序の巻
いつの間にか私、暗い森の中に倒れてた。
あたりは真っ暗。
――夜?
私っていうより、私たちね。だって、隆浩も隣で倒れてる。
その隆浩も目を覚ました。そして、急に叫び声なんか上げてる。
「うわぁぁぁぁぁ!」
何? 何がどうした? そう思っている私の顔を、燃えさかる炎が照らす。それも一つじゃなく、三つくらい。その炎と一緒に、やっぱいくつかの顔が私たちをのぞきこんでる。お婆さん?
「フェングェナンドニファアラデ、マコトフィトナリ」
やっぱ年食ったお婆さんのつぶやく声。でも、何言ってるか全く聞き取れない。
「オドロカシェタマフィシヤ。ナド、カヤウナルトコロニ、フシタマフェル」
なんか私たちに話しかけてきてるみたいだけど、でも……何言ってんの? 何言ってんの? 何言ってんの?
全然分かんない!
……あ、でもなんか、どっかで聞いたような言葉……そうだ、授業中にこんな言葉を読まされたっけ……
「『堤中納言物語』は十編の短編で構成され、平安末期以降の成立とされている。作者も『逢坂越えぬ権中納言』以外は未詳。名称の由来も諸説あるが定説はない……」
教科書を読む先生の声が、右の耳から入って左の耳に抜けていく。
「じゃあ、小島美千子さん。本文のところ、読んで!」
午後の授業でボーっとしてたら、いきなり私の名前を呼ぶヒステリーばばあ、じゃなくて先生の声。
やだ、そんな、急に読めって言われたって……。
「ねえ、どこどこどこ?」
慌てて私、隣の席のルンちゃんからページ数を聞く。それで、立ち上がって教科書を開いたけど、こんな古文なんて読めるわけないし……日本語でOKって感じなんですけど……
「早く!」
「あ、はい。えっと、テフメー……、えっと、つる姫?」
教室中がどっと爆笑。
「ちょっと待って」
先生は黒板には大きく、「てふ」と書く。
「これは『チョウ』! こんなの中学生の時に習ったでしょ! しかも、漢字で『蝶』って書いてあるじゃないの」
んだったら、「てふ」なんて振り仮名振るなよ、まったく……ってこんな漢字、読めないけど。
「あ、はい、分かりました。えっと『ちょーめずらしい姫君の、住みキューフ? カタハラに?』」
またもや教室は笑いの渦。先生は呆れたふうをして立っていた。
「もういい! あなたをあてたのがまちがいだった」
もう、そんな言い方しなくたっていいじゃん! ムカつく!
「もう。まったく、受験まで一年を切ったというのに」
座りかけた私は、また勢いよく立ち上がる。
「ちょっと、先生! 私、理系なんですウ! 入試に古文なんかいらないんですゥ!」
「はい、はい。そうでしたね、生物部の部長さん」
まったく、もう!
この時間が終わったら、その生物部の顧問の山崎先生のとこに行かなきゃなんないんだから、ほっといてよ!
今度の土曜日、本当は生物部の部員たちと多摩の方へトビムシの群生と植生との関連について調査に行くはずだったのに、もう、うちの親ったら……! 部長の私が行けないんじゃ調査も中止よねえ。山崎先生になんていわれるかなあ? やだなあ……
「そういう事情なら、仕方ないか」
心配することなかった。
生物室の奥の生物科準備室と兼用の生物部の部室で、山崎先生は白衣姿で優しく言ってくれた。よかった。
「エーッ、京都で着物のショーのモデル? すっご!」
部員でもないくせに勝手に付き添いでついてきた長刀部のナギ――長刀部員だからそう呼んでる――が、訳も分かっていないくせに長刀じゃなくて横槍を入れてきた。
「冗談じゃないよ、ナギ! こっちの身にもなってよ。親に無理やりになんだからね」
「そうそう、ミッコのおばさんって、着物学院の学院長だよね。で、ショーでどんなん着るん?」
「平安時代の十二ナントカだって」
「え? それってもしかして、十二単?……だよね。渋!」
「おお、いい勉強になるじゃないか」
「ていうか先生! あいつが一緒なんですよォ!」
「あいつって?」
「隆浩」
「ああ、C組の佐々木か。おまえ、あいつと仲いいよな」
「ちょっとォ、やめてください! ただの幼なじみですウ! うちの親が勝手に気に入ってて、今回のショーのモデルを頼んだだけですから!」
「そうかあ? 本当かあ? 本当は彼氏なんじゃないのか?」
もう、なににやけてんのよ、この先生。
「違いますゥ! そういうふうに言われると、めっちゃムカつくんですけどぉ! だいたい恋愛なんて、生物学的には種の保存本能が脳を刺激して持たされている感情にすぎないんだから、そんなのに私、振り回されたくはありません!」
いつしか私、ムキになってた。先生は笑ってる。何を笑ってるんだろう。
「ま、気をつけて行って来い」
「だからあ、行きたくないんですゥ! 多摩に行きたかったあ! 私の研究には蝶の幼虫が少なすぎるんだもん、この生物室」
「あ、本当は小島。トビムシの調査は二の次で、蝶の幼虫の採集が目的だったんだろう」
