第六話:山と桃太郎
「鬼、鬼だと」
桃太郎は細い畑道を大股で行く。
「俺に、鬼と同じ邪気が宿っているだと」
それぞれの家へ帰っていく村人とすれ違わないよう、声をかけられないように道を選ぶ。遠くを歩く村人が桃太郎に気付いても、桃太郎は見えていないふりをして歩き続けた。
空の青は薄れ、畑の緑は夕暮れを被る。
――ああ。
桃太郎は立ち止まった。あの日、村娘を背に賊と睨み合った場所だった。村の方を振り返ると、あの時の色に近付こうとしている空が見えた。
もう村人の姿は見えない。みな、自分の村に帰っていった。
桃太郎は周りを見渡し、いまのうちに畑の景色を覚えてしまおうとした。
いくつもの畑を通り越してきた。ここまで離れれば村娘の母の体には障らないだろう。しかし、村娘は今も邪気を感じ取っているはずだ。
桃太郎が山を下りた日、村娘がたったひとりで畑へやってきたのは、桃太郎の邪気を感じたからなのだろう。村から遠い畑に出ている父を迎えに行くため、夕暮れの近い時間であるのに外へ出た。そして、向かう道の半ばで賊に目をつけられてしまったのだ。賊から逃げるうちにこの場所まで来て、桃太郎達に助けられた。
助けられたあとも村娘はおずおずとしていた。おそらく桃太郎を信じきれず、怯えていたのだ。
だが、笑ってもくれた。日を経るごとに気を許してくれるようになった。桃太郎は娘の不安も知らず、村娘が穏やかな顔を見せてくれることや、桃太郎のそばで気を抜いてくれることを嬉しく思っていた。
今でもそうだ。村娘には笑っていてほしい。辛い思いなどさせたくないに決まっている。
桃太郎は足元の猿を見た。まっさきに賊に気付いて駆け出したのはこの猿だ。おかげで桃太郎は娘を助けることができたし、村人の信用を得ることができた。
猿がこちらを見上げたので、桃太郎は笑顔を見せた。
「お母ちゃん猿が、あまり怒っていないとよいなあ」
猿ははたはたとまばたきをしたあと、難しい顔になって腕を組んだ。
「いんや、すこぶる怒ってるに違いねえ」
「今度ばかりは俺も怒鳴られてしまうだろうな」
「おれは桃太郎より厳しく怒られるんだぞ! ……まあ、怒るより、喜ぶだろうさ」
桃太郎は笑顔で頷く。
「帰ろう」
それから猿の前で膝を折り、麻袋から黍をつまみ出して一口分渡した。
猿は喜んで口の中に投げ込んだ。すると横から雉が首を伸ばしてきたので、桃太郎は黍を手に乗せて差し出した。
ずいと顔を寄せてきた犬の口にも入れてやる。
「犬や、お前はこれからどうする」
犬は首を傾げた。
「では、もう一口もらう」
「黍のことではない。山に帰ると、子供達と遊んだり畑の柔らかい土を掘り返したりできなくなる。山へ帰ったあとで村へ遊びに行くのもよいが、遠出になるし、俺はついていけぬ。それでもよいか」
犬は反対側に首を傾げた。
「おれのご主人は桃太郎さんだけだぞ。桃太郎さんのいないところに、おれはいない」
桃太郎は少しの間固まって、そののち頬を緩めた。
「俺も、お前がいない暮らしは考えられぬ。家へ戻ったらきび団子を作ってやろう」
頭を撫でて笑うと、犬はへっへと喜び尻尾を振った。
「良き忠義ぞ、犬!」
雉が犬の耳元で高く鳴いた。犬は首を引っ込め、うるさいぞと唸る。
「子供達と遊びたくなったらこの雉に頭を下げるがよい! 村まで導いてやろう!」
「どうしておれが頭を下げるのだ?」
「雉の方が賢いからである」
「ふん! 小さいくせに」
「だが優れておる」
「わん!」
「こけこ!」
「うき!」
猿が間に割って入ると、犬と雉は顔を背け合った。
桃太郎は雉に言った。
「雉よ。お前はこの村と共に過ごしてきたのだろう? 山で暮らしを立てなおすのは苦労するかもしれないぞ」
「ああ桃太郎殿、この雉は桃太郎殿のいないところにはおりませぬ」
雉は自慢げに胸を張った。雉の後ろで犬が牙を見せて唸る。
「それに、私はかつて英雄が暮らしていた山を知っておきたいのです。邪気払いの力を高める修行や、憎し鬼から村を隠した光の出どころ、山を歩いて探してみれば、何か知れるかもしれませぬ。興味深くはございませぬか? 何より、私は、訪れたいのです、桃太郎殿の、生まれた地を!」
ひと言ずつ雉の首が伸びてきていた。
「お見送りするだけではいられるものか! どのような景色の中で暮らし、強く、清く育たれたのか、目にしたくない者がおりましょうか。否、否! 桃太郎殿、戻ったらきび団子を作るともおっしゃっていたではありませんか。雉を置き去りになさるので? 桃太郎殿はそのようなことをなさらぬ!」
雉は首を上げ下げし、こうこう鳴いた。いまにもほろろを打って跳ねはじめそうだ。
清くないのだ、と、桃太郎は呟く。
「俺の身の内には邪気が宿っている。村人達を苦しめた憎し鬼と同じものだ」
雉はすとんと首を戻した。
