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序章:むかしばなし 老夫婦と邪気払い 第一話:新たな世界

 むかしむかしある山奥に、おじいさんとおばあさんが暮らしていました。


 おじいさんは山をのぼって畑の手入れと邪気払いに、おばあさんは川へ、洗濯と浄化の術の修行に向かいました。


 おばあさんが空を覆う灰色の雲へ手をかざしながら浄化の術を施していると、川上から強い不浄な気配が近付いてきました。


 そちらを見て、おばあさんはびっくりしてしまいました。真っ黒な泥のような大きな塊が、どんぶらこ、どんぶらこと流れてくるのです。

 その向こうからは、「ばあさん、いかん! 邪気を斬り損ねてしまったのだ、離れろ!」と叫ぶおじいさんもどんぶらこっこ。川の水を蹴り上げ飛沫を散らし、塊を追いかけています。


 おばあさんは慌てることなく、頬を綻ばして言いました。


 「まあ、おじいさん。私には任せられないとお思いなのですね?」


 おじいさんは訝しそうな顔をしましたが、おばあさんの足元から発せられる清らかな光に気付き、息を呑みました。


 おばあさんが目の前を過ぎようとする泥の塊へ手のひらを向けると、足元の光はとても強くなりました。それはおじいさんが目を開けていられないほどのまばゆさでした。

 泥の塊から邪悪な気配が四散します。塊はみるみるうちに小さくなり、ついには消えて無くなりました。


 川は澄んだ流れを取り戻し、おばあさんはゆっくりと手を下ろします。

 川から上がったおじいさんは、照れくさそうに笑いました。

 「流石は私の愛する妻だ」


 おばあさんは控えめに微笑み、おじいさんを見つめます。おじいさんは静かに見つめ返します。

 おじいさんとおばあさんは、仲良く手を繋ぎ、寄り添い合って家に帰りました。重なる二人の手のひらは、どちらも熱くなっていました。


 翌年、元気に生まれた赤ん坊は桃太郎と名付けられました。

 おじいさんとおばあさんは桃太郎を心から愛し、可愛がり、大切に育てました。


 そして二人は、愛する桃太郎のために命をかける決意をしたのです。



 *



 長い雨季を越え、山の草木はよく潤っていた。晴れ渡る青の空から降る陽光を浴び、緑は力強く盛っている。

 しっとりとした柔らかい黒土は草木や虫に好まれていて、湧き水の溜まりの近くは特にそうだった。溜まりから溢れた冷たい水の流れは、山を下るうち他の流れと合わさり、いつしか勢いのある渓流になる。川幅が拡がれば溌溂(はつらつ)たる魚達の姿が増え、うねる尾ひれが水底の砂を巻き上げた。流れの穏やかなところまで下ると青鷺がいて、餌を探して水の淀みに目を凝らす。そばの樹上にいた山鼠(やまね)が、こっそりと森の奥へ逃げていく。


 命に満ちた青山の中腹、川の水音が聞こえなくなるあたりのところに、木々に囲まれた小屋が建っていた。それは山にひとつきりの人家で、山にひとりきりの人である桃太郎が住んでいる。