「あは、ばれてる。でもねでもね、先生。文化祭の口述発表の『アカタテハの幼虫の羽化過程について』に私、青春をかけてるんだから」
「大げさだな。でも、京都なら東京よりも自然があるぞ。古都保存法というのがあってだな……、あ、行くの、今度の土曜日って言ってたよな。何日だ?」
「十日ですけど」
「え? えっと今年は二〇一七年で、その六月十日……」
笑顔だった先生の顔が急に強ばって、ため息すらついてる。
「どうかした? 先生」
「あ、いや……。くれぐれも気をつけてな」
それだけ言って部室を出て行った。
私の母親と隆浩のお母さんは下りの「のぞみ」の車内では、私たちの前の二人がけの席で話に夢中。二人とも着物なんか着ちゃってさ。で、なんで私は、隆浩なんかと隣同士の席に座んなきゃなんないのよ。せめて窓際なら景色を見てすごせるのに、隆浩ったらさっさと先に窓際の席とって……。
前の二人はいいわよね。中学校以来の親友同士だってさ。でもどうしてそのそれぞれの子供同士までもが、こうして一緒にいなきゃなんないかなあ。やだなあ……
私はとりあえずスマホいじってたけど、隆弘はずっと暗記カードめくってる。
「何、見てんの?」
暇だから、隆浩に声でもかけてみた。
「日本史の勉強」
ぶっきらぼうに答える隆浩の向こうの窓の外には、工場がすごい勢いで流れていった。
「ちょっと貸してみ。問題出したげる」
「おお、何でも来い」
隆浩の手から暗記カードを受け取り、適当にめくってみる。
「いい? いくよ。エット、保元の乱!」
「一一五六年、崇徳上皇と左大臣藤原頼長が起こした反乱。左大臣側が敗れて上皇は流され、左大臣頼長は戦死」
「すげ。じゃ、次はね」
「もういい、返せ」
隆浩は私からカードをひったくると、また一人きりの世界に入っていった。私は退屈で仕方なかったし、今朝が早かったものだからそのうちウトウトしはじめて、とうとう熟睡してた。
「着くぞ」
隆浩につつかれて目を覚ますと、窓の外は暗かった。
「え? もう夜?」
「ばーか、トンネル。このトンネル出たら京都だぞ。。早く仕度しろ」
仕方なく立ち上がって、網棚の荷物を下す。隆浩ったら知らん顔。男だったら手伝えってんだよ。
たしかにすぐに京都到着を告げる車内のアナウンスが流れて、新幹線はパッと明るさの中に飛び出し、すぐに高架の下に町が広がるのが見えた。
「わ、山がある! 京都って、こんな近くを山に囲まれてんだ!」
何だかそれだけでテンションアップ! 虫篭持って来ればよかった。
で、京都に着いて、新幹線を降りて、在来線の乗換え通路の方から改札を出て、京都タワーに見下ろされながらタクシーを拾って、ショーの会場の東山文化ホールに直行。
そこにはもうわんさか人がいて、お母さんに着物学院の関係者に引き会わされるたびに何度頭下げればいいのさ。
「あーら。小島先生にこんな大きなお嬢さんが?」とか、「まあ、お母さんにそっくり」とか、それに「あら、ミキコちゃん、お久しぶりね」なんて、こっちが全然覚えていないおばさんから懐かしがられたりして。
「あのう、ミキコじゃなくってミチコです」
「あーら、ごめんなさい。オホホホホホ……」
何がオホホホホホよ、もう。いいかげんにしてって感じ。でも顔はニコニコ笑ってなきゃなんないから、そこがつらたん。
お弁当が出て、それ食べたらさっそくリハーサル。今日は普段着のまま。私たちの出番は割とすぐ。私はかぐや姫という設定で、隆浩は桃太郎……じゃなくってただの下人。ザマアミロ。
ま、別に演技をするわけでもないし、ただ舞台の上を歩き回って、月に帰って行くということになるみたい。
歩くのが速いって、演出のお兄さんに何度も注意された。
そして最後はライトが後ろの壁に作った月に向かって、階段を昇っていって終わり。これがまた急な階段。しかも本当はない階段だから、黒く塗ってあってよく見えない。
「速い、速い! 本番ではな、もっと重い衣裳を着るんやで」
演出のお兄さんは、さらに叫ぶ。
「そしたら下人たち! 階段の下まで駆け寄って! かぐや姫を見上げて!」
下人役は何人もいるけど、階段の脇のすぐ下にいるのは隆浩。
見上げてって、今日は普段着の短いスカートのままなんだから、そんなところから見上げられたら、やだ! ぱんつ丸見えじゃない! こんなのがあるなら、お母さん、先に言ってよ、もう。そうしたらスカートの下には短パンはいてきたのに。
「見んなよ! ひとのぱんつ!」
思わず私は、隆浩に叫んでた。
「よそ見したらあかんて。落ちる!」
お兄さんの叫び声がまた飛ぶけど、そうなのだ。本当に狭い階段なのだ。
楽屋に戻ってから私は、当然のこととして隆浩に食ってかかった。
「だって、仕方ねえだろ。見上げろって言うんだから。だいいち、おめえのぱんつなんか見たかねえよ」
「ほんとォ? 本当に見なかった?」
