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虫愛づる平安京女子高生  作者: John B.Rabitan
2/4

一の巻

 ここはどこ――? 森の中……、暗い。

 「フェングェナンドニファアラデ、マコトフィトナリ」

 たちまち明るい光が目の前にさし、目を覚ます。人に取り囲まれている。慌てて跳ね起きようとしたけれど、なにしろ重い十二単を着たままなので体の自由がきかない。

 明るい光はたいまつの炎。人は三人で、みんな若い女性。でも変な格好。坊さんの服着てるし。

 「隆浩!」

 慌てて首をひねると、そばで隆浩も下人姿のまま倒れてたけど、驚いて起き上がっている。そんな姿が炎に照らし出されて見えた。

 「オドロカシェタマフィシヤ。ナド、カヤウナルトコロニヤ、フシタマフェル」

 この人たち、何言ってんの? 外国人? でも顔は日本人だし、言葉も外国語みたいだけれど日本語のようだし。どこかの方言? 確かに、関西弁のアクセントだ。

 「イドゥカタヨリカ、オファシェル」

 「ここはどこ? あなたたちはだあれ?」

 私の言葉を聞いて急にびっくりしたような顔つきになって、三人の坊さん服の女たちは互いに顔を見合わせていた。

 「ココファワレラガテラナレバ、マドゥファ、クリニオファシマシェ。ウィテコショマウィラメ」

 私を助け起こそうとしているみたい。もう一人は隆浩の介抱に当たっている。

 まわりは真っ暗で、たいまつの炎だけが頼り。

 でもすぐに分かったけど、私たちが倒れていたのは何かの建物の庭だってこと。だってすぐに建物に着いたから。

 「ニファニフシタルモノアンナルトイフファ、ショレニテカ」

 手にろうそくを持って出てきたのはお婆さんで、やはり坊さんの服を着ている。尼さんだなって思った。思おうとしたけれど、頭がボーッとしていて、おまけにものすごい頭痛。まともに思考回路が働かない。

 建物の中に入った。こんなに暗いのに電気もついてなく、小さなお皿に入った芯に火がともっているだけなのが唯一の照明。

 全体的に古いお寺みたい。部屋は畳も敷いてなくって板張りで、私はその上に座らせられた。

 そこにさっきのお婆さんが、向かい合って座る。建物の中に入れられたのは私だけで、隆浩は別のところに連れて行かれたみたい。

 「オンゾヲミタマフルニ、ヤンゴトナキカタトゾオボユル。ナドワガテラノニファニフシタマフェル。アルヤウコソファ」

 とにかく、何を喋っているのか分からない。だから、こっちも答えようがない。いったい何なの、この人たち。山の中で暮らす変な趣味の人たち? ここはよっぽど田舎の山の中? だって、こんなわけの分からない言葉を喋るなんて。

 「ここはどこなんですか」

 またもや私の言葉におばあさんは目を伏せて、黙って静かに首を横に振っていたりする。

 「フィナノコトバニヤ。マタ、イトドシタトキコト。エオボイェズ」

 独り言のようにしてつぶやいたあと、お婆さんは優しく目を上げた。

 「コヨフィファ、コウジタマフィケルランカシ。イマファトク、オフォトノゴモラシェタマフェ」

 何だか悪い人ではなさそう。親切心が伝わってはくる。でも、何て言っているかが分からないのは困る。それよりも何よりも、今の自分の状況は……。だけどそれを考えるにはもっと落ち着いて、頭の中をゆっくり整理しなければならないみたい。

 若い尼さんが入ってきた。

 尼さんとは言っても髪はおかっぱぐらいはあって、丸坊主ではない。手には箱に入った布がある。優しく私を立ち上がらせて、服を脱がせようとする。

 やっと十二単を脱がしてくれるんだな、着替えを持ってきてくれたんだなと、一安心。

 多分この人たちも、私がこんな昔の服装してるからびっくりしてるんだろうなと思っていたら、この人たちの手際、あの着物学院の先生たちよりよっぽどテキパキしてる。

 ところが一番下の白い着物と赤い袴だけになったら、今度は黒っぽい服を上から着せられる。

 「アマデラナレバ、カヤウナルモノノミファベルニ、ユルシャシェタマフェ」

 え、なんでなんで、どうして全部着替えさせてくれないのって思っているうちに、別の部屋に連れて行かれた。

 そこも板張りだったけど、なんか畳が二枚だけ置いてあった。ここで寝ろって? 掛け布団は?

 とにかく頭の中はパニックだけど、頭痛は前にも増して私の考える力を奪っていた。

 まずは敷き布団もない二畳だけの畳の上に横になった。もう初夏の頃だけれど、まださすがに何も掛けてないと寒い。

 だから私はさっき上から着せられた黒っぽい服を脱いで、それを掛け布団にした。その様子を見ても若い尼さんは、布団を持ってきてくれそうもなかった。まるで着物を布団代わりにするのが当たり前のような顔をして見てる。

 横になって上を見ると、天井板はなくていきなり屋根裏だった。

 若い尼さんが火を消した。たちまち部屋の中は真っ暗。私は暗闇を見つめながら何がどうなったんだろうと頭の中を整理してみることにした。

 ショーの本番中、階段から落ちたんだ。だけど記憶はそこまでで、その後一瞬だったか長い時間だったかは分からないけど、とにかく私は隆浩と一緒に夜の山の中のこの家の庭に倒れてた。

 その間がどうしてもつながらない。

 そして今、頭は朦朧としている。これ以上、考えるのは無理。

 そのまんま私は、眠りに落ちていった。

 

 うるさいくらいの小鳥の声。そして、戸の隙間からはうっすらと日が射している。

 目を開けると見慣れない天井……は、ない。見なれない屋根裏。

 そうだ――と、昨日の記憶がよみがえる。状況は何も変わっていないみたい。

 昨夜のことも全部夢だったっと思いたいけど、この状況、どう見ても夢じゃあない。

 外はもう明るくなっているみたいだけど、締め切られているので部屋の中は暗い。

 立ち上がって戸を開けてみた。だけど動かない。横に引いても開かないのなら押してみようと思って押したら、上半分だけ向こう側に跳ね上がった。

 こういう窓なんだ。下半分は壁のままだけど。

 開けた途端に明るい光と一緒に、ものすごい新鮮な空気が飛び込んで来た。

 こんなすがすがしい気分になったの、どれくらいぶりかなあ。

 緑がまぶしい。本当に大自然って感じ……って、そんなことに感動しているバヤイではない。今の自分の状況を把握しなきゃ……。

 上に押し上げている戸は手を離すと閉まってしまうので、押し上げたまま私は隆浩を呼んだ。

 窓のすぐ下が庭なのではなくって、手すりのある縁側がついている。やっぱここはお寺で、同じ建物の中から女の声でお経を読む声が聞こえてくる。

 「ミッコ!」

 来た来た、下人姿の隆浩。わらじをはいて、庭を小走りに駆けてきたよ。

 「あんた、どこに寝てたの?」

 「離れの小屋みたいなところ。土間に藁をかぶってだぜ。おめえは?」

 「一応板の間に二枚だけあった畳の上。でも布団はなくって、着物を布団代わりにして寝たよ」

 「それにしても、ここどこなんだよ。何で俺たち、こんなとこにいんだよ」

 顔がマジだ。それは私だって同じ。

 「ショーの最中に、おめえが階段から落っこちてきたんだよな」

 「そのあとは?」

 「分かんねえ。気がついたらここに倒れてたんだよな」

 「いったいどういうこと?」

 「こっちが聞きてえよ!」

 「誘拐……? ああ、でも……でも、こんな森の中に倒れてたってのは変だよね」

 「ここは寺……だよな……」

 隆浩は、あたりをきょろきょろと見回した。

 「だったら昨日の人たち、尼さんよね。ぜんぜん言葉が通じないけど、でも私たち見てちょーびっくりしてたって感じだったし、なんか一所懸命いろんなこと聞いてきた。何言ってるか分かんないから答えようもなかったけど」

 「まあ、そりゃこんな格好でこんな所に倒れてたら、誰だって驚くだろうけどな」

 「オドロカシェタマフィヌルヤ」

 そのとき後ろから、あのお婆さんの声がした。

 「今は戻って。あとで呼ぶから」

 私はそれだけ隆浩に言うと、押し上げていた戸を下した。

 「カウシアゲシャシェテン。ヤヤ!」

 お婆さん、誰かを呼んでる。

 そうしたら戸の外に何人もの人の足音がして、一方の壁の上半分が一斉に上に上げられた。

 上げた所で、金具で固定するんだ。

 部屋の中は一気に明るくなった。今度は窓のように開いたところに、内側から若い尼さんたちが一斉に簾を下す。そんなところから、やっぱここは京都なんだなという気がする。

 本格的な京都のお寺だ。

 昨日は暗くてよく分からなかったけど、自分が寝ていたところは個室じゃなくって、大広間の一角をいくつかのカーテンみたいな布が下がったパーテーションで仕切られていただけの部屋だったんだ。

 目の前にはあのお婆さん……年とった尼さんが立って、私を見つめている。

 そしてニッコリ笑う。人のいい、優しそうなお婆さんみたい。こんな状況じゃなかったら、親近感湧くんだけどなあ。

 白髪頭でおかっぱというのも、お年よりにしてはかえって若々しく感じる。 

 「ウィシャシェタマフェ」

 お婆さんが座るから、私だけ突っ立っているわけにもいかず、ゆっくりと板張りの上に座った。

 「シャテコソ、イカナルオンカタニテオファシマシファベルヤ。ケフコソファモノノタマフェ。ナドカクファモダシタマフェル」

 ゆっくり喋ってはくれているんだけど、やっぱり分からない。だから私は、黙っているしかない。

 「ツレナウモ、ナモダシタマフィソ。コモ、ミフォトケノオンミチビキトコソオボユレバ、シャルベキチギリヲ、ナカナカナルコトニシェザランフォドニ、ファヤ」

 何かしきりに、私に聞いている。でも、何て答えたらいいの? 人のよさそうな顔に困ったような表情が浮かぶから気の毒にもなってくるけど、困っているのはこっちだって同じよ。

 「ワレファ、コノテラノアルジニテナン」

 「ごめんなさい。言葉が分からないんですけど」

 私の言葉を聞いて、またびっくりしたような顔でお婆さんは私を見る。

 「私の言っていること、分かりますか?」

 ますますお婆さん、首をかしげる。

 標準語も通じないんだ。

 京都がいくら古い都だからって、こんな人たちがまだいるなんて信じらんない。

 これが本当の伝統的な京都弁? 山代さんがしゃべってた関西弁とはぜんぜん違う。それに、テレビで見た舞妓さんだって、こんな言葉はしゃべっていなかった。

 とにかく、早くここを出るのがいちばんみたい。

 でも、その前に……お腹すいたあ。昨日の夜から何も食べてないんだもん。

 そうしたら、別の若い尼さんがお膳にのったお椀を持って来てくれた。

 朝食を出してくれるみたい。お婆さんは一旦奥へと引っ込んだみたい。

 だけど、なんでお粥? それにお椀も、これ、なんていうのほら、ジョーモン式土器っていうか、あるいはよく観光地で名前とか絵とか書かせてくれる素焼きのお椀じゃない。

 それにお箸もどう見たって、そのへんの木の小枝を二本拾って来たとしか思えないやつ。

 ま、とにかく、いいにして食べることにした。ここは一応お寺のようだからと思って手を合わせると、尼さんはそれが気に入ったみたいでニコニコ笑った。

 食事が終わってしばらくすると、、それよりももっと差し迫った重大な問題が私には起こっていた。

 通じないだろうけれど一か八か……。

 「あのう、お手洗い」

 やっぱ、通じない。

 「トイレ。便所」

 いろいろ言ってみたけど、やっぱだめ。

 しかたないから、おなかをポンポン叩いて、足踏みして見せた。そしたら、やっと分かってもらえたみたい。

 でも、トイレに連れて行ってくれるのかと思ったら、お婆さんはパーテーションの向こうになんか叫んだだけ。

 「シノファコ、マウィレ!」

 するとすぐに若い尼さんが、博物館にでもありそうな奇麗なふたつきの、重箱のようなものを持って来た。お婆さんは、入れ替わりに出ていった。

 「ツカウマツラメ」

 ――使うのを持っている――なんて言ってるのかなあ。

 そう思っていると尼さん、人の肩を押して座らせようとして、そして袴の脇からふたを取った箱をお尻の方に入れようとする。

 「ちょっと何すんのよ! やめてよ! 自分でできるよ! 子供の検便じゃあるまいし!」

 あんまりイライラしてたので思わずものすごい剣幕で怒鳴ると、尼さんはびっくりして箱だけ置いて行ってしまった。

 でも、もう限界。この箱って、携帯トイレ? つまり、おまるってこと? だってさっき、これにしろって感じだったもの。

 この家って、トイレもないの? とにかくどうでもいい。もはや一刻の猶予もならぬ! 

 だけど、袴が脱げない。どう脱いだらいいのか分からない。とくかくやたらめったら足踏みしながら紐をひっぱってたら、やっと脱げた。

 こんな部屋の真ん中でとも思うし、誰かにのぞかれてたらって気にもなるけど、でももう恥も外聞も言ってられない。思いきり箱を使わせてもらった。

 終わった。あっ! 紙がない! ところがすぐにパーテーションの後ろから、さっきの尼さんが入って来る。慌てて私、ぱんつをあげる。

 すると尼さん、箱にふたをして、どっかに持っていこうとするじゃない。ただただ、アゼン!

 それより、ぱんつ汚れる。汚なーい! 気持ち悪ーい! 

 とにかく、またあの尼さんが戻って来る前にここを逃げ出さないと……。

 ちょうど人がいなくなった今がチャンス!

