赤毛の英国人
それから、壊した机の弁償代を宝子に手渡し(彼女は貰い渋ったが、渡さないと比乃に怒られるという言葉を受けて、渋々受け取った)、自室へと戻った。
ふと時計をみると、もう夕方と言える時間になっていた。いつもならば、そろそろ比乃達が帰ってくるはずなのだが、まだ帰って来ない。何かあったのだろうか?
不思議に思ったちょうどその時、プライベート用の携帯端末が着信音を鳴らした。画面を確認すると、比乃からだった。志度は端末を操作して通話に出る。
『もしもし志度? ちょっと書かないといけない書類が溜まっちゃったりして、帰るのが少し遅くなりそうなんだ。干してある洗濯物取り込んでおいてくれないかな』
通話相手は表示された通り比乃だった。後ろから格納庫特有の機械音や作業音が聞こえる。どうやら、未だに作業が終わらないということらしい。
「わかった、任せとけ。そっちも書類頑張ってな」
『頑張って早く帰れるようにするよ、それじゃ』
それだけ通話をして、電話は切れた。端末をポケットにしまうと早速、洗濯籠を片手に持ってベランダに出て、干してある洗濯物を物干し竿から取り外す。手に取った洗濯物を洗濯籠に放り込みながら、ふと考える。
(そういえば、最近は心視と腕相撲してないな)
沖縄にいた頃はしょっちゅうやっていたが、東京に来てからはその頻度が落ちたように感じる。今日ちょっとやらないか誘ってみるか、審判は比乃にお願いして……さて、何を賭けようか、などと考え事をしながら、満杯になった洗濯籠を部屋に入れると、またも玄関の呼び鈴がピンポーンと音を鳴らした。
「……今日は客が多いなぁ」
二度あることは三度あると言うが、ここまで来客が連続して訪れるというのも珍しい。暇なので負いのだが「はいはいはーい」と志度が玄関を開けると、そこには隣人であるアイヴィーが居た。手には、料理が入ったタッパーを持っている。
「ありゃ、比乃達はまだ帰って来てない?」
出てきた志度の後ろを、見てアイヴィーが少し残念そうにする。なんかこのパターンさっきもあったなと思いながら、志度は事情を説明する。
「ちょっと事務仕事が片付かないから帰るの遅くなるって、さっき電話が来た所、比乃になんか用事だったか?」
「あーいや、居ないならいいんだ。これ、作り過ぎちゃったからみんなで食べて」
そう言ってタッパーを志度に押しつけるように渡した。透明のタッパーの中には、マッシュポテトとハギス(羊のミンチと野菜を腸詰にしたプティング)が入っていた。どちらも、イギリスの郷土料理である。
それを受け取った志度は「おお、美味そうだな!」と率直な感想を述べる。アイヴィーは「それじゃ」とそそくさと退散しようとしたが、その腕を取って、志度が引っ張った。
「お礼にお茶入れるから部屋寄ってけよ! 比乃達もそんな遅くなるわけじゃないだろうし」
「え、いや……」
抗議を無視して、志度は躊躇う彼女の腕を引き、さっさと部屋に引き入れてしまう。引き込まれたアイヴィーの「ちょ、ちょっと!」という声は完全スルー。客人にお茶を出すことしか頭にない。
そのまま「少し待っててなー」と言って、冷蔵庫にタッパーを入れ、お茶の用意をし始めた志度を見て、アイヴィーは諦めたのか、ため息を一つ吐いてリビングの椅子に座った。
湯沸かし器に水を入れて、お湯を用意している間に茶碗を用意する。その手つきは意外にもスムーズだった。これは、比乃に「万が一、自分がいない時に来客があった時のため」と言って、心視と志度の二人に特に教え込んだ結果である。
そうしてさっさとお茶を用意して「どうぞ!」とアイヴィーの前に勢いよくお茶を差し出す志度。その際に少しお茶が溢れたが、アイヴィーは苦笑いしながらそれを受け取って、一口飲む。
「あ、美味しい」
「そりゃあ高いお茶っ葉だからな、玉露って言うらしいぜ」
「へー」