「ああ、白に青のストライブだなんて、見てねえから」
「あッ! 信じらんない。この、スケベ!」
笑いながら逃げる隆浩を追いかけていると、お母さんが入ってきた。
「さあ、もうあなたたち終わりだから、京都見物でもしてきなさい。五時までには戻ってらっしゃいよ」
「え、二時間だけ?」
「そう、貴重な二時間。明日からは朝からまたリハーサルで、午後の本番が終ったらすぐに帰りだからね」
「えーっ、京都なんてよく分かんない。どこに何があんのか」
「山代君が、車で連れてってくれるって」
山代さんっていうのは、着物学院の若い事務の男の人。時々東京にも来るから、私も知ってる。何だかいつもお母さんの下でこき使われているみたい。今日だって連れて行ってくれるなんて言ってるけど、本当はお母さんが命令したんでしょ。
その彼は、すぐに現れた。
「時間ないし、ほな、さっそく行きましょか」
隆浩のほかに、隆浩のお母さんも一緒に行くことになった。
「そしたら、どこ行きます?」
助手席をしっかり占領した私に山代さんが聞いてきたので、この際後ろのシートの隆浩親子の意見は無視しよう。
「ていうか、お寺とかには興味はないんで、できたら山の上とか」
「何言ってんだよ、おめえ!」
後ろから隆浩が身を乗り出してきて文句言ってるけど、無視無視! 山代さんは笑ってる。
「山?」
「ほら、あのホールの上にあった山」
「ああ、東山ね。あの山やったら車で登れますよ。ドライブウェイもありますし」
「やったぁ!」
その後もうしろの席の母子は無視し続けて、私と山代さんは二人で盛り上がっていた。
道は山の中を蛇行してたけど、結構立派な道。それを登りきった所に駐車場があって、山代さんはそこに車を入れた。
駐車場の隣は公園。
空はよく晴れてた。
山の上とはいってもずいぶん文明化されていて、家なんかも建ってたりする。ちょっと期待はずれかなあなんて思いながらしばらくアスファルトの道を歩いていくと、展望台みたいになっている所があった。
「うわっ!」
思わず私は、小走りに走っていった。京都の町が一望。手前には川が左右に横たわって、その向こうには箱のような低いビルがぎっしり。
「うわー、ビルばっかし。町全部がビルじゃない」
「そやけど、高いビルはないでしょ。京都には高いビルを建てたらあかんいう法律がありましてな」
山代さんは、右前方を指さした。
「あそこの大きな四角い緑の部分。あれが京都御所で、その向こうの小さな四角が二条城」
「へーえ。みごとに回りは山なんだ、京都って」
建物がぎっしり並ぶ町の向こうは山が割りと近くに横たわっていて、それと今自分たちのいる山との間に挟まれて町がある。
私たちがいる所のすぐ近くには、小さなお堂程度のお寺があった。
本堂の脇には屋根のついた抹茶席があって、修学旅行の中学生の女の子たちが抹茶を飲んで騒いでいる。貸し切りタクシーの運転手が、彼女らのカメラのシャッターを押させられていた。
その右にまた「将軍塚」の立て札があって、後ろには木の柵で囲まれた中に土が小高く盛られていた。塚の下の方は少しだけ石垣で、塚全体はそう高さはないけれど結構大きくて、上には松を中心とした雑木が何本も植えられていた。
その説明を、隆浩は読み始める。
「将軍塚は八世紀の末、桓武天皇が平安京造営に際し、王城鎮護のため、高さ八尺……すげえ。平安京が造られた時からの塚なんだ、これ。やべえよ」
その近くからは、さっきよりずっと京都の町が一望できた。
確かに周りが全部山に囲まれている。左の方だけ山が切れているけど、そちらの方のまるで一本だけぽつんと立った爪楊枝のような白い京都タワーが眺められた。
「箱庭みたい」
そうつぶやいた私だったけど、実は関心は京都の町よりも、目の下の木々が茂っている森だった。
「短い時間しか京都を見られへんさかいここへ来たいって言わはった美千子さんは、やっぱすごいですね。短い時間で京都を全部見られるとこいうたら、ここか京都タワーだけですし」
山代さんのそんな言葉にも、私の視線は足下に釘付け。
「でも、ここからは行かれへんですわ。柵がありますし。一度お寺の外へ出んと」
それなら早く出ようと、まだ文句を言っている隆浩をあとに小さなお寺の門を出た。
すると右側に森へと入っていく有刺鉄線沿いの細い土の道があった。その道へ私は一人で入って行く。
なんだ、がっかり! 完璧に人工の植林。公園の植え込みと変わらない。しばらく歩いてみたけど、虫の子一匹いそうもない。木と木の間はただの土。草一本生えていないじゃない。この道は自然歩道になっているみたいで、町を歩いているのと変わらない服装をした人々が下の方からはどんどん登ってくる。自然はといえばカラスの鳴き声が聞こえるくらいで、それよりも山の下の町中の方から聞こえてくる車の音や、宣伝カーの声の方がうるさかったりする。これならば絶対に、多摩の方がまし。またもや期待はずれ!
