ブラッディーファルハド
数年ぶりのミスター=ペインの更新です。今回はバーの店主、リップにスポットを当てた話となります。
おそらくあと2話ほどで終わりとなります。
じっとりとした夏の夜。
居るのは、素気のないラクサに、優しい顔を神妙に歪めるリップさんに、危機感に追いやられる私。
そして
黒い拳銃を、殺意を向けられた時、私の恋人は嬉しそうに破顔しました。
ミスター=ペイン ブラッディ―ファルハド
「――――ダメだな、全然まとまらない。」
どこか冷めた声と共に、投げられる執筆ペン。
その楽屋では、私と、恋人と、その仕事仲間が集まっていました。
朝のBAR.RIPの楽屋は、しっとりと冷たくて、私はパイプ椅子に座ってアルヴィとラクサを眺めます。
偶には来るといい、とアルヴィに連れられて仕事場まで来たけれど
音大の勉強が始まる前に集まったラクサは、いかにも私の存在が厭そう。
これから打ち合わせもあるのに、邪魔するなって顔だもの。
「何だ、スランプか。ドM野郎。」
楽譜を見ていたラクサがアルヴィに言うと、彼は素直に頷きます。
「うん。いっそのこと、ラブソングでも書こうか?」
「センスまでどうかしちまったのか?そんな物の為に、ピアノに鍵盤がついてる訳じゃないんだ。」
呆れたと言わんばかりのラクサ。偶には、そういうのだって良いのに。
そう私は彼を見遣るのもいつものこと。ラクサは気に喰わなさそうに、楽譜を奪い取って言いました。
「いいか、キチガイ。それと殺人鬼。
俺は確かに歌詞は書いて貰ってる身だけどな、どういうもんに曲を捧げたいかは別物だ。
アルヴィだから厭なんじゃなくて、ラブソングなんてぬるま湯ジャンルに音をつけたくねえだけさ。分かったら、違う曲を作りな。」
ラクサの物言いは本当に乱暴。別にラブソングが好きな訳じゃないけど、そんな真向から嫌がられたらこっちまでやる気がなくなっちゃう。
ちょっとだけ、息を吐きたくなって、窓まで身を寄せてみます。
外は雨でしとしと、傘を持ってきていないことに気が付いて、もっと厭な気分。
「だったら、殺人鬼の歌を作ろう。それも、暴力的に。好きだろう、そういうの。」
「じゃあ、大いにジョークセンスを働かせな。直接表現なんて以ての外だぜ。」
万年筆を向けて言うラクサ。笑うアルヴィ。
いつもの平和なやり取りだと思うのは、私の感覚がもう麻痺したからかも。
楽屋の扉が開き、大柄の男性――マスターのリップさんが顔を出します。
手にはバスケットがひとつ。中には、焼き立てのクロワッサンがお行儀よく並んでいました。
「みんな、腹が減っただろう。食べるといい。」
「こいつぁ気が利くもんだ。その禿げ頭の中にも、配慮って言葉があるみたいだな。」
リップさんが笑うと、ラクサは早速とクロワッサンに手をつけます。
アルヴィはといえば、ラクサが手放した楽譜を見て、まだ歌詞を考えてるみたい。
彼の手に手を添えて、私は言います。
「今は忘れて、食べたらどうかしら?」
「食べる?いや、ちょっと待って。そうか…食べるか。」
アルヴィは、指を顎に添えて何やらニンマリ。悪いことを思いついた子供みたいな笑顔を見せました。
「次は殺人とカニバリズムの歌にしようぜ、ラクサ。ジュシャの自殺の後なんだ、面白いだろ。」
リップさんが、豊富な眉毛をぴくりと動かしましたが、何も言わず
代わりにラクサがクロワッサンを銜えて、手を叩きます。
「バーの雰囲気も打って変るじゃあねえか。お前の右腕炙って噛み付く前に、とっとと書きな。」
「おい、アルヴィ。あんまり気色の悪い歌は書くなよ?却って酒がまずくなる。」
喜ぶラクサに、目を細めて嫌悪感を顕すリップさん。
正直に言えば、そんなにもジュシャの死を軽視することないのに
…と思って見つめますが、恋人は随分乗り気。