「そこは解せぬところでありますな。しかし、それがどうしたというのです」
「お前は俺が嫌でないのか? 俺は、邪悪な者かもしれぬのだ」
「何をおっしゃいます!」
雉の言う隣で、猿も「そんなわけがねえだろう!」と目を険しくした。
桃太郎は弱気なことを言ってしまったことに気付き、「すまぬ」と肩を小さくした。
「桃太郎殿のまっすぐさは私めが誰よりも理解しております。鬼の気配など、何かの不幸な偶然に違いありますまい」
「ううむ。俺は邪悪な者ではないと思ってもよいのだろうか」
「桃太郎さん。あなたが悪い者であったことなどないだろう」
犬が言いながら転がって腹を見せる。
毛の薄い温かな腹を撫で、犬が目を閉じて身を任しているのを見て、桃太郎の弱気は少々治まった。
「村にいられねえのは変わらないがな」
猿の言葉に桃太郎は低く呻き、地に尻を下ろして空を仰いだ。
「鬼の、邪気……」
邪気を払える力があれば、こんなものは消してしまえるのだろうか。果たしてそんな力はあるのだろうか。あるのだとすれば、桃太郎は母の手によって邪気を払われているはずではないか。
この場で邪気が消えてくれれば、村へ戻っていけるだろうに。いや、お母ちゃん猿に心配をかけていることを忘れてはいけない。村へ戻って、村の者と話し、山へ帰って、猿と話す。それからは村へ戻ってきたり、また山へ帰ったり。人といたり、獣といたり。
ああ、夢だ。届かない。桃太郎は悲しくて笑った。
腹を撫でる手が止まったことに気付いた犬が、ひょいと起きて畑を狙った。
「ようし、最後に柔らかい土を掘ってくる!」
そう吠えながら畑に飛び込んでいく。尻尾はいつもどおりに暴れていた。
猿は桃太郎の正面に腰を下ろした。
「邪気でも柿でも構いやしねえ。これまでどおり、お山で暮らそう。他のお猿も桃太郎の帰りを待ってんだからよ」
犬は楽しげに吠えている。
「ここ掘れわんわん!」
雉が桃太郎と猿の間に割り込んで、頼もしく鳴いた。
「桃太郎殿、多く悩まれるがよい。しかし時には、あの犬のように呑気でいることも大事でございますぞ」
犬が悲鳴をあげた。
「ぎゃん! くっせえ! うう、わん!」
土まみれの顔で戻ってきた犬が目に入り、桃太郎はつい息を噴き出して笑ってしまった。
「この、呑気な犬め! 山に帰ったら柔らかい土を作ってやろう。投げやすい木の棒を探してやろう! もちろん、きび団子もこしらえてやろう」
犬は機嫌良さそうに吠えて桃太郎の頬を舐めた。
桃太郎は立ち上がり、残った弱気を追い出すつもりで伸びをした。
「桃太郎、あっちに」
猿が静かな声で言った。
そちらに目を向けて見えたのは、村の方から歩いてくる村娘とその父だった。
桃太郎は顔色を変えず、二人が来るのをじっと待った。こちらから走っていくことはためらわれた。村に近付けば離れがたくなる。
まだ遠いところで父の方は立ち止まり、頭を下げた。娘だけが桃太郎の近くまでやってくる。
桃太郎は微笑んで言った。
「こんなところまで来たということは、体の具合はいくらか落ち着いたのだろうな」
村娘は微笑みを返す。
「おっかあは、座ったまま少し休んだあと、立って歩くことができました。自分で板の間へ上がり、今は横になっています」
「そうか。では、このあともよく休むように伝えてくれ」
村娘は小さく頷き、笑みを消して深く頭を下げた。
「出て行ってなんて、ひどい言い方をしてすみません。でも、村にいてくださいとも言えないんです。すみません」
「気にするな。俺は小さな旅を終え、自分の住むところへ帰るだけだ」
桃太郎は笑う。笑っていなければならないと思う。「短い間であったが、楽しかった」
娘はゆっくりと顔を上げ、切なそうに笑った。
「私も、まことに楽しくありました。まことに……」
声が震え、途切れる。赤い目元にまた涙が浮かぶ。
娘の背の奥に広がる空は、初めて娘と目を合わせたときと同じ夕色だった。
桃太郎は胸の熱くなる思いがした。駆け寄りたいと思う心を強く堪える。
「も、もしも俺が!」
桃太郎は大声で言った。思ったよりも大きい声が出たせいで、村娘が目を丸くしていた。
「もしも、というか、夢の夢だが……」
犬がはしゃいだ。
「桃太郎さん、顔が真っ赤っ赤だ! 猿みたいに!」
すかさず猿。
「伏せ!」
犬と雉は慌てて地に伏した。
桃太郎は咳払いをして喉を直した。
「もし、この身に宿る不浄なものを消し去ることの叶った時は……また村を訪れたいと思っている」
村娘は目元を拭い、微笑んで何度も頷いた。
「それができるなら、すぐにでも……すぐでなくても、待っていますから」
「うむ。もしもできたら、できたらだな。俺は村を訪れたい、子供達と遊んでやりたい。何より――」
桃太郎は頭を振って顔の熱を払い、まだ熱い顔で村娘を見つめた。
「誰より、お前に、会いに来たいのだ」