「帰ろ」
隆浩たちのところまで戻った私は、こころなしか不機嫌になっていた。
夜はホテルから歩いて、仕方がないから隆浩を誘って新京極へ行ってみた。
アーケードの下にお土産物屋さんが軒を連ねてはいるけど、東京と変わらないレストランやゲーセンがあったりして、何かつまんない。
やたら中学生の修学旅行生ばかりだし。
早々に引き上げることにしたホテルまでの帰り道、ふと夜空を見上げてみた。東京の空と変わらないくらいにしか、星は見えなかった。こんな山に囲まれていても、やはりここは都会なんだとつくづく思った。
翌日、ショーは午後からだけど、着付けと最終リハのために私たちは朝からホール入りしていた。
下人役の隆浩が着ているのは直垂っていうらしく、すぐに着つけは終わった。
でも私の着付けは、なかなか終らない。いったい何枚重ねるの?
「昔の人って、本当にこんなに何枚も重ね着してたんですかあ?」
着付けをしてくれている和服姿の着物学院の先生に、思わず聞いてしまった。
「ええ。でもね、これは晴れの衣裳でね、普段着の褻の衣装の小袿っていうのは、もっと簡単なものなんですよ」
聞いても、よく分からないけど……。
次はメーク。まずはヘアメークから。
私、結構髪は長い方で、それを御姫様のように真ん中で分けて、そしてかつら。と、いってもすっぽりかぶるものじゃなく、部分的にピンで止めて私の本当の髪と絡ませるもの。でも、長いんだあ。立っても足元まで届く長い髪になっちゃった。
そして顔は真っ白に。
「本当はね、眉は全部抜いて、おでこに眉墨っていうのをつけて。歯もお歯黒っていって全部黒く染めてたんですよ。そうしてみますか」
冗談ぽく笑うメークの人に、
「結構です!」
と、私は激しく言っていた。
いよいよ本番! オープニングは学生たちによる振袖舞い。あっちの方がよかったなあ。
と、思いながら隣を見ると、隆浩ったらまた暗記カード出してこんな時にまでのぞき込んでる。
「またやってんの?」
「受験生だからな。それに、こんな格好で覚えたら、リアルな感じで覚えられっじゃんかよ。じゃなくて、覚えられるのでござる、姫様」
そこへ声がかかった。
「出番でーす」
隆浩は暗記カードをに入れて立ち上がった。一人でさっさと行くなって。私は長袴で歩けないんだから。
あー、どうしよう。緊張してきた。胸がドキドキ。説明役の先生が、十二単の解説を始める。ゆっくりと私は、出て行かなければならない。ここはもう、度胸を決めるしかない。
ライトがまぶしい。観客の視線が私に集まっている。とにかく重い! そんな重い衣裳に押さえつけられながらも、何とか転ばないようにと私は必死。
「かぐや姫、月に帰ります」
ここで方向を変えて、観客に背を向けて階段を上がる。
階段のうえの壁には黄色い月が、ライトの光で作られて映っている。下人たちが走ってくる。
一歩、一歩、私は階段を踏みしめて上がっていく。階段の下に隆浩がいて、見上げている。
今日はぱんつをのぞかれることはないけど、昨日のことを思い出して急にいらいらしてきた。
もう一度、隆浩を見下ろしてみる。
目がくらむ。
長袴で思うように階段が上れない。布がすべる。
あっ!と思った瞬間には全身が傾いて、慌てている隆浩の顔に向かって倒れ込んでいた。