ばあちゃんの葬式(4)
“死”とはどういうことか。
まずその前に“生”から考えたい。
“死ぬ”の反対は“生まれる”である。
ほとんどの生物は、母体から生まれる。
ウィルスは自身を複製して増殖するから例外だろう。
生物は、生まれてきて死ぬまでに、子孫を残す事が本能なのだろう。
もし全ての生物が生まれ変わるとしたら、世界の命の数は一定数か、命自体が全体で一つしかないか、どちらかではないだろうか。
または、命のない生物が存在している場合もある。
そう考えると、“命”とは何だろうか。
別の言い方では“魂”と呼ばれるものだろう。
今まで生きてきて、なんとなく理解している事は、生物には“命”があり、死ぬと“命”が無くなる。
赤ちゃんができると「命を授かった」と言うが、受精した段階で“命”が生まれたのだろう。
“身体”と“命”が一体となっている時を“生きている”と言っている。
“命”だけの状態の時が、“霊”と呼ばれている。
成仏できなかった霊は、いわゆるお化けと呼ばれていて、子供の頃わけも無く恐れていた。
今も、真っ暗闇は苦手なのは、このお化けと言う存在を信じているからだろう。
人間が物事を考えたりするのは脳の機能であることは間違いないだろう。
“心”という存在も、イコール命、イコール魂という認識だ。
つまり死んでしまった人は、命が身体から離れるから、身体が動かないという考え方だ。
現代の知識ベースで考えるなら、心臓が停止することで脳へ酸素供給が行われなくなり、脳の活動が停止、それを死としているのだろう。
記憶では確か、命や魂の存在は証明されていないはずだ。
命や魂の概念は生活の中で根付いている思想なのだろう。
自分は科学的に考えて、命や魂や霊という“見えない何か”は存在しないという方向で考えたい。
もちろん“神”もいない。
トイレにいくために、部屋を出た。
途中でばあちゃんのいる仏間に立ち寄る。
酒盛りはまだまだ続いていて、誰だかわからない人もおまえも飲んで行けと薦められたが、丁重に断った。
線香を新しいものに交換する作業はさせてもらった。
活動を停止したばあちゃんは、正月に会ったときのばあちゃんと姿形は変わらないけど、生気が無いことはわかる。
昔の人が、命や魂といった存在を生み出したのも納得できる。