 袴と昨日着ていた十二単は置いていこう。あとでお母さんに叱られるかもしれないけど、事情を話せばわかってくれると思う。それよりも今は、一刻も早くお母さんのところへ帰る方が先決。

 「隆浩!」

 そのへんにあった適当な草履をはいて、私は庭に出て呼んだ。隆浩はすぐに来た。

 「逃げよう!」

 「え? なんで? 何かあったのか?」

 「いいから、早く!」

 白い着物だけで、私は一目散に駆けた。そういえば、かつらはつけっばなし。でもとるのも面倒。隆浩も下人姿のままで、頭には変な帽子かぶってる。

 

 しばらく森の中を走って、息が切れた。二人して土の道に座り込む。

 「ねえ、朝ご飯、食べた?」

 「ああ、お粥もらったよ」

 隆浩も、肩で息をしている。

 「それより、なんで逃げなきゃなんないんだよ」

 「あそこの人たち、狂ってる。頭が変。言葉も通じないし。変態寺だよ、あそこ! それに……」

 さすがにトイレのことは、隆浩には言えなかった。

 「そうか。俺も変だなって思ってたんだよ。それよりここ、東山ホールからそう遠くはないぜ。ほら、あの山」

 隆浩が指さした山は、たしかに東山ホールの入り口から見えていた山。とすると、おととい山代さんと車で登った山……

 「東山ホール探そうぜ」

 隆浩に言われてもまだ呼吸が整わずにいた私は、なかなか立ち上がれなかった。隆浩は私の手をひいて、立ち上がらせようとする。いつもなら「さわんないでよ!」とか言ってその手を払いのけるところだけど、今日は不思議と自分から手を出している。あ、トイレして洗ってない手……ま、いっか。

 でも、どこ探しても東山ホールどころか、舗装している道や民家すら見当たらない。おかしいなあと思うけど、どこまで行っても森。

 だんだん心細くなってきた。お母さん、心配してるだろうなあ。お母さん……! 

 とうとう私、泣き出して座りこんでしまった。隆浩が困ってる。それは分かるんだけど……。

 「バカ、泣くな。山に登ってみようぜ。俺たちがだいたいどのへんにいるか分かるんじゃないか。京都にいることは、間違いないんだから」

 泣きながら、私はうなずいていた。

 

 だけど実際山に登るとなったら、私の方がお手のもの。

 生物部の植物群生調査や昆虫の生態調査で、山登りは慣れてる。でも、着物と草履で登るのはやっぱつらい。裾をまくり上げて帯にはさんで、汗を袖でふいて登る。

 そんなこんなで、やっと頂上。

 そしてふりかえってみる。おとといと同じようにここから京都の町が一望……いちぼ……いち……え? 

 おととい見た京都の町じゃあなぁぁぁぁい! 

 同じなのは、町を囲む山の形だけ。これだけは間違いなくおとといに見た景色と同じ。そして川が、右の方から流れてくるのも同じ。

 でも違う! 

 広い河川敷を、流れが分かれてくねっている川になってる。川の向こうにも、ビルなんかない。昨日はほとんど見えなかったきれいな縦横の道がはっきりと見える。かなり広い道もあるのに、とにかく車が一台も走っていない。

 「ウソ!」

 隆浩もその景色を見て、ただ目を点にして立ちすくんでいるだけだった。

 「これ…………これ…………」

 隆浩の声、震えてる。

 「これ、平安京だ! 日本史の教科書に載ってた平安京だ」

 「平安京って、あの、昔の京都?」

 「俺、おととい、ここから景色見てた時、今の京都はずいぶん昔の平安京とは違うんだなあって思ってた。でもこれ、教科書にあるとおりの平安京じゃんかよ」

 隆浩の声は、まだ震えていた。

 「あれが大内裏。そんでそこから横に出てる広い道が朱雀大路」

 指さすその手さえ、震えていた。川よりこっち側には大きなお寺の屋根がたくさんあって、やたら目立ってるちょーでっかい塔もある。八角形で、九重くらいはあって、そんで屋根は全部茶色。でも……、おととい見た京都の景色には、こんなの絶対になかった。もしあったら、印象に残ってないわけがない。

 「でも隆浩。昔の京都だなんて言ったって、あの塔、新しそうだよ」

 「バカ。だからこそ昔なんだよ。平安京なんだよ」

 「え、ちょっと隆浩。それ、どういうこと? 何が言いたいの?」

 それには答えずに隆浩は、マジな顔で景色を見ていた。それからあたりを見回しはじめた。

 「おい、ミッコ。俺たち、狂っちまったよ」

 「もう狂ってるよ、とっくに。十分、気が変になってる。」

 「そういう意味じゃねえよ。いいか、俺たちがここにいるってこと、それ自体が狂ってるんだよ」

 「どういうこと?」

 「俺たち……」

 隆浩は、一瞬目を伏せた。

 「タイムスリップしたんだよ」

 「はあ? ばか! ふざけないでよ! こんな時に!」

 「ふざけてなんかねえよ! じゃあ、この景色を、どう説明すんだよ!」

 確かに、何も反論できない。私は思わず、その場に座り込んだ。

 「マジ? 最悪! どうしてこういうことになるかなあ! もう、信じらんない!」

 「たしかに、信じらんないよ、俺も。でも、そうとしか考えられないし、とにかくあのお寺に帰ろう」

 「え? あんなとこに帰ってどうすんの?」

 「落ち着けるところは、あそこしかねえよな。とにかく一度帰って、それから考えようぜ」

 こうなったら、隆浩の言うことを聞くしかない。

 もと来た道をしかたなく降りはじめる。その時……目の前を、一匹の蝶が飛んだ。

 「え? ウソ! ちょっと待って! これ、オオムラサキ! めったに見られない日本の国蝶!」

 登る時は必死だったので気にする余裕もあまりなかったけど、とにかくここって自然の宝庫じゃない! 

 「ちょっと、待って待って!」

 私はひとりで、森の中に入っていく。

 「あーっ! アカタテハの幼虫! 間違いない! 図鑑にあったとおり。本物見るのはじめて!」

 「おい、おめえなあ」

 隆浩はあきれ顔で、そんな私を立ち止まって見てた。

 「あそこ飛んでるの、アオスジアゲハ。すごい! やっぱここ、少なくとも現代の京都じゃないよ!」

 「あのなあ、こんな時に、なに急に生き生きしてんだよ。早く行こうぜ」

 「分かった、分かった」

 それでも私の胸は、ときめいていた。こんな非常事態だっていうのに……。生物部の部長としての血が騒ぐ。でも隆浩は、どんどんと先に降りて行った。

 

 お寺が近くなるにつれて、やっぱどうしようと思ってしまう。この異常な状況……。蝶の幼虫の宝庫の山があるってのはうれしいけど、せめてこんな時じゃなかったら……。

 だからいざお寺の門を入る時は、マジ緊張。まくり上げていた裾も、もとに戻す。

 「あな、いみじや!」

 私たちを見つけた尼さんが、大声を出した。すぐにあの、お婆さんの尼さんが出て来た。

 「いと、ゆゆしきこと! やんごとなきフィメの、うたて、かやうなる、あさましきおんかたちにて……。とく、いらしぇたまふぇ。ファカマなんども!」

 私の姿を見て、目を覆ってあわてふためいているみたい。白い着物ってそんなにはしたない姿なのかなあ。

 そうだ。隆浩が言っていたことが本当なら、この人たちは現代人じゃあないってことになる。その人たちの前で現代の常識を押し通そうとしたら、今度はこっちが狂人扱いされてしまう。

 でもまだ半信半疑だけど。

 私は上がると、たちまち二、三人の若い尼さんが、私に袴をはかせようとする。ちょうどきのうのショーの前の着付けの要領で、私はするようにさせた。

 袴をはき、薄黒い着物をその上に羽織って座った。

 「隆浩、来て!」

 私が呼んだので隆浩が縁側から上がろうとすると、若い尼さんたちが慌ててそれをとめた。

 「こふぁあまでらぞ。いかにおんともなれど、ゲラウのあがるべきものかふぁ!」

 隆浩ったら下人の格好なんかしてるから、上げてもらえないみたい。そうだ、実験! 隆浩が言っていたことがほんとうかどうか、とにかく実験! 

 「苦しうない!」

 思いきって私は、叫んでみた。時代劇のお姫様言葉を、しかも山代さんのような関西弁のアクセントで。

 すると若い尼さんたち、一斉に隆浩をとめるのをやめて、私の方に向かって平伏したじゃない。通じたんだ! はじめて通じたんだ! でも、でもってことは……!? 

 隆浩は堂々と上がってきて、私の隣に座った。お婆さんの尼さんとは、向かい合って座るかたちだ。お婆さん、いくぶん顔が強ばっている。

 「など、てらよりいでたまふぃたるや。いどぅかたにか、おふぁさんとすらん。かく、らうがふぁしきいまのよなれば、やまのなかなんどふぁ、いみじきもののここらこもりうぉりたるに、いとあやふきことにてなん。とらふぁれもこそすれ」

 何だか説教されてるみたい。もちろん、言ってる内容は分からないけど。

 その時隆浩が、前かがみに手をついて話しはじめた。

 「拙者ども、東の方より流れ来たる者にて、仔細分からずこの地に倒れし者にてござる。願わくは、ここがいずこかお教え願いたい」

 立派な時代劇言葉。こいつ、時代劇よく見てたな。ところが……。

 さっきの私のは通じだけど、隆浩が言うのはぜんぜん通じてないじゃない。

 お婆さん、また首をかしげてる。

 でも、私は知りたい。ここはどこ? そしてほんとうにここは昔? だったら、何時代? 

 ふと私は思い出した。言葉が通じなかった時の記憶。去年、中国の上海に行った時、言葉が通じなくても紙に漢字を書いたら通じたっけ。

 「あのう、紙と筆」

 また関西弁のアクセントで言って、手でものを書くまねをしたら、硯と筆はすぐに来た。

 「かみふぁ、いまふぁ」

 そう言って若い尼さんが首を横に振り、扇をくれた。開けば白いだけの扇。ここに書けってか。

 とにかく筆談してみようと、お正月の年賀状を書く時くらいしか使わない筆、しかも筆ペンではない本物の毛筆に、私は墨をつけた。こんなの、中学校の書道の時間以来だよ。

 「ここはどこか」

 うまく書けない。ああ、こんな時に、書道四段のナギがいたらなあ。お婆さんは難しい顔をして、扇をのぞきこんでる。

 「ここ、ここ」

 私はそう言いながら、この場所を指さした。

 「ここかや」

 あ、またもや通じたみたい。

 「ミヤコの、ふぃんがしやまにてなん」

 「ミヤコ?」

 「げに」

 ミヤコ……もしかして、都? 京都を都というのは、やはり……。

 「京都」

 私はそう書いてみた。そのとたんに、居合わせた若い尼さんたちが目をむいた。

 「あな、まな、かきたまふや。ざえふぁべるおんかたにて、おふぁしますかな」

 この人たちが何言ってるかは分からないけど、とにかくもう一度「京都」という文字を指さしてから、この場所を示してみる。そうしたら、お婆さんはゆっくりとうなずいた。今度は私、自分と隆浩を指さしてから、「東京」と書いてみた。

 「ちょっと貸せ」

 隆浩が扇と筆を奪う。

 「我等自東京来」

 さすが漢文が入試に必要な隆浩。でも、尼さんたち、首かしげてるよ。

 「ふぃんがしのきゃうとや」

 「にしのきゃうこそしりたまふれ、ふぃんがしのきゃうとは、いかにやいかに」

 「ふぃんがしやまなれば、このちにてなん」

 尼さんたち、口々に言い合っている。

 隆浩は今度は「東京」を消して、「江戸」と書き直して尼さんたちに見せた。ますます尼さんたちは、首をかしげる。そこでその次に彼が書いたのは、「武蔵」という字だった。

 「あなや、武蔵より、おふぁしましぬるにや。いととふぉきみちを、ともふぃとりばかりうぃて、ものしたまふぇるか。ずりゃうなんどのおんむすめにて、おふぁしまするや。など、のぼりおふぁしぇたる。うでぃふぁなぞ。おんちちふぁたれぞ」

 私に向かってお婆さんは、しきりに何か聞いてるみたいだけど、とにかく答えようがない。

 「都のうちに、しるふぃとのふぁべるか。ゆんべふぁ、など、も・からぎぬまうぃりて、ふしぇたまふぃぬるや」

 分からない、分からない、分からない! 

 だんだんイライラしてきた。

 通訳がほしい。

 ああ、タイムスリップなんてSF映画や小説の中の空想の出来事だと思ってたら、現実にあるんだ! だったら、もっと古文、まじめに勉強しておけばよかった。

 でもこの人たちの言葉、学校の教科書にあった古文とは、ぜんぜん違う。発音が違うし、だいいちアクセントが違う。

 英語なら英会話やヒヤリングやあるけど、古文には古会話やヒヤリングなんてなかったから、たとえ一所懸命勉強してたとしてもこの状況じゃあ……。

 だいいち、受験科目に古文がある隆浩でさえ、たじたじになってるじゃない。

 「もう、やだあ!」

 とうとう私、泣き出した。今度は、尼さんたちは慌ててる。

 「なないたまふぃそ。くぇさうもぞくどぅるる。ちちのおんなだに、えおぼしいでざらんふぁ、もののくぇなんぞのわざにてこそ。すふぁふなんども、とくしぇしゃしぇたてまつりなんとおもうたまふるふぉどに、こころときてここにおふぁしぇ」

 私の肩に手をおいて、優しく諭すようにお婆さんは言ってくれる。そのあとすぐに、尼さんたちはみんないなくなった。

 「いい人たちなんだな」

 と、隆浩がつぶやいた。私は黙ってうなずいた。

 「ガチで心配してくれてるぜ。きっと、ここに住めって、そう言ってくれたんだと思うよ」

 「そうする?」

 私はまだ、涙がひかない。

 「私、家に帰りたい。お母さん……」

 「もう泣くなよ。俺だって泣きてえんだよ。今はここにいるしかねえだろ。間違ってこの世界に来ちまったんなら、間違って帰れるってこともきっとあるよ。運命を信じようぜ」

 「格好つけたことばっかし、言ってないでよ!」

 「ここでおめえとけんかしたって、しょうがねえだろ。とにかくまず、溶け込んじまおうぜ。それと、言葉覚えようぜ。俺、思ったんだけどよ、さっきの人たち、歴史的仮名づかいのままに喋ってたよな」

 「何、それ?」

 「古文の時間に、習っただろ」

 「そんなもん、習ったっけ?」

 「これだからもう、理系はなあ」

 隆浩は少し、あきれた顔をした。

 「いいか、古文の文章って、書いてあるとおりに読まねえだろ。でもここの人たちは古文の文章の、書いてあるとおりに発音してたぜ。しかも『ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ』は『ファ・フィ・フ・フェ・フォ』、『サ・シ・ス・セ・ソ』は『シャ・シ・シュ・シェ・ショ』って喋ってた」

 「よくそんなこと分かったね」

 「じっと聞いてたんだよ。とにかく言葉を覚えて、それからいつの時代かってことも調べなきゃな。江戸を知らねえんだから、室町時代より前だな」

 「室町時代って、いつ? 鎌倉時代の前?」

 「話になんねえ」

 「そんな、鼻で笑わなくったっていいでしょう! もう、ムカつく。私だってマジなんだからね!」

 すると急に、隆浩は立ち上がった。

 「どこ、行くの?」

 「ここではおめえは貴族のお姫様、俺はお付きの下人ってことになってるらしいからな。下人がいつまでもお姫様のそばにいちゃ、へんに思われるだろ。小屋に帰ってるから」

 「え、ひとりにしないで」

 「呼んだら、すぐ来てやっからよ」

 そう言って、隆浩は行ってしまった。

 その日は一日じゅう、私はボーッとしてた。

 食事は朝のお粥以来、そろそろお昼だというのに出てきそうもない。お腹へった。

 そしてまたトイレ。我慢に我慢は重ねるけど、いつまでも我慢できるものじゃない。あまりうろうろ歩きまわると、なんだかとがめられているような若い尼さんたちの視線がとんでくるし、トイレも探しようがない。やっぱトイレなんてないのかも。

 部屋の隅には、例の箱が置いてある。みんなこんな箱にしてるのかなあ。それとも適当に森の中に入って? ――おそらく隆浩なんかは、そうしているんだろうけど――こんな箱が、貴族のお姫様用なの? とにかく限界になったら、これを使うしかない。

 でも、使った後、ふけない。手も洗えない……

 ――もう、イヤ! 

