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名付は子供の事を考えて行いたいものです。
もちろん日本国籍だ。
ちなみにご先祖で、外国の人と結婚したひとは、分かっている限り、いないという。
にもかかわらず、こんな名前だった。
コロンブスコロンブス子。
名字がコロンブスで、名前がコロンブス子である。
この名前のせいだけではないが、1年生の時から無口で項垂れていて、クラスのすみっこでいじけている子だった。
今、六年生の秋を迎えている。
じきに中学校に進学するけれど、多分、コロンブス子の未来は暗い。
自分のことじゃないけれど、コロンブス子の幸先を思うと、こっちまで気分が澱む。どんより。
今日もコロンブスコロンブス子は、前髪を顎までたらし、隙間から目を覗かせ、怯えた様に周囲を伺い、ぶるぶるぶるぶる俯きながら、一日を耐えている。
「名字は仕方がないよね」
だけど、どうして名前までコロンブスにしたんだろう。
ある日、給食の時それとなく聞いてみた。
(うっわ、なんということを聞くんだ、この)
一緒に給食を食べる同じ班の子たちは、わたしの質問を聞いて一斉に黙った。特に美味しいメニューでもなかったけれど、みんな物凄い勢いで集中して、煮物とふりかけご飯を頬張った。
「おいしー、このふりかけおいしー」
「うっわ、おいしー、このオデンの出汁、感動的だわー」
「そしてこの白米、一揆を起こして死んでいった水飲み百姓さんに味わってもらいたい味だぜ」
敢えて給食のことを褒めたたえて盛り上がることで、気まずい話題から無関係でいようとする魂胆。
(空気読めや、もろ地雷だべ、このアホ)
必死になってふりかけを褒めたたえながら、同じ班の友人の愛ちゃんは、ちらちらとわたしを見る。
もちろんわたしだって、コロンブス子に名前のことを聞くのが、どんな危険をはらんでいるか分かっている。
長く垂らした前髪から片目だけ覗かせて、いつも俯いてぼしょぼしょ喋るコロンブス子は感情が読めない。
もともと得体のしれないコロンブス子に、こんな質問をして、もしかしたら逆鱗に触れて呪われるかもしれない。あるいは、その場で教室の窓を開き、運動場に向かって身投げするかもしれない。
みんな、コロンブス子の反応が読めなくて怖いから、敢えて黙っている。
コロンブス子の名前を面白がって「ブスブス子」と呼び、その仇名を学年中に普及させたのは、考えのない連中だ。
実は、大多数の六年生が、コロンブス子のことを虐めたいとは思っていない。
「ブスブス子」と呼んで嬉しがっているのは、ほんの一握り――二クラスある六年生の中でも、ヒエラルキーのトップに君臨する、美人で運動ができて先生のウケもよい、はきはきした子たちなのだ。
その有力勢に流されるようにして、みんな、コロンブス子=ブスブス子と仇名している。
心の底では、そのことが罪悪感となり、
「ああ嫌だなあ今日学校行ったらまたブスブス言わなきゃなんないのか嫌だなあ」
と、みんな、思っているはずなのだ。
わたしもその一人である。
「コロンブスコロンブス子はぁ、ブスブス子ぎゃははは」
と、休み時間で笑い転げている集団を眺めるのが嫌で仕方がない。
「ブスブス子ー、ほらなんとか言ってよー、うっわキモ、ブスブスー」
(ああもうやめろやこの、あとお前もなんとか言えや)
肝心のコロンブス子はいつだって項垂れて、いい気になって言いたい放題の連中に、なにひとつ反撃しない。
その様子もまた、苛々させられるものだ。
(ああもう耐えられん、よし)
唐突に、その欲求が噴火して、ついにわたしは禁断の問いを口に出したのである。
「ねえ、どうしてそんな名前なのか、親にきいたことある」
全く酷い名前があったものです。