彼女の父親であるリップさんとしても、絶対気持ちのいい話ではないのに。
ひとつ、クロワッサンを渡されて口に含むと、甘くて香ばしい味が広がります。
リップさんはバスケットをテーブルに置くと、アルヴィに一瞥くれてから部屋を出て行きました。
「ふたりとも、言い過ぎよ。リップさんが怒るのも当然だわ。」
「ジュシャの自殺で暗い空気になってやがんだ。
てめぇだって、いつまでも、しけたツラしてらんねえだろうが。」
簡素なピアノの方に、ラクサはクロワッサンを銜えて歩いて行きます。
それを見計らうように、アルヴィが楽譜を見つつ言いました。
「スイ、僕らは葬式をしに来たんじゃない。負の感情に呑み込まれるのは感心しない。
マスターの奥さんの今を見たら、多分君もそう言うよ。」
「リップさんの奥さんがどうしたの?」
上唇を舐めたアルヴィは至極楽しそうに言います。
「前言った通りさ、発狂しているようなもので自宅監禁だ。」
遠慮も躊躇もない、どこか冷めた言葉。私達は黙り込みます。
一文字に唇を結んでいると、アルヴィは小さく笑いを漏らしました。
「人間、あそこまで来るとある種の芸だよ。
顔をカッターで滅多切りにしたり、ふらっとパジャマのまま出掛けて記憶が飛んだり。
マスターも不憫なもんだね。いや…僕だったら、面白く感じるかもしれない。」
独り言のような呟き。遠くを見ると、それを聞いていたラクサも肩を竦めて見せました。
相変わらず、アルヴィにはこの世で起こる不運が愉しくて仕方ないみたい。
ラクサの視線もそう言っているのがよく分かります。
ふと、後ろに下がった時、背中に何かが当たって声をあげると何かが割れる音がしました。
慌てて振り向くと、フローリングの床にチューリップの鉢植えが落ちて、真っ二つに割れています。
「まあ…あとできちんと掃除しなくちゃ。ごめんなさいね。」
言葉を放つ訳でもない花に項垂れて、鉢植えにそっと手を伸ばすと切っ先鋭い破片に
指のお腹が押されてほんのすこし傷を残しました。
小さく呻いて指を撫でていると、後ろからアルヴィが指を掴んで白いハンカチで押さえてくれます。
他の人だったら、アルヴィはこの状況を喜んだのでしょうか。
それとも、私だけは特別ということなのか、判別出来ません。
曇る顔を晴らす様に、アルヴィは私とラクサに陽気に話し始めました。
「暇なら話し手に廻ろうじゃないか。ふたりとも、昔話は大好きかい?」
「大抵阿呆が身分相応なことして終わりって奴だろ?聞き飽きたぜ。」
「阿呆も千人居れば違うストーリーにはなるだろう。結末はどれも同じだとしてもね。」
同意を求める様に微笑みを向けられて、私は遅れて頷きました。
雰囲気の悪い話でも、自傷をしてケタケタ笑っているいつものアルヴィよりは安心出来そうです。
「―――とある恋人同士の話だ。井戸が枯れて、水がない村のなか男は必死に井戸を掘り続ける。
長い年月を経て、彼は村に水を取り戻すことに成功する。村人達は大層喜んだそうだね。」
執筆ペンをくるくる指の間で廻しながら、アルヴィは語ります。
私は指に滲む紅を見つめて、珍しくラクサも黙って聞いていました。
「だが、一体どれぐらい井戸を掘っていたのだろう?彼は疑問を持ち始める。
彼女はどうしたのだろう?男はやがて、知ることになる。
仕事に明け暮れている間、恋人はもう死んでしまったことに。」
「それまでの相手だったってこったな。俺なら女を売り飛ばして、水枯れのない大きな町を目指す。」
「彼の場合はどうだろうね?―――恋人の死を知った男は、悲しみと償いの為に崖を飛び降りるんだ。
その際に男から出た血が…。」
私の傍から、赤いチューリップの花びらを一枚引き抜いたアルヴィは
にやっと笑ってそれを指から解くように落としました。
「チューリップになったそうだ。どうだ?どこぞの家庭とよく似ている話じゃないか。」
