もう死んでもいいかな
また、音がする。
私は布団の中にちぢこまる。この古い木造アパートに引っ越してきてから、時々、真夜中のラップ音に悩まされていた。
ドアをノックするような音や足を引きずるような音。さらには、かすれたような話し声さえ聞こえてくる。
いつもは、しばらく待てば聞こえなくなるのだが、今夜はしつこくて、じっと耐えていてもどこかに行ってくれない。
いい加減にしてくれよ。忍耐にも限界がある。私のようにまじめに大学に通っている男を怖がらせて何が面白いんだよ。
追い詰められたネズミのように私は火事場の勇気を振り絞って、掛け布団を跳ね上げた。上半身を起こしてラップ音がする方を見る……しかし何もない。
ああ、良かった。
ふと身をよじって後ろを振り返った私の心臓が凍る。
窓の近くには白い着物を着た女が立ち、髪を乱して私を睨んでいた。
「ぎゃー!」
飛び起きて玄関に走り込み、ドアを開けて外に飛び出した。
*
「それでどうなったんだ」
浩一がコーラを飲みながら聞いた。
「どうもこうも……、下着のまま近くの公園で朝になるのを待っていたよ」
大学の学生食堂。私は昼食を食べながら友人に昨夜の顛末を語った。
「もう引っ越すしかないよなあ……。お金をどうしたもんかな……」
イスの背もたれに体重を預け、天井を見上げてため息をつく。
「不動産屋のヤロウ。不良物件を押しつけやがって……。平屋のぼろアパートだから安いと思っていたんだが」
契約するときには一言の説明もなかった。礼金とか返してもらわないと。
「その部屋を俺に貸してくれないか」
テーブルの対面に座っている浩一が私を見ていた。興味本位という感じではない。
「出るんだぜ。この世のものではないのが本当に出てくるんだぜ。いいのか?」
彼は軽くうなずく。
「家賃は払うよ。その間、お前は俺のマンションに同居すればいいさ」
浩一の実家は金持で、部屋がいくつもあるマンションに一人で住んでいた。普段でも高そうな服を着ている。いつもくたびれたシャツとジーンズの私とは大違いだ。
彼の提案は願ったり叶ったりだが、
「それで君はアパートをどうするつもりだ。ホラー研究会にでも紹介するのか?」
「いや、もっと有効利用させてもらうよ」
問いに答えて彼は口の端を曲げ、いびつな笑いを作った。
*
それから私は少ない生活用品を浩一のマンションに運んだ。
部屋は冷暖房完備で、9階から眺める景色は最高だった。
お金持ちの家に生まれると苦労せずに生きていけるんだろうなあ。アルバイトをしながら生活費を工面している自分と比べると妬ましく思ってしまう。
私はハンサムとは言えないが、彼も平凡な容姿をしている。成績もそんなに変わらない。でもお金を持っているというだけで女には不自由していない。
浩一はネットや電話で頻繁に連絡を取っている。興味がないので詳しく聞かなかったが、何かの商売を始めたらしい。
彼はマンションにいることはほとんどなく、大学も休みがちになった。
それから1ヶ月ほど経過した。
休日に部屋でレポートを書いていると浩一が帰ってきた。
「なんだよ、休みなのに部屋でくすぶっているのか」
ドアの前に立ってニヤついている。
「君は金回りがよさそうだな」
浩一は以前にも増して贅沢な格好をしていた。高そうなジャケットとブランド物の腕時計。親からの小遣いで買えるようなものなのか。
「部屋に閉じこもっていると腐っちまうぜ。ドライブでも行かないか」
彼の誘いに応じてエレベーターに乗り、地下のパーキングに出る。
駐車場には赤い高級車が止めてあった。右側の助手席に座るとハードトップが電動で開いて、クーペがオープンカーに変化する。
「フェラーリに乗るのは初めてだな。いくらしたんだよ」
彼はボタンを押してエンジンをかけた。
「まあ、家が2軒ほど建つくらいかな」
そう言って車を発進させた。エンジンは今まで聞いたことがない重低音を響かせ軽くタイヤをスリップさせて走り出す。
彼の収入源は親かと思ったが、そうではないらしい。遺産相続などではなく自分で稼いだということだが、詳しく聞こうとすると、具体的なことは後で説明すると言ってはぐらかされた。
やがて到着したのは私のアパートの前だった。
彼は車を下りて私が住んでいた部屋に向かう。私は何も言わずについていった。
ドアをノックして中から出てきたのは高級ガウンを着た老人。
「こんにちは。いかがでしたか斎藤さん」
浩一は頭を下げて挨拶していた。
「おお、出たよ。出た出た。説明通りだったね。見たときは仰天したよ」
そう言って老人は弱弱しく笑う。
「そうですか。それは良かった。それで延長はいかがなされますか」
老人は眉をゆがめ上を向いて思案している。
「あと一晩だけ泊ってみるかな……」
「毎度ありがとうございます。では料金の振り込みの方をよろしくお願いいたします」
老人は小さくうなずく。浩一は深々と頭を下げた。
アパートを出て、赤い外車は高速道路を走っていた。
「なんだよ。幽霊を見せものにして商売をしていたのか」
私が話しかけると、サングラスをかけてハンドルを握っている浩一は小さく笑った。
「どんなものにも需要はあるものさ」
「それで、いくら金を取っているんだ?」
「一晩で百万円」
私は驚いて運転席を見た。いくら幽霊を見たくても、そんな大金を払うやつがいるのか。