 だいいち部屋の中なんかに置いておいたら、臭いじゃない。でもすぐに若い尼さんが、使ったという気配を感じてか、どこかに持って行って処理してきてくれるけど、やっぱいやだよ。たとえ同じ女性だとしても、自分の排泄物を他人に見られるなんて……。

 これも貴族のお姫様の宿命? ま、すべては慣れかも。だって去年中国に行った時、あの公園の個室ではなく仕切りさえない公衆便所にはまいったけど、慣れたものね。

 とにかく紙がないからふけない。さすがに「大」の時は、木のへらのようなものをくれたけど、これでふけってか? それより、ぱんつが気持ち悪い! ぱんつ替えたい! たぶんかなり汚れてるだろうな。

 思い切って私、ぱんつ脱いじゃった。やっぱ汚い! 捨てるしかないと思って、縁側に出て縁の下に放りこんだ。それからしばらくしゃがんで庭を見てたら、若い尼さんがひとり、近づいてきた。

 「やんごとなきフィメギミの、かくふぁしちかに、いでたまふべきものかふぁ」

 また何か意見してるみたい。そのまま私の背を軽く押して、部屋の中に戻そうとする。縁側にさえ出ちゃいけないの? お姫様って、思ったより窮屈なんだ。

 とにかく、何もすることがない。

 今のうちに頭の中を整理しておかないと……。このままだと頭がこんがらがって、気が狂いそう。時間が分からないっていうのも、イライラする原因のひとつ。ショーの前に、時計ははずさせられたから。

 そしてスマホも、東山ホールの更衣室のロッカーのカバンの中。

 もっとも、持って来ててもどうせ圏外に決まってる。

 そうこうしているうちに、あれほどお腹がへっていたのも通り越した頃になって、やっと食事が来た。だいぶ日も傾いているようだけど、まだ明るい。昼ご飯? それとも夕食? もし夕食だとしたら、こんなに早く。しかも、お昼はぬきってこと?

 「あまでらなれば、こふぁいふぃふぁあらざるに、ゆるしゃしぇたまふぇ」

 持ってきた若い尼さん、また何か言ってる。例によって分からないけれど、見てみるとけっこうまともなご飯とおかず。食器は相変わらずだけど、おかずは納豆のような豆、焼き魚とお吸い物、あとはお漬物が少し。お寺なんだから、お肉がないのはしかたないかも。

 それにしても仏壇のお供えじゃあるまいし、なんで山盛りについでくるのさ――と、思ったけど、お寺なんだからかなと納得。

 でも丸く山盛りならまだしも、円筒形に山盛りで上を平らに盛るなんて……。

 おかずに味はほとんどなくて、小皿に塩と酢と、あと何だかよく分からないけど味噌のような調味料が盛られてて、匙までついている。これで自分で味付けしろって?

 食べ終わった頃に、ようやく西日がさしてきた。

 今日は月曜日。ほんとうならきのうの夜には東京に帰って、今日は学校に行っているはず。みんな、パニックになっているだろうなあ。携帯も連絡つかないし、私が行方不明ってことで、お母さん、心配してるよねえ。そう考えたら、また悲しくなってしまった。

 「ナギ……、ルンちゃん……、チーちゃん……、カヨちゃん……」

 友達の名前を、ひとりひとり呼んでいるうちに、涙が出てきた。

 夜になっても、電気もない。水道もない。明かりといえば、小さなお皿の油にひたした芯に、火がともってるだけ。

 着いた日は京都って都会だなあって思ったはずなのに、なんだかものすごいど田舎に来ちゃったって感じ。

 すでに下ろされた窓を押し上げて、私は暗闇に向かって隆浩を呼んだ。

 別に用はなかったけど、ただ淋しかったから。

 「すげえ、すげえ」

 と言って、隆浩は庭の方に来た。

 「何がすごいのさ」

 「ちょっと来いよ」

 尼さんたちも寝静まっているようなので、私は窓を下ろして、足元を立てないようにして縁側に出た。

 真っ暗で草履をさがすのも面倒だったから、長袴のまま降りて、声だけを頼りに隆浩のそばに行った。

 「空、見てみろ」

 言われるとおり、見上げてみる。

 「うわっ!」

 私は思わず、声を上げていた。まるでプラネタリウム! こんな空一面に星があるなんて。しかも、はっきりと天の川が見える。前に合宿で信州に行った時、ぼんやりとなら見たことがあったけど、こんなにはっきりとした天の川なんてこれまで見たことない。

 「それから、あれ」

 暗闇にもだいぶ目が慣れた。それでも隆浩の顔も見えないくらいに真っ暗。

 でも隆浩は山の上の方を指さしたみたいなので見てると、尾を長くひいた慧星があった。

 画像とかでなら何度も見たことあるけれど、実物見るのは初めて。

 「あれ、なんて慧星?」

 「さあ、もしかして何々慧星って名前がつく前に、俺たちはあの慧星を見てるのかもな」

 「じゃあ、コジマ慧星だ。と、思ったけど、そういう慧星ってもうあったような気もするから、ミッコ慧星にしよう」

 「勝手に言ってろよ」

 暗闇の中から、隆浩の笑い声だけが聞こえて来た。

 

 そのまま、十日ほどがたった。

 環境順応能力は隆浩だけでなく、私にも十分に備わっていたみたい。生活にもだいぶ慣れてきた。

 なんと尼さんたちの言葉が少しずつだけど、私にも分かるようになってきたのだ。べつに勉強したわけじゃない。それなのに言っていることの十分の三、いや、二かな――くらいは分かるようになった。いわゆる、勘ってやつ。語学は習うより慣れろっていうよね。でも、もっと大事なのは勘でしょ。勘と度胸よ。

 慣れたといっても、やっぱ私は現代人。夜になったら毎晩のように、悲しくなる。

 現代に帰りたい! 家に帰りたい! テレビ見たい! お父さんとお母さんに会いたい! 友達にも会いたい……無理ならせめてLINEで連絡取りたい。Twitterで呟きたい!

 どうして私だけ、こんな目に遭わなければならないの! 私、何か悪いことした? 

 そんなことを考えて、思わず膝をかかえて泣いた日も……。

 そしてもうひとつ……いや、もうひとつどころか、何よりも今一番したいこと――お風呂に入りたい――

 頭かゆい。頭洗いたい。十日もお風呂に入っていないし、もう限界!

 髪の毛も臭いんじゃないかなと思う。

 だけど部屋には、いつもお香がたかれてる。私の着物にも、私が寝ている間に香がたきこめられていて、それが香水のように香って臭いをごまかしてるのが現状。

 トイレがないんだから、お風呂なんて期待する方が悪いのかもしれないけど、ここの人たちは一生お風呂に入らないのかななんて心配してしまう――不潔! これじゃあ、長生きしないよ! 

 でもそんな私の現代への思いを、ちょっとでも忘れさせてくれる楽しみもここにはあるんだ、実は……。

 現代には、特に都会にはない大自然があるってこと。

 今までは願ってもかなえられなかった思いが、ここではかなえられる。

 尼さんたちに小さな籠をたくさんもらって、その中に蝶の幼虫を入れて飼うんだ。山に行かなくたって、庭の木々に十分幼虫はいる。

 私は庭にさえ出られないのだから隆浩に集めさせると、最初はいやがってたけれど、私の「男でしょ!」のひとことで、彼も協力するようになった。

 理系オンチの隆浩のこと、蝶の幼虫も蛾の幼虫も区別がつかずに持ってくるから、まずは分類が最初の仕事。私にとっては、そんなのお手のものだけどね。

 幼虫を素手で持っているのを見て、若い尼さんなんかは悲鳴あげてた。

 「など騒ぐ?」

 私も少しは、言葉を覚えたのだ。

 「などとのたまふも、それこそ、など、かふぁ虫なんど……」

 どうして毛虫なんかをってか。

 「これ、もと。蝶のもと」

 「チョー?」

 あ、「ちょう」じゃ通じないんだ。そうそう、なんとかって書いてちょうって読むんだったなあ。エット、なんだっけ……? そう、テフよ、テフ! 

 「これ、テフテフのもと。これ、テフテフになる」

 「げに、さこそふぁあれども、(テフ)()どぅることこそ、つねのことなれ、かく、虫めどぅるふぁ、いかに」

 つべこべ言わないでよ! これがなかったらこんな世界で、気が狂わないで私が生きていかれるはずないじゃない! 

 「もとを知る。大事。テフテフになるところを見る、大事なり」

 私はそう言ったけど、尼さんはいやそうな顔をしてあとずさりしていった。

 とにかくやっとこれで、夢が実現するんだ。現代では採集するのさえ難しいギフチョウやジャノメチョウの幼虫の、羽化が観察できるんだから。

 それに私の研究テーマのアカタテハの幼虫もしっかりと籠の中にいるし、なんと隆浩ったらオオムラサキの幼虫までつかまえてきてくれた。山崎先生なんか、腰ぬかすだろうなあ。

 ただ、どうしても何の幼虫か分からないのもいる。私の勉強不足かもしれないけど、もしかしたら現代では絶滅した種かも。もしそうだったらノーベル賞ものじゃない! どんな蝶に、あるいは蛾かもしれないけど、変身するか観察のしがいがあるってもの。

 ある日このお寺でいちばん偉い、あのお婆さんの尼さんも様子を見に来た。若い尼さんをひとり連れてる。その若い尼さんが、お婆さんになんか話し掛けた。

 「なふぉ、もののわざにこそふぁべれ」

 お婆さんは、静かに首を横にふっていた。

 「ふぁちかふも、虫めどぅるも、おなじきことにてなん」

 私を見てのお互いの会話。意味はまだよく分からないけれど、なぜかそのひとことが私の心の中に残った。

 

 そしてその翌日だ。一日二回だけの食事のうち、最初の食事のお粥――朝と昼の間の「あひるご飯」を食べ終わった頃、山の中からすごい声が聞こえてきた。

 男の声。何と言っているのかはよく分からない。ただ大声で唄うように延々と続き、しかもそれはだんだん近づいてくる。

 「だいーなうーごんどのー、わたらしぇーたまふー」

 何だかそう言ってるみたい。それが繰り返される。お寺の尼さんたちは、とたんにあたふたと何かの準備をしてるみたいで、歩きまわりはじめた。

 いったい何がはじまるのだろうと思って簾の中から外を見ていると、お寺の門の方に行列が近づいてきた。

 ちょうど今の隆浩と同じような格好をしたたくさんの人たちや、馬に乗った人、そして牛が引く御所車っていうの? そんなのがゆっくりとお寺の門の中に入って来た。

 

 

               2

 

 その人たちの着物、まさに昔の人のそれ。

 あのショーの時もみんな昔の着物を着てたけど、やっぱ着るのは現代人だなって分かるくらいぎくしゃくしていた。でもこの人たちは、決まりすぎるくらいに決まっている。

 ここに来て、このお寺の尼さんたち以外に初めて見る人間。

 尼さんなら現代にもいるけど、こんな格好の人たちはお祭りの時なんか以外は絶対にいない。お祭りの時でも眼鏡かけてる人がいたり、ドジなのは時計はめているままだったりするけど、今門を入って来た人たちはそんな様子は全くなさそう。

 やっぱ、ここは別の世界なんだ。それを思い知らされた気がする。でもまだ心のどこかで、これが映画の撮影だったらなんて思ってしまう。

 御所車って、けっこう大きいんだ。

 それを引いている牛を歩かせているのは、小さな子供。乗っているのは、そうとう偉い人なんだろうなあ。お殿様かな? そんな偉い人が、なんでこんな小さなお寺に? 