 小屋の正面、半開きの板戸の数歩前に、浮かない顔の桃太郎は立っていた。


 桃太郎は手に握った木の棒をぼんやり眺めて、口を開く。

 「なあ犬よ。この山を下へ下へ、ずうっと歩いて行くとな、山の外へ出られるそうなのだ」

 言って、手元の棒を木々の間へ放り投げる。すると白い毛の若い犬が飛び出して、慌ただしく木の棒を追いかけていった。

 「外には村があってだな、たくさんの人が暮らしているらしい。ひいふうみいと指折り数えると、手の指が足らなくなるくらいに人がいるそうなのだ」

 犬が木の棒を咥えて戻ってくる。桃太郎が棒を受け取ろうとするが、犬はなかなか離そうとしないで、ぐいぐいと引っ張って遊んでいる。


 桃太郎はため息混じりに言った。

 「なんだ、犬。あまりそれを続けると、もう投げてやらないぞ」

 犬は慌てて口を開けた。

 「それは困る! 桃太郎さん、次はもっと遠くへ投げてくれ」

 桃太郎は「ようし」と言って、今度は力いっぱい棒を投げてやった。犬は大喜びで駆けていく。

 犬は尻尾を暴れさせながら木々の間を走って、走って、ついに桃太郎からは見えないところまで行ってしまった。

 桃太郎は首を傾げた。それほど遠くまで飛ばしてしまっただろうか。

 そして、桃太郎は犬より先に木の棒を見つけることができた。手前の方の木の上から、桃太郎の投げた棒がころりと落ちてきたのだ。


 「おうい、犬! そちらに棒は無いぞ!」

 大きな声で呼びかける。しかし反応がないので、桃太郎はその場に座って待つことにした。あぐらをかいて、暇を埋めるのに足の裏の皺を眺める。袴の汚れは気にしない。

 「おうい、棒はこちらだぞう。おうい!」

 また呼びかけるが、犬は戻ってこない。

 これは、遊び好きなあの犬にはよくあることだった。

 「さては、また俺のことを忘れて別の遊びを始めたな」

 桃太郎はもうしばらく待ってやり、ときどき同じように呼びかけた。それでも森は静かなままであって、足の裏の皺は見て楽しいものではないと分かってきた。諦めきって立ち上がる。

 きび団子作りの続きをやってしまおう。桃太郎は棒を地面に置き去りにして小屋に戻ろうとした。


 半ば開いたままの小屋の戸に手をかけてすぐ、桃太郎は何者かの侵入を察した。もしやと急いで中に踏み入ると、一匹の猿が台所の隅にうずくまっているのを見つける。

 「やい、猿! 何をしている!」

 猿はがばりと赤い顔を上げた。焦った様子もなく、頬張ったものの咀嚼を続ける。その手には(きび)が握られていた。

 桃太郎が早足で近寄ると、猿は軽々と柱をよじ登り、天井の梁に逃げてしまった。桃太郎はもどかしさに唸って猿を見上げた。

 「勝手に上がり込んで盗み食いとは、けしからんぞ!」

 猿はげっぷをしてから返事をした。

 「けちけちすんない、桃太郎。おれとお前の仲だろう」

 「俺は久しぶりにきび団子を作っていたのだぞ。猿や、お前も好きだろう。なぜ邪魔をするのだ」

 「だから団子には使わない分だけを食ってやったんでえ」

 桃太郎はまた唸る。猿の言うとおり、黍を食べられたのは大した問題ではない。あの黍はつまみ食いの好きな猿のために残しておいたものだったのだ。しかし盗みを許すわけにはいかない。


 「あまりに分別のないままでいたら、お前のお母ちゃんに文句を言ってやるからな!」

 「おれにだって分別はある。至極大事なものは大事にできるのさ」

 「だが、その黍は俺のものだ。俺のものは大事にしてくれんのか?」

 「黍をお前にくれてやっているのは、お猿のおれ達じゃねえかい。だから、これはおれのものでもあるだろう?」

 猿は手に持っていた残りを口に入れた。

 桃太郎はなんと言い返そうか考えたが何も浮かばず、むしろ猿の言うことに納得した。確かに、と頷いてからその場に腰を下ろす。いま相手にするべきものはきび団子だと思い出したのだ。そうと決まれば猿への怒りもかつての話。


 袖を捲って手を洗い、置きっぱなしにしていた器を取って、中のきび粉をこねはじめる。しっかりもちもちにすれば、あとは丸めるだけで出来上がる。どうにもひびが気になって、少しだけ水を加えた。

 猿はひょいと梁から下りてきて、桃太郎のきび団子作りを眺めだす。

 「しかしなあ、猿よ。欲しいと言えば分けてやるのだから、勝手に食うことはないだろう」

 「分かってねえな。これはお前の懐の深さを確かめたくてやってることなんだ。黍が食いたけりゃ村まで下りればいいだけだからな。あとはもちろん、お前をからかって楽しむため――」