村娘は涙を溢れさせて桃太郎の胸に飛び込んだ。
桃太郎は八年前の光を見ていない。おそらくその時は小屋に一人、横になって丸まって、着物を被って眠っていた。
珍しく夜中に目を覚まして、父と母がそばで寝ていないことに気付いた。さびしくなって探しに出た。
外には落ち着きのない猿達がいた。桃太郎は猿についていき、夜の山をのぼっていった。
わずかに木々の開けた場所で、桃太郎の父と母は隣り合って、静かに眠っていた。
そこではたくさんの猿達が身を寄せ合って、二人を囲むように座っていた。
桃太郎がそばにきて体を揺すっても、父も、母も、目を覚まさなかった。
ここで眠るのか。小屋に戻ろう。父上、母上。
二人は音も立てず眠っていた。
ここで眠るのだな。
桃太郎は二人の間に体を入れて、仰向けに寝転んだ。
見上げた黒い空に、小さな粒がいくつも光っているのが見えた。
あれはなんだと空を指す。
あれはなんだと起き上がる。
あれはなんだと二人に尋ねる。
父上、母上。
桃太郎は二度も、三度も、何度も呼びかけた。
二人の重たい腕を引っ張った。
大きなてのひらに頭を寄せ、頬を寄せた。
父上。
その強い腕にこの身を抱いてくれ。
母上。
その温かい手でこの頬を拭ってくれ。
父上、母上。
桃太郎はまだ子供なのだ。
まだ子供なのだ。
目を覚ますと、夜空が見えた。
村から小屋に戻る道の途中に桃太郎は寝転んでいる。まだ小屋までは遠い。
森が真っ暗になりかけた頃に寝やすそうな木の根を見かけ、桃太郎達はここで眠ることにしたのだ。
桃太郎は自分の顔に猿の手が触れていることに気付いた。目だけを動かすと、かたわらに座って桃太郎の顔を見下ろす猿が見えた。
「猿よ、どうした」
「どうもしねえ」猿は手を離した。「寝てろ。まだ夜明けにはならないぞ」
そうか、と答えて、桃太郎は目を閉じた。すると、片目の端から冷たいものが顔を伝い落ちた。驚いて拭い、目元まで拭った。
そっと猿の方を見ると、猿は上を、空を見ていた。
桃太郎は静かに体を起こし、木の幹に背を預けた。
しっとりとした清涼の夜気。暗く澄んだ空。湿り気のある土には朽ちた枝葉が交じっていて、指の先でくすぐるように触れると、ほろほろほぐれる。
土と草の匂い。人の畑とは何が違うのだろう、ここは久しい匂いがする。
顔を上向けると、木々の枝葉の隙間に見える空。そこにある光の粒に、桃太郎は眺め入った。
「猿よ。なぜ夜空は俺をさびしくさせるのだろう」
「お前がさびしいときに夜空を見上げるからだ」
そうか。桃太郎は目を細める。
「では、なぜさびしくないときは夜空を見上げないのだろう」
「そりゃ、いつもはぐっすり眠ってるからだ」
おお、そうか。桃太郎の口元が笑む。
「俺がぐっすり眠れていないとき、いつもお前は隣にいたな」
そう言って目を閉じ、顔を俯ける。
この猿が桃太郎につきっきりになったのは、桃太郎が父母を亡くした夜からだ。
桃太郎より後に生まれた、体も小さな子猿だった。親離れもしておらず、桃太郎と会ってもお母ちゃん猿のそばを離れない。そんな猿があの夜、お母ちゃん猿から離れて桃太郎のそばにきたのだ。
悲しさとさびしさに落ち込む桃太郎に、猿は何日も寄り添い続けた。時間が経って桃太郎が笑ったり遊んだりするようになると、猿は一番の遊び相手になった。桃太郎が初めてひとりで作ったきび団子を食べたのもこの猿だ。桃太郎が一人で山の中を動き回るようになると、あっちはだめだ、こっちもだめだと、お母ちゃん猿のように口うるさくなった。
ひとつ歳をとっても、夜空を見上げる日はあった。猿は、たとえ喧嘩をした日でも、桃太郎が眠らないときには黙って寄り添った。
もうひとつ歳をとり、また夏が来た。夜にさびしくなった桃太郎は、猿達の眠るところに入れてもらい、寝転がって空を見上げていた。そして、これまでとは違うことを考えていた。
自分はいつまでさびしい気持ちでいるのだろう。いつまで頬を拭ってもらうつもりなのだろう。
次の朝、木漏れ日を受けて目覚めたとき、桃太郎は目をまんまるにした。腹の上に、見たことのない白い子犬が堂々と寝そべっていたのだ。目が合うなり犬は遊んでくれと吠え、桃太郎は戸惑いながら頷いた。
奔放な犬の相手をするのには苦労をしたが、日が暮れるまで付き合ってもちっとも飽きなかった。それまでこの山には桃太郎に甘えてくる者などいなかった。
上手に遊んでやることや心配をかけられることに慣れてくると、自分が大人に近付けたようで嬉しい気持ちになった。
桃太郎は年長者の自覚を強め、いろいろなことをひとりでこなすのが好きになった。柴刈を危なげなくできるようになり、洗濯も難しくなくなった。
犬と暮らすようになってから、夜空を見上げることはなくなった。
「犬よ、寝ているか」