 でも乗ってきたのが駕籠じゃあないってことは、やっぱ隆浩が言っていたとおり、ここはテレビの時代劇の江戸時代じゃないね。お供の人たちもちょんまげじゃなくって、みんな頭に何かかぶってる。少なくとも時代劇の、おさむらいさんの格好じゃあない。

 御所車は建物の向こう側へまわっていったみたいで、私のいるところからだと死角になって見えない。

 しばらくして、庭はお供の人たちであふれだした。

 わいわいがやがや座りこんで雑談しているけど、言葉が分からないからまるで小鳥の大群の泣き声を聞いてるみたい。中国に行った時とおんなじだ。何だか急に恐くなってきたから、私は部屋の奥の方に入っていた。

 御所車に乗って来た偉い人が、建物に上がって来たみたい。私はその人が反対側の縁側を歩いていくのを、パーテーション――これ、キチャウっていうんだって――の陰からのぞいてみた。

 やっぱお殿様じゃなくって、神主さんのような黄土色の着物を着ていた。頭にはコックの帽子のような黒いのをかぶって……。

 それからどれくらいたっただろう。若い尼さんが、私のところにやって来た。

 「尼ぎみの、召したてまつりてなん」

 そう言ったあと、すぐに立ち上がって私を招くので、たぶん私はどこかに呼ばれているんだろう。

 そう思ってその尼さんにくっついて歩いていくと、お供の人たちがいる庭からは見えないあたりで縁側に出た。そしてある部屋の戸の前で、尼さんは座った。

 「まうぃりたまふぃてふぁべり」

 まず中にそう声をかけてから戸をあけ、私に中に入るように示す。

 「こちや」

 中から、お婆さんの声がする。伏し目がちに入ると、板敷の上に藁かなんかで作った丸い座布団があった。そういうのは座布団とはいわずに、エンザっていうんだって、あとになって知ったけど……。とにかく、その上に座れということらしい。

 今日はお婆さんと向かい合わせではなく、お婆さんは右の方に横を向いて座っている。そっと目をあけてみると目の前には、二畳だけ敷かれた畳の上の、今度はほんとうの座布団の上に、さっきの神主さんが座っていた。何だかじっとこっちを見てる。その神主さんにお婆さんは、話しかけはじめた。

 「見つけたてまつりしよりけふまで、この寺におふぁせるふぃめぎみてふふぁ、このおんかたにてなん。いささかも、ものもおぼいぇず、ただのたまふことふぁ、あどぅまんどのやうばかりにて」

 「おお」

 神主さんがあんまりじっと私のことを見るので、また私は目を伏せた。

 「いときよげなる、おんありしゃまかな。いかなるすくしぇにて、けふたいめんすならん」

 「しゃふぁ、みふぉとけのおんみちびきにてこそ」

 神主さんそう言ってからお婆さんは、私の方を見た。

 「わがしゅうとの、ミンブキャウダイナウゴンにてぞふぁべる。けふふぁ、ほふしょうじのあみだだうの、さんじふこうのたよりにて、とぶらふぃくれたまふぃぬるなり」

 「おんおもて、上げしゃしぇたまふぇ」

 もう一度静かに顔を上げて、そして今度はこっちが観察してみる。

 ところがよく見たら、なんとすごいお爺さんじゃない。うちのおじいちゃん、もうすぐ八十になるけど、それと同じくらいじゃないかなあ。

 髪も真っ白。でもそれにも負けないくらい、顔も真っ白。

 まるで舞妓さんのように、おしろいを真っ白に塗りたくってる。あのショーのメイクの時、ずいぶん私も厚化粧で白く塗られたけど、――今ではほとんどはげてるけどね――こんなにまで白くはなかった気がする。

 おまけに眉毛がない。そのかわりにおでこに、黒くそれらしきものを二つ描いている。それがまたずいぶん、白髪とアンバランス。ちょーきもいし、なんか恐い! 

 「まこと、よろどぅ、え(おぼ)()でざるや?」

 私はお爺さんが言っていることを勘で理解して、ゆっくりうなずいて見せた。ここは記憶喪失者のふりをした方が、無難だと思ったからだ。

 それにしても、もっときもいのは、ものを言うたびに見える歯。真っ黒に塗られてる。なんだか吐き気さえしてきたから、なるべく顔を見ないことにした。

 「いと、いとふぉしきこと。あてなるふぃめごじぇの、かやうなる尼寺におふぁしてふぁ、ところしぇからんかし」

 「やや」

 そこでお婆さんが、話に割って入った。

 「きこいぇつるやうに、虫なんど()でたまふを、もののわざなるべければ、いましばし。だいとこなんどに、すふふぁふなんど、しぇしゃしぇたてまつらんとぞ」

 「しゃれば、わがファチカフも、もののくぇのわざにてか」

 お婆さんに向かって黒い歯を見せて大笑いをしてから、お爺さんはまた私の方を見た。お婆さん、何も言えなくなっているみたい。

 「イモウトふぁしゃふぁいふぇども、わがうぃんにて虫かふふぁ、つゆくるしからず」

 イモウト――妹? そっか、このお爺さん、お婆さんのお兄さんなんだ。

 「しゃれど、など虫かふ?」

 お爺さん、やっと少し分かる言葉を言ってくれた。

 「虫は蝶のもとと思ふ。もとを知ることが、おもしろきことと」

 ああ、通じた。お爺さん、満足げに微笑んでうなずいている。

 「いかに呼びまうさん。名ふぁ?」

 「なよ竹のかぐや姫、あ、フィメ」

 たぶん名前は?って聞かれたんだろうと思って思い切り冗談を言ったら、突然お爺さんは大声で笑いだした。

 「うぉかしき、のたまふぃやうかな」

 そんなにおかしい冗談だったかなあ。でも少なくともこのお爺さん、かぐや姫を知ってる。やっとこの世界の人と、共通の話題ができたって感じ。

 「しゃれば、まろふぁ竹取の翁にぞならむ。いざたまふぇ。月にかふぇりたまふまでだに」

 そしてお爺さんは、今度は自分の妹のお婆さんに言った。

 「いそぎしたてまつれ。けふにも」

 「しゃふぁあれど……」

 お婆さんは口ごもっていたけど、ようやく立ち上がって私を手招きした。それからまだ何かぶつぶつ言いながらも、戸の外の縁側にいた若い尼さんに、何やら耳打ちをしていた。

 私は、いつも寝起きしている部屋に連れていかれた。そのまま着付けがはじまる。

 若い尼さんたちの手慣れた手つきで、たちまち私はここへ来た時と同じ、ダルマ状の十二単姿にさせられた。

 それが終わってから簾のそばに寄って、私は隆浩を大声で呼んだ。彼はお爺さんの、庭にたくさんいるお供の人たちをかき分けて、すぐに簾の外の縁側まで上がってきた。

 「たいへん。私、どっかに連れて行かれそう!」

 「どっかって?」

 「あの、へんなお爺さんに! あの、牛がひいてる車に乗って来た」

 「誰なんだ、あれ」

 「お婆さんの尼さんの、お兄さんみたい。なんだっけなあ、えっと、ミンブキャウのダイナウゴンとかいってたけど」

 「なんだ、それ? ちょっと待ってよ、えっと、ミンブキャウ? キャウはキョウ……だから、民部卿。そっか、民部卿の大納言(だいなごん)だ」

 その時には、私たちのやりとりを聞いて変に思ったらしく、隆浩のいる縁側の下にお爺さんのお供の下人たちが集まってきていた。

 不思議そうに首をかしげて一斉に隆浩を見ているし、部屋の中の私の方をものぞきこもうとしているのもいる。

 「何、その民部卿って?」

 「俺たちの時代で言えば厚生大臣ってとこかなあ。とにかく、すげえ偉い人だよ。政府の高官」

 「え? 神主さんじゃないんだ」

 「バカ、何言ってんだよ」

 「だって、あの格好」

 「あれは直衣(のうし)っていって、貴族の普段着」

 その時、若い尼さんが、庭の状況を見て慌ててとんで来て、私を部屋の奥の方へとおしこんだ。

 「とのの、いでしゃしぇたまふぃぬべければ、とく、おんともに」

 そう言って私を、反対側の縁側の方にと連れて行く。さっきのお爺さん――大納言様が歩いてる。年寄りにしては、すごい足の速さ。

 「お待ちください!」

 私は大納言様に向かって叫んだ。

 「あの、隆浩は? 隆浩はどうなるんです? あ、じゃない……えっと、わが供の者はいかに」

 「供のふぁべるや」

 大納言様は、足を止めてくれた。

 「いかばかりぞ」

 「ひとり」

 「しゃらば、もろともにまうぃらしぇよ。まろがらうたうにして、しゃぶらふぁしぇん」

 またスタスタと大納言様、縁側を歩いてく。そんなに速く歩かないでって。こっちはちょー重い十二単、着てんだから。長い袴に、裳をひきずって……。

 車は後ろ側がそのまま建物についていて、下に降りないでも乗れるんだ。

 その車に乗りこむ直前に、大納言様は庭に向かって叫んだ。

 「あしだか! つのみじか! ふぁねまだら!」

 誰かを呼んでるのかなあっ思っていると、大きな蜂が三匹飛んで来て。三匹とも大納言様の服にとまる。思わず危ない!って叫びそうになったけど、大納言様はぜんぜん平気。

 「まろのかふぃたる、らうたき(ふぁち)どもなり」

 驚いている私に、大納言様はまた、黒い歯を見せて笑った。

 そうか、このお爺さんって、蜂を飼ってるんだ。だから私が虫を飼ってるって聞いても、びっくりしなかったんだ。

 お婆さんの言葉のはしはしにあった「ファチカフ」という単語と、やっと結びついた。

 そのうち大納言様は(ふところ)から紙を出して、ひらひらと振りはじめた。

 その紙には、なんかドロッとしたのがついている。

 蜜かなあ――そう思ったのは、たちまちに蜂の群れが飛んで来たから。

 十二、三匹はいる。そしてそんな蜂といっしょに、大納言様は車に乗った。私にも、乗れって合図してる。そこへ隆浩が、庭の方から血相を変えて走ってきた。

 「ミッコ、行っちまう気かよ!」

 「あ、隆浩。隆浩も、いっしょに来ていいんだって」

 蜂のことでこのお爺さんにもう親近感を抱いていた私は、平然と言い捨てて車に乗った。

 中には畳が敷かれてる。大納言様は右側面に寄りかかって座って、向かい側を私に示した。

 進行方向に向かっては横を向くかたちで、互いに向かい合って座る。この車って、前を向いて座るんじゃないんだ。はじめて知った。

 そんで、車の中じゅう蜂がたくさん飛び回っている。

 こんな状況、普通の女の子なら逃げ出すだろうね。

 でも私はそうはいかない。蜂なんか恐がってたら、生物部の部長なんか務まらないしね。

 それで観察してみると、いろんな種類の蜂がいる。

 あれはクロマルバチ、そしてオオハキリバチ、セグロアシナガバチもいる。

 なんだか興奮。

 蜂に刺されるなんて、ぜんぜん思わない。だって向かい合って座っている大納言様が、この蜂たちの飼い主なんでしょ。

 「(ふぁち)ふぁ、らうたきものぞ。そをなど、ふぃとどものおそれいとふ。ものいふもききわけ、たれたれしゃしてこといふぇば、そのままにぞある」

 大納言様が話しているうちに、車は動き出した。なかなか乗り心地いいかも。

 ところでこのお爺さんは、たしか私が自分のことをかぐや姫だって言ったら、自分は竹取りの翁になろうって言ったんだっけ。

 たしかそんな意味のことを言ってたような気がする。

 竹取りの翁って、かぐや姫を育てたお爺さんよねえ。そんでこうして私を連れていくってことは、親になって私を娘にするつもり? 

 ま、それもいいかも。あのお寺での生活よりかは、ましかもしれない。でも一応確認しておかなくっちゃ。

 私はお爺さんを指さした。

 「親?」

 それからすぐに、今度は自分を指さす。

 「娘?」

 お爺さんは、ニコニコしてうなずいた。間違いない。

 でも、こんなお爺さんの娘ってのはねえ。孫っていうんなら話は分かるけど。

 ま、いっか。蜂を飼ってるってことで、気は合うかもしれないから。

 車は、ゆっくりと進んでいく。

 考えてみればここへ来てから、はじめてあのお寺と山の上以外のところに行くんだ。

 ちょっぴし胸がドキドキ。

 それにしてもこの車、ずいぶんのろいなあ。歩いたほうが早いよ、こりゃ。

 首を左にひねるとそこは車の前で、牛の背中ごしに簾の中からでも景色はよく見える。

 どうでもいいけど、車をひっぱってる牛! 歩きながらウンコすんなよな! 

 後ろは車の後を、隆浩がお供の人たちにまじって、とぼとぼついてくるのも見えた。

 今、車が通っているところは田んぼの中の道だけど、大納言様の背中の右上にある窓からは、この前山の上から見たあのちょーでっかい何重もの塔が、間近に見える。

 さすがに京都タワーほどじゃあないみたいだけど、でもそれに近いくらいの高さはあるよ。

 こんなでかい塔が昔の京都にはあったなんて、今まで全然知らなかった。

 そのうち、川が見えてきた。

 大納言様はああでもないこうでもないって私に話しかけてくるけど、まだ私には半分は何を言っているのかわからなかったから、笑ってごまかしたり適当に相づちを入れておいた。

 河原はけっこう広い。一応橋はかかっているけど板を渡しているだけで、大丈夫かなあって感じ。しかも、中州でとぎれて、また橋。中州にも小屋が建っていたりしてる。それだけでなく、河川敷いっぱいに、汚い浮浪者みたいなのがウヨウヨ。

 川を渡ってからもしばらくは田んぼだったけど、すぐに別世界に入った。急に人が増えて、町が始まった。

 町並はお世辞にも、衛生的とは言えない。今にも崩れそうな掘っ建て小屋が続く。

 屋根は板ぶきで、その上に漬物石みたいな石がたくさん置かれてる。またその前を、どこから涌いたのかと思われるような人たちがいっぱい。

 みんな昔の人なんだ。

 よく見ると、どんなボロを着ている人でも、大人の男で頭に何もかぶっていない人はいなかった。

 これは絶対、映画のセットなんかじゃない。セットは、こんなにリアルじゃないもの。

 ものすごい活気。現代の町のように、みんなただすまして歩いているってわけじゃあない。

 なんだか私、またまた中国に行った時のことを思い出したりしてた。こ

 こはまるで外国――しかも発展途上国みたい。

 そんな人の群れを見てると、また急に恐くなってきた。今、自分がここにいるってことが、とてつもなく恐い。逃げたい。でも逃げられない。心なしか膝が震えているのも感じられた。

 この町はとにかく、人であふれてる。でもこんな行列が通っても、きっと誰の迷惑にもならないと思う。だって道の幅は、現代の大通りくらいあるから。

 片側三車線の大通りくらい。

 ただ、こっちが困ったのは、すごい砂ぼこりだっていうこと。それに町全体が臭い。車の中はお香がたかれているら、なんとかもちこたえられるけどね。

 そのうち行列は右に曲がって、まわりを塀に囲まれた大きなお屋敷がたくさん並ぶ中に入っていった。塀はいかにも京都って感じ。でも、二階建ての建物はなさそうだった。

 とにかく牛の歩くのはのろいから、私は恐いながらもゆっくりと町を観察することができた。

 まわりの山もよく見える。この山を見る限り、間違いなくここは京都なんだと思う。そしてその山の麓にはあの巨大な八角形の塔が、どこまで行ってもその姿を見せていた。

 行列は白い砂利石が敷かれた道に砂ぼこりをあげながら、やがてある屋敷の門の中へと入っていた。

 

 屋敷には玄関なんかなくって、屋根のついた渡り廊下みたいなところから入るみたい。

 ここでも車は建物にピタッとついて、地面に降りなくてもそのまま上がれる。だってだいいち、長袴じゃ靴がはけないものね。

 それにしてもすごい家! 渡り廊下の反対側は庭だけど、それがめっちゃ広い! 一面に小砂利が敷かれている。

 そして建物沿いの植え込みもなじやばい。植えられているのは、みんな牡丹の木ね。それがすごい数。

 もう牡丹の花は終わりかけている頃だけど、満開だったらもっとやばいだろうなあ。

 左の方には、これまた大きな池。池の中に島があって、赤い橋がかかっていたりする。島はうず高くなってて、松が何本も生えてて、その池の向こうは林といってもいいくらい。

 渡り廊下の左の方は、池の上までせり出して行き止まり。建物は右の方にある。

 大納言様はその右の方に歩いていくから、私もついていく。なんと蜂たちも、いっしょに飛んでいくじゃない。よく飼い馴らしたもんだ。

 なんせ足の速いお爺さんだから、ぼやぼやしてたらおいていかれる。

 建物は平屋だけど床がちょー高くて、地面に人がいたら、その腰くらいの高さかな?

