないね。それがいわゆる、歴史迷信ってやつだ。いいかい、君たちの時代には進化論というものがあったということは知っているけど、われわれの時代ではとうに昔話さ。君たちの時代でも進化論というのは、実は一仮説にすぎないんだよ。それを金科玉条のようにして学校で教えているのは、君たちのいる日本だけだ。地球創生以来、地球上に人類がいなかった時代はなかった。人間は決してアメーバやサルが進化したものではない。そのことが時代がたつにつれて、だんだんと解明されていくよ」
「そんな、バカな!」
生物学をかじる私としては、納得がいかない。もっとつっこんで議論がしたい。でもこの人が未来から来たっていうのが本当なら、もしかしたら勝目はないかも……。
ソ・レ・ヨ・リ・モ!
大事な話って、何?
まさかこんな差し迫った状況で、人類史の話なんかするためにこの人は私たちを呼びとめたの?
そう思った私は、右馬佐をじっと見て言った。
「ところで、大事な話って何ですか」
「そうそう、話って?」
隆浩も、相槌を打つ。さらに私は言った。
「その前に、だいいち、あなたは何? よくSF小説とかに出てくる。タイムパトロールとかいうやつ? 時間密航者をつかまえたりする……。でも私たち、ここに来たのは偶然のアクシデントですからね」
「大丈夫。私はそんなんじゃあないから」
右馬佐は笑いながらそう言って、私たちにまたあのカードを見せた。
「救助隊ってなっているだろ。だからパトロールというよりもレスキューだ。アクシデントでタイムスリップした人を、救助するのが任務だよ」
「えっ?」
声を発したのは、私も隆浩も同時だった。私たちはすぐに、顔を見合わせた。
「じゃあ、私たちを、平成の時代に戻してくれるの?」
「ああ。それが仕事だからね」
「やったーっ!」
思わず、隆浩と手をとりあっていた私。
「で、どうやって? タイムマシンかなんかで?」
「そんなのは君たちの時代の人の、空想の産物だよ。物質の機械なんかで、時間をくぐれるはずがない」
「じゃあ、どうやって」
「今から、言霊をかけるから」
「コトタマ?」
「ま、呪文というか詠唱のようなものだね」
「えー、ちょっとォ!」
なんか、ウソ臭いなあ。
「詠唱なんかで時間旅行があ? アニメじゃあるまいし。あなた、本当に未来の人? なんか言ってることが古くさいっていうか、厨二入ってるっていうか」
「それな。言霊って、古代人が信じていた信仰の一形態だろ」
「そうよ。機械の方がよっぽど科学的で、合理的じゃない」
右馬佐は、また笑った。
「れわれの時代は。君たちの時代のような物質文明じゃないんだ。だから君たちには、理解してはもらえないかもしれないけどね」
「あのう、ひとつ聞いてもいいですか」
隆浩が、口をはさむ。
「俺たち、ここで歴史を変えちゃったんすけど、平成に戻ってから世の中はどうなってるんですか。全く違う時代になってるなんてこと、ないですか。これからこの国は、俺たちの知っている歴史とは違う歩みをするんでしょ」
「それは心配ない」
やけに自信たっぷりに言ってから、右馬佐は私を見た。
「小島さん。君はさっき、ここに来たのは偶然のアクシデントだって言ったよね」
「はい」
「実は、それは違うんだ。すべては必然ってこと。世の中の一切は必然であって、偶然なんてものは存在しない。歴史に『もしも』はあり得ないっていうのは、そういうことなんだ。だから、君たちは来るべくしてこの時代に来た。すべてが必然であって、偶然なんてものが入りこむ余地は寸分もなかったってことだ。むしろ君たちがここに来なかったら、逆に歴史は変わってしまっただろうね。もっとも『来なかったら』なんていう仮定も、本来あり得ないんだけど」
「じゃあ、あなたに助けられるのも?」
「そう。タイムスリップというのは宇宙意志、あるいはある絶対的なものの仕組みによって起こるんだ。だが必然を果たし終えたあとは、必ずそこで死ぬ。なぜならこの時代には、君たちの過去世の魂が存在しているからね。同時代に二つの同じ魂は、存在し得ない。だから死ぬ。しかもただ肉体が死ぬだけじゃなくって、魂すら抹消されて宇宙の原質に還されてしまう。現に君たちは昨日、殺されかけただろう」
「でも殺されずにすんだのは、偶然あなたが助けてくれたからじゃあないんですかあ?」
「いや、世の中一切必然あって偶然なし。君たちの魂はまだ、平成の時代で必要とされているんだよ。私もある仲間の指令を受けてね、君たちがここへ来てからずっと見張ってたんだ。私のことを印象づけようとして、あの蛇のびっくり袋を贈ったりもしたんだよ」
「あ、それで……」
少しだけ納得がいった感じ。いたずらじゃなかったんだ。一瞬うつむいたあと、すぐに私は顔をあげた。
「私も聞いて、いいですか」
「どうぞ」
「これから……て、いうか、平成の時代のあとは、どんな時代になっていくんですかあ」
「それは、ちょっと……。実は、過去の人に未来を教えることは、許されていないんだ」
