第五話:鬼の気配
煤のような黒色の肌をした邪悪な鬼が、かつての村人達を苦しめていた。
不幸の始まりは、凶事の兆しもなかった海に大きな黒の島が現れたことだ。およそ百年前の出来事である。
島の辺りは暗い雲に覆われて、昼でも光を通さない。陸地は灰や煤で塗りつぶしたような黒の岩場ばかりであって、禿山の頂上からは夜より暗い色をした霧が立ちのぼる。そして島のいたるところに、人のように歩き回る、艶のない黒の、人の子供ほどの大きさの影があるのだ。
忽然と現れた島を調べにいくため小舟を出した漁師がいた。漁師は、舟を進めるほどに闇の濃くなる中を、気味の悪さを堪えて進んだ。その末に黒の島の禍々しい様子を見、不気味な生き物の影に気付き、たまらなくなって引き返したのだった。
鬼だ。あれは、邪気に満ちた鬼の島だ。漁師は村の者達に己の見た恐ろしいものを話し聞かせた。壮年の男が怯えを隠せないでいる様は言葉よりも多くを伝え、恐れは周りの村にまで広まった。鬼ヶ島と呼ばれるようになったその島へ近付こうする者はいなかった。
鬼は島の中を歩きまわるだけの生き物かもしれない。村を荒らしにくるとは限らない。村人達は励まし合いながらも、いつか自分達にわざわいが降りかかることを疑えずにいた。
季節が一つ変わる頃、漂う邪気は村の上の空にまで及んだ。常に薄らと影が落ち、昼の空の陽も照りきらず、月は輝き方を忘れたように弱っていた。
それからまもなく、鬼達は村を見つけた。
桃太郎が「鬼の話を聞いてもよいだろうか」と言ったとき、長老はひとつも動じず頷いた。柔らかい顔付きに変わりはなく、桃太郎の気はいくらか安らいだ。
長老の住まいは寄合所の近くにある。大きさは他の家々とそう変わらず、少ない数の人が話をするのには寄合所よりも適していた。
長老はまず、村の者達のほとんどが鬼の存在を知っていて、知らないのは幼い子供達だけであることを明かした。
長い間、この村は鬼の主な目当てにされてきたが、あることをきっかけに鬼はやってこなくなった。怯えて暮らす日々は終わり、月日が過ぎて、今のこの村には鬼を知らずに大きくなった子供達の高い声が響いている。いずれは鬼の話をしてやらなければならないが、幼い内にそうしてもいたずらに不安にさせるだけだ。大人達はそう考え、子供が分別を得るまでは知らないままでいさせようと決めたのだという。
桃太郎に話さなかったのも同じような考えからだった。村人達は、桃太郎が鬼の存在を知らないようだと気付いてすぐ、鬼のことを聞かせるか否かの話し合いを持った。長く居続けるのならば話しておいてもよいのだろうが、あまり居ずに山へ帰るのならば、それまでの短い間くらいは懸念を抱かずにいさせたい。
村人達は話し合いの末、しばらくは何も知らせないでおこうと決めた。もし桃太郎が鬼のことを知りたがったり、村の外へ出たがったりしたならば、そのとき全てを聞かせよう、と。
そしてその時は訪れて、長老は桃太郎に包み隠さず話すことを約束し、「桃太郎さんが話を聞きに来られるときを待っておりました」と微笑みすらした。
桃太郎は、犬、猿、雉と共に座り、長老の語りに一心に耳を傾けた。言葉の分からない三匹は、桃太郎が長老の言葉を繰り返すのを頼りにした。
「鬼による強奪の始終は、いつも決まりきっておりました。まず、人の大人よりも頭二つほど背の高い大きな鬼が先頭に立ち、恐ろしい唸り声を上げて村に入ってくるのです」
大人より、頭二つも。桃太郎はごくりと喉を鳴らす。雉も同じような音を立てた。
「その後ろには人の子供ほどの大きさの鬼が大勢おって、貢ぎ物を出せと言って村人を蹴飛ばし、いじめて、貢ぎ物を鬼の大船まで運ばせるのです。小さくともその力は人並にあって、決して侮れません」