 ヘリには橋の欄干みたいな手すりがついている。

 建物だけでも、すごい広さだろうなあ……。

 そう思って歩いていると、さっきまで木の陰で見えなかったけど、建物の向こうにももうひとつ別の建物があるのが見えてきた。

 そっちの方が大きいから、それがきっとメインなんだと思う。

 屋根は瓦でもないし板ぶきでも藁ぶきでもない。何なのだろう。茶色い色してるけど。

 とにかく、あのお寺なんかと比べものにならない。それでも家っていうよりも、かえってここの方が古い大きなお寺みたい。いかにも京都にありそうな……。

 「にしのたいのあきたれば、そにいらしぇたまふぇ」

 歩きながらふりむいて、大納言様は私にそう言ってから、廊下に平伏していた私と同じような十二単の女になんか言いつけていた。女はすぐに立ち上がって、器用にさっさと歩いていった。

 「おんことふぁ、すでにつかふぃしてしらせおきたるに、ふぁや、いそぎもうるふぁしうとこそ」

 何言ってるか分からないけど適当に相づちを打ってさらに歩き、やっと建物に着いた。するとまた別の女が十二単姿で、そこに平伏していた。

 「あないたてまつりふぁべらん」

 今度は女が、私にそう言う。そうなると大納言様は、ひとりでさっさと行ってしまった。立ち上がった女は私を促すように歩き出すので、それに私もついていく。もうこうなったら、どうとでもなれって感じ。

 建物と建物の間は、みんな渡し廊下でつながっている。廊下といっても柱と屋根があるだけで壁なんかなく、左右にはやはり橋の欄干のようなのがついてる。

 メインの建物に着くと、庭とは反対側の裏手へと女は行くから、私もついていく。驚いたことにうしろにも渡り廊下がのびていて、また建物がある。

 どうして大きいのをドーンと建てないで、こんなにいくつもの建物に分けて建てて、面倒にも渡り廊下でつないでいるんだろうと思う。

 その渡り廊下の下から小川が流れ出て庭をくねり、池の方に注いでいる。

 渡り廊下の間の小さなスペースにも石が並べられ、苔で覆われていたりする。植わっている木は楓だ。今は葉も緑だけど。

 このあたりの植え込みは、牡丹じゃなくって菊になってる。これまた秋になって一面に花が咲いたら、すごいだろうなあって思う。

 お金がかかってるだろうなあ。あ、そうか、厚生大臣のお屋敷なんだと、納得。でもやっぱ心細い。ガイドの案内付きで、京都の古いお寺を見物しているわけじゃないんだ。

 しばらく歩くと、はじめ見た建物と反対側にも、またまた建物があった。いったいいくつあるの? 他にも倉庫とか小さな建物は庭と反対側にもいくつも見えるけど、それらはちょっとボロい。使用人が住むところかなって気がした。

 女に着いて、また渡し廊下を歩いてたどり着いた建物は、壁のかわりに格子のはまった板が柱と柱の間にははめられていて、上半分は外側に跳ね上げられ、鉄の棒で吊るされている。そうしてできた窓には、全部内側に簾がおろされていた。

 そのへんは、あのお寺と同じ。

 一ヶ所だけあった木の開き戸を、女は開けた。

 中は部屋かと思ったら、また廊下。部屋との間は壁はなくて、丸い柱の間にはあのパーテーション――キチャウが並べられているだけだった。

 正面まで行くと、やっと中に入れた。床はやっぱ板張りで天井もなく、見上げたらいきなり屋根裏。

 入ると大勢の女たちがなんとひれ伏して、私を迎える。これにはびっくり。しばらくは立ったまま、部屋の中を観察してみた。それが私の部屋? 隣の部屋とは、ふすまで仕切られてる。でも天井がないんだから、ふすまの上はスカスカにあいてる。

 壁で囲まれた部屋も、ないことはないみたい。部屋の中にあるのは屏風と小物がのっている棚、箱、丸い鏡ののった台、照明用の油の入った小皿の台、そんなところ。

 部屋の真ん中にだけ畳が二畳敷かれてて、その上には座布団もある。脇にはひじかけ。そこが私の座る場所みたい。

 座ると、女たちが次々に私の前にきて、座って挨拶をする。

 「大夫(だいふ)とまうししゃぶらふ」

 みんな大真面目、少しも照れがない。やっぱ本物の昔の人なんだ。

 こうなったら私だけ、照れているわけにはいかない。私も大真面目に、お姫様になりきろう。それだけが、恐怖心をごまかせる……とは、思うんだけど……・・。

 もし私が、現代にいた時にも国務大臣クラスの上流階級のお嬢様だったら、なんとかなったかもしれない。でも、私は庶民、小市民よ! たとえ同じこの時代の人だとしても、庶民の娘をつかまえてきてこんな格好をさせて、ここに座らせたりしたら、ギクシャクするに決まってるじゃない。

 ま、そんなこといってもしょうがないから、とにかく今はできるだけ横柄にふるまおう。

 そう、私はお姫様、貴族のお姫様よ……現代ではいざ知らずここでは…… 

 「兵衛(ひゃううぇ)にてしゃぶらふ」

 「小大輔(こおふぉすけ)にてしゃぶらふ」

 女たちの挨拶が進む。

 自分ながら上出来。私、生物部だけじゃなくって、演劇部の部長もやれそう。

 それにしても私のこと、この人たちにはなんて説明されてるんだろう。誰も不審に思ってないのかなあ、私みたいなのが突然現れても。みんな当たり前って顔して、次々に挨拶していくけど。

 まさか竹の中から出てきたなんて、説明されてるんじゃないでしょうね。

 「しゃれば」

 ひととおり挨拶がすんだらしくホッとしていると、最初に挨拶したいちばん年上らしい大夫といったおばさんが、また私の前に来た。

 「けのおんぞ、まうぃらしぇたまふぇ」

 二、三人がすぐに立ち上がり、壁に囲まれた部屋の開き戸をあけた。何か出てくるのかなって思ってたら、戸を開けた大夫おばさんはそのままじっと待っている。

 そして私を見るのだ。

 「とく」

 もう一度、大夫おばさんが言う。

 私に中に入れってことかと思ってしずしずと入ると、戸はしめられた。

 ここは寝室みたい。

 白い布でできた大きな直方体のテントのようなのがあって、その中に畳が二畳だけ敷かれている。お寺のと違って少し厚みのある畳だけど、それが何枚か重ねられていた。

 やはり布団はなかった。

 その脇に立たされたので下を見ると、箱に入った着物があった。どうやらこの重苦しい十二単から、着替えさせてくれるんだと心は大歓迎。

 でも、白い着物と赤い袴になった時、着替えさせてくれている女たちの手がとまった。

 「などかくも、長きおんコソデぞ」

 そんなこと聞かれたって、知ってる訳ないでしょ。

 でもなぜか女たちは、私の白い着物をつまんだりして、互いにひそひそと話したりしてる。

 そのうち一人が出ていって私は放置。

 愛想のつもりか、残った女は私を見てニッコリ笑ったりするけど、その真っ白な顔、描いた眉、そして黒い歯――きもいんだよなあ。

 しばらくしてさっきの人、やっと戻ってきた。手には別の白い着物を持っている。

 「これに、かふぇたてまつりてん」

 手早く袴を脱がせると、女は白い着物の帯までとこうとする。

 待ってよ! ぱんつはいてないんだから! と、思っている間もなく、さっと腰巻きをまいてくれた。

 考えてみれば、これが本当だよね。和服で腰巻きもしないでぱんつはいてるなんて、邪道だよね。たしかお母さんもそう言ってた。でもこの腰巻き、ミニスカートくらいの長さしかない。

 「こふぁ、()ぞ?」

 不思議そうに女は、ブラジャーをひっぱる。そんで、びっくりしている。そうか、この人たちブラジャーはもちろん、ひっぱると伸びるゴムってのも見るの初めてなんだ。

 私は噴き出しそうになったけど、わざと偉そうに叫んだ。

 「苦しうない!」

 そうしたら女は恐縮して、持ってきた新しい白い着物を着せてくれた。

 これで少しは安心。だって、今まで着てたのって、この時代に来てから昼も夜もずっと着っぱなしだったんだもんね。

 でもこの新しいやつ、上半身だけ。袴をつけても、裾は袴の外。おまけにスケスケのシースルー。これでブラジャーしてなかったら、全部が丸見えじゃない。

 ま、その上からもあと二枚くらい、上に羽織るきらびやかな着物を着せられたからよかったけど、それにしてもこのくそ暑いのにどうしてこんな重ね着するの? 

 十二単よりかはましだけどね。でもきっとこれが本場じこみの、本物の着付けなんだ。着物学院の衣裳は、ずいぶん現代風にアレンジされてたものなんだなと、今になってやっと分かった。

 なんとかかたちついて部屋から一歩出ると、大夫おばさんが私の前に畏まった。

 「大納言殿の、おんきたのかたぞわたりたまふぃふぁべらんずる」

 そのときゆっくりと、ひとりの女の人が部屋に入って来た。私のとおんなじような、身分の高い人の着るような着物を着てる。女たちは一斉に平伏した。私だけが突っ立っていると、大夫おばさんが私の袖をひく。私にも平伏しろっていってるみたい。

 しかたなくそうすると、入ってきた女の人は平然と、私の座るところであるはずの座布団の上に座るじゃない。そして、

 「おふぁしましぇ」

 と、私に言う。また、大夫おばさんが私をつつく。そこで私は偉そうな女の前に出た。さっきまでふんぞりかえる私の前で、ペコペコしていた女たちのいたところに今度は私が座って、私のかわりに別の女がふんぞりかえってる。その女は私を見て、また黒い歯を見せて微笑んだ。

 「殿より、つとにうけたまふぁりぬ。かぐやふぃめとかや。しゃればわれこそ、竹取の(おうな)なるらめ」

 そして、ケラケラと笑う。

 「おもふぃいどぅること、つゆなしと聞く。いと、いとふぉし。殿もかやうに(おぼ)し召してなん、なれをうぃておふぁしましぬるラン。われをまことふぁふぁともおもふぃて、ここにてくらしぇ。けふよりふぁ、なれふぁこの(いふぇ)の娘なるぞ」

 この家の娘……車の中で大納言様に言われたとおりだ。身寄りもない、記憶もない――と、いうことになっている――私を、憐れんで、養女にしてくれるってことらしい。

 よろしくお願いしますって意味のことを言いたかったけど、どう言えばいいのかわからなかったから、黙って頭を下げた。

 「われらにふぁ、娘もなきふぉどに、こふぁふぃとふぇにくぁんのんのごかごにてこそ。月にふぁなかふぇりそ。いついつまでも」

 またニッコリと笑って、女の人は出ていった。

 それにしても誰なんだろう。大納言様の娘かなあ。それとも、息子の嫁さん? 

 でもそうだったら、私は大納言様の孫としてひきとられることになるはず。話がへん! 

 「ねえ、今の人だあれ?」

 私は大夫おばさんに聞いてみた。

 「やや、武蔵(むしゃし)よりおふぁしぇしとふぁ聞きしかど、まことあどぅまのかたの、のたまふぃやうにてふぁべるかな」

 おばさんは笑ってる。通じなかったのかなあ。当たり前だ。私、思わず現代語で喋っちゃったから。

 そこでひとつ、咳ばらい。

 「今の御方は、たれなるか」

 「殿の、オンキタノカタにてなん」

 「キタノカタ?」

 「ツマにて」

 「ツマ……妻! 妻あ!?」

 つまり、奥さんってこと? つりあいがとれてない! だって、まだ四十歳くらいだったよ。あのお爺さんの奥さんだったら、年が離れすぎてるんじゃない? 

 「ちょー……じゃ、ない……いと、いと若い方!」

 おばさんは少し笑った。

 「ことわりなりかし。殿のうしぇたまふぃしおんしぇうとの、さきのナカミカドノミギノオトドの、み娘にておふぁしましふぁべれば」

 やっぱ話がこみいってくると、まだよく分からない。

 まあ、いいやと思っているうちに、夕食になった。

 わ、すごいご馳走。ご飯はまるで筒のように、上が平らな山盛り。

 そして来るわ来るわ、タイの尾かしら付き、あわびの焼き物、そうめんもあるし、ヨーグルトみたいなものもある。それとお芋の煮っころがしに、お吸い物もついて。

 それぞれの量は少ないけど、すごい品数。食べられるかなあ。

 でもねえ、食器がねえ。あのお寺のと変わらないじゃない。

 また味がなくって、自分で小皿の塩や酢や味噌のような醤油を匙でかけて味付けするのも、お寺の時と同じだ。

 まだ外は明るいのに、食べ過ぎた。入れたら出さなきゃ。

 そばにいた女に、私は、

 「しの(ふぁこ)

 と、言った。例の箱だ。

 「いざ、ふぃどのふぇ」

 女は立ちあがって、、ふすまをあけて次の部屋に私を連れて行く。

 トイレがあるんだ! 