昔を思い出しながら、桃太郎は手探りで犬に触れようとした。気持ち良さそうないびきは桃太郎の足先の方から聞こえている。
「いた。犬よ、今日は毛が……ううむ?」
「それは雉でございます」
桃太郎の手元からしたのは雉の鳴き声だった。薄く目を開けると、丸々とした雉の体が見えた。その向こうに犬の尻がある。
雉をこうやって撫でたことはなかったが、心の落ち着く触り心地だ。
「そうか、お前も、いてくれるのだな」
「おりますぞ。私がお守りいたします、どうぞお眠りください」
「頼もしい」
桃太郎は体をずり下げ、また寝転んだ。足が犬の体に当たり、犬は不満そうにいびきを立てた。
猿が、よく眠れ、と呟いた。
桃太郎は眠たくありながらにこにこと笑って、猿達の気配を感じながら、最後に少しだけ自分の寝息を聞いた。
注ぐ陽光と木の葉の影が、森の風景にまだらを掛ける。
山には猿の溜まり場がいくつかある。桃太郎はその内のひとつで、爺ちゃん猿が寝床から起きてくるのを待っていた。姿勢良く座す桃太郎が正面に見ているのは、爺ちゃん猿だけが使える古い切り株だ。
山の猿達は桃太郎を遠巻きにして、帰ってきた、帰ってきたと喜び合っている。猿達が桃太郎に群がってこないのは、騒がしい猿の群れを見知らぬ雉が睨め回しているからだ。犬は目についた猿を片っ端から訪ね回って、再会のあいさつと手ぬぐいの自慢に励んでいる。桃太郎の腕に取り付いている猿は、いつどこからお母ちゃん猿の怒鳴り声が聞こえるかと気を張り、顔をくるくる回していた。
桃太郎は腰につけた巾着袋を指で触った。中には作ったばかりのきび団子が入っている。朝、小屋に戻ってすぐに作ったものだ。
「猿よ、落ち着け。きび団子を食うか?」
「おれは落ち着いてらあ。ちょいと用心しているだけさ。ちょいとな」
「こわいのなら俺の後ろに隠れていればよい」
「こわいだとう? そいつは聞き捨てならねえや!」
猿はうきいと怒って腕から飛び降りた。
「す、すまぬ」
「後ろに隠れておくのはお前の方だ! お母ちゃんに怒鳴られたって、おれが庇ってやるから安心してろい!」
猿は桃太郎に背を見せてどかっと座った。ところが、木々の向こうからお母ちゃん猿の「怒鳴りやしないよ!」という怒鳴り声がすると、猿の首はぐっと引っ込んで動かなくなった。
お母ちゃん猿は、眠そうな爺ちゃん猿をつれて、怒った顔でのしのしとやってきている。
庇ってやると言っていた猿が動けないでいるのを見かねて、雉がひらりと桃太郎の肩に乗った。
「お母ちゃん猿とやら、怒鳴る前にわけを聞くがよい」
「あんた、山の鳥じゃないね! 桃太郎と仲良くなったのかい!」
「そのとおりだ。では、怒鳴る前にわけを」
「犬や子猿と遊んでいなさい! ここがお猿のなわばりだって忘れちゃいけないよ!」
「きゃ!」
雉は体を小さくして走り去った。子猿達と身を寄せ合う犬のもとへ行き、一緒になって頭を隠した。
「さあ、桃太郎!」
ついにお母ちゃん猿の険相が自分に向けられ、桃太郎は首を引いてこくこくと頷いた。
「爺ちゃん猿がどれだけ心配をしていたか、分かってるの!」
「ど、どれだけだ?」
「それほどじゃないんだよ! 爺ちゃん猿は放っておきなさいだなんて言ったんだから! 心配したのはお母ちゃんばかり……よく帰ってきてくれたね」
お母ちゃん猿はいたわるように桃太郎の腕に触れた。桃太郎はすぐに自分の手を重ねた。
「すまなかった。お母ちゃん猿に知られると行かせてもらえなくなると思ったのだ」
「そうに決まってるよ。お山の外へ行くなんて、何があるかも分からないのに」
お母ちゃん猿は後ろを見て、縮こまっている猿の背を撫でた。
「あんたも。お母ちゃんにこんなに心配をかけて、悪い子だよ」
猿は「おれの心配も?」と恐る恐る頭を振り向けた。お母ちゃん猿はその頭をがっしと掴む。
「するよ、そりゃあ! 何も言わずにいなくなるなんて、よくそんなひどいことができたもんだ!」
「ぎゃ! けど、行くと言っていたらだめだと言っただろう?」
「もちろん!」
「ほら! おれぁ、桃太郎が行きたいって言うとこに行かせてやりたかったんだよう」
「そうだろうよ。まったく、あんたは優しい子なんだから!」
「ごめんよう、怒鳴らないでくれよう」
「怒鳴っちゃいないよ!」
大きな声に雉も犬も猿も怯えていたが、桃太郎は今日の怒鳴り声がいつもよりうるさくないことに気付いていた。かといって、いつもより怒っていないわけではない。いつものように怒鳴れないくらい、お母ちゃん猿は桃太郎達を心配していたのだ。桃太郎は申し訳ない気持ちになって眉尻を下げた。
「桃太郎や」
切り株の上から爺ちゃん猿が静かに言った。眠そうな目は普段のとおりで、顔付きはどこか嬉しそうだ。
「見ない間に、随分と大人になったようだの」
桃太郎は目を見開いた。
「大人になっただろうか?」