 桃太郎はぴたりと手を止めた。


 「いま、なんと言った」

 猿はびくりと跳ね、桃太郎から距離を取った。

 「お前は懐の深いやつだって言ったんでえ!」

 「それは正しい。それよりもだ、猿よ。お前は村へ行くことがあるのか?」

 桃太郎は目をまんまるにして猿を見ていた。猿はもう一歩下がった。

 「お猿もたまには山を下りるさ。爺ちゃん猿の許しがあればな」

 「山の外へ!」桃太郎は顔を輝かせた。「たくさんの人に会ったか?」

 「いんや。会わないようにこっそり行って、落ちてる食いもんをちょいといただくんだ」

 「そうか……会わんのか」

 声を大きくしたり小さくしたりする桃太郎を、猿は訝しがった。


 「おい桃太郎。ひょっとして、山の外が気になるなんて言わねえよな?」

 「言ってはならんのか? 渡り鳥が話してくれたのを聞くまで、俺は山の外に何があるかなど考えたこともなかったのだ」

 「てえことは?」

 「すこぶる気になっているぞ」

 きゃ! と猿の小さな悲鳴。猿は両手を上げてびっくりして見せた。

 「桃太郎! 山の外はこわいんだぞ! 人ってえのはな、ええとな、こわいんだぞ!」

 いつになく慌てた様子の猿を見て桃太郎は眉を寄せた。

 「俺も人だぞ」

 「お前は別でえ。なんにせよ、山の外なんて気にするこたあない。賢いお猿の言うことは聞いておけ」

 猿は腕組みをして威張った。その背中に突進してきたのは犬だった。猿はうきいと鳴いて桃太郎にしがみつく。


 犬は水の粒を撒き散らして言った。

 「桃太郎さん、きび団子は出来たか!」

 「団子はまだだ。お前、川まで行ったのか」

 「気付いたら川にいたからな、水を浴びてきた。それはそれは、ざぶざぶと! あ、きび団子は?」

 「よいか、犬よ」桃太郎は叱る調子の声で言い聞かせた。「お前が棒を投げろとうるさいから、つい先程まで団子作りの手を止めていたのだぞ。だから団子はまだなのだ」

 ようやく犬は理解して、尻と尻尾をぺたりと地に落とした。その犬の横面に、猿がこぶしをぐりぐり押し付ける。

 「まぬけな犬め、驚かせるなと言っただろう! 今度は許さねえぞ!」

 犬は尻尾をぴしりと立てた。

 「許さないだと? いいだろう、猿。すぐに外へ出て、棒を投げて遊ぼう!」

 犬が猿に飛びかかろうとしたので、猿は悲鳴を上げて逃げ出した。犬は猿を追いかけて小屋の中を走り回る。


 いつもどおりの賑やかさの中、桃太郎はきび団子を丸めながらため息をついた。

 気になるなあ。山の外、村の人、気になるなあ。この山に住む人は自分ひとりきりだ。会ったことのある人は二人だけ。自分がまだ幼かった頃に死んでしまった、父と、母だけだ。

 ひとつ、ふたつと、きび団子を丸めていく。みっつ、よっつ。慣れた手つきだ。

 いつつ、むっつ。もし村の人々に配るなら、いくつ丸めれば足るだろう。

 ななつ、やっつ。父と母は、村の人に会ったことがあるだろうか。仲良くしただろうか。

 ここのつ、とお。手の指で数えられるのはここまでだ。これでも足らないくらいの人が、山の外にはいるらしい。

 桃太郎は巾着袋を取り、丸め終えたきび団子をひとつずつ放り込んだ。巾着袋を腰につけて立ち上がり、小袴の裾の括り緒を結び直す。小屋の奥までずんずん歩き、寝かされていた刀を取って身に着けた。

