第九話:大鬼
桃太郎の背よりも長い金棒を、大鬼は右腕一本のみで振り上げた。金棒は鬼の頭上にまで浮き上がり、いただきでふわりと行き止まる。
怒りの形相でありながら、大鬼の動きには落ち着きがあった。狙いを定めるように、そして待ち構えるように桃太郎を見据えている。鬼は猿が脇を通り抜けるのを好きにさせ、犬が足元を狙っているのにも目を向けない。わざとらしく空かせている左腕は雉を制するためのものだろう。
大鬼へ突き進む桃太郎は顔をしっかり上げて、鬼の頭から足先までを視界に入れている。腕の高さ、足の踏ん張り、金棒の揺らぎ。
刀を構えていながらも、斬りかかるつもりはあまりなかった。大鬼が足を滑らせでもしない限りはふところに入る隙は見つからないだろう。桃太郎が考えているのは、金棒をいかに正しく見切ってかわすかということばかりだ。
まずはただ、見ることだ。大鬼の動きを知ることだ。
金棒の間合いまではあと五歩。まだ鬼は待っている。
鬼の足首に犬が噛みついた。しかし固く張り詰めた腱に牙が通らなかったようで、すぐに離れていく。鬼の背に飛び上がろうとした猿は、肩に届かず滑り落ちてしまう。
あと三歩。桃太郎は集中を研ぎ澄ます。
大鬼は獣達に意を注がず、ゆら、と右足を前に踏み出した。
あと一歩。
大鬼の右肩がぼこりと盛り上がった。腕の筋が張る。
桃太郎が右へ飛んだ次のとき、金棒は地面を割っていた。
岩の砕ける轟音と同時に地は鋭く揺れ、岩のかけらが散り、灰が激しく舞い上がる。地から噴いた邪気の霧までが視界をけぶらせ、桃太郎は大きく後戻りさせられた。
灰と霧の中、ごくりと喉を鳴らす。大鬼の力がこれほどまでだとは。
金棒の降る道筋は読み通りだったが、その速さは存外だった。かすりもせずに避けることができたのは幸運のおかげだ。
間合いを詰める前までは、まばたき一つ分だけ遅く地を蹴るつもりでいた。早く動きすぎては避ける方向を見られてしまうからだ。いざとなって桃太郎がまばたき一つを待たなかったのは、間近に見た大鬼と金棒にただならぬ威力を感じ、踏み切る足が焦ったからだった。その焦りに救われた。
灰と霧の向こうで鬼の影が揺らぐ。即座に高く飛び上がると、左から降ってきた金棒が桃太郎の真下の地面に打ちつけられた。
金棒の起こした風が霧を乱す。桃太郎は金棒に沿って走り出し、柄を握る鬼の右手を追いかけた。大鬼が左のこぶしを振り上げる。
右手を斬ればこぶしにやられる。後退すべきか。いや、まだ。考える桃太郎の背後で犬のくしゃみがぶすりと鳴った。
灰の舞う中から飛び出した犬が鬼の左腕へ吠え立てた。
「噛むぞ噛むぞ噛むぞ!」
大鬼の動きに微かなためらいが生じた。桃太郎は鬼の手首を狙いなおして右足を前に踏み出し、鋭く刀を振り抜いた。
がらりと金棒が落ちる。しかし桃太郎の刀は何にも触れていなかった。大鬼は金棒を手放して、右手を引かせて逃げていたのだ。
逃げた右手は、固いこぶしとなって戻ってくる。
桃太郎は「退け」と犬に怒鳴りながら翻り、急ぎに急いでからがら逃げた。金棒は再び大鬼の右手に持ち上げられる。
まだ、これからだ。桃太郎は余裕ぶって笑む。
力任せに振られる金棒とこぶしは速いが、振りかぶる動きは重い。速さに慣れていけばいずれ鬼の隙を見出せるはずだ。その間に鬼から隙を突かれてはならないことは言うまでもない。
気合の声を立てて間合いを詰めようとすると、鬼の金棒の横なぎに襲われる。