「あ、じゃあ、質問を変えます。なんで、あなたたちは、自由に時間を移動できるんですかあ。呪文で、なんてダメ。もっと科学的、合理的に説明して下さい」
右馬佐は少し考えてから、目をあげた。
「これくらいは、言ってもいいかな。君たちの時代の科学は、まだまだ三次元界の物質科学から脱け出ていない。でもそんなものはわれわれに言わせれば、仮という字を書く仮学なんだよ。それで科学万能とうぬぼれているなんて、科学迷信もいいところだ。幼児にカミソリを持たせているようなもので、危ないったりゃありゃしない。で、人類は二十一世紀を過ぎればようやく四次元界、エクトプラズマの世界にまでたどり着くことになる。君たちは素粒子のことは知っているだろう」
話がこうなってくると、文系の隆浩の方はお手あげのようで私を見てる。
「はい」
私は力強く返事をした。
「分子、原子、原子核、そして中間子や陽子、中性子、電子などの素粒子。これらは君たちも知っているね」
「はい」
またもや返事をしたのは、私だけだった。
「二十一世紀になると、もっと細かい幽子科学時代に、人類は突入するよ。さっき言ったエクトプラズマの四次元科学だ。でもね、われわれの時代、つまり三十世紀ではもっともっと細かい、極微の玄子、さらに極微の幻子の世界、これらを霊子っていうんだけど、そういった五次元以上の科学界に到達しているんだよ。そしてその極微の玄子、幻子の世界にこそ宇宙意志の智・情・意が充満する世界、実相の世界なんだ。ひとことでいえば、極微実相玄幻子界ってことになる」
私はただ、口をあけて聞いていた。
昔の人の話も分からなくて苦労したけど、未来の人の話も、やっぱり同じように分からない。
それを見て右馬佐は、声をあげて笑った。
「話が難しかったかな」
「あのう」
また隆浩が、口をはさむ。
「時間旅行の話は、どうなったんですか」
隆浩がぶっきらぼうに言っても、右馬佐は微笑んでいた。
「その極微実相玄幻子界ともなると、もはや七次元の世界なんだ。そして宇宙のはじまりは、その七次元界で始まったんだよ。その時はじめて出現したのが時間、空間、火、水という宇宙の四大源力でね。そのあと次々に七次元、六次元と出現していったんだ。そして最後にそれらが物質化されたのが三次元界なんだよ。だから物質としての時間や空間や火や水があるのは、この三次元界だけ。四次元界はエクトプラズマの世界だから、物質としての時間や空間は存在しない。われわれの科学はとうに五次元以上に達しているから、四次元界の解明はとっくの昔に終わっている。だから自由に自らを幽体化、エクトプラズマ化させることもできる。エクトプラズマの世界は、物質としての時間はない世界なんだから、三次元の時間移動なんて簡単にできるってことなんだよ。ただし、自分の意志でではできないよ。勝手に時間移動したら、魂の抹消が待っているからね。私のように許されたタイムレスキューだけが、必然としてタイムスリップした人を、必然として救助するために許されているだけだ」
「分かんない!」
思わず私、また叫んでしまった。
もう、頭の中がパニック! 何が何だか分からない!
でも、右馬佐ったらまた笑ってる。
「君たちの時代の人に、これ以上言っても分からなくて当然だね。少なくとも二十一世紀になって、すべての人類が利他愛で生きる想念になってからじゃないとね」
「そんなあ」
茶化したような、隆浩の声。
「人類が全部、その、なんだっけ、リタアイ?」
「他人の幸福だけを、念じて生きる想念」
「そんなの無理っすよ。今の世の中は犯罪や殺し合い、戦争、憎しみ、利己主義、そんなのでいっぱいじゃないですか。それが俺たちの二十一世紀ですよ」
右馬佐はまた何かを考えてから、私たちを見た。
「これもたぶん、言ってもかまわないだろう。実は君たちの時代の人類全部が、利他愛の、そしてエクトプラズマ幽子科学時代に突入する時代を迎えられるってわけじゃないんだ」
「え?」
私は叫んでしまったから、隆浩を見た。隆浩もマジな表情で、黙って右馬佐の顔を見ていた。
「なんで、なんで!」
「地球が大掃除されるってことだよ」
「それって、地球の浄化?」
「のみこみが、早いね」
右馬佐はしゃべり続ける。
「だから二十一世紀は二十一聖紀となる。『せい』は、君たちの時代でいえば松田聖子の『聖』」
「でも、なんでそんな字を?」
「二十一聖紀はそれまでの物主文明じゃなくって、霊主文明の時代になるからさ。二十一聖紀から、地球はいよいよ宇宙始まって以来の大進化を遂げて、地球全体が一気に五次元界に次元上昇、アセンションする。人の体も、半霊半物質になる。これが大宇宙の宇宙創世以来の大シナリオ、大プログラムなんだ」
普通に学校に行っている時にこんな話聞いたら、宗教の勧誘かって鼻にもかけなかっただろうけど、今こうしてSFの中だけのことと思っていたタイムスリップがリアルに起こっているわけだし、それを思ったら右馬佐の言うこともありかな?
