死を考える(2)
結局、“死後の世界”はどれもこれも経験談ではない。
唯一存在するのが、生死の境をさまよった時の話だろう。
よくあるのが、三途の川を渡る前に帰ってきたら助かった話だ。
これも事前情報が無ければこの話は生まれなかったと思う。
他には、霊魂が抜けて、自分や周りの人間を上から見た、といった話。
これなどは、その時その人が知るはずのない情報を知っていたりとかして、信憑性が高く思える。
実際のところはわからないのだけれども。
調べ物をしていると、全然関係ない情報にたどり着く事がある。
そして、全く別の出来事と現代の知識が合わさると、解決できる事もある。
例えば一つ、こういうことを見つけた。
昔ある不思議な水を生み出す超能力者がいた。
彼女は、20歳から無食で過ごし、排泄物がほとんどなかった。
その不思議な身体については彼女の家族によって記録されていた。
これは“食べない事”と“排泄物がない事”が結び付けられている。
実は大便の成分のうち、食べ物の残滓は5%程度しかない。
残りは水分や腸内細胞・腸内細菌、体内分泌液、毒素などだ。
つまり超能力者の彼女は新陳代謝をしていなかったことと同義になってしまう。
彼女の伝説が生まれた頃は明治時代であるから、まだ大便の成分について広く知られていなかったのだろう。
“死”についても、昔の知識をベースに考えられたものなら、その時点での知られている範囲内でしか想像できない。
例えば、今から50年後の未来を想像したとして、それは今の常識の延長線上なら想像できるだろうが、延長線上で無いならまったく想像もできないだろう。
もしかしたら、現代の微細な顕微鏡や検査機器で調べられないだけで、心や魂も、実際は存在する“物質”なのかもしれない。
存在するなら可視化する方法や、触ったり捕まえたりすることも可能になることもありえる。
死ぬ前と死んだ後で体重を測って、その重さの差を抜け出た魂の重さだと言う人もいた。
生きているときと、死んだとき。
違いは何だろうか。