ひらりと落ちた花びらに視線を遣った後
アルヴィは執筆ペンをこめかみに当てて拳銃の反動のフリをして見せます。
明らかにリップさんやジュシャに当てつけて話をしているのが分かりました。
「そいつぁ良い。アルヴィ、それで歌を書けよ。」
暫しの沈黙を打ち破ったのは、ラクサの軽い言葉からでした。
三人分のクロワッサンをほぼ一人じめした彼は、ピアノの鍵盤を撫でてゆっくりと椅子に座ります。
完全にその昔話を歌にするべきだと思ったみたい。
アルヴィも執筆ペンを持ち、紙に何やら書き始めました。
作詞中のようだから、私は邪魔になってしまうと、楽屋をそっと出て行きました。
バーの方に行くと、まだ閉店作業中の店内で、リップさんが静かにグラスを磨いていました。
どれもこれも、調度品はリップさんの手に掛かればぴかぴか。本人も、掃除は好きだと言っていました。
「リップさん、バスケット、お返ししますね。」
「ああ。スイ、悪いな。」
出て行くついでに持って来た、クロワッサンが入っていたバスケットを手渡すと
彼は小さく微笑みました。
その目に、疲れや悲しみは見いだせなかったけれど、辛くない、なんてことはないのでしょう。
私がじっとリップさんを見ていると、彼は急に振り返りました。
「今、何時だ?スイ。」
「そろそろ夕暮れ頃ですけれど…何かありましたか?」
私の問いにも答えず、リップさんはグラスを置いて急いで走ります。
何か、注文した物でも来たのかしら。
そう思っていると、この地を揺るがす様な、低く重いうめき声が聞こえました。
「―――シソウ、どこへ行くんだ。待て!」
それは、段々とこちらに向かい、リップさんの怒鳴る声が響き渡ります。
肩を震わせていると、職員用の扉が開き、ブルネットの女性が走ってやって来ました。
その顔に見える、大きな隈とそれ故に異常に大きく見える眼、
痩せ細った体に、皿には網状に切り裂かれた頬。私は悲鳴をあげました。
この人は誰?リップさんが、シソウと名を呼んでいることから、彼女がジュシャの母なのでしょうか。
「シソウ!やめろ、今、薬を出すからお前は寝ていろ!」
「ジュシャが、ジュシャがジュシャがジュシャが!助けないと!!!」
見えない娘に声を掛けるシソウさんの手には、拳銃が握られていて、私は益々怖くなりました。
その動きは、いつ、誰を何かを撃ってしまいそうな気がしたのです。
ふと、私の悲鳴に気づいたのか、アルヴィとラクサが何事かとやって来るのが見えました。
ラクサはシソウさんを見ると立ち止まり、アルヴィもその真横で様子を窺っています。
「知ってるのよ、あな、貴方達が悪魔を呼び起こして、ジュシャを餌にしたんだわ!」
取り留めのない妄想は、私達に銃を向けるのに十分だったみたい。
私を、ラクサを、アルヴィを狙う手つきは素早く、完全に精神崩壊しているようです。
後ろからリップさんが抱き締めようとするのを振り払い、銃が鈍く重い音を経てて発砲されます。
私はぎゅっと目を瞑りましたが、痛みはありません。
ゆっくりと目を開けると、どうやら誰に当たることもなく
繊細な作りのキャビネットに風穴が空いていました。
「キチガイ、お前のお仲間だ。そこのババアを魔法の言葉で黙らせてみろよ。」
若干上ずった声でラクサが言うけれど、こんな時にどうやって説得したらいいものか。
悩んでいると、不意にアルヴィが言いました。
「シソウ、僕が悪魔に見えるのかい?」
ついと前に出ると、アルヴィを警戒してシソウさんが唸ります。
もう一歩、と足を動かせば、ひいひいと唸る声が聞こえました。
「来ないで!ジュシャを早く置いて、帰ってちょうだい!じゃないと、撃つわよ!!」
撃つ――――その言葉を聞いた瞬間、今まで無表情だったアルヴィの口元が、強くニヤけました。