「力を合わせてやりかえすことはできなかったのだろうか」
長老は残念そうに首を振った。
「小鬼を一匹や二匹倒せたところで、鬼達の怒りを買うだけでしょう」
小さな鬼は村人の数より多い。大きな鬼も目を光らしているし、鬼ヶ島に控えている鬼もあるだろう。
桃太郎は肩を落とす。
「あの男も、徒党を組んでも所詮は人の力に過ぎないと言っていた。刀を手に立ち向かった者はいなかったのか?」
村で刀を見たことはないが、長柄の農具はたくさんある。金の類の道具を手にして戦えば、流石の鬼も傷を負うのではないか。
「桃太郎さん。一太刀だけでもなどと考えてはなりません」
長老はきっぱりと戒めた。桃太郎は眉を弱らせる。
「鬼は、刀も怖がらぬのか?」
怖がりませぬ、と長老は顔を暗くした。
「鬼というものは、叩こうとも斬ろうとも息絶えず、傷は見る間に消えていき、倒れてもまた立ち上がるのだそうです」
「傷が、消えるだと!」
桃太郎は驚いて声を上げた。犬がその声に驚いて背を震わせる。
長老の言葉が偽りでないのならば、鬼は人と違う理に生きているということになるではないか。いくら人や力を集めても通じないということになってしまうではないか。
桃太郎は鬼というものの異様さに身震いしそうだった。そのようなものに脅されていた村人の恐怖はいかばかりか。
「むむ……そう言い伝えられているということは、かつて鬼に立ち向かった者がいたのだな」
「はい。鬼がやってくるようになって何年も経たぬ頃だったと聞いております」
その時の鬼達は村人達を容易く押し沈め、面倒を起こせないように刀や槍を捨てさせた。
あまりにも歯が立たなかったため、穏やかな暮らしを取り返したいという村人達の思いは二度と奮わなくなってしまった。
人々は疲れるばかりの日々を過ごした。鬼のために田畑を耕す。取れた作物を売って貢ぎ物を買う。村人達はできるだけ鬼の気分の良くなる物を用意するため、休む間を惜しんで働き続ける。
鬼はなんでも奪っていった。食べ物も、農具も、着物さえ。高価な物ほど喜んだ。
「鬼は自らが欲しい物を狙っているわけではないのでしょう。やつらは人を貧しくさせることを楽しんでいるのです。やつらにとってはきっと、物を持ち帰ることより、物を奪われた村人が困っている様子を思うことが喜びなのです」
村はどんどん貧しくなった。貧しさと恐ろしさに耐えられなくなった者が村から逃げ去っても、鬼はちっとも怒らなかった。働き手が減ることは残った村人の仕事を増やすことに繋がり、鬼達はそれを喜んだのだ。
村人は不幸を嘆く他に何もできなくなっていた。惨めな思いを忘れられず、小さな気晴らしを考えることも、食事を楽しみに思うこともほとんどなかった。
人々が暗い思いに囚われ、いかなるのぞみも持てないでいたわけは、鬼ヶ島からの邪気にあった。邪気の漂うところでは、人は心を弱くされてしまう。これは邪気が濃く見えるところほど重くなる。
村人は空気の淀むところを嫌って避けるようになった。鬼ヶ島に近く、暗い霧に覆われた海。空に広がる邪気が滞って溜まりやすい、大きな山の高いところ。そこらは決して近寄ってはならない場所となった。
そこまでを聞き、猿が目を丸くして言った。
「お山に悪い気配が? そんなの知らねえや」
「今は山の邪気は晴れているということだろう。この村の空だって晴れている。……そうだな?」
桃太郎が長老に確かめると、長老はそのとおりだと頷いた。
「ある日、山やこの村の辺りの空から邪気が失せ、鬼の襲来がぴたりと止んだのです。それはあまりに突然のことで、村の者は鬼の謀を疑ったほどでした」
村人の疑いは時とともに薄まっていった。邪気が晴れたことにより、失われていたのぞみがだんだんと取り戻され、不幸の終わりを信じられるようになったのだ。一方で、鬼の気配が消えたのは自分達の村の辺りだけだとも分かり、村の外をひどく恐れるようになった。