背を反らしてかわした桃太郎に大鬼がもう一歩踏み込んだとき、大鬼は短く唸ってびくりと足を戻した。
猿が大きな肩にがぶりと噛みついていた。
「お前の牙もか……!」
大鬼は苦しげに唸って睨みつける。猿は叩かれる前に飛び降りてべたりと地に落ちる。
猿はすぐさま跳ねて、今度は大鬼のふくらはぎに噛みついた。犬も同じところへ飛びつこうとした。大鬼は荒い鼻息を噴き、足をぐるりと振って二匹を投げ飛ばした。
猿の噛みついていたところから黒い霧が滲んだ。
大鬼の頭の上に羽ばたきの音が近付く。大鬼は苛立つように吠えて金棒を両手に持って頭上へかざし、水車のようにぐるぐると回した。起こる風切音の手前、雉はすんでに浮き上がって離れた。
「逃げるか、雉め!」
怒る大鬼。そのがら空きの脇腹を桃太郎の刀が斬りつけた。
邪気と灰が噴き出し、鬼は低く吠えた。
桃太郎は手に伝わった感覚に「浅い」と眉を寄せた。鬼の固い身体が刃を拒んだのだ。襲いくる金棒にたまらず下がる。
大鬼はわずかな間だけ顔を歪めたが、よろめくのを堪え、傷などないかのようにまっすぐ立ちなおしてみせた。
「戦え、鬼共! このようなやつらなど、恐るるに足らんはずだ!」
力強い号令に小鬼達は勢いづいた。
桃太郎達は退かざるをえなかった。まだ大鬼の動きも掴みきれていないというのに、小鬼達に逃げ道を塞がれてしまうわけにはいかない。
小鬼は四方から迫りくる。大鬼に背を向けて走る桃太郎達だが、しばらくもしない内に足を止められてしまった。
とにもかくにも、斬るしかない。数を減らすしかない。桃太郎達は前も後ろもなく小鬼と戦った。背中を隠す大岩は無いが、犬と猿の牙が小鬼を遠ざけてくれる。
なぜ猿の牙が鬼に傷を与えられたのかはまだ分からない。見ていない内に桃の実を食べていたのかもしれない。なんにせよ、ひっかいて怯ませるだけでなく、傷を負わせて鬼の動きを遅くすることができるのだ。これは戦いをやりやすくしてくれる。
「なぜ私は桃を蹴っておかなかったのか! 不覚!」
雉は踵の大きな爪で小鬼を蹴飛ばした。小鬼はぎゃっと鳴いて逃げるが、すぐに傷は塞がって、痛みも忘れて戻ってくる。雉はまた羽をばたつかせながら蹴りつけて、逃げる背中を嘴でつついた。小鬼は再び短く悲鳴をあげて背中を抑えながら逃げ、今度はなぜか、そのまま戻ってこなかった。
雉はちらと桃太郎と目を合わせたあと、あらゆる鬼の肩をつつきに走り回りはじめた。
ここに来るまでに雉がつついたものといえば、桃太郎がやった、桃の汁の付いたきび団子だ。あれのおかげだとすれば、猿の牙のことも納得がいく。
桃太郎は前から来た小鬼を叩き斬り、脇から飛びかかってきた小鬼を蹴り飛ばす。猿は常に桃太郎に背を合わせて守り続けている。犬は桃太郎の周りを走って、桃太郎が一匹ずつを相手にできるよう小鬼を散らしている。
このままならば小鬼の群れを凌げそうだ。
凌げそうだが、凌げるだけではならない。ずしりずしりと近付く足音があるのだから。
猿が叫んだ。
「桃太郎、もう追いつかれる!」
「落ち着け、小鬼から離れるな! 金棒さえ振らせなければ――」
小鬼達がやかましい声を上げてあたふたと逃げはじめた。大鬼のために道を開けているという様子には見えない。急いで後ろを見た桃太郎の身の内に、寒気が駆けた。
金棒を両手で握り、高く振りかぶる大鬼の姿。仲間ごと巻き込むつもりだ。