 さすが、お寺と違って貴族のお屋敷! ……と、思っていると、ただの狭い部屋。そして、あの箱がしっかりと置いてある。状況は何も、変わってはいなかった……。

 「ふぃすまし、まうぃれ」

 女が大声で呼ぶと、みすぼらしいなりの女の子がやって来た。

 私がいつまでも立っていると、女が手で示して私をしゃがませる。そして女の子が私の袴の脇から、箱を入れる。お寺でもはじめはこうされそうになったけど、その時は拒否して、そのあともずっと自分でしてた。

 でも、やっぱこうして人にしてもらうのが、貴族のお姫様らしさかもしれない。

 そう思って今度はさせることにした。なんと今までは、袴を脱いでまた履くのがひと苦労だったけど、下が短い腰巻きだけなら、袴を脱がなくてもできるんだ。発見! 

 女の子が手に持っている箱に用をたしたら、女の子はすぐに箱を取り出してすばやくふたをして、部屋の外に持っていった。

 その器用さといい、みすぼらしい身なりといい、これ専門に仕えている女の子なんだなって思う。これからは、みずすまし……じゃなくって、なんだっけ、そう、「ふぃすまし、まうぃれ」って呼べばいいんだ。ひとつ勉強! 

 さて、すっきりしたところで、何もすることがない。ボーッとしているうちに日が暮れた。

 あたりが暗くなるとすぐに、ドンドンと大きな音が連続して聞こえてきた。格子の窓板を、下ろしている音だ。

 部屋の中には淡い火がともされた。小皿の上でチョロチョロ燃えてるやつ。でもお寺のと違って数があるので、なんとか人の顔は分かる。

 「大納言殿の、わたらしぇたまふ!」

 大きな音が、部屋の外でする。

 大納言様が入ってきた。

 また女たちは平伏する。私も座布団からおりてそうしようとしたけど、立ちあがる前に大納言様は手で制した。

 「おふぁしぇ、おふぁしぇ」

 そうして私の前に、おもむろに座る。

 「いかに。いまだうふぃうふぃしきころならんふぁ、こころぼそくこそあらめ」

 そう言ってから、大納言様は(ふところ)から何かを出した。笛だ。

 「こころばかりの、おんなぐさみに」

 薄暗い部屋に、大納言様の笛の音が響く。上手なんだ。ふと感心してしまう。それにしても、久しぶりの音楽。なんだか大納言様の優しさがしみじみ伝わってきて、胸が熱くなってきた。

 「ありがたく、思ひ侍り」

 一曲終わってから、思わず私はそう言った。

 「ありがたくとや」

 大納言様は、満足そうにうなずいている。

 「我が笛ぞ、みなふぃと、世にありがたきものといふなる。しゃふぁ、ありがたきこととふぃとふぁいふとも、ここにても虫かふぇ。わが蜂かふも、ありがたきこととみなふぃといふぇば、おなじきことにてなん」

 なんだか大納言様が言ってる「アリガタキ」という言葉は、私が言ったのとは意味が違うみたい。なんで話題が虫や蜂の方にいくんだろう。

 「しゃらにふぃとふぁ、蜂かふなんど、ありがたきことといふばかりにふぁあらで、えうなきことにもいふぃなす。しゃれど、しゃいつごろ、トバドノにて、蜂のすのおちて、うふぇのおんまふぇにも、あまた蜂のとびちりしときにも、ふぃとどもふぁただおでぃしゃふぁぐのみにてありしかども、われふぁ、びふぁのかふぁを、つめして、むきてしゃしあげ、蜂をぞあつめたりし。それよりふぁ、ウィンのおんおんおぼえも、めでたくぞなりぬるかし」

 ああ、こんなこみいった話になると、何言ってるのかまだぜんぜん分からない。大納言様の顔つきは、何かを自慢しているみたいだけど。

 「しゃれば、ここにても、虫かふぇ。くるしからず」

 声をあげて笑って、大納言様は行ってしまった。

 そうだ、虫、虫、虫! 虫の観察しなければ、私がこの時代にいる意味がない! 集めた虫はお寺においてきちゃったけど、早く取り寄せなきゃ。

 大納言様がいなくなってから、女たちはすぐに寝床の仕度をはじめた。もう寝ろっていうみたい。

 さっき暗くなったばかりだから、今は七時頃かなあ。暗くなったら寝る、明るくなったら起きる――この時代は不潔で不衛生な時代だとばかり思っていたけど、逆に案外健康的な生活をしてるっていえるかもしれない。

 でも私は、まだ寝るわけにはいかない。

 やっと女たちもいなくなって、ひとりだけの時間。あした起きたらまた、多勢の女たちに囲まれて暮らすんだ。

 こんな窮屈な生活なら、かえってお寺にいた方がのびのびできたかも。

 ここに来るに当たって唯一期待していたことも、期待はずれだった。とうとう最後まで、お風呂にどうぞの声はなかったから。

 私はこっそり、足音をたてないようにして戸をあけて、縁側に出た。

 「隆浩!」

 声を殺して呼んでみる。返事はない。夜でも今日は少し明るく、広い庭の池の様子なども見える。月がまだ満月じゃあないけど、空にあるから。月があるかないかでこうも夜の明るさが違うなんて、私は初めて知った。

 しばらくそのままでいると、庭の菊の植え込みが微かに音をたてた。身をこわばらせると、そっちの方から押し殺した声がした。

 「ミッコ」

 隆浩の声だ。よかった! 

 「隆浩。ちゃんとこのお屋敷の、家来になれた?」

 「ああ、なんかへんな板に名前を書かされて、そんでOKみたいだぜ。それよりも、もう完璧に間違いねえよ、タイムスリップ」

 「私もそう思う。でも、何時代?」

 「それが分かんねえんだよ。平安、鎌倉、室町のうちの、どれかには違いねえだろうけどな。これでいろいろ考えてるんだけどよ」

 隆浩が(ふところ)から出したのは、あの暗記カード。持ってきてたんだ。

 「ちょっと貸して!」

 手にとってみると、プラスチックの表紙、金属の輪、厚紙、鉛筆の文字、そんなもの何もかもが懐かしくなって、なんだか涙さえ出てきちゃいそうになった。

 だからあわてて、隆浩に返した。

 「それよりさ、お願いがあんだけど」

 「なんだよ」

 「お寺に置いてきた虫籠、取ってきてよ」

 「またかよ」

 あきれたような顔をしてたみたいだけど、

 「分かった、分かった」

 と言って、隆浩は引き受けてくれた。

 「お互いに協力し合わなきゃな。こんな異常な事態だしな。困ったことがあったら、何でも言ってくれよ」

 「ありがとう」

 私がそういうと、手を振って隆浩は庭の闇の中に消えた。

 

 

                3

 

 みんなすごい早起き。お寺もそうだったけど、それはお寺だからだって思ってたのに実はそうじゃなかったんだ。まだ人が寝てるのにバンバンと音をたてて、格子の窓板が上げられる。パッと朝日がさす。もう、寝てなんかいられないじゃない。

 私はしかたなく、起きだす。

 朝の身づくろいは、みんな女たちがやってくれる。髪もとかしてくれる。でもそんなに強くひっぱんないでよ……これ、かつらなんだから。

 「くぇさうをぞ」

 髪の次は、鏡の前に座らせられた。メークか……。

 あっ、ちょっと待って! もしかしてこの人たちと同じ、真っ白な顔にさせられるってわけ?

 ヤダヤダ、冗談じゃない! 

 「いらぬ!」

 私が叫ぶと、女たちはびっくりしたような顔をして不思議そうに私を見た。

 「など、眉も抜きたまふぁざるや。(ふぁ)も白きふぁ、いとびんなきこと」

 え、歯も? まさかあんたたちのように、歯も黒く染めようってか。

 やめて! 

 もう。ほんとうにもう冗談じゃない! どんなにお姫様になりきろうって思ったからって、これだけは絶対にイヤ! それでもなんか準備してきて、無理やりはじめようとしてる。

 私は思い切って、女たちをはねのけた。

 「やめてよっ! もう、うるさい! きたなーい!」

 女たちは身をすくめて、それから私を横目で見て、互いにひそひそ言い合ってる。

 「うるさし、きたなしとかや」

 「げに、いと、あしゃましきことにてなん」

 ない眉をひそめてるよ、こいつら。

 私は素顔でいいんだよ、女子高生なんだから……ってのは、言い訳にはならないか……。

 とにかく女たちはあきらめたみたい。でもそれからというもの、なんとなく雰囲気が悪くなった。女たちは化けものを見るような目で、私のことを見る。自分たちが化けものような顔してるくせに。

 なんだかんだしているうちに、やっと朝ご飯が来た。でも、がっかり。お寺とおんなじお粥。なんとか食べて、それから何が始まるのかなって思っていたら、何も始まらない。つまり、何もやることがない。お姫様って、こうして一日じゅうボケーッとしているものなの? 

 庭には明るい日ざしが輝いて、新緑がまぶしい。空もよく晴れてるみたい。

 もう、こうしてはいられない。私は立ち上がって、庭の見える窓の方へ行こうとした。そうしたら女たちは、急に慌てだす。

 「いどぅこふぇ、おふぁさんずる」

 「庭。庭が見たい」

 「あなや、あやしきことのたまふものかな。かやうに、ふぁしちかにおふぁしますべきものかふぁ」

 あやしいって、なんで庭を見るのがあやしいんだよ。もしかして私のこと。警戒してるの? この人たち。

 私はこの家に、娘として迎えられたんだ。監禁されに来たんじゃない! あんたたちって、監視役なの? 

 切実に女たちに、そうぶちまけたかった。でも、言える自信がなかったから、黙った。

 もう、ちょーヤダ! これじゃあ、囚人扱いじゃない。

 貴族のお姫様ってみんなこんな感じで、一日じゅう何もしないまま一生を終わるわけ? 冗談じゃない! もうイヤ、絶対イヤ! 早く現代に帰りたい! 

 ほとんど泣きべそになって、私は座った。ほんとうは、大声で叫びまくりたい気分なのだ。

 「てならふぃなんど、いかが」

 兵衛と言っていた女が私の機嫌が悪いのを見て、話しかけてきた。ご機嫌とり、見え見え。

 「まなぞかきたまふなるに、さやうにざえふぁべるおんみにておふぁしましゃば、てならふなんどもよきことと」

 訳が分からないでいるうちに、紙と硯と筆が来た。

 「こふぁ、かなもんじのふぉんなり」

 ひろげられた巻き物には……え??? ――これ、字? どう見ても、ミミズのはったあとにしか……。

 「読んで!」

 私は叫んだ。兵衛は少し私をバカにしたような笑みを見せてから、読みはじめた。

 「昔、竹取の翁といふもの、ありけり。野山にいりて、竹を取りつつ、よろどぅのことに、つかふぃけり・・・」

 「あ、それ!」

 私は、また叫んだ。

 「竹取り物語」

 「しゃなり、しゃなり」

 兵衛はうなずく。そうか、こんな文字で書くんだ。よし、覚えようと、もう一度ゆっくり読ませて、もらった紙に同じ字を写していった。でも、同じになるわけがない。なかなかナギのようにはいかないよ。

 ふと、しばらくは熱中してしまった。だけどすぐに虚しくなる。毎日こんなことだけして、それで日々を暮らすってわけ? たまんない。ため息出ちゃう。

 「ミッコ、ミッコ!」

 庭の方で声がする。隆浩だ。

 だけど私よりも早く、女たちの方が一斉に縁側へと出ていった。私ははじめ、簾の中からのぞいていた。女たちはものすごい剣幕で、隆浩をとがめている。

 でもそのうち、女たちの声は悲鳴にかわった。私はすぐに飛び出した。

 隆浩の腕の中には、たくさんの虫籠が抱えられていた。

 「隆浩、サンキュー!」

 今度は私が女たちをバカにしたような笑いを見せながら、隆浩から虫籠をひとつひとつ受け取った。

 女たちは怯えきった様子で、遠まきに見ている。いい気味。

 もうこっちのもの! 私は勝ち誇った気持ちで鼻で笑ってから、虫籠を部屋の中へと運んだ。

 もう女たちは、一歩も部屋に入れない。

 そのうち、バタバタと廊下を走りだしたりしてる。

 「うるさいなあ、もう! けしからん人たちねえ! 暴走族? あんたたち!」

 思わず現代語で怒鳴りつけて、ついでににらんでやった。

 「くぇしからず、ぼうぞくなりとかや」

 またひそひそと話してる。まったくマナーのなってないやつら。女中として失格よ! 

 でも私は、そんなのにかまってられない。

 長い髪がうるさいから両耳にはさんで、虫籠をひとつずつのぞきこんだ。これこれ、これがなかったら、私はここでは生きていけない。

 現代には帰りたいけど、やっぱりここでしかできない蝶の幼虫の羽化を観察してからじゃないと……。そうしてその日は、あっという間に暮れた。

 夜になって寝床に入ってから、今日はいったい何月何日なんだろうということが気になってきた。この時代に来てからの日数を思い出して数えて、日付にあてはめてみた時、私はハッと気づいたことがあった。

 隆浩は、困ったことがあったら何でも言ってくれって言った。でもこれだけは、絶対に男である隆浩には言えない。女としての緊急事態が迫っているのだ。

 翌日になってから、思い余って私は大夫おばさん――本当は、大夫の君って呼ばないといけないみたい――を壁に囲まれた部屋へと連れて入った。

 若い女たちが、何か私に敵意の目を向けているような雰囲気の中、この人だけは変わらずに優しく私に接してくれているようだったからだ。

 「あのう、私、生理が近い」

 もちろん、通じるわけがない。そこで一度部屋を出て、きのうお習字に使った筆に墨をつけて持ってきて、お寺で使っていた白い扇に「生理」と書いて見せた。

 それでも分かってもらえないようだった。そこで、保健体育の時間の用語の、「月経」と書いてみた。

 「しゃふぁりものにや」

 やっと分かってくれたみたい。一応、安心。

 でもまさかナプキンやタンポンが出てくるわけないと思っていると、出てきたのは箱に入った綿みたいなもの。

 「これ、()ぞ」

 そう聞いてみると、大夫の君はニッコリとうなずく。

 「グァマのフォワタにてこそ」

 グァマって、ガマガエル? ガマガエルからこんな綿が? 