 母の遺したきび団子と、父の遺した打刀。これが揃うと、桃太郎は頼もしい気持ちになれる。


 壁際の梯子の上から、猿が声をかけてきた。

 「どっかへ行くのか?」

 梯子の下で跳ねていた犬が振り返る。

 「きび団子を作り終えたんだな!」

 桃太郎は神妙に頷き、二匹に背を向けて宣言した。

 「きび団子を作り終えたので、村を見に行く」

 「ぎゃー!」

 猿の叫びが後ろ頭にぶつかって、桃太郎はびっくりして耳を塞いだ。

 「やめとけやめとけ、外は危ないぞ! こわいぞ!」

 「こわいことがあったら逃げるから平気だ。俺は村に行くと決めたのだ」

 猿は梯子から桃太郎の背に飛び移った。

 「おれより足が遅いくせに!」

 「相手は猿でなく人だ」

 猿は飛び降りて地団駄を踏んだ。

 「だめだー! いつもお母ちゃんに言われてんだ、桃太郎を危なくしちゃいけねえってー!」

 桃太郎は少しだけ困った眉になった。

 「お母ちゃん猿も危ないと言っていたのか? 村は危ないところなのだろうか……」

 猿は桃太郎の足に縋り付いた。

 「そうだぞ、桃太郎。いや、危なかねえとは思うけど……いやいや、それはさておき、お母ちゃん猿の言いつけだ。破ったらどうなることやら!」

 猿が哀れな声を出すので、桃太郎も少しばかり猿のことが不憫に思えてきた。お母ちゃん猿は桃太郎には甘いが、猿達には容赦がない。しかし、村へ行ってみたい気持ちは変わらない。お母ちゃん猿の心配が薄らぐようにはできないだろうか。


 考え込む桃太郎の足を、ちょんと、犬の前脚が小突いた。犬は口を半ば開け、きび団子の入った巾着袋を物欲しそうに見つめている。

 ちらりと覗く真っ白な牙に桃太郎は目をつけた。

 「おお、犬。俺は良い考えを得たぞ。お前も一緒に村へ行くのだ。立派な牙の犬と一緒なら安心だろう」

 「それは良い考えだ!」犬は尻尾を振った。「お散歩だな!」

 「良くない!」猿が怒った。「お母ちゃんは許してくれねえ。遠旅はもっと背が伸びてからにするんだな!」

 「むむ。まだ言うか」

 桃太郎はもう迷わなかった。人はこわいぞという猿の脅しはなかなか効いたが、お母ちゃん猿の言いつけは逆の効きめがあった。


 きいきい喚いている足元の猿を剥がして、桃太郎は胸を張った。

 「この桃太郎は守られるばかりの子供ではない! 立派な一人前の男だ!」

 力強い声に、犬は「さすが桃太郎さん!」と喜ばしげに吠えた。

 猿はなんともさびしそうに肩を落とした。

 「確かにお前は立派なもんだ、桃太郎。山から出るなってえのも、お母ちゃん猿が慎重すぎるだけだ。だけどな、おれがお母ちゃんから尻を叩かれるのは変わらねえんだよう!」

 桃太郎は猿の肩に手を乗せた。


 「お前は何も知らないふりをすればよい。さあ、後ろを向いておけ。猿の見ていない隙に、桃太郎と犬は行ってしまったという筋書きだ」

 犬は「お散歩にな!」と付け足した。

 猿は不満そうに桃太郎を睨んでから、目を閉じ、耳を塞いで背を向けた。

 「おれは何も見てねえ、聞いてねえ。でも独り言はする。……お母ちゃん、桃太郎はおれの見てねえ間に行っちまったんだよう」

 桃太郎は猿の独り言に口元だけで笑い、静かに背を向けた。犬はすぐさま小屋の外へ走り出る。


 囲炉裏の火種を消していると、猿が声を大きくした。

 「安心してくれ、お母ちゃん。人はそうこわいもんじゃねえんだ。知ってるだろう? 畑の黍だって、お猿のために畑の隅っこに別けといてくれるんだぞう。でも、人にも悪いやつがいるかもしれねえから、気をつけなきゃなんねえ!」