大鬼の立っているところからでは桃太郎に金棒が届くことはない。それは大鬼も承知のはず。だから、一撃を届かせるための構えを取っているのだ。
大鬼の両の肩が、ごろりと盛り上がる。
「伏せろ!」
桃太郎は叫び、そばにいた猿を腕に抱えて地に張り付いた。
島が揺れた。
雷が落ちたかと思うほどの、太く、高く、低く耳障りな轟音に、こめかみが割れるようだった。
桃太郎に叩きつく細かな石塊が、頭を庇う手の甲を掻き裂く。
石の飛び散る音が弱まるやいなや、桃太郎は猿を抱えたままより遠くへ逃げた。
頭が揺れて、音が遠い。薄い霧に包まれた景色の中で、何匹もの小鬼がなぎ倒されて動かなくなっている。その向こう、桃太郎から離れたところに、犬の姿があった。のろのろと起き上がり、項垂れながらなんとか進もうとしている。
犬が足を向かわせている方から、小鬼が近付いてきていた。犬は気付いていなかった。
犬よ、こちらだ。桃太郎は声を張るが、自身の声も遠くに聞こえていて、犬に声が届いているのかが分からない。
犬のそばへ雉が飛んできて、急かすようになにやら鳴き立てている。犬は混乱を解きたがるようにぶるぶると頭を振った。
小鬼達が犬を狙う。
桃太郎は、逃げろ、避けろと叫びながら、刀を構えて犬の方へ駆け出した。
逃げろ。犬よ、そちらへ行くな。
避けろ。
「避けろ、避けろ桃太郎!」
猿が桃太郎の耳を引っ張って甲高い声を張り上げた。途端、耳に詰まったものが溶け去ったかのようになって周りの音が戻ってきた。
はっとして気付く、大鬼の気配。金棒を振り上げる動きが横目に見えて、桃太郎は後ろへ飛びのいた。
繰り返し頭を振る犬と、その前に立って羽をいっぱいに広げ小鬼を威嚇している雉。そこまでを見て、桃太郎の目線は金棒に切られた。
地を割る音。また、舞う灰が邪魔をする。灰の向こう側で何かのぶつかる音。小鬼の叫び。
「犬よ、雉よ!」
桃太郎は前へ踏み出し、灰と邪気に突っ込みながら金棒を飛び越えた。灰の壁を通り抜け、桃太郎は目を見開いた。
身軽さを取り戻した犬のそばに、木刀を片手に鬼を投げ飛ばす人の姿があった。
木刀を振りかざし、飛びかかってきた小鬼を強かに打つ。ふらついた小鬼の首に犬が噛みつくと犬の牙は深々と突き刺さり、小鬼はさらさらと灰に変わる。
まだ肩を庇っている様子の残る男は、ちらりと桃太郎に顔を向け、片頬を上げて小さく笑ってみせた。
「桃を食ったら気力が湧いた、だそうだ!」
小鬼達があちらこちらで騒ぎ動きはじめた。小鬼が威嚇の声を合わせる向こうから、大勢の太い雄叫びが上がっていた。鍬や鋤を手に手に掲げ、村の男達が駆け上がってきているのだった。
大鬼が怒号を発し、早く蹴散らせと小鬼達へ喚く。桃太郎は踵を返し、大鬼の顔を睨み上げて駆け出した。
鬼の右目が苛立ちに歪む。桃太郎が口元に笑みを浮かべてみせると、大鬼は音が出そうなほどにこぶしを握り締めた。
迫り寄る桃太郎。
動き遅れた大鬼は金棒を大きく振ることができない。苦し紛れに振られた金棒など、桃太郎は見ずとも避けられる。
桃太郎は横に跳んでかわす。大鬼は後ろへ下がりながら左のこぶしを振るい、犬や猿を遠ざける。更に自身と桃太郎達の間を金棒で横なぎにし、また二歩下がる。得意な距離を保ちたいのだろう。
「小鬼が来ております!」
雉が空から言いながら鋭く下降し、桃太郎の頭を越えて後ろへ向かった。