 ま、いいや。とにかくこの綿みたいなのが、ナプキンの代わり? でも、どうやって使うの? 私、ぱんつはいてないし、アンネショーツだってあるわけないし……。

 「こを、いかやうに?」

 「しゃれば」

 大夫の君は綿をつかみ、私の袴の脇から入れた。そして短い腰巻きのうしろの部分ではさんで、それを前の帯に下から入れる。

 これじゃあ、ふんどしじゃないさ。

 この時代の女の人って、みんなこうしてるんだ。

 「ありがとう」

 私がそう言うと、大夫の君は首をかしげた。

 「など、ありがたきことぞ」

 そうだ。言葉の意味が違うんだった。せっかくここの言葉をだいぶ覚えた私にとって、このことが大きな障害になっているようにも感じられた。

 

 毎日が髪を耳にはさんでの、虫とのにらめっこの日々だった。

 考えてみればちょうどいい季節。だって、今が羽化の頃だから。

 しっかり観察してからじゃないと、現代に帰れない――と、言っても、本当に帰れるのかなあ。それだけが不安。

 ここでいくら虫の観察しても、現代に帰れなかったら何の意味もないものね。それでも、記録だけはとっておかないと――紙はあまりないみたいだから、扇に細かい字で記録をとるしかない。

 新しい虫は、隆浩がどんどんとってきてくれる。

 だ、羽化の観察には、さなぎもいる。急がないと。だって、もうかなりさなぎも減っている頃。ああ、自分で出歩いて探すことができたら、どんなにか――隆浩に頼んでじゃ、いと心もとなきわざなれば――ずいぶん、ここの言葉にも慣れてきたなあ。

 それにしても庭はもちろん、部屋のまわりの廊下に出てでさえ、女たちはつべこべ言う。

 同じ敷地内の建物でも、渡り廊下でつながった隣の建物は、私には無縁の世界。こんなところに閉じ込められるんなら、ショーでは下女の役でもやっていた方がよかったかも。

 はじめは馬鹿にしてたけど、今では隆浩がうらやましい。

 真っ白のメークや歯を黒くすること、これだけは今でも断固拒否している。でも、それが女たちにとってはよっぽどへんなことらしくて、いつも白い目で見られる。それにも、もう、うんざり。

 「隆浩! もう、息が詰まる! こんなところに閉じ込められて、自閉症になっちゃうよ、もう!」

 ある日また、虫を待ってきた隆浩をつかまえて、私は切実に訴えた。

 「お姫様なんかになるじゃなかった。そしたら、自由に歩きまわれたのに!」

 「ばーか、おめえなあ、外なんか出てみろよ。町じゅう、臭い臭い。みんな道端で、ウンコしてやんの。男も女もだぜ。そんでもって、人間の死体もごろごろしてんだからよ。それも一人や二人じゃないぜ。あっちこっちにごろごろだぜ」

 「げ! うそォ!」

 「またそれに、ハエはたかってるし、犬は食ってるし」

 「も、いい! やめて!」

 私は耳をふさぎたい気分だった。

 「このお屋敷の中にいて、正解だよ。それよりおめえ、ちゃんと、メシ食ってんのか」

 「うん。わりとまともなもの食べてるよ。ちょっと粗食かなって気もするけど。お肉はないけど、鶏肉なら出るし」

 「いいよなあ。おめえ、お姫様だからこそ、俺たちの時代の庶民と同じものが食えんだぜ。俺なんかなあ、この時代の庶民のもの食わされてるけど、まずくって食えねえよ」

 「は、かわいそ! それより、虫は?」

 「ちゃんと、とってきたよ」

 私はまた、虫を受け取った。

 虫を部屋の中で飼うようになってから、女たちはめっきり部屋の中に近づかなくなった。それでいて、廊下の当たりでひそひそと、私の陰口たたいてる。私に聞こえてるって分かってるだろうに、自分の主人の耳のあるところでその主人の悪口言うなんて、この人たち、どういうシンケーしてんの? 

 「いみじくしゃかしたまふぇど、ここちこそまどふぇ」

 「この、おんあそびものよ」

 「いかなる(ふぃと)(てふ)()どぅる姫君(ふぃめぎみ)に、つかうまつらん」

 ま、聞いてもまだ、全部は何言ってるか分からないけどね。でも人のことネタにして笑ってるなんて、まじムカつく! 

 「眉ふぁしも、かふぁ虫だちたんめり」

 「しゃて、(ふぁ)ぐきこそ」

 「(かふぁ)の、むけたるやうにやあらん」

 また、笑う。いいかげんムカついて、あいつらに向かって虫の一匹でも投げつけてやろうかと思って立ち上がろうとした瞬間、大夫の君がしずしずと、私の悪口言ってた女たちのところに行った。

 「若人(わかうど)たちふぁ、何ごと、言ふぃおふぁさうずるぞ。(てふ)()でたまふなるふぃとも、もふぁらめでたうもおぼいぇず。くぇしからずこそ(おぼ)ゆれ。しゃてまた、かふぁ虫ならべ、(てふ)と言ふ(ふぃと)、ありなむやふぁ。ただ、それが、もぬくるぞかし。その(ふぉど)をたどぅねて、見たまふぞかし。それこそ、心深けれ。(てふ)ふぁとらふれば、手にきりつきて、いと、むつかしきものぞかし。また、(てふ)ふぁとらふれば、わらふぁやみしぇしゃすなり。あな、ゆゆしともゆゆし」

 よく分からないけど、なんだか意見してくれてるみたい。

 まだまだ何言ってるかは聞き取れないけれど、意見された若い女たちは、ふてくされて行ってしまった。たぶん、私に味方するようなことを、言ってくれたんだろう。

 このおばさんだけは、私に味方してくれる。

 あと、大納言様も。

 だってここで虫を飼うことは、ちゃんと大納言様のお許しを得てのことなんですからね。でも大納言様だって、陰で何言われているか分からないね。蜂なんか飼ってるんだから。

 

 そんなある日、やっとひとつのさなぎが羽化し始めた。これは見もの。しかもオオムラサキよ。オオムラサキの羽化の実物なんて、日本の高校生で見たことある人、いる? 

 頭が半分出た。今頃羽化するのは、オオムラサキでも遅い部類に属する。アゲハなんかは木の枝にさなぎを作るけど、オオムラサキは葉の裏に作る。今羽化しているさなぎがついているのは、エノキの葉だ。

 「おん北の(かた)、わたらしぇたまふ!」

 え、やだ。まじ? 冗談じゃない! こんな時に。ちょっと待ってよ! いちばんいい時なんだから! 

 そう思っているうちにもう、廊下の方には衣ずれの音が響いてきた。そして、しずしずと入って来る奥方様――ここでは、私のお母さんだけど――。お願い! もっと早く歩いて! 羽化が終わっちゃう! 

 そんな私の気も知らないで、ゆっくりと奥方様は、畳の上の座布団の上に座る。私はしかたなく、その前に畏まった。

 「聞けば、虫かふぃたるなりとや」

 「はい」

 私は手で、部屋の中の虫籠を示した。奥方様は、ちょっとだけ描かれた眉をしかめた。

 「殿の、おん許しを得て侍りぬれば」

 「シンデンにてふぁ(ふぁち)、ニシノタイにてふぁ鳥毛虫(カファムシ)とふぁ、あな、いかなるすくしぇの、ゆうぇならん」

 今度は、ため息なんかをついている。

 「殿ふぁしゃもあらばあれ、わかごじぇふぁ若きふぃめにてやあらん。いと、おとぎきあやしや。(ふぃと)ふぁ、みめうぉかしきことをこそ好むなれ。むくつけげなるかふぁ虫をきょうずるなると、世の(ふぃと)の聞かんもいとあやし」

 完璧に私に、意見してる。誰かチクッたな。

 それにしてもこの人、私が虫を飼うのに意見するってことは、大納言様が蜂を飼っていることも、きっとよく思っていないんだろうな。

 夫婦仲も、うまくいってるのかなあ。年も離れてることだし。

 ま、そんなことは、私の知ったこっちゃない。

 「苦しからず」

 私は伏せていた顔をあげて、大納言様が言っていたとおりに言ってみた。さらに一所懸命、頭の中で文を組み立てる。

 「何ごとも、もとを知って末を見るが大事と思ふ。恐がるなど、いと幼きことなり。鳥毛虫(カファムシ)の、(てふ)とはなるなり」

 蜂よりかはずっとましじゃないと言おうと思ったけど、それはやめた。そうしているうちにも、オオムラサキの羽化はきっとどんどん進行していってる。

 「しゃふぁあれど……」

 奥方様はまだ何か言いかけたけど、もう、こっちの身にもなってよねって感じ。

 「あ、ちょっと」

 そう言って私は、ふたがあいたままのオオムラサキのさなぎの籠を持ってきた。

 「ごらんぜよ。鳥毛虫(カファムシ)がまさしく、(てふ)になるところなり」

 もうだいぶからだの半分が、さなぎから出てしまっている。とんだ邪魔が入らなければ、もっとゆっくり観察できたのに。

 「人の着る絹も、蚕のまだ羽つかぬ時に出して、(てふ)になりたれば糸も出さず……エット……用なきものにこそ」

 ほんとは蚕は蝶じゃなくって蛾なんだけど、ま、いっか。素人にはこっちの方が、分かりやすい。

 奥方様はオオムラサキの籠からは目をそらして、そしてまたため息をついている。

 「あなや、あやしのかぐやふぃめなるかな。鬼と(うぉんな)ふぁ、(ふぃと)に見いぇぬぞよき」

 それだけ言い残すように言って、奥方様は立ち上がって行ってしまった。怒らせちゃったかな……

 でも、大納言様が味方なら大丈夫。

 それに、実は私には、ある計画がある。ひととおり羽化の観察が終わったら、ここを逃げ出すつもり。こんな狭い部屋に閉じ込められて暮らすのは、もう限界! 隆浩には、まだ言っていないけどね。

 それにしても「あやしのかぐや姫」か。たしかにかぐや姫は、こんなふうに虫なんか飼ったりしなかっただろうからね。

 ただ、若い女たちといい、奥方様といい、ずいぶん私の噂があちこちに広がっているような言い方してたね。ま、いいけど。

 かぐや姫の話はたしかこのあと、五人の求婚話になるんだったよね。やだ、冗談じゃないと一瞬思ったけど、ま、そんな物語どおりにいく訳ないし、心配いらないと思ってた。

 

 うっとうしい雨が続いた。梅雨になったみたい。気候もますます熱くなっていく。

 もう最近では女たちの中でまともに私の話し相手になってくれるのは大夫の君だけで、ほかの若い女中たちは完全に人を奇人変人扱いしてる。

 でも何よりの楽しみは、隆浩が採ってきてくれる虫。

 「え? 何、これ?」

 曇り空の下、その日隆浩が取ってきた虫の中には、カマキリとかカタツムリまでいた。

 「こんなの、頼んでないじゃん。蝶の幼虫だけでいいんだよ」

 「だって、それだけじゃ芸がないだろ」

 隆浩は笑っている。

 それからその日はその後でまた雨が降りだしたので、カタツムリが勝手に跳ね上げた窓の下の部分の上のヘリの上を歩いているところなんか見ていた。

 蝶の幼虫じゃなくたって、こんなカタツムリでも何だかかわいらしくなっちゃう。

 いちばん大事なのは、ただ観察や研究の対象としてだけでなく、虫への愛情よね。一つ一つの生命とかかわりたいっていう精神よ。

 そんなこと思いながら私、カタツムリを見ながら「で~んでんむ~しむし、か~たつむり~。お~まえのあ~たまはど~こにある~」なんて、大声で歌ってた。こんな歌にも、現代への懐かしさを感じてしまう。

 暇つぶしっていえば、最近隆浩は虫を持ってくる時に一人じゃなくって、仲間になったみたいでほかの下人を連れて来るようになった。

 すぐに友だちを作ってしまう隆浩の社交性というかずうずうしさというか、ちょっぴり、本当にちょっぴりだけど尊敬してしまう。

 それにしても、みんな若いんだあ。現代だったら、中学生くらいかなあ。それなのにこの時代では、もう働いてるんだなあ。

 「こいつが……」

 と隆浩は紹介してくれるけど、いちいち名前覚えるのもめんどう。

 「そのひとはカエルみたいな顔してるからケロオ。次がカマキリまる。その次はバッタのすけ」

 なんて勝手に名前付けて、自分で受けて笑ってた。言われた本人たちは訳が分からずきょとんとしていたけど、隆浩も大笑いだった。

 そしてこの盆地に激しい雷が鳴ったのをきっかけに、雨も少しずつ少なくなっていった。

 このところ大納言様は、毎日帰りが遅いみたい。隣の建物のことだから、気配でわかる。ただ、今日は珍しく、外出はしていないみたいだった。

 「殿は、忙しくて?」

 私は、大夫の君に聞いてみた。大夫の君、ちょっと首をかしげた。こうじゃないんだ。「忙しい」って、なんて言うんだろう。まだまだ私の、ボキャブラリーは不足してる。

 「いそがふぁしくとや?」

 大夫の君の方から、助け舟。さすがいい勘してる。

 「イチウィンの、なやましぇたまふぃてなん、ウチもウィンのチャウも、ののしりわたれるなり」

 ああ、何言ってんだかぜんぜん分からない。

 ま、いいかと思っていると、昼下がりに庭の方で隆浩が私を呼んだ。私のかわりに大夫の君が、立って縁側の方まで行った。近頃では私と隆浩の会話には、間に大夫の君が入ることになっている。これも貴族のお姫様の宿命。どうせここを逃げ出すまでの間のことだけど。

 それで、すぐに大夫の君は戻って来た。手には、なんだか袋みたいなものを持っている。

 「(たれ)か、かやうなる物を持ち来たれるあり」

 そう言ったってことは、隆浩からのものじゃないみたい。全体的に重い。袋には、紙が結びつけられていた。

 誰がなぜ、私にこれを? 