「突然に邪気の消えた日……それが、八年前の夏のことなのです」
桃太郎は、な、と声を漏らした。八年前ということは、自分も邪気に侵された空を見ていたかもしれないということだ。愕然としつつ顎に手をやり、幼い自分の見たものを思い出そうとする。
長老は急かさずに桃太郎の言葉を待っていた。桃太郎を見つめる長老の目には、何かを思い出させたい気持ちがあるように見えた。
覚えていることは多くある。しかし、空がどのくらい暗かったかはよく覚えていない。
その夏の桃太郎の目には、陽の光のように眩しく、いつであっても温かいあの二人ばかりが映っていたのだ。
それは、最後の夏だったのだ。
「二人が死んでしまったあとには、空を見上げることもあった。明るい空だった」
桃太郎が呟くと、長老はゆっくりと頷いた。
「私は、あのお二人が奇跡を起こし、邪気を晴らしてくださったのだと思っております」
「もしや、父と母のことを知っているのか?」
桃太郎は前のめりになり、片手のこぶしを床についた。
「はい。五十年も昔、私が幼い子供であった頃から知っております。そのときが、一度目の奇跡でありました」
「は、話してくれ。たくさん話してくれ」
桃太郎は尻ひとつ分だけ腰を滑らせ前へ出た。犬と猿も同じだけ前へ出た。
控えめに立ち上がり、口を挟んだのは雉だった。
「桃太郎殿……。私共のことをお忘れでなければよいのですが」
桃太郎は長老の言葉を繰り返すのを忘れていたことに気付いた。これでは雉らは話についてこられなくなってしまう。
「すまぬ。どこまで言っただろうか」
猿が答える。
「邪気のせいで海や山に人が近寄れなくなったってところまでは聞いたな」
「よし、分かった。その続きはな――」
そのとき、犬が言葉を遮って鼻をぶっと鳴らした。みなの目が集まる。雉が「無礼な!」と憤ったが、犬はそちらを見もしなかった。
「桃太郎さん、おれ達のことは忘れていてよいぞ。桃太郎さんのお父ちゃんやお母ちゃんの話なのだろう?」
「そのとおりだが、話が分からないと退屈だろう?」
「後で聞かせてくれればよい。桃太郎さんがお父ちゃんやお母ちゃんの話を早く聞きたいと思っていること、この賢い犬は分かっている!」
犬は高々と言い切った。雉は口を大きく開けてのけぞり、尻もちをついて足をばたつかせた。猿も珍しく狼狽えた。
「お、おれぁ我慢の利くお猿だ。いくらか放っておかれたってなんともねえ」
床を転がりながら起き上がった雉が、今度は前に倒れ込むようにして首を差し伸べた。
「桃太郎殿、先の無礼をお許しくだされ。もう水を差すようなことはいたしませぬ」
桃太郎は三匹を見回し、桃太郎のために我慢をしてくれる優しさに、かたじけないと目を細めた。
長老は微笑ましそうな顔で言った。
「あの方も、獣達に慕われておりましたな」
「犬や猿を連れ歩いていたのか?」
「そうです。ただ、あの方はあなたのように獣と言葉で通じ合っている様子はなかったように思いますが。きび団子を与えて喜ばせていたのは同じですな」
「そうか、きび団子か!」
獣達がきび団子を気に入ってついてきたというのなら納得だ。あれを好まない生き物は、きっとどこにもいないだろう。
桃太郎は嬉しくなった。
「ううむ。獣達を連れ、きび団子を持ち、刀を差して。俺は父と同じことをしているのだな」
長老は目を閉じ、そうですな、としみじみ語る。
「刀はもちろん、朗らかな笑顔もあなたと同じであったと覚えております。違うのは、歳が二十を過ぎてあったことと、妻女を連れておられたことです」