「できるかぎり抑えてくれ! 犬よ、お前も行け!」
桃太郎の声に、雉と犬は高く鳴いて応えた。
いま大鬼を自由にさせるわけにはいかなかった。数歩でも離れれば、またあのすさまじい一撃を放たれてしまうかもしれない。いまこのときも、大鬼との間合いは桃太郎にとって危険な距離にまで開きかけている。
桃太郎と猿は揃って間合いを詰めにかかった。
一人と一匹につきまとわれ、大鬼は金棒を振りかぶる余裕を与えられない。避けられると分かっていながら身体の近くで振り回すばかりでいて、どうにか桃太郎と猿を遠ざけようとしていた。
桃太郎は迫って退いてを繰り返す。鬼が手を出せば後ろへ退いて、手が戻っていけば追いかける。鬼の胴や腕が狙えそうなときはあったが、桃太郎はあまり刀を振れなかった。振りかぶる動きが隙となってしまうのは桃太郎にとっても同じだったのだ。
互いに相手の隙を欲し、相手の気の張りが緩むのを待っていた。
ただ、攻める勢いでは桃太郎がやや勝っている。桃太郎が鬼の動きを限らせているため、身軽で体の小さい猿はたびたび鬼に飛びつくことができていた。大鬼は猿がひっかいたり牙を立てようとしたりするのを嫌がって、じわりじわりと足を後ろへ滑らせていた。
今もまた、猿が大鬼の足に取り付いてよじ登ろうとしている。
大鬼は苛立ったように足を蹴り上げ、しがみついていた猿を振り飛ばした。上がった足は、ついでとばかりに桃太郎をめがけて突き出される。
桃太郎はこれを隙と見た。
体を横へずらしてかわしながら、大鬼の足の進む方に艶めく刃の先を待たせる。鬼の足は止まれない。
岩の如き足に切先が潜る。
しかし、桃太郎はぐっと力を込めて刀の流れを乱し、早々に鬼の足から刃を外した。振り抜かれた刀の先は桃太郎の頭上高くへ向かい、落ちてくる黒のこぶしを威嚇した。鬼の狙いはこのこぶしであり、足は囮だったのだ。
大鬼は顔をしかめてこぶしと足を引っ込めた。足の傷はやはり浅く、鬼の動きを滞らせるほどのものにはならなかった。
桃太郎は悔いて唸る。もっと早く鬼の考えを察することができていたら。
悔いと同じだけ、おそれを感じていた。桃太郎を叩き潰すために自らの足を捨てようとした大鬼の執念にだ。
猿が戻ってくる気配を確かめて、桃太郎は再び大鬼に詰め寄った。動き続けていなければ息が荒くなりそうだった。
桃太郎は大鬼の癖や調子を掴んできて、先が読めるようになってきていた。それでも油断は許さず、五感で感じられる動きを全て捉え続ける。集中が極まっているのだろうか、それは難しいことではなかった。鬼の動きも猿の動きも手に取るように分かる。
鬼が桃太郎の動きに慣れはじめていることも分かっている。
気の抜けないやりとりは速さを増している。汗は顎を伝う前に散る。少しでもどちらかの身のこなしが乱れたら最後、形勢は決まってしまうに違いない。
大鬼を追い詰めた分、小鬼達の声は随分と遠くなった。犬の吠え声が壁となって小鬼達を止めている。男達の振り立てる声が小鬼の耳障りな怒声を掻き消している。村人達はまだ疲れにも邪気の陰りにも蝕まれていない。だが、いつそうなってしまうかは分からない。
この良い調子に乗り、早く勝負をつけなければならない。このまま大鬼が後ろへ下がり続ければその先には邪気の立ちのぼる火口があり、足場が尽きる。そうなりかければ、大鬼は違った動きを見せるだろう。自らの足を囮にしたときのように桃太郎の意表を突く企みをしているかもしれない。火口のふちに近付くほど地面の傾斜が増すのも、桃太郎を不利にする。