 桃太郎は頷き、猿の背中へ呟いた。

 「よく気をつける」

 「お前にゃ言ってねえよ。これは独り言でえ」

 桃太郎はまた頷いて、戸へ向かい、最後に一度立ち止まった。

 「しばしである、猿よ。桃太郎は無事に戻ろう」


 小屋を出ると、犬は姿勢良く座って待っていた。

 「犬よ、頼りにしているぞ」

 犬は素直に頭を撫でられてから、満足そうな顔でぐふうと息を漏らした。

 桃太郎は犬と並んで山を下りはじめた。



 桃太郎は悠々と構えて歩を進めることを選んだ。人と出会えることを思うと大股で駆け出したい気分だったが、一人前の男であるという自負が、そのような慌ただしいふるまいを許さなかった。

 代わりにおおはしゃぎしたのは犬だ。

 「遠出だ、遠出だ!」

 「ふふん。犬よ、これを遠出と思うな。山の外には果てなく大地が広がっている。かの村よりも遠くがあり、その先にも、先の先にも遠くがあるのだ。と、渡り鳥は言っていた」

 「では、どこからが遠出なのだろう? おれにとっては山の外は遠くだ」

 桃太郎は首を捻った。確かに、渡り鳥にとっての遠くと、桃太郎や犬にとっての遠くは違う。遠出と思ったほうが楽しいはずのものを、わざわざたわいないもののように言う意味はない。

 「そうだな。俺にとっても山の外は遠くだ。これは遠出だ!」

 「遠出だ、遠出だ!」

 犬は興奮に打ち震えて駆け出した。桃太郎も心が勢いづいて、ついつい駆け出してしまった。

 構うまい、初めての遠出なのだから!


 自分は旅に出たのだ。洗濯のために近くの川まで行くのとはまったくの別物だ。だが、生まれて初めて川の向こう岸に渡ってみたのとは、少し似ている。

 川の向こう岸にあったのは見慣れている森の景色そのもので、変わったものは何もなかった。しかし、そこは桃太郎にとって新たな世界であった。

 桃太郎はそのときの興奮をはっきりと思い出せた。


 「いざ、新たな世界ぞ!」


 森でないところに木は生えていないのだろうか。黍はどのように実るのだろう。山の外にも川は続いているのだろうか。村に暮らしている人々はどのような顔をしているだろうか。もし誰もが猿達のようにそっくりであれば、顔を覚えるのに苦労しそうだ。

 男、女、若い者、老いた者、それぞれいるはずだ。桃太郎は特に、三十や四十の歳の人を見てみたいと思った。父も母も老人であった。桃太郎は、自分より上で、父と母より下の歳の人を見たことがなかった。

 そういえば赤子も見たことがない。ところで、十四くらいの、自分と同じ歳の者はどうだろう。背格好は似ているものなのだろうか。そう考えると、父や母と同じ頃の老人も見たくなる。つまり、いろいろな人を見たい。


 走りながら想像を巡らしていた桃太郎は、地面から大きく浮き出た木の根を見逃してしまった。まんまと足を取られ、土と落ち葉の上に倒れてしまう。

 こおろぎがひょいと逃げていく。

 「うう、いかん。これは男らしくないぞ……」

 体を起こし、地に打ってしまった額をさする。

 顔を上げて見ると、犬はずっと先へ行ってしまっていて、桃太郎が転んだことに気付いてくれていなかった。大きな声で呼び止めようとしたが、上がった息を整えるのに時間が必要だった。