「けっこう繁盛しているんだぜ。予約の整理が大変だよ」
ニヤついている横顔が憎らしく思えてきた。
「そのうちに飽きられるだろう。客はいなくなると思うぞ」
彼は首を振る。
「そんなことはない。客層を選べば継続的に大金が入ってくる」
「どういうことだ」
問いかけに彼は自慢げにフンと鼻で笑った。しばらく沈黙したあとで口を開く。
「あの爺さんは余命半年だ……」
私は言葉を失った。
「申し込んでくる客はすべて老人とか病気で長く生きることができない人たちだ。そういった人間がひっきりなしに依頼してくるのさ」
彼は無表情になっていた。
「つまり、生きているうちに色々なことを体験したいとか、半ば自暴自棄に陥っているとか……そういうことかな」
私が一人ごとのようにつぶやく。
「そうじゃないよ。彼らは怖いんだ。死んだ後に自分が無くなってしまうことが、たまらなく怖いんだよ」
なるほど……死の恐怖から逃れたいということなのか。なんとなく理解した。
「人間というものは、自分の意識が消滅する死という終着点があまりにも怖くて受け入れることができない。だから、死んだ後でも自分の思考が残ることを確認したいんだよ」
浩一の話はもっともだ。幽霊になってもこの世の残留できれば死は怖いものではなくなる。死んだ後でも生きることができるということ。
「でも、皆が幽霊になることができるのかなあ」
私は基本的な疑問を口にした。どんなシステムになっているのか分からないが、死んだ人間がすべて幽体に変化するとは思えない。
「そんなことはどうでもいいのさ。問題は可能性だ。死んだ後でも自分が残ることができるのだという希望があればいいんだよ。溺れる者にワラを提供してやるということさ」
それから、浩一は黙って運転しているし、私も無言で考え込んだ。
本当にそれで良いのだろうか。
人間の死に関することをビジネスにするのは不謹慎ではないか。いや、そうでもないか。寺や仏具店は悪い商売だとは思えないよな。でも、何か分からないようなものを冒とくしている気がした。
*
数日後、浩一のビジネスモデルは終えんを迎える。
夜中に目が覚めた。
隣の浩一の部屋から声が聞こえる。
「助けてくれ……頼む、勘弁してください……」
唸るような声で浩一が懇願しているよう。
起き上がろうと思ったが指も動かない。金縛りになったのは子どものころ以来だ。
「助けてください……お願いします……」
いつも自信ありげで高慢な浩一らしからぬ声だった。
カーテンが開いてガラス戸が開く音がする。向こうの部屋はどうなっているのか。
助けに行かなければという思いと、行くのが怖いという恐怖心が綱引きをする。
「ぐわー!」
浩一の絶叫が聞こえたと同時に私の体が自由になった。
起き上がって、隣の部屋に駆け込む。
「浩一?」
暗い中には誰もいない。照明は消えていたが外から入ってくる町の明かりで室内を把握できた。
ベランダに目を移した私は体に戦慄が走った。
白い着物の例のやつがベランダに立って、背中を向けて下を覗いているのだ。私の心臓は今まで経験したことがないくらい激しく鼓動する。
その白い女はゆっくりと振り返った。
乱れた前髪の隙間から血走った目で私を睨む。
ああ、見てはいけない嫌なものを見てしまった。強い後悔のような感情が私の心をむしばんだ。
そして、その女はすっと空気に溶け込むように消えていった。
放心状態で誘われるようにベランダに行き、下を覗く。
街燈に照らされた赤黒い物体が小さく見える。9階から落ちたなら即死は間違いない。浩一の体からは大量の血がまき散らされていた。
それから大騒ぎになった。
死体を発見した人が警察に連絡したようでパトカーが何台もやってきた。
警察は私が浩一を突き落としたのではないかと疑っていたようだ。部屋には私と浩一しかいなかったし、遺書もなかったからだ。しかし、幸いなことに目撃者がいて、浩一が一人でベランダの手すりに登って飛び降りたと証言してくれた。
警察の事情聴取から解放されて、マンションでぼんやりしていると、浩一の両親がやってきて部屋を出て行くように告げられた。私のせいではないのだが、息子の死を受け入れられない、その暗い感情をぶつける先が欲しかったのかもしれない。
あのアパートには帰りたくないので、急いで別のアパートを探して契約した。
それから十数日ほどたって落ちついたころ、気になって前のアパートに行ってみた。
そこは取り壊し工事の最中だった。
自分が住んでいた部屋の壁がなくなり、外から畳などがはっきりと見える。暗いトイレも薄汚れた風呂場も、陽光に照らされ公にさらけ出されていた。
不思議に思う。あの幽霊が出た薄暗い部屋と、壁が壊されて昼間に明確に提示されている部屋、恐怖の基準というか境目はなんなのだろうか。
私は、きしむ音とともに幽霊の住処が破壊されていく様をぼんやりと見ていた。
「死んだ後に幽霊になれるかな」
私は死後に意識を残すことができるだろうか。
この世で生きていても楽しいのかな。この先、あくせくアルバイトをしながら勉強しなければならないし、就職しても上司に頭を下げながら毎日のように残業するのかもしれない。ブラック企業に就職してしまったら最悪だろう。
世界情勢も不安だ。戦争になれば徴兵されるかもしれない。ああ、それは嫌だなあ。
自殺願望のような倦怠感が、ふつふつと私の胸に湧き上がってきた。