畳みかけるときがきた。
桃太郎は大鬼の戦い方を覚え、振るう刃先はしばしば大鬼の身体をかすめるようになっている。隙は見えはじめているのだ。
「猿よ! 犬と雉を呼べ!」
言い終える前に猿は駆け出していた。
猿を気にかける必要がなくなり、大鬼の攻めが強くなる。桃太郎が一人となっている内に倒さなければと気を急かしているのは明らかだ。
桃太郎は大鬼の勢いにあてられないよう頭を冷やす。猿が戻ってくるまでの短い間を、なんとしても堪えなければならない。
刀を払いのけようとした大鬼の左手に、桃太郎は容赦なく傷を負わせた。刀を返して追い打ちをかけると大鬼はのけぞって避け、また一歩、火口の近くへ追いやられた。
鬼は焦っている。一方の桃太郎は落ち着きがある。頼れる猿達もすぐに戻ってくるだろう。
桃太郎が勝味を強めたそのときだった。
「やめてくれ! 放せ!」
男の悲痛な叫びが、後方の遠くから上がった。桃太郎は心を乱したが、後ろを見る余裕が見つからない。
何があったのかを気にしている桃太郎に、大鬼は意地悪な笑みを見せた。
「良いものを持っていたこと、忘れておったわ」
「どういう――」
雉がばたばたと飛んできながら喚いた。
「小鬼共が、連れ去られていた子を盾に!」
桃太郎はぞっと総毛立った。不快のあまり足がふらつきそうになる。
迷いはしなかった。桃太郎は怒りを力にしてぐるりと反転し、大鬼に背を向けて走り出した。
雄々しく上がっていた人の声は失せている。村人達は攻めることもできなくなって、ある一点を気にしながら小鬼からあとじさっていた。
みなの目線の先、後ろ襟を掴まれ捕らわれていたのは、あまりにも幼い男の子だった。
「子を離せ! それだけは許されぬ!」
怒りのままにがなる桃太郎の声に対し、小鬼達は牙を剥いて強気に威嚇する。
鬼が見せつけるように子を揺すってかよわい泣き声を上げさせた。子の父である男が「やめろ」と叫ぶ。
子の泣く顔を見せられた桃太郎の足はぎこちなくなって、次に響いた大鬼の言葉でついに動かせなくなった。
「止まれ! さもなくば子を捻り潰してやるぞ!」
桃太郎は進めなくなり、雉も慌てて足を止めた。子を助けるどころか、人々のもとへ辿り着くことすらできていない。
息子を返せと呻く男を、小鬼が突き飛ばして尻もちをつかす。小鬼達が更に蹴りつけようとしたところで、猿が男の前に割り込んで小鬼達を追い払った。
猿の威嚇の声を最後に場は静まり返った。ただ一つ聞こえ続ける子のすすり泣きが、みなの心を痛ましめていく。
火口の方から、大鬼の嫌な声が響く。
「子の命が惜しくあらば、お前の命を差し出すのだ」
「汚いぞ、そんな……」
桃太郎は動けないまま目線をさまよわせる。そのうちに目が合ったのは犬だった。犬は不安と不甲斐なさを浮かべた顔でこちらを見ていた。桃太郎は頼もしく笑ってやりたいのに、そうしてやれなかった。
「その穢れた刀を置いてこちらへ来るならば、もう人の村を襲わないと約束しよう。桃太郎よ、鬼の寛大さを知れ! 知らば、来い!」
金棒を地に叩きつける大きな音がした。桃太郎はびくりと肩を揺らす。
雉が細い声で「奴が約束を守るはずがございませぬ」と鳴く。