「なった、なった。じゃが、まだ子供だの」
「子供? つまり、どちらだ?」
「お前がどれだけ大人らしくなっても、わしらにとってはいつまでも愛すべき子供じゃ。だからお前達、お母ちゃん猿や爺ちゃん猿の気持ちを分かっておくれ」
桃太郎と猿は目を見合わせた。それから前に目を戻し、殊勝に頷く。爺ちゃん猿は微笑んだ。
「分かればよい。では、お前の話を聞いてやろうかの。聞きたいことや話したいことがあるのだろ?」
「……ある。聞きたいことも、話しておかねばならぬことも」
人の村のこと、鬼のこと。父と母のこと、桃太郎のこと。特に、邪気を払う力にかかわることは聞ける限り聞いておきたい。
まずは雉が知りたがっているところを訊こうかと考えて、雉が遠くに逃げたままであると気付いた。雉や、来い、と呼びかけると、雉と犬が木の根のくぼみから頭を上げた。お母ちゃん猿がもう怒鳴らないと分かった様子になると、二匹は晴れ晴れとした顔でとっとっと戻ってきた。
桃太郎は猿達に雉を紹介したあと、いよいよ切り出した。
「昔の話になるが……この山やふもとの村が邪悪な気に覆われていた頃のことを、覚えているだろうか」
爺ちゃん猿は思い出すように目を閉じてから、そう待たせずに頷いた。
「それは、空を暗くし、湧き水の溜まりを濁らせ、木々の実りを悪くした穢れのことじゃな」
「きっとそれだ。俺はそのような邪気を見た覚えがないのだが、確かにあったのだな?」
「覚えがないのはお前のお父ちゃんやお母ちゃんのおかげじゃろう。二人は悪いものを桃太郎に近付けまいとしていての、いつも、お前が立ち入るところの穢れをすすいでおったのじゃ」
もしや、邪気払いか。桃太郎は顔をくっと前に出した。
「母上が手に光を帯びている様を見なかったか?」
「おお、そうしておったの。お猿達は光の出し方が分からんでのう、人が羨ましかったわ」
爺ちゃん猿が言うと、お母ちゃん猿が口を挟む。
「手ばかりじゃなく、手を向けた先の地面や木が光ることもあったんだよ。空だって明るくできたさ! お前のお父ちゃんはそんなこたしなかったけど、その代わり刀でなんだかやってたようだよ」
雉も嘴を挟んだ。
「お父上はきっと、刀で邪気を斬っていたのだ。勇ましかろう! そのお父上に仕えていたのが私の先祖であり、一族の誇り、強く気高い――」
「はて。桃太郎よ、お山に来たばかりの雉よ。なぜあの二人がお山でしていたことを知っておるのじゃ?」
首を傾げる爺ちゃん猿に桃太郎が答える。
「それはな、村の人が父上と母上のことを知っていて、話してくれたからだ。二人は村を救った英雄だったのだ。村の長老が聞かせてくれた」
「あの二人は、人の村に名を残しておったのか」
桃太郎は自慢らしく頷いた。
「うむ。母上は光を帯びた手で邪気を払い、父上はその光を受けた刀で鬼を斬ったと。……鬼というものを知っているか?」
爺ちゃん猿は首を横に振った。いつのまにやら集まってきていた大勢の猿達も同じようにした。
桃太郎は人の村や鬼ヶ島で起こった事と、父と母が成し遂げた事のあらましを語った。二人が五十年前に山に住みはじめたことは誰も知っていなかったが、八年前の夏にまで話が進むと、猿達の中のいくらかは何かに思い当たったような顔をした。あの夜の光を見た者達だ。
邪気を晴らした光と、桃太郎の父母の死。桃太郎の思ったとおり、この二つは同じ夜のうちに続けて起きた出来事だった。村を救った光は、年老いた二人が命を尽くして起こした奇跡だったのだ。
心配そうな顔を向けてきている猿達に、桃太郎は「もう落ち込みはせぬ」とはっきり言った。
「鬼ヶ島の封印を完全なものにする方法というものは間に合わなかったようだが、二人は人々のために生き抜いた。俺は誇らしく思っている」
桃太郎の手に、犬が鼻先を擦り寄せた。
「きっと、桃太郎さんのためだったのだぞ。お父ちゃん達は、何より、桃太郎さんを邪悪なものから守りたかったのだ」
「……うむ。そうなのだろうな」
桃太郎は嬉しくて微笑んだ。
守ろうとしてくれているのは、犬と猿と、出会ったばかりの雉も同じだ。お母ちゃん猿や爺ちゃん猿、他の猿達や山のほとんどの生き物達も桃太郎の味方だ。村の人々もみな良くしてくれた。
爺ちゃん猿が穢れと呼ぶ、邪悪なもの。それが桃太郎の身の内にあるということを、みなに隠しておくわけにはいかない。
「お母ちゃん猿よ、爺ちゃん猿よ。俺の体にはな――」
桃太郎は猿達を驚かさないよう、あっさりとした言い方で話した。この体には鬼と似た邪気が宿っている。そのために村の母子を苦しませることとなり、村に居られなくなってしまった。
桃太郎の話に、お母ちゃん猿が体を震わせてこわそうにした。
「それってのは、お前の体を悪くするようなものじゃないんだろうね?」
「そうはならないだろう。俺は病にかかったことなどないし」