母のことだ。物を作ったり直したりが上手で、物静かな人。桃太郎も父も、母の作る美味いきび団子を特に好いていた。
桃太郎は長老の見た父の姿を想像した。着物はどのようなものだったろう。母が着物を縫い直すところを見たことがあるので、桃太郎の着ているものと同じ着物であったということもあるかもしれない。
体は大きかっただろうか。小さな頃の桃太郎の目には、父はいつでも大きく見えていた。大きくなった今の桃太郎は、父の背にどれだけ近付けているのだろうか。
桃太郎を抱く腕の力、強さと慈しみを湛えたかおかたち。自分が育ち父が老いても追いつきようのなく思えたあの頼もしさを忘れるものか。若かりし時の父の姿は、それは精悍で見立てのよいことであったろう。
そんな父と、父に連れ立っていた母。二人は五十年前に、暗く沈んだ村に現れたのだ。
鬼の襲来が始まってから五十年も経てば、温かだった村の景色を覚えている者はわずかとなっていた。老人が記憶の中の景色を語ると村人達は喜んで耳を傾けたが、その景色を取り戻したいと考える者はいなかった。のぞみを持つことよりも、鬼を怒らせないために働くことの方が大切だった。子供も歳が十を過ぎる頃には、大人と同じように一日畑に立っていた。
のちに長老となる働き者の男の子は、村の中の誰より明るかった。大人達が子供の笑顔を見て心を軽くすることを知っていて、働きながらでも努めて笑顔を見せるようにしていたのだ。
鬼への怯えは大人も子供も同じである。しかし、その子供はのぞみを持っていた。いつか救われるときがくるのだと、心の底から信じていた。
また鬼がやってくる。男達が貢ぎ物を運び終えるまでの間、女子供は隠れ家に潜む。その間、男の子は声を潜めて年下の子供達に語ってやるのだ。いつか村を救う英雄が現れるのだと。
夢語と思われていたのぞみは、その日、叶った。
隠れ家の戸を叩いたのは穏やかな目をした女だった。どこか品のあるその女は、鬼達が島へ帰ったことを告げ、寄合所で休みましょうと呼びかけた。誰もその女のことを知っていなかったのに、誰も疑いはしなかった。
寄合所には村の男達が、異様に疲れた顔をして集まっていた。鬼達の邪気にあてられてしまっているのだ。
「こちらだ、はよう!」
奥の方から聞こえたのは知らない男の声だった。声の主は刀を帯びたたくましい男で、具合を悪くした村の男を支えてやっていた。
女が早足で、座ることもままならない男のそばに行き、膝をついて男の背にそうっと手を添えた。何が行われるのかと、周りの者が目を留める。
男の子はわけもなく、きっと驚くようなことが起こるはずだと思った。そして、男の子も他の村人も、驚いて息を呑むことになった。
油も火も無いはずであるのに、女の手が微かに光を帯びたのだ。苦しそうにしている男がその光に撫でられると、息も顔色も落ち着いて、自分ひとりの力で体を起こせるようになった。あっというまの出来事に、みなが目を丸くしていた。
不思議な力を見せた女が静かに立ち上がり、刀を帯びた男がその隣に立った。女は村人達を見渡して、温かく微笑んで言った。
鬼を斬り、邪気を払うためにまいりました、と。人々は再び息を呑んだ。
「その刀は鬼を斬れるのですか?」
尋ねたのは男の子だった。二人の力を疑っているわけではない。ただ、こちらを見てほしかったから声を上げた。
男と目が合う。その眼差しには確かな自信があるように見えた。男は口を開かず、淀みない動きで刀を抜いた。男の子が目を瞬かせると、男は眼差しを優しくし、薄く微笑んだ。
「そのようなものだ。しかし、鬼と戦うためには、浄化の力を高める術を施さねばならぬ」
研ぎ澄まされた刃が女の前にかざされる。女が指先を切先に伸ばすと、見ているだけで心が温かくなりそうな優しい光が現れる。指先は触れず、光だけが刃紋をなぞっていった。光の通り過ぎたあと、なめらかな刀身が輝きを増しているように見えた。