少し感心した様子でお茶を飲む彼女に、志度は満足気になると、棚からお茶菓子も取り出した。比乃が買っておいたお煎餅である。それを適当なお皿に入れて机の上に出す、アイヴィーはそれを手にとって、物珍しい物を見るように裏返してみたりしている。
「これがセンベイってやつだね、初めて食べるよ」
そう言って一口齧り、ボリボリと硬い食感を楽しむアイヴィー。その様子に志度は内心でガッツポーズを取る。自己採点で百点の接客。やったぜ比乃! と、今頃せっせと事務仕事をしているであろう同僚の顔を思い浮かべる。
「それで、用事ってなんだったんだ?」
「ちょっと比乃に一緒に遊びに行かないかなってお誘いしようと思ったんだ。映画なんだけど、まぁその、護衛も一応欲しいしね?」
お茶と煎餅を食べて、すっかりいつものテンションに戻ったアイヴィーがぺらぺらと、しかし最後に言い訳っぽく建前を付け加えて要件を話す。それを聞いた志度は「映画かぁ」とそっちに興味を示した。
「何の映画見に行くんだ?」
「恋愛物だよ、最近日本で放映が始まった奴……テレビで結構やってたけど、知らない?」
「心視と違って、俺そこまでテレビ見ないからなぁ」
「そっか、それでまぁ、面白そうだからさ、比乃を誘って行ってみよっかなって」
少し歯切れが悪くなった彼女の反応に、志度ははてなと思いながら、
「それで、なんで態々比乃なんだ?」
そんなことを聞いてしまった。聞かれたアイヴィーがぴしっと固まる。空気が読めない志度は更にこんなことも聞いてしまう。
「恋愛の映画ってあれだろ、普通カップルとか女友達同士で見に行くやつだろ? メアリとジャックとで行ってもいいんじゃないのか?」
その更なる追撃に、彼女はぷるぷるとお茶の入ったお椀を手に取り、落ち着くために一口だけお茶を飲んだ。この想いは、まだ親友であるメアリにくらいしか、明らかにしていないのだ(森羅とか晃は、もう察しているが)。一息ついて「あのね、志度」と少し低めの、怒っている口調で、
「もしかして、わかってて言ってる? そうだとしたらちょっと趣味悪いよ」
少し強めにそう忠告した。された方は、声音が変わった友人に、少し驚いた様子で戸惑った。
「何がだ? もしかして何か怒るようなこと言っちゃったか俺……」
若干、怒気を孕んだ口調で言われ、しょんぼりと肩を落とす志度。その様子を見て「知らないで言ってたんだ……」と少し呆れた様子になるアイヴィー。
「まぁ、わからないで言ってたなら大丈夫だから、そんな気落ちしないで志度。でも、あんまりそういうの詮索しない方が良いよ。無神経って言われちゃうから」
「わかった。これからは気をつけるぜ!」
ぐっとサムズアップする志度、本当にわかったんだろうかとアイヴィーは思ったが、流石にそれは口に出さなかった。先程とは違う意味で苦笑しながら時計を見て「それじゃあ、そろそろ失礼するね」と席を立つ。
「なんだよ、比乃待たないのか?」
「そんなに長居するのも悪いし、よく考えたら後で電話すれば良いかなって思って」
その方が都合が良いし、なんで直接言おうとしたんだろう私。というか心視に聞かれたら困るのに……などと、内心で自分の軽率気味だった行動を密かに恥じるアイヴィーだった。色々鈍い志度はそれに気付くはずも無く、普通に見送る。
「そっか、それじゃあまた明日な!」
「うん、また明日ね。あ、さっきの話は比乃には内緒ね」
「わかった!」
そうして、玄関まで彼女を見送った志度は、また一人になった自室で「映画かぁ」と呟く。実を言うと、志度は映画という物をほとんど見たことがない。唯一見たことがあるのは、東京に来る前に「これも教育だ!」と部隊長に見せられた青春物の映画であったが、その内容の半分も理解できなかった。
(比乃と心視と自分の三人で、人気な映画とやらを見に行くのもいいかもしれないな)
学校生活という物を実体験した今ならば、その意味がわかるかもしれない。二人が帰ってきたら、早速相談してみよう。そう決めた志度は、先程取り込んだ洗濯物を畳むために、置きっ放しだった洗濯籠を手に取った。