「ああ! だったら、邪気でも柿でもなんだって構わないよ」
お母ちゃん猿は顔をくるりと笑顔に変えた。気になるのは桃太郎の体のことだけだったようだ。
爺ちゃん猿はいつもはしないような難しい顔をしていた。
「あの二人は、決してお前を穢れに近寄らせなかったはずじゃがのう」
桃太郎は、そのとおりだと思うと頷いた。
「村の娘が言っていたところによると、もし人が邪気に晒されたとしても、俺のように邪気が気配に混じるということにはならんそうなのだ。だから、俺のは生まれつきのものなのかもしれない」
だとすると、父と母のどちらかに桃太郎と同じ生質があったか、桃太郎の生まれる前に邪気にかかわる何かが起こったかだと考えられる。しかし、いまさら何があったのかを突き止めるのは無理なことであろう。
桃太郎が知りたいのは、どのようなわけで邪気を宿したかではなく、どのようにすれば邪気を消すことができるかだ。
父と母は、桃太郎の邪気を消すための手立てをどのように探っていただろうか。ひょっとすると、邪気を払う必要はないと考えて何もせずにいたかもしれない。気付いていなかった、ということはないはずだが。
唸る桃太郎に、お母ちゃん猿は「気付いていたに違いないよ」と自信ありげに言った。
「お前のお母ちゃんはたまにね、寝ているお前を大切そうに抱いて、あの光で撫でてやっていたんだよ。お猿達はあれを毛づくろいみたいなもんだと思ってたけど、違ったようだね」
桃太郎は目を丸くした。お母ちゃん猿の見間違いでなければ、桃太郎の邪気に対して母が浄化の術を試みていたのは明らかだ。
浄化の術の効きめがなかったのか、あったけれど邪気が残ってしまったのか。どちらにせよ、母の力をもってしても桃太郎の邪気は取り除けなかったということだ。
母にできなかったことを、邪気を感じ取る力すらない桃太郎にできるはずがあるだろうか。
「では、この刀は……どのように邪気を斬ったのだろう?」
桃太郎は腰元の刀に触れた。
鬼を斬るときには母の術で浄化の力を高めたそうだが、術を施さずとも邪気払いの力は有しているのではないか。父が刀を振るう様子は、村の長老も目にしたことはなかった。しかし、山にいた猿なら覚えているだろう。
桃太郎は爺ちゃん猿に尋ねようとしたが、お母ちゃん猿に呼びかけられて顔の向きを変えた。
「桃太郎。邪気を消す手立ては、あるのかないのかすらも分からないんだろう? だったらそんなに探さなくてもいいじゃないか。お猿達は気にしやしないよ。それとも……どうしても人の村へ行きたいのかい」
やはり、お母ちゃん猿はそればかりが気になるようだ。桃太郎は迷いを見せず、しっかり頷いた。
「俺はあの村を、人を、景色を気に入っている。お母ちゃん猿にも見せてやりたいほどに穏やかなところだ」
「村は穏やかでも、外からは悪い人がくるんじゃないか。せめて、もっと背が伸びてから……」
お母ちゃん猿の言葉は静かでさびしそうで、桃太郎の目にはお母ちゃん猿が子供であるように見えてしまった。
山を離れないとは言ってやれない。その代わり、いくらでも怒られるつもりでいる。
桃太郎が口を開こうとしたとき、猿がお母ちゃん猿の前に立ち塞がった。
「お母ちゃん! 分かってるはずだろう、桃太郎はもう一人前なんだ。村人達みんなが頼りにするくらいなんだぞ!」
雉が感心したように喉を鳴らした。
「よくぞ言った。さて、声の大きなお母ちゃん猿よ。人の村は危ないと言うが、山だって迷い込んだ猪などが出てくるそうではないか。人の村に住む方が安全ということもあるかもしれんぞ」
雉は首を伸ばして偉そうに言ったが、お母ちゃん猿にじろりと見られると首を戻した。一方、猿は身動ぎしなかった。
「お母ちゃん。桃太郎はなにも鬼と戦おうってんじゃねえんだ。人の村へ行きてえってのは、そんなにいけないことなのか?」
お母ちゃん猿は小さなため息をついた。
「分かったよ、分かってたのさ。だめだと言うばかりじゃいけないってね。黙っていなくなられる方が恐ろしいと思い知ったんだから……もう行くなとは言わないよ」
猿が嬉しそうな顔で桃太郎を振り返った。だが、桃太郎は喜ぶ顔をせず、猿は訝しそうな顔になる。
桃太郎は意を決し、ためらいを隠して言った。
「俺が邪気払いのことを知りたいわけは、あの村へ行くためだけではない」
お母ちゃん猿はきょとんとした。その前に立つ猿は、桃太郎を睨んでいた。
「桃太郎。なんのためだと言うつもりだ」
「鬼と戦う力を得るためだ」
みなに聞こえるように言うと、桃太郎に注がれている目のほとんどが動揺した。視界の端、桃太郎の隣で雉の体が膨らんだ。
お母ちゃん猿は悲しい顔になったが、口は閉じたままでいた。それを庇って隠すように猿が前へ出る。
「なんで鬼なんかと戦わなきゃならねえんだ」
「いまも鬼に脅かされている村があるからだ」