女の手が離れて、艶めく刃は淀みない動きで宙を泳ぎ、吸い込まれるように鞘に納まった。
「これより私は鬼の征伐へ向かう。私の妻がここであなた達を介抱するから、具合の悪い者から邪気払いをされてくれ」
男は村人達から注がれる視線の中、寄合所の入り口へ向かって歩きだした。刀の美しさに見とれていた男の子は我に返って、男の背中に猿がしがみついていることに初めて気付いた。どこかから白い犬が出てきて、男を追い抜いて寄合所を出る。外からは雉の鳴き声がした。
男の子はじっと男を見上げていた。すると目の前で男が立ち止まり、男の子の頭に手を乗せた。
「よくぞこれまで耐え抜いた! もう怯えることはない」
男は朗らかに、歯を見せて笑った。猿が男の背中から手を伸ばし、真似をするように男の子の頭に触れた。男の子がつい笑い声を漏らすと、周りの村人も笑みをこぼした。
男が寄合所を出ていき、男の子は泣いた。小鬼に追いかけられても泣かなかったのに、大声で泣いた。
どれほど待っただろうか、村人の介抱を続けていた女が手を止めて立ち上がり、口を開いた。最も大きな鬼の気配が消えたため、邪気の源に封印を施すべく自分も鬼ヶ島へ渡ると言う。
女はまだ目の赤みが消えないでいる男の子の手を取り、舟を漕ぐ力になってほしいと頭を下げた。
「あなたを選んだのは、あなたが村人の中の誰より鬼の邪気に侵されにくい体を持っているからです。心当たりがあるでしょう?」
男の子が笑顔やのぞみを消さずにいられたのは、強く優しい心を持っていたためだけではなく、その生質のおかげでもあったのだ。
なんであれ、この人のために舟を漕ぐことは尊いつとめに違いない。男の子は誇らしく思って引き受けた。
乗ったことのない舟に乗り、出たことのない海へ出る。鬼ヶ島は言い伝えのとおりの見た目であったが、水際から見えるところに鬼はいなかった。女は舟に術を施し、男の子へ舟を降りずに待つよう言って、暗い霧の向こうへ消えた。
ただ、待っていた。するとあるとき、真っ白な光が邪悪な霧を呑み込みながら広がった。目の眩むような光が過ぎ去る。過ぎ去ってからも、景色は眩しいままだった。
霧は消えた。顔や着物を黒く汚した男と、同じように体の汚れた獣達が見えた。男に支えられて歩く、疲れ果てた様子の女が見えた。
景色はずっと眩しかった。
空は、心を洗うような青だった。
封印はいつか破られる。男は限られた大人だけを集めてこう打ち明けた。
鬼ヶ島は邪気を満たした大きな火山のようなものであった。今は、邪気の立ちのぼる頂上の火口に、浄化の術で蓋をしている。だが、いつまでも邪気を抑えておけるわけではない。
「不甲斐ないことだが、今の力ではここまでしかできぬ。だが、村を見捨てることはしないと約束する」
男は、妻と二人で村の近くの山へこもるつもりだと話した。修行を続けて邪気払いの力を高めながら、封印を完全なものにするための新たな方法を探るのだと言う。
何かできることはないかと申し出る長老に、男はいくつか頼み事をした。自分達が修行を続けていることは隠しておくこと。山の中腹より先には立ち入らないこと。そしてできれば、こっそり食べ物を分けてくれると助かるということ。長老は全てに力を惜しまないと約束した。
村人達には鬼退治に力を貸した山の猿のためにと話し、山のふもとに野菜や黍を寝かしておくようになった。置いた作物は誰も見ていない間に消えているのが常であったが、いくつか月が変わる頃には、昼間でも猿の群れが下りてきて拾っていくようになった。
鬼のいない和やかな暮らしは、十年、二十年と長く続いていく。山に暮らしている夫婦のことは、村の長老と、次の長老を担う者にだけ語り継がれた。