 そう思って、紙を開いてみる。何か書いてあるんじゃないかと思ったから。

 やっぱ、書いてある。でもまた、ミミズがはったような字。読めないよ! 

 最初は「波ふ」? 波ふ波ふ、君……その次、分かんない。そんで、あた……だな。次は、里? 

 「読んで」

 私はそれを、大夫の君に渡した。

 「ふぁふふぁふも きみがあたりにしたがふぁん ながきこころのかぎりなきみふぁ」

 何これ? 短歌? どんな意味? ぜんぜん分からない。

 「袋など、開くるだにあやしく、重たきかな」

 大夫の君がそう言って、袋の紐をほどいた。

 「「「「「きゃああああああああ!!!」」」」」

 居あわせた女たちが、一斉に悲鳴をあげたのはほとんど同時だった。袋の口からは、蛇が頭を出していた。

 私もさすがに、それにはゾッ! でもここで恐がってたら、生物部部長の名がすたる。まわりの女たちと、同じ次元ってことになっちゃう。

 「な騒ぎそ!」

 そう言ってから私は、蛇の袋をそっと引き寄せた。蛇は頭を出しているだけで、動こうともしない。

 女たちの中には、ドタバタと走って逃げていく者もあった。

 しばらくして、足速の足音が聞こえてきた。

 「いと、あしゃましく、むくつけきことをも、聞くわざかな。しゃる物あるを見るみる、みなたちぬらんことぞあやしきや!」

 姿より先に、声が聞こえてきた。大納言様の声だ。

 部屋に入った大納言様は多くの蜂を侍らせて、手にはなんと刀までを持っていた。誰かが呼びに行ったんだろう。

 「いどぅこぞ、くちなふぁふぁ!」

 大納言様は、私の目の前の蛇を見付けると、刀の鞘の先で蛇の頭をこづいていた。蛇はやっぱぴくりともしない。次に大納言様はゆっくりと手をのばし、ひとさし指で蛇の頭をつついた。

 「こふぁ……!」

 大納言様は、蛇をにぎってつかみ上げた。そして、大声で笑った。

 「いみじう、ものよくしけるかな」

 私の前に、蛇は投げ出された。ニセモノだったんだ。しかも袋をあけたとたんに首を出すなんて、よくできたビックリ箱――じゃ、なくって、ビックリ袋。

 「かしこがり、ふぉめたまふと聞きて、したるなんめり。かふぇりごとをして、ふぁやくやりたまふぃてよ」

 また笑いながら、大納言様は行ってしまった。

 もう、笑いごとじゃないんだから! 一瞬まじで、心臓が止まりそうになったんだからね! 

 でも誰が……? いったい何の目的で……? 嫌がらせに決まってるだろうけど……。

 どの時代にもいるんだね、こんな嫌がらせやイタズラする変態男って。

 それにしても、こんなイタズラするやつがいるってことは、よっぽど私の噂は広がってるんだ。どうせ、ここにいる女たちが広めたに決まってるけど。

 「作りたる物や」

 「くぇしからぬわざ、しける(ふぃと)かな」

 口々に女は言い合っている。ほんとうは犯人とグルじゃないのとも思うけど、そのうち大夫の君が紙を持ってきた。半紙というより画用紙といった感じの紙。

 「かふぇりごとしぇずふぁ、おぼつかなかりなん」

 これに何か書けってか? 苦情でも書こうか。でもこの時代のしきたりでは、どうしたらいいんだろう。そこのところが、まだよく分からない。

 「何を、書けば?」

 「しゃれば、かふぁりてつかうまつらん。いざ」

 ゆっくりと大夫の君は短歌を言うので、私はそれを書きとめた。

 「チギリアラバ ヨキ極楽ニ行キアハン マツハレニクシ虫ノ姿ハ」

 わけの分からないことばを書くには、カタカナにかぎる。でも「極楽」や「行き」「虫」「姿」くらいは、ちゃんと漢字で書いたよ。それにあんなミミズ文字じゃなくって、ちゃんとした字で書いてやった。

 「ふくちのそのに」

 短歌が終わっても大夫の君は、まだ何かを言う。どこに書いたらいいか分からないでいると、私が書いた短歌の左側を、大夫の君は指さした。

 その夜はイライラして、いつまでも寝付けなかった。いったい誰のいたずら? ちょームカつくんですけど! 

 「ネー、ミッツー!」

 庭の方で、拍子木の音とともに声がする。時計がないものだから、夜中でも下人がこうして、時間を知らせてまわるんだ。

 しかも、今日の声は隆浩の声だ。

 隆浩にも、とうとう順番がまわってきたみたい。ちょうどよかったと私は跳ね起きて、手さぐりで部屋の外まで歩いた。

 「ちょっと、隆浩」

 私は格子を押し上げて、声を殺して隆浩を呼んだ。

 「なんだ、ミッコか。びっくりさせんなよ。元気か」

 「元気かじゃないよ! 何、あの昼間の袋。誰が持ってきたの? あんなの」

 「ああ、あれか。知んねえよ」

 「知んねえよって、取り次いだの、あんたでしょ」

 隆浩の顔は、その手に持った火のついた棒の明かりでよく見える。たいまつっていうには小さいし、ろうそくよりかは大きい。左手にそれと拍子木の片方を持ってるんだから、たいへんそう。

 「なんか突然若い男が入って来て、若御前(わかごぜ)に渡せって言うんだからしょうがねえだろ」

 「若い男?」

 「ああ、けっこう身分が高そうなやつだったぜ」

 「どこの誰?」

 「あのなあ、俺、ここでは一応下人なんだぜ。んなこと聞けっかよ」

 「突然入ってきたって、どっから入ってきたのよ。門からだったら、門番が止めたでしょ」

 「この屋敷の塀、あっちこっちがいっくらでも壊れてるぜ。門からじゃなくったって、どっからでも出入り自由だよ」

 「え! 信じらんない! そんな、無用心な! この屋敷のセキュリティー、いったいどうなってんの? 下人たちはなんで直さないのさ」

 「そんなこと言ったって、ここの下人たちは命令されなきゃ何にもしないよ。じゃあな」

 愛想笑いだけを残して、隆浩は行ってしまった。

 結局、何の手がかりもつかめなかった。だからイライラはまだ残っていたけど、でもいいことを聞いた。屋敷の塀が壊れてて、出入り自由――私が逃げ出す時、好都合じゃん。そう思ったら急に安心してか、やっと眠たくなってきた。

 

 雨も上がったし、久しぶりのいい天気だから、私は簾をあげて窓から外を見ていた。窓といっても、全部の側の壁の上半分は窓なんだけど。虫を飼いはじめてから、うるさい女たちもあまり私に近づかなくなったし、その分だけ自由になれたといってもいい。

 もうそうとう蒸し暑くなっていて、暑っ苦しい上着なんか着ていられない。

 白い着物の上には、白っぽい黄土地の薄いうちかけだけの姿。袴も長袴じゃなくって、ふつうの短いのを持ってきてもらった。またこれが、真っ白の袴。ほんとうは袴もいらないって感じなんだけど、下がミニスカートくらいの腰巻きだけじゃあ、ねえ……。

 もっとも部屋の奥にいる時なんかは、上のうちかけも脱いじゃってスケスケルックでいたりもするけど。

 今は一応うちかけも着て窓から外を見ると、建物のすぐそばまで木立がせまっていて、そろそろ蝉も鳴きだす頃じゃないかっなって気もする。

 季節が変わっていくにつけて、ふと現代のことを思い出してしまう。みんなどうしてるんだろう。私たち二人が行方不明になったことで、大騒ぎになってるだろうなあ。新聞にも出たかなあ。

 でも、この時代に来てからもうひと月以上たって、少しは馴染(なじ)んじゃった。隆浩もいっしょだってことが、悔しいけど心強かったし、もし独りだったらって思うとゾッとする。

 その隆浩は、目の前の木立の中をうろうろしていた。そのうち、私の方を見た。

 「おお、ミッコ。あっちこっちの木に、いろんな虫がいるぜ。おめえのせいでよ、俺も虫に興味なんかわいてきちまったぜ。ほら、見てみ」

 最初はあれほどいやがっていた隆浩も、今ではいちばんの協力者。虫のいる小枝を折って、縁側の近くまで持ってくる。

 「変な形だろ。これ、なんていうんだよ」

 小枝にいるのは、頭に角がある虫。

 「それ、スミナガシの幼虫。タテハチョウの一種でね、平成の日本じゃよっぽど田舎に行かなきゃ見らんないものだよ。ちょっと、もっとこっちに持ってきて」

 「ほい。おめえが、もうちょっと出てこいよ」

 そう言うから私は簾をもっと押し上げて、欄干のついている縁側の方にまで上半身を乗り出させた。隆浩は、虫のいる枝を私の方に突き出す。

 「それ、こっちにちょうだい。スミナガシの幼虫」

 「そんなこと言ったって、とどかねえよ。四、五匹はいるぜ」

 「じゃあ、とにかく縁側に落としてよ」

 言われたとおりに隆浩が枝を振ると、虫はたしかに五匹くらいいて、縁側の板の上に落ちた。

 「直射日光が苦しいんだね。こっちの方にはってくる。ねえ、拾って部屋の中に投げてよ」

 「拾えってか」

 隆浩は、イヤそうな顔をした。まだ素手でつかむには、抵抗があるんだ。そこで私は、いつも使っている扇を出した。いろいろ筆談に使ったり、虫の観察の記録をとったりしてるから、ぎっしりと字が書いてあるけど。

 「これ、使ってよ」

 扇を投げてやると、隆浩はそれに器用に虫をのせて、部屋の中に一匹ずつ放り投げる。キャッチ失敗。一匹は床に落ちた。

 「あれ? どっかいっちゃった」

 明るい外を見ていたものだから、室内の暗さに急には目が慣れないでいた。

 「あ、いたいた」

 やっと見つけて拾うと、廊下の向こうから大夫の君が歩いてきた。意見されるな、来るなと思ったら、やっぱ来た。

 「いらしぇたまふぇかし。あらふぁなり」

 「恥づかしうはあらず」

 そうよ。人に姿を見られたくらいで、なんで恥ずかしいのさ。まっ裸を見られたわけじゃあるまいし。

 「あな、こころう。そらごとと、おぼしめすか。そのたてじとみのつらに、いと、ふぁどぅかしげなる(ふぃと)、ふぁべるなるを。奥にて御覧じぇよ」

 庭に人がいるって? 私をのぞいてるってこと? 人の家の中に勝手に入って、勝手にのぞくなよな! 

 「ちょっと、隆浩! 見てきてよ」

 隆浩は走っていって、すぐに戻って来た。

 「ほんとうにいるぜ。しかもこのあいだの、あの袋を持って来たやつだよ。今日は女装してる」

 「まじ!?」

 私は慌てて簾をおろして、中へと入った。性懲りのないヤツ。しかも女装だって。もう完璧に変態じゃん。きもいし、ムカつくし、もう! 

 「隆浩! どこの誰だか、ちゃんとつきとめてきてよ!」

 簾の中から、私は叫んだ。

 「あいよ」

 気のぬけた返事! それからしばらく奥に入っていると、大夫の君が紙を持ってきた。

 「この、かしこに立ちたまふぇる(ふぃと)の、わかごじぇにたてまつれとて」

 「またあ? 誰がこれを」

 「隆浩(たかふぃろ)まるこそ」

 隆浩ったら、誰がまた手紙をとりついでこいって言ったのよ。どこの誰だかつきとめてこいって言っただけなのに。何、ミイラ取りがミイラになってんだろう。

 それにしても、相手もそうとう図々しいヤツだね。ストーカーもいいところじゃない。

 聞いてみると墨ではなくって、草の汁かなんかで書いたような緑色の文字だった。やっぱ読めないから、大夫の君に読んでもらう。

 「かは虫の 毛深きさまを見つるより とりもちてのみ守るべきかな」

 なんだか分からない。

 「あな、いみじ。ウマノスケの、しわざにこそあんめれ。こころうげなる虫をしも、きょうじたまふぇるおんかんばしぇを、見たまふぃつらんよ」

 大夫の君は、ひとつため息をついた。「ウマノスケ」――これがこの手紙の主の名前? ――そうなればあの蛇事件の犯人も、こいつってこと? 隆浩に言ってつかまえさせようかとも思ったけど、もうかかわりたくもなかったからやめた。

 「かふぇしふぁいかに」

 と、大夫の君が言う。返したらどうかって? とにかくもう、かかわりあいたくないの!

 「好きにいたせ!」

 私がそう言うと大夫の君は、自分の(ふところ)に入れてあった紙にさらさらと何か書いていた。

 「(ふぃと)ににぬ 心のうちはかは虫の 名をとひてこそいはまほしけれ」

 自分が書いたものを朗読してから、

 「これにていかに」

 と、大夫の君は言う。どういうことかよくわからなかったけど、面倒だから、

 「よしなに」

 と、言っておいた。

 大夫の君は縁側の方に出ていき、しばらくしてからまた別の紙を持ってきた。同じように草色の文字。またウマノスケの返事? もう、いいかげんにしてよ、しつこいなあ! 

 「かは虫の まぎるるまいのけのすゑに あたるばかりの人はなきかな」

 分かんないけど、何なんだろう、この手紙。

 からかいの手紙? それともまさか、ラブレター? どっちにしたってあんないたずらするやつなんて、ロクな男じゃないはず。どんな身分の高い貴公子だとしても、スケベな変態野郎に決まってる。

 「また、かふぇしふぁ?」

 カフェシって、返事のことなんだ。

 「いらぬ! 捨て置け! それより、ウマノスケとは何者?」

 だいいち、へんな名前。馬みたいな長い顔してんだろうか。

 「あるカンダチメのみこの、うちふぁやりてものおでぃしぇず、あいぎゃうどぅきたるなると、聞こいぇ高きキンダチにて」

 分かったふりして、うなずいておいた。どっちにしたって、もう私には関係のない人。

 「これからは、な案内せそ」

 大夫の君にはそう言ったけど、そのあとどうなったか――続きは二の巻にあるはず……。

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