「二度会ったきりの男の他には、顔も見たことのないやつらしかいない村だろう」
「そのとおりだ」
桃太郎は猿の憤りから目を逸らさず、怒りの滲む声をよく聞いた。
「なんでだ……なんでだ、桃太郎!」
猿は地団駄を踏み、はがゆそうに呻く。「なんで危ない目にあいたがる。おれ達が心配することを分かってるくせに!」
「危ない目にあいたいのではない。お前も、鬼がどのような悪さをするのか聞いただろう。鬼に苦しめられる人がいるのだぞ」
「だからって、お前が気にしてやる必要があるもんか!」
「見て見ぬふりはしておけぬ」
「なんでお前が体を張らなきゃならねえんだ!」
「俺がやると決めたからだ!」
桃太郎は立ち上がっていた。
木の葉のささめく音が止み、風は無く、汗が膝の裏を滑る。
猿の逆立った毛がだんだんと寝ていく。
「ふもとの村のやつらは、自分のために見て見ぬふりをできているじゃねえか。お前も、そうしていいんだぞ」
「俺にはできぬ。それができるとしたら、俺は父上の子ではない」
父と母も、見て見ぬふりなどしなかった。父は臆さず鬼ヶ島へ乗り込んだのだ。
お母ちゃん猿や集まった猿達は心変わりを求めるように桃太郎を見上げていた。難しい顔でいた爺ちゃん猿が、ほんの少しだけ笑んだ気がした。
静まる場に、犬のあくびがひとつ。これは退屈なときのものではなく、怒る猿を落ち着かせたいときのあくびだ。
「桃太郎さんは意地になっているのではないぞ。おれには分かる」
猿はゆるゆると背を丸くした。
「おれにだって分かる」
雉が珍しく気遣わしげに、猿の方へ歩いていく。
「桃太郎殿の揺るぎなき覚悟が、この雉には見えるぞ」
「おれにだって見える」
雉は俯く猿の顔を覗き込もうとする。
「桃太郎殿にお前達を軽んずるつもりのないこと、この雉は」
「おれだって知ってる! 知ってるさ!」
猿は走り出し、木をよじ登って身を隠してしまった。犬が木の下までついていき、樹上を見上げて座る。猿はそこに留まっているらしい。
「……お母ちゃん猿よ、俺は、もう決めた」
「行かせたかないよ、桃太郎。でも、もう決めたんだね」
桃太郎は頷いた。猿達を見渡して二歩下がる。みなの目の集まる中で、桃太郎は両膝をつき頭を下げた。
「みな、すまぬ。俺はお前達を振り切ってでも鬼を斬ると決めた。この刀を持っていながら鬼の悪事を見過ごすことなどはできぬのだ」
山へ帰ると決めたときは、人のことは忘れた方がよいと考えようとした。人の世界も山の外も、届くはずのないもののままであるべきだったのだと。だが、その考えは桃太郎を楽にしてくれなかった。
「覚悟だけで鬼と戦えるとは思っていない。だから、邪気を払う力について知っていることがあれば教えて欲しい」
しばし地面を見つめて、顔を上げる。
桃太郎は爺ちゃん猿の顔を見た。周りの猿達の目も爺ちゃん猿に向いている。
爺ちゃん猿がまぶたをぱちりと開き、白っぽい瞳で桃太郎と目を合わせた。桃太郎が切り株のそばまでにじり寄ると、爺ちゃん猿は「よく見える」と笑んだ。
「桃太郎。自分の心を大切にすることじゃ」
「うむ、大切にする」
桃太郎は頷いたあと、じっとして顔を見せ続けた。
爺ちゃん猿は満足そうに頷き返し、次に雉の方を向いて声をかけた。
「危険を覚悟の上で桃太郎についていくのじゃな?」
「言うまでもなきこと!」
雉は桃太郎の隣まできて、つんと爺ちゃん猿を見上げた。
「私はこの身命を差し出すべきお方を見つけたのだ。悪に立ち向かう桃太郎殿の姿をひと目見たときから、心は決まっておる」
明言された深い敬服。桃太郎は雉の覚悟と一途さこそ敬服されるにふさわしいものだと思っている。
睨みつけるような雉の目を爺ちゃん猿は見返す。雉はいくらでも見よとばかりに首を伸ばして顔をじりじりと近付ける。
そのうち爺ちゃん猿の目はそろそろと狭くなり、いつもの眠そうな形に戻った。桃太郎や周りの猿達は、雉が認められたのだと分かった。
爺ちゃん猿は桃太郎へ言う。
「穢れを斬らんとするならば、桃の実の力を借りなさい」
「桃?」
桃は、桃太郎の名の由来である果物だ。桃ほっぺの由来でもあり身近な言葉だが、桃太郎は桃を見たことがなかった。それどころか、桃は言い伝えの中だけにしかないものだと思い込んでいた。爺ちゃん猿は桃を見たことがあるのだろうか。
考えてみているうちに、桃太郎は桃よりも気にかけるべき言葉があったことに気付いた。
穢れを斬らんとするならば――。
「邪気を、穢れを斬る手立てを知っているのか?」
「おそらくじゃがの」爺ちゃん猿は落ち着き払って言う。「お前のお父ちゃんとお母ちゃんは、このお山で桃を育てておった。どうやらその実には清らかな力があったようなのじゃ」
桃太郎は目を見開いた。声が大きくならないように抑えつつ尋ねる。