鬼ヶ島から微かに邪気が漏れはじめたのは、封印から三十年が経った頃だ。邪気は一年、二年と時間をかけて、わずかずつ鬼ヶ島を暗くした。また時が経てば海の上へ広がり、また経てば、村の上へ。とうとう村の全体に邪気がかかると、あの恐ろしい鬼達が姿を現した。
「それがおよそ十年前のことです。私は既に長老となっておりましたが、山へ足を運ぶことはせずにおりました」
「父や母に、鬼が来たと伝えに来ることもしなかったのか?」
「私が行かずとも、鬼ヶ島の封印が破られたことは分かっていたはずです」
また、鬼に二人の存在を気付かれることは万が一にもあってはならなかった。鬼にとって、あの二人は自分達を封じ込めた宿敵だ。もしその宿敵がまだ村の近くにいるようだと知れば、鬼達はなんとしても恨みを晴らそうと考えるだろう。
幸い、二人が山にいることは村人さえも知らない。長老は二人のことを隠し通した。
「あの方は、村を見捨てぬと約束をしてくださった。そして、村はあの方の頼みに従うと約束をしたのです。お二人が生きているかどうかも確かめられない状況でしたが、きっと生きていて、完全なる封印の方法を探し続けてくださっていると信じておりました」
二人が鬼に臆して山を去っているかもしれないなどという考えも無かった。
長老は邪気によって心を沈ませる村人を励まし、鬼から受ける害を抑えることだけを考え続けた。
ある幼い娘が邪気を感じ取る力を持っていると分かったのは、鬼の襲来が始まってひと月も経たない頃であった。
桃太郎が「もしや、あの娘の」と口を出す。
「そうです。鬼の姿が見えるより先にあの子が知らせてくれたため、私達は鬼の来る前に用意をしておけるようになったのです」
「ふむ……賊の気配を感じ取れたのも、その力の内なのだろうか」
呟いた桃太郎は、返事がくる前に思い当たった。あの男のいる村は、いまだ邪気に覆われている。だとすると、そこで暮らしているあの男がその身を邪気に侵されていてもおかしくはない。娘はその邪気を感じ取ったのかもしれない。
さておき、村の者達は幼い娘の力によって、鬼の襲来に備えられるようになった。娘が邪気を感じ取れるのは村や畑の周りまでだったが、それからでも女子供を隠れ家に逃げ込ませるだけの余裕は十分にあった。また、鬼が近付けば娘が気付いてくれるという心強さは、村人達に気力を与えた。村にのしかかる負担は少なからず減っていた。
それから四季がひと巡りした頃、幼い娘は父母や長老にある不安を訴えるようになった。空に漂う邪気がまだ強くなろうとしている、いつか空は真っ暗になってしまうのではないか、と。泣きつく娘に、大人達はどうしてやることもできなかった。そんな娘をうまく宥めてやれたのは母だけで、娘は母の言葉と笑顔を信じて心を保っていた。
ところが、もうひとつ年が明け、暖かな春を迎えようかという折、気丈だった母が倒れてしまう。床に伏す苦しげな姿は、鬼の邪気にあてられた者の様子とよく似ていた。
邪気に侵されにくい生質の者がいるように、邪気に侵されやすい生質のものもいる。娘を笑顔で励まし続けたこの母は、邪気に弱い体であることを隠していたのだ。
その時のことを、長老はいたましげな表情で語る。
「私はあの子の母にだけ、山に暮らす夫婦のことを明かしました。これからも具合が悪くなる一方であったら、あの方を探しに山へ入り、邪気を払ってもらおうと決めたのです。あの方達との約束を違えることになっても、命には変えられません」
桃太郎は村娘やその母の抱えた不幸に悲しくなって、口の中が乾いてしまっていた。
「な、治ったのだろう? 山に連れて行ったのだろう?」
握ったこぶしの内側に汗をかいて桃太郎は長老を急かした。長老はふっと笑う。