 「桃太郎がすっ転んだぞ! 犬や、止まれい!」

 頭上で響いた大声に、桃太郎は驚いて上を向いた。

 「猿、なぜここに。知らぬふりをせねばならんというのに」

 「お前が転んだり迷ったりしちゃいけねえと思ったから、来てやったんだ!」

 「すまぬ。もう転んでしまった」

 桃太郎は立ち上がって着物に付いた土を払った。足をぶらぶらと揺さぶり、指に絡んだ草を振り落とす。

 「ありがたく思うんだな、迷う前に追いついてやったんだから」

 猿がするすると下りてきて、背に付いた小枝を払ってくれた。

 そこに、焦った様子の犬が戻ってくる。


 「お団子は無事か!」

 桃太郎は巾着袋を触ってから「無事だ」と答えた。犬はほっとした様子になった。

 「それで、桃太郎さんは無事か?」

 「うむ、なんということはない」

 犬は前を向いて「ようし」と吠え、尻尾を振った。

 「では再び走ろう! 猿よ、あとは任せろ」

 「任せられるもんか! おれも行く。おい犬、走るのはだめだからな!」

 猿は犬の背に飛び乗った。犬はきゃんと鳴き、猿をどかそうと飛び跳ねたが、猿はがしりと捕まっていて落ちなかった。


 桃太郎は猿が共に来ることを嬉しく思ったが、困った気もして頬を掻いた。

 「猿よ。お母ちゃん猿に叱られるのではなかったか?」

 猿は犬の背に振り回されながら途切れ途切れ答えた。

 「そうさ! だが、知らねえふり、なんて、すぐ、見破られる」

 「ふむ」

 「すると、次は、こう、叱られる。ええと……」

 猿は犬の背中を諦めて地に降りた。「なんでついていかなかったんだ! とな」

 「つまり、俺についてくる方がお前のためになるということか」

 「一番いいのは桃太郎が小屋に戻ることだが」


 「む。それはならぬ」

 桃太郎の頬がぷっくりと膨らんだ。犬がその顔を茶化す。

 「桃太郎さんの桃ほっぺ!」

 桃太郎はすぐに両の手のひらで頬を押し込んだ。

 「桃ほっぺなど、しておらぬ」

 猿はうききと笑い、からかう。

 「桃ほっぺなんてえのは子供のする癖だ」

 「しておらぬ。俺は一人前の男である」

 「分かった、分かった。さあ、一人前の桃太郎。行くんだろう?」

 「一人前の桃太郎さん! さっさと村についてしまって、きび団子でお祝いしよう!」

 囃された桃太郎はずいと胸を張り、にかっと笑った。猿が共に来ると決まったことで、一段と頼もしい気持ちになっていた。

 「ようし、行くぞ! お前達、この桃太郎についてこい!」

 高らかに言った桃太郎は、村を目指し、力強く踏み出した。


 犬が駆け足で前へ出た。

 「今度は転ばずについてきておくれ!」

 「犬、走るな!」桃太郎は強く制した。「のしのしと歩くのだ。それと、お前が俺についてくるのだからな」

 「おい桃太郎、そっちより歩きやすい道があるぞ。おれが案内してやる」

 「むむ、今度は猿か。歩きやすさより、まっすぐ目当ての方角へ進むことが重要ぞ」

 「そっちへまっすぐ進んだって村には着かねえんだが、お前の目当てはどこなんだ?」

 「む、むむ……お前についていくことにしよう」


 先頭に立って進むつもりだった桃太郎の気持ちは通じなかった。

 かといって、この先の道をつまらなそうだと感じるようなことは一切なかった。

 あるあたりまでは山を下ったこともあるが、その向こうは踏み入ったことのない場所。かつてのあの川の向こう岸と同じ、新たな世界だ。

 また転んでは格好が悪いので、桃太郎は慎重を心がけて進んでいった。


 あまりに見慣れた景色が続くので、しばらくは自分の歩みを遅く感じてもどかしかった。ところが見覚えのない地形が目につくようになるとすぐ、桃太郎は木々の様子をきょろきょろと見るのに忙しくなった。

 猿はある場所で生き物の痕跡を見つけた。人が踏み入った跡かもしれないと教えられた桃太郎は息を呑んだ。更に別の場所で、犬が見たことのない模様の入ったぼろ布を拾った。桃太郎は犬を褒めてやったあと、自分も足元に目を配ろうと思ってこの上なく忙しくなった。