「清らかな力とは、なんなのだ?」
爺ちゃん猿の眠そうな目がゆっくりと閉じる。記憶の中の光景を思い浮かべている仕草だろう。
「お前のお父ちゃんが穢れを斬りに行くときは、いつもお母ちゃんが刀を清めておった。それはお前も知る通りだの。じゃが、桃の実の成る季節にはそれをしなかった。桃の実にするりと刃を通すだけで、お母ちゃんが清めたときと同じように、刃が清らかに艶めくのじゃ」
そしてその刀は、空気を淀ます霧のような穢れも、暗がりで溜まる泥のようなひどい穢れも斬ってしまえた。
間違いない。桃太郎は爺ちゃん猿の推量を疑わなかった。
桃の実には浄化の力があるに違いない。桃の実は母の術の代わりになり、刀の持つ浄化の力を高められるのだ。
「桃の実の成る季節とはいつごろだ?」
「実が熟すのは、長い雨季の明けた後の、暑い頃じゃ」
桃太郎はびっくりして肩が跳ねそうになった。
「それは今だぞ!」
「そうじゃ。わしが桃の木のあるところを教えれば、お前はすぐにでも桃の実を取り、穢れを斬る力を得ることができる。それゆえわしは、この場でお前の思いの強さを確かめたかったのじゃ」
お母ちゃん猿のさびしそうな顔が見える。桃太郎は目を合わせたいのを堪えて、爺ちゃん猿の話をしっかり聞いた。
もとより爺ちゃん猿は、桃太郎が大人になったときには桃の木のことを教えるつもりでいたそうだ。
桃太郎の父と母が大事にしていた桃畑。それは爺ちゃん猿が生まれる前からあったもので、取れる果実は甘美であり、他のどの木の実より大きくてみずみずしい。二人は間引いた実も熟れた実も猿や鳥に食べさせてやっていたが、盗み食いやいたずらには厳しかった。
猿達は二人が桃の木を大事にしていることや、桃がよく育てば自分達も美味い実を口にできるということを理解していた。そして誰かがつまみ食いをしてしまわないように見張り合い、分別のない子猿は近寄らせないようにしようと決めた。すると二人も猿達を信じるようになって、実の間引き方を教えたり、間引いた青い実を猿のために料理してくれたりするようになった。
じきに、子供を桃畑に入らせないことは猿の掟のひとつとなった。若い頃の爺ちゃん猿が初めて桃の木に触れられたのも、体と心が十分に育ち、決まりを守れる猿になったと群れの長に認められてからだった。若い猿が群れの長から桃畑の場所を教えてもらえることは、その猿がもう子供ではないということと、仲間からの信用を得たということの証になったのだ。
桃を手入れする人がいなくなってしまったあとも、桃畑は猿達によって守り継がれていた。猿も他の生き物達も身勝手なことをせず、熟れた実を仲良く分け合った。
みな、桃の木を大事にしてきた。桃太郎の父と母の遺したものを、大事に大事にしてきたのだ。
「お山をもう少し上がって川を渡るのじゃ。わしの寝床のもっと先へ行けば、桃畑を見つけられるじゃろう」
桃太郎は頭の中で繰り返した。少し上がって川を渡り、爺ちゃん猿の寝床を行き過ぎたところ。爺ちゃん猿の寝床も、桃太郎は足を踏み入れたことがない。
爺ちゃん猿は桃太郎の覚悟を信じてくれた。分別のつかぬ子供ではないと認めてくれたのだ。あまり見えなくなってしまった目で、しかと桃太郎を見てくれた。
「さあ、桃太郎。お猿達の気が変わる前に行くのじゃ」
桃太郎は背筋を伸ばし、強く頷いた。
すっくと立って、猿達を見回す。お母ちゃん猿は目を和らがせて、さびしさはほとんど隠していた。
桃太郎は大きく言った。
「行ってくる!」
すると、雉がけーんと高鳴きをして、力強く羽を鳴らした。
犬が樹上へ吠えだした。
「行くぞ! おうい! 下りてこないと置いていかれてしまうぞ!」
猿からの返事はない。
「犬や、置いていくぞ」
「桃太郎さんが置いていくぞと言っているぞ!」
「犬や、猿を呼ぶな」
「桃太郎さんが猿を呼ぶなと……おや、おれに言っていたのか」
犬はひと目だけ茂みの内側を気にしてから、駆け足で桃太郎の足元まで来た。
桃太郎は隠れている猿へ向けて声高に言った。
「俺を追うのか、追わんのか、自分の心で決めるのだ! 俺は、自分の心で決めたぞ!」
桃太郎は言い終えてすぐ早足で歩きだした。振り返らない。進む先は自分の決めた道だ。
まず、上へ。
猿達の気配が遠ざかっても、足の進みは緩めなかった。じきに水音が聞こえてくる。
川の澄んだ流れを前にして一度立ち止まる。振り返るのを我慢する。足場にする岩を決め、ひょいと渡って、向こう岸に踏み入った。
首に汗が伝った。暑いが、まだ息は上がっていない。
猿は追ってくるだろうか。追わないことを選ぶだろうか。
桃太郎は頭を振って前を見る。犬の尻尾を見て気を休める。
この落ち着かない気持ちはなんだ。
猿のことが気になっているからだろうか。
この心にある焦りはなんだ。
いつもより薄暗い空のせいなのか。