「体はだいぶ弱くなってしまいましたが、良くなりましたよ。今朝も会ったでしょう」
「あ、会ったぞ。そうだ、そうだなあ。はああ」
桃太郎は長く息を吐いた。すると隣から犬の長い息が聞こえた。雉も猿も、話が分かっていないのに桃太郎につられているようだった。
「山に連れて行くことはありませんでした。そうする前に邪気は晴れたのです。春を過ぎて、夏の半ばでした」
そうか、と桃太郎は呟き、静かになる。
「八年前、あの夏か」
前触れはなかったそうだ。
夏のある夜、村を柔らかい光が包み込んだ。目を覚ました村人は、外に出て眩しさに目を細めた。長老や昔を知る老人は、その白い光を知っていた。
降り注ぐ光が溶けるように消えた後、村人達は空を見上げていた。月の輝く、澄んだ夜空を見上げていた。
「あの日か」
あの日、村は救われたのだ。
戸の外で待っていた村娘へ、桃太郎は何より先んじて言った。
「もし鬼がこの村に来たら、俺が鬼を斬る」
猿は自らの手で口を塞いで悲鳴を堪えた。桃太郎は猿の落とした麻袋を拾い上げる。
桃太郎は村娘と共に帰りの道を歩きはじめた。
「鬼の邪気を感じたら俺に任せればよい。先程のように自ら確かめに行こうとは考えるな」
「鬼でないことは分かっていたんです。鬼の邪気はもっと強くて……それに、一匹で動くことはありませんから」
「それでもだ。お前が他の者よりも邪気を恐れていることは知っている」
邪気を感じ取る力とは、邪気を感じ取ってしまう力である。村が暗い雲に覆われていた頃、この娘は常にぞっとするような邪気を感じていた。鬼達が来るときには、たくさんの鬼が村に迫ってくる気配、鬼が村の中を歩き回っている気配に心を脅かされることになった。
「お前は、わざわざ邪気に近付いていかなくてもよい」
「それは……」
村娘は口を閉じ、何も言わなくなった。その無言は承知不承知のどちらともつかない。
この娘はだいぶ疲れているようだ、と桃太郎は感じた。体の疲れではなく、心の疲れだ。
邪気を感じ取ったときの娘の様子は異様だった。そうなるほどに恐ろしく思っているのだろう。鬼ではないと分かっていながらも心が揺れて定まらなくなるほどに、邪気はこの娘の心を怯えさせるのだ。
思えば、桃太郎が山を下りてきた日も、娘は一人で畑にやってきていた。娘は口にはしなかったが、そのときも邪気を感じ取って、同じように動転し、父を探すために畑へ来たのだろう。
「桃太郎殿」
犬の背の上で雉が呼ぶ。
「どうした」
「そのう、考え事を妨げるつもりはございませぬ。もしよろしければ、よろしければなのですが、貴方様のお父上がこの村で何をなさったのかを……私はいつ聞けるのだろうかと……よろしければお話を……」
首を低くして乞う雉の下、犬は高く吠えて同調した。
「そうだぞ桃太郎さん! 早く教えておくれ!」
「おお、待たせてしまったな」
分かったと笑うと、雉は首をぴしりと起こした。
桃太郎は父と母が村を救った話を、長老に聞いたとおりに、ところどころ自慢げに話して聞かせた。ただ、村娘とその母の生質に触れるところは簡略して短く伝えた。話している間に娘の顔を何度か盗み見たところ、自分の話をされていることを気にしている様子は見えなかった。それどころか、桃太郎の声が耳に入っているかも分からなかった。
「――村は平穏を得て、邪気に侵された体も良くなっていった。そして、今のこの村となるわけだ」
話し終えると、雉はついに犬の背から飛び立った。雉は、話の半ば、桃太郎の父が雉を連れていたと明かされたあたりからずっと飛びたそうにしていたのだ。感動が行き過ぎたのか、お喋りな口は開かなくなっている。
桃太郎は元気のない顔をした村娘のことが気になっていた。