 空の色がじわりと変わってくる頃になっても休む必要はなかった。いつもなら度々きび団子を求めてくる犬も、そこらじゅうの石や落ち葉をひっくり返すのに夢中でいた。

 進めば進むほど、桃太郎は胸の鼓動を鋭く速く感じられるようになった。

 ――もしや、まことに。


 犬にも猿にも隠していたことだが、桃太郎は山の外へ出られることを信じきれていなかった。

 木登りをして外の景色を見たことはあれど、よく眺めてみたことはなく、関わりを持ちたくなったこともない。桃太郎にとっての世界は山だけだ。外の景色は空や太陽と同じで、桃太郎の世界を囲んでいるだけの、届くはずのないものだった。

 考えてみれば、地面が繋がっているのだから届かないはずはない。渡り鳥や猿の話を疑っているわけでもなかった。ただ、想像がつかなかった。ひょっとすると、下っても下っても、いつまでも山の中が続くのではないかという気がしていたのだ。

 いま、猿や犬が人の痕跡を見つけてくれたおかげで、桃太郎の不安はほとんど消えている。歩いていけば山の端はあり、山の外に出られる。そして村に着き、人を見つけることができる。いつかは必ず届くのだ。

 桃太郎は頬が緩まないよう気をつけた。


 「桃太郎。もうちょっとで人の道に出るぞ」

 「た、たしかか」

 猿の見ている方に目を凝らすと、禿げた地面の、細長い空間があるのを見つけた。桃太郎は喜びの声を上げそうになるのを我慢して、やや早足にそこを目指した。

 その空間へ行き着いた桃太郎は、まず、固い土の感触に驚かされた。平べったくて少し乾いていて、草はほとんど生えていない。犬と猿が横に並べる幅の空き地は、その幅を保って地に筋を描き、川のようにするすると下へ伸びていた。

 これは人の道だ。人が歩くために拓かれ、人が歩いたために踏み固められた道だ。そしてひょっとすると、おそらくは、きっと、この道の行く先は。


 桃太郎の足の裏の感覚はいつになく鋭くなった。目で見、足で触れ、人の道をじっくり歩いて味わった。進んでいくと地面は更に固くなり、乾いた砂の色で明るく見える。これほど綺麗な道ならば、猿より速く走れるかもしれない。

 「桃太郎さん、そろそろ走りたくならないか」

 「のしのし歩け、犬よ」一人前の男はいつでも悠然としているものだと桃太郎は思っている。「ふむふむ、立派な道だ。ふむふむ」

 下るうちに道の幅は増し、犬と猿と、桃太郎も横に並べそうなほどになる。地はより固く、土の色は薄くなる。


 猿が先頭を譲った。

 「桃太郎、前を行くといい」

 「おお、そうしよう」

 なるほど一本道なのだから自信を持って前を歩ける。

 桃太郎は堂々と、悠々と道の真ん中を歩いた。緩やかな曲がりに差しかかる。

 進むのがあまりに容易くて、地に導かれている気持ちだった。しゃりしゃりと鳴る砂の音に心地良く耳を澄まし、曲がりを終えた。


 景色は変わる。


 目の高さにある夕暮れの空。桃太郎の足が止まった。

 道は一直線に伸びていた。長い長い坂を下りきるところまで。そして、下りきった先――山の外までも。どこまでが山で、どこからが平地なのか、その境は思っていたよりも曖昧で判別は易くない。


 両脇の木々が壁となって世界を狭く見せていたが、平地の果てしない奥行きはよく感じられた。木々は坂を終えたあたりで隙間を広くし、あるところでぴたりと途切れ、その先からはまばらに生えるようになる。