雉の言うとおり、大鬼の言葉は嘘かもしれない。だけれど、ひょっとすると本当かもしれない。恨みを晴らして気を良くし、子を返す気になるかもしれない。約束が守られるか否かは、自分が命を捨ててみなければ分からないのだ。
分かっているのは、鬼の言葉が嘘でも本当でも、いま自分が命を惜しめば子供が犠牲となってしまうということだ。
幼い子は、弱々しい声で泣いていた。
邪悪に呑まれた鬼の島の真ん中で、子の涙目が父を見ていた。
「来い、桃太郎。人のために死なせてやる」
背にかかる静かな声には深い憎しみが滲んでいた。何匹かの小鬼が桃太郎を横目に通り過ぎ、大鬼のいる方へ戻っていく。
猿は桃太郎を見つめ、動くに動けず震えている。行くなと目で訴えている。桃太郎は唇を噛んで目を逸らす。
桃太郎は固い身体をぎしぎしと捻じ曲げて、ゆっくりと振り返った。
火口からのぼる邪気を背に、ひとつきりの金の瞳が桃太郎を見据えていた。目は篝火よりも強い光を湛えていて、口は笑みを浮かべている。
桃太郎は大鬼の身体の変化を見て眉を歪めた。負わせたはずの傷が無くなっている。
黒い邪気が傷に引き寄せられるように取り付いて、傷を治めているようだった。手足の傷は既に消え、最も深かった脇腹の傷も塞がりつつある。
形勢は、決まっている。
桃太郎はふううと息を吐く。自分にできることはなんだろうか。自分の命と人の命、守りたいのはどちらだろうか。分かっている。
――父上、母上。桃太郎は立派だろうか。
雉が桃太郎の足の上に乗り上がって伏し、重しになりたがるかのように身を固くした。
桃太郎は、足元も、後ろも見なかった。
自分の右手にみなの目が注がれているのを、桃太郎は見ずして感じていた。
刀を手放してしまうのか、強く握り直すのか。それを見逃すまいと、誰もが瞳を乾かしていた。
誰もが、桃太郎の手の震えを見つめていた。
足に乗っている雉も震えている。
村人達の手も震えていた。
そうであればこそ、誰もが突然の犬の声に仰天したのだ。
「いやだー!」
犬は大きく大きく、長く吠えた。桃太郎は思わず振り向いていた。
「いやだ、だめだー! ずるい! 非道だ! 桃太郎さんは殺させない! わーん!」
犬は力いっぱい跳ね回り、くるくる、ひょいひょい、灰を撒き散らして騒ぎ立てる。
「鬼やい! ひどいぞ! 臭いしひどい鬼だ! おれの桃太郎さんを! おれのきび団子を! わんわーん!」
ざわめきが瞬く間に広がり、大鬼が吠えた。
「まぬけな犬め、黙れ!」
そのとき猿の甲高い声が威勢良く響き、子供を捕まえていた小鬼が悲鳴した。すかさず村の男達が声を立てて詰めかけ、小鬼の群れとぶつかって押し合いになる。
桃太郎は刀を強く握り、怒りにまみれた大鬼へ向かって駆け出した。
くぐもった猿の叫び声を背に受ける。
「無事でえ! 桃太郎、子供は無事でえ!」
大鬼は声を限りに吠え猛り、足を踏み鳴らしながら前へ出て金棒を振り回した。岩が砕かれ飛び散って、周りの小鬼が巻き込まれた。
桃太郎は転がり落ちてくる岩のかけらを飛んで避け、走り続ける。
大鬼は一匹の小鬼を鷲掴みにしたかと思うと、叫び声も聞かずに桃太郎へ投げつけた。投げられた鬼は健気にも自分の役目を遂げようとし、桃太郎にしがみついて倒れさせた。
小鬼が牙を晒して腕にかぶりついたが、桃太郎に痛みはなかった。鬼の胸は刀に貫かれ、凶悪な牙は灰に解けて消えていたのだ。
手をついて起き上がろうとする桃太郎に襲いくる小鬼が三匹。桃太郎は前のめりに立ち上がりながら正面の小鬼を斬り上げた。同時、犬と猿が飛び出して左右の二匹へ体当たりをした。