「詳しくは言わないようにしたのだが、思い出したくないことであったならすまぬ」
村娘は一瞬ののちに自分が話しかけられていることに気付き、慌てた顔をして言った。
「そ、そんなことはありません。すみません、嫌そうな顔に見えましたか」
桃太郎は少しほっとした。
「嫌そうだとまでは思わなかったが、疲れているようだとは思った。帰ったらすぐ横になったほうがよいだろうな」
「あちらこちらへ歩いたので足が重たいだけです。おっかあを手伝うくらいはできます」
娘は微笑んでみせたが、顔にも声にも普段ほどの明るさがない。
「今日くらいは休んでも構わないだろう」
「気にしないでください。桃太郎さんこそ、休まないといけませんよ」
「分かった、しかし無理はするな。手伝いならいつでも代わってやる」
「やめてください!」
足が止まった。
犬や猿も驚いて、ぴたりと動きを止めた。雉がばたばたと降りてくる。桃太郎は目を丸くして表情を凍らせていた。
「す、すみません、私……。違うんです、桃太郎さんのことが嫌なのではなくて……」
村娘も驚いた顔をしていた。桃太郎は小さく頷き、落ち着いているふりをして笑顔を見せた。
「うむ、お前のことはお前がよく分かっているはずだ。いつもと同じように過ごしたほうが楽だということもあるだろう」
犬は桃太郎と村娘の顔を見比べて、村娘の足元へ動く。
行こう、と桃太郎は歩き出し、娘の斜め前を行った。落ち込む気持ちが歩幅に表れないよう気をつけながら、うまく慰めてやれる言葉はないかと考えていた。
帰る家はもう見えていた。
近くまでくると、犬は早足になって入り口へ向かう。中におかしなことがないか、先がけて確かめるためだ。
家の中に入った犬は、たちまち家から飛び出してきた。
大きく太く吠え、翻って中へ。桃太郎と村娘は既に走っていた。
「おっかあ!」
悲鳴を上げた村娘は、台所でへたり込んでいる母へ駆け寄って肩を支えた。
村娘の母は薄く目を開けて、弱々しく言った。
「ああ、そんな顔をすることはないでしょう。少し疲れていて、つまづいてしまっただけだよ」
「疲れていただけなんて。おっかあ、嘘を言わないで……」
村娘は母を抱いたまま顔を上げ、入り口で立ち尽くす桃太郎を見た。桃太郎はどうすればいいか分からなかったが、黙っているのは頼りないと思い、どうにか口を開いた。
「何か、何か必要なものはないか。すぐに持ってくる。あ、肩を貸そうか――」
桃太郎はそこで言葉を失った。桃太郎を見つめる村娘の目が、一つ、涙をこぼした。
「桃太郎さん……」
「どうした、泣くな。お前のおっかあを休ませてやろう」
「こないで、こないでください。ごめんなさい……」
村娘はとうとう声を上げて泣きだした。
早く出て行って、と、娘は泣く。泣いて、村を出て行ってくださいと懇願するのだ。
桃太郎は絶句した。薄く開いた口は閉まるのを忘れて、足は棒のように固まる。
涙する村娘を母が抱き返し、「やめなさい」と弱った声で言っている。
桃太郎は村娘の涙や口の動きばかりを見つめていた。
「どうして……桃太郎さん、あなたは」
どうして。村娘は嗚咽の合間に繰り返しそう言った。
「あなたから、鬼と似た邪気を感じるの。どうして、ですか……」
村娘は母の背に腕を回し、助けを求めるかのようにしくしくと泣いて、母の肩に顔を押し付けた。
「気のせいだとおっかあは言いました。村が邪気に覆われていた頃だって、人の体に邪気が残るようなことはなかったんです。だから私も、こんなのは気のせいだと信じようとしたんです」
桃太郎はまばたきさえできなかった。
「気のせいだと信じ、このことは他の誰にも話しませんでした。でも、やはり、おっかあの体は……」
腰につけた刀が重い。悪いものを斬る刀が、重い。
桃太郎はついに逃げだした。