 人の道は不思議なほどに白く、白く。先の方では枝分かれしたり、別の道と一つになったりして、平地を区切りながら伸びている。

 道のかたわらに沿うは浅緑の清流、その正体は風になびく草花だった。丘や草原、花の群れのようなもの、黒い土の敷き詰められたところもある。鮮やかだった。


 先へ先へ目を進めていると、ついに人の手で建てられたとしか思えない小屋を見つけられた。桃太郎は目を細め、ぐいっと顔を突き出して、それをよく見ようとした。

 小ぶりで無骨で、板葺(いたぶき)の屋根は軽そうだ。人が住むためのものとは思えない。

 近くで見れば案外大きいのだろうか。人が住んでいたらどうしようか。いや、やはりただの物置か。待て、物置だけれども、中には人がいるかもしれない。

 「おい桃太郎」

 突然に背中を小突かれて、桃太郎は小さく跳ねてしまった。猿と犬のことをすっかり忘れていた。


 「な、なんだ」

 「あの犬、行っちまったな」

 猿が指している方で、犬が無意味に吠え散らしながら坂を駆け下りていた。

 「あ、あの犬め、走っている。おおはしゃぎだ。どうしてくれよう!」

 桃太郎は混乱の中にいた。余裕も落ち着きもどこかへ吹き飛んでしまっていた。深く息を吸って落ち着こうと考えても、うまくやれない。おろおろとする桃太郎を、猿は黙って見上げていた。

 「ま、まったく。犬め、余裕の無いやつだ。しかたのないやつだ」

 気を取り直して、桃太郎はゆっくりと右足を前に出した。次に左足。次に右足。

 その次の左足を出すときに猿が言った。

 「そいじゃあ、お先に!」

 そして猿は桃太郎を置いて走り出してしまった。たちまち桃太郎の頭の中は空っぽになった。

 桃太郎は駆け出していた。身体が勝手に動いたのだ。


 走る、走る。

 蹴っても沈まない地面のおかげで足はとんとんと前に出た。しかし、さらさらの砂は滑りやすく、下り坂なのもあって、思うように速さを上げることはできなかった。

 歩く感覚も面白かったが、走る感覚はまた違う面白さがあった。自分もこのような様子なのだから、犬のことも責められない。走りにくいことすら楽しいのだ。

 「ああ、楽しい!」

 これほどまっすぐ走ったことがあっただろうか。ああ、猿より速くは走れなかった。それにしても、いまほど気持ち良く息を切らしたことがあっただろうか。


 すぐに坂の終わりは近付いてきた。下では猿が犬の背に捕まり、ぶんぶんと振り回されていた。

 跳ねたり回ったりしている犬がわんわん吠える。

 「わーん! 猿がおれの邪魔をする!」

 猿は桃太郎が追いついたのを見て犬から降りた。犬はまた駆け出したが、猿が「きび団子!」と唱えたのを聞き、くるりと反転した。

 桃太郎はほっとして言った。

 「お前達、俺の息が整うまでは歩いてくれないか。足がもつれそうだ」

 「おう」猿が同意した。「ずっと騒がしくいるのは賢くないな」

 「桃太郎さんがそう言うのなら我慢しよう。さあ、きび団子をひとつ」

 桃太郎がきび団子を取り出すと、犬は目の色を変えて飛びかかってきた。桃太郎の手から団子が奪われる。


 「やい、犬。そのばたばたと忙しないのをやめないか。子供のようだぞ」

 団子に意識を奪われている犬は、ふがふがと鼻を鳴らすだけで返事をしなかった。猿が隣で肩をすくめる。

 「聞いちゃいねえな。こいつは死ぬまでこの調子でえ」

 呆れた顔で頷いた桃太郎だったが、犬の尻尾の暴れぶりを見ているうちに、なぜだか楽しくなって笑ってしまった。

 「あ」

 短く声を漏らしたのは猿だ。桃太郎は顔を上げた。

 「あ」

 坂の上で見つけたあの小屋から、誰かが出てきたのが見えた。遠すぎて豆粒のようにしか見えないが、人であることは明らかだった。


 またも桃太郎は駆け出していた。ばたばたと、忙しなく。


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