身をなげうって桃太郎の足止めをしている小鬼の向こう、大鬼が金棒を両の手で握って振りかぶろうとしていた。間に髪を入れず雉が鳴き、大鬼の目を狙って飛び込んでいく。大鬼は頭を振ってあとじさりし、雉を叩こうと右手を上げた。
雉は後ろ頭に回っていて、大鬼の手は空振りに終わる。
「犬よりもまぬけな鬼ぞ」
「鳥ごときが!」
再び大鬼の手が近付くと、雉は後ろ頭を蹴りつけてばさばさと遠ざかった。
次には猿が大鬼の足にしがみついた。猿は足をよじ登り、金棒を持つ左腕へ飛び移って手首にがぶりと牙を立てる。
犬の吠える声が大鬼の目を引きつけた。犬と桃太郎は大鬼へ向かってまっすぐに走っていく。
もう、桃太郎を止める小鬼はいなくなっていた。
大鬼は金の瞳を憎しみに燃やし、身に纏う邪気を一層濃くした。
「桃太郎! 忌々しい桃太郎!」
猿を手首に食いつかせたまま勢い良く金棒を振り上げる。猿が振り落とされ、噛み跡に邪気がたかる。
「犬よ、下がれ!」
桃太郎はひとり残って鬼の狙いを見極めようとした。大鬼は島を震わすような太い唸り声を吐き、太い左腕を更に太くする。
狙いは地面だった。桃太郎の目の前へ、重い金棒が振り落とされた。
轟音。弾けた地面が鋭く飛び散る。
桃太郎は退かず、息を止めて黒石の飛沫に飛び込んだ。ありたけ目を細め、顔や腕を石塊の尖りに晒す。
嵐を抜けた桃太郎は雄叫びを上げ、あとじさりする大鬼へ迫り寄った。大鬼の顔に恐怖が浮かんだ。
振るわれた刀が大鬼の腹を深く斬った。
大鬼が苦痛に吠えたのはわずかな間だ。すぐに声は地の底まで響きそうな低い呻きに変わった。灰を噴く腹の傷から泥のような黒の粘りが漏れ出す。大鬼はそれでも立っていた。
「殺す、殺す! 殺すまでは死なん!」
大鬼は金棒を振り、こぶしを振って桃太郎を叩き潰そうとした。桃太郎は刀を振れずに距離を取る。
犬が大鬼の左腕に飛び上がり、「殺されるものか!」と叫んでがぶりと噛みついた。
「忌々しい犬め!」
犬を睨みつけた大鬼は、その目を驚きに見開いた。食らいついて離れない犬の背に、猿がしがみついていたのだ。猿は大鬼の大きな顔に飛びかかり、爪でばりばりとひっかいた。
大鬼は呻きながら頭を揺さぶって猿を振り落とし、右目を開く。
ひとつきりの目に、雉の嘴が飛び込んだ。
叫ぶ大鬼の目玉は形を失い、黒い泥が頬を伝った。雉は「痛みを知れ」と厳しく言い放った。
「ああ! 忌々しい猿め! 忌々しい雉め!」
鬼は潰された目を手で覆い、金棒をあてずっぽうにごうごうと振った。とうとう犬が振り落とされる。
「忌々しい! 忌々しい桃太郎め! 殺す、殺す! みなごろしだ!」
鬼の正面に猿が飛び出し、力いっぱい怒鳴った。
「お前の負けだ! 桃太郎の、勝ちだ!」
大鬼は声を頼りに金棒を振り落とした。
猿は軽やかに飛びのいて、そこは桃太郎の道となる。
桃太郎は金棒を足場に駆け上がり、跳んだ。
研ぎ澄まされた突きが、大鬼の喉頸を貫いた。
断末魔の叫びが轟いた。
桃太郎は大鬼に手首を強く掴まれ、痛みに短い悲鳴を上げた。
大鬼は絶叫をしながらあとじさり、ついに後ろへ倒れる。そこにはもう、地面が無い。
許さん、忌々しい桃太郎、忌々しい、殺さねば、忌々しい、忌々しい――。
邪悪に満ちた黒の沼が、大鬼と桃太郎を、飛沫も上げず呑み込んだ。