でもまだ、頭の中の整理がついていない。
「それで君たちには新真二十一聖紀の、霊主文明を建設していく使命がある。二十一聖紀の種人とならなくちゃいけない。そういった霊的に覚醒した人が一万人いれば、地球を救えるんだ。ただ、それは君たちの精進次第だけどね」
「え? それは俺たちがその精進とかいうのをやるかやらないかにかかっているんですかあ? 遣るかやらないかに関係なく、一切が必然だってさっき言ったじゃないですか」
「必然なのは天命と宿命でねえ、運命っていうのは自分で切り開いていくものなんだよ。それも選ぶことによってね。でも天命と宿命の範囲は越えられないから、だから一切が必然なのであって、君たちもその宿命によってこの時代に来て、そして霊主文明建設の種人として魂霊の修錬を積んだんだ」
「え? 私たち、何かしたっけ?」
隆浩と顔を合わせて見る。隆浩も首をかしげていた。
「苦しみ悩むことで、過去世の罪穢も少しだけ消えた。それよりも何より君たちは、ほんとうの愛を学んだじゃないか。その心を広く人類愛にまで広げていくのが、これからの精進だ。それをするかしないかどちらを選ぶかによって、運命は変わってしまうぞ」
「俺たち、愛なんて学んだっけ?」
今度は隆浩が私を見て、ぽつんと言う。
「さあ」
私は首をかしげただけだった。あたりはもう、すっかり明るくなっていた。
町の方ではまだ、戦争の声や音が響いている。
「浄化のための苦しみを乗り越えて、やがて輝かしい聖紀の朝が来よう」――なんかのアニメでそんな台詞があったような気がするけど、それを思い出した私は右馬佐の言うこと、何だかすべて素直に受け入れられる気がしてきた。
「さあ、そろそろ君たちが平成の時代に帰る時が来たよ」
右馬佐が言う。
「あのう……」
まだ何か、隆浩は言おうとしてる。
「ここへ来てから三ヶ月たってるんですけど、やっぱあのショーから三ヶ月たったあとに戻るんですか」
「どうして? ショーから三ヶ月後っていうのは、君たちにとっては未来じゃないか。どうして未来に戻さなきゃならないのかな? ちゃんと君たちにとっての、現在に戻してあげるよ。しかもあの時の格好のままでね」
「ほんとうに呪文なんかで、帰れるんですね」
しつこいと思われるかもしれないけど、私はもう一度念をおした。
「ああ。この宇宙ができた時も、宇宙意志がその思念を凝集することによってできたんだ。決して機械で造ったわけじゃない。その思念には想念っていうのものすごいパワー、つまりエネルギーがこめられているんだよ。思念が凝集すると大波調の響きともなって、必ず物質化する。そしてそれがさらに強く発せられるのが言葉、すなわち言霊なんだ」
ここまで言われたら、だまされたと思って任せるしかない。
「では、始めるよ」
右馬佐が言う。
「あ、待って」
私は立ち上がった。そして、もう一度町の方を見た。戦争が規模が大きくなっていて、川の河川敷を中心に戦いは繰り広げられているみたい。
その向こうには平安京が、遠くの山の麓まで広がっているのがようやく見えてきた。
その中に大納言様はいる。大夫の君もいる。みんなこれからどうなるんだろう。
そう思うとなんだか胸の中に、熱いものがこみ上げてきてしまった。別れるのがつらい。
ここへ来てからの三ヶ月間、あの人たちのお蔭で飢え死にもせずに生きてこられた。
感謝の思いがじわっとわいて、目頭が熱くなる。
最初に見つけてくれた、あのお婆さんの尼さんにも……。
大納言様はきっと、私のことを心配するだろうなあ。ごめんなさい、大納言様。かぐや姫は月に帰ります。そして、ありがとう。私、忘れない。
思い切りをつけて私は、くるりと右馬佐の方を向いた。
「お願いします!」
私は隆浩と、並んで座った。その私たち二人に、右馬佐は手をかざした。そして呪文を唱えはじめた。
「【五官を断つ、五官を断つ、五官を断つ。肉界を去る、肉界を去る、肉界を去る。極微実相玄幻子界に入る……】」
あとはなんだかわけのわからない、それこそ呪文。なんか「ヒー、フー、ミー、ヨー、イー、ムー、ナー」なんて、数えてたりもしてるみたい。そのうちだんだんと、私の意識は遠のいていった。