この、子供が新しいおもちゃを見つけた時の様なときめいた顔は、幾度となく見て来ました。
アルヴィが、痛みを受けて喜ぶときの顔です。
「ファルハドはここだよ、ダーリン。お帰りのキスをしてくれ。」
発せられる、喜々とした言葉に私は目を顰めます。
このままじゃ、シソウさんはアルヴィを撃つ。
だとしたら、私に出来ることは―――。
撃鉄に指が指しかかった頃、私はアルヴィの前に飛び出ました。
ぎゅっと目を瞑り、唇を噛んでいると、リップさんの怒声と共に…銃声がバーに響きました。
少しの間、薬莢が転がる音しかしません。
ぎゅっと固めた体は、どこも痛くないし、そっと目を開きます。
アルヴィが間一髪でシソウさんの腕を掴み、矛先を変えたようで、レンガ造りの壁の一部を撃ったようです。
遠くで事を見ていたリップさんは大きな溜息を吐いて、シソウさんの許に歩み寄ります。
シソウさんは先程とは打って変わって、優しい声色で訊ねます。
「あなた…また、私…。」
「気にするな。一緒に戦おうって決めたじゃないか。…もう休むんだ。」
涙声混じりに、シソウさんは私に何度も頭を垂れて、よたよたと歩いて行きました。
どうにも、正確な時間に処方された薬を飲まないと暴れ出すみたい。
リップさんが自宅の方へと入っていくと、ラクサが欠伸をかいてアルヴィを見ました。
「俺が狙われたら助けてくれたかい、若いの?スイだから助けたんだろ。分かりやすい奴だ。」
「恋人を助けない奴が居ると思うか?」
「“恋人”?違うね。“理解者”の間違いだ。いい加減、スイにはそう言ってやれよ。勘違いするぜ。」
ラクサの言葉に、私は大きく動揺して目を見開きました。
まさか、アルヴィがそんな風に思っていると見えていたなんて、夢にも思わなかった。
すぐに訂正するだろうと思っていたアルヴィは、ただ私をじっと見つめています。
まるで、「君はどう思っているんだ」とでも言いたげ。
何と応答すべきか迷っていると、自宅の扉が開いて、リップさんがバーに戻ってきました。
その顔は、いつもの優しさを棄てて怒りに満ちているのが分かります。
アルヴィじゃなくても、あんな行動を取ったら誰だって怒るのは当たり前だわ。
そう思っていた矢先、リップさんの大きな手がアルヴィの右頬を強くぶつ音がバーに響きます。
「アルヴィ!お前がどこで何をしようが勝手だが、シソウを態々挑発してくれるな。
俺にとっては大事な家族なんだ。分かるだろ?」
噛み付く勢いで怒鳴り散らすリップさん。その様子に私はたじろぎます。
殴られた反動で顔を反らしていたアルヴィは、ゆっくりと視線をもとに戻しました。
その口許は、思った通りにこやかで何にも抵抗がないみたい。
「いい加減、現実を見た方がいいぜ、マスター。
シソウもそうだが、あんたもジュシャの死から目を逸らしている。認めたくないんだ。」
アルヴィはごく物腰穏やかに、でも冷厳に言い放ちます。
平静を保とうとしていたリップさんの表情は一転、鮮血みたいに真っ赤に染まりました。
先程、シソウさんから取り上げたのでしょう。
左手に握られた拳銃が、さっとアルヴィへ向けられました。
アルヴィを抜き、一同は凍えた様にじっとリップさんの姿を見て、息を呑み込みます。
だって、その瞳は翳っていていつでもアルヴィに発砲出来そうだったから。
「リップのハゲ、どいつを殺そうが構わねえが、ステージを汚してくれるなよ。」
興味なさそうにラクサが溜息を吐きます。すかさず、リップさんはきつい口調と視線を向けました。
「黙って楽譜とにらめっこしてろ。」
むっとしたように黙り込み、そっぽを向くラクサ。
リップさんにしては珍しい、優しさをかなぐり捨てた、怒り一色の瞳。
それが今まさにアルヴィに向けられています。
アルヴィは、目を大きく開いて口の端をくっとあげていまいた。
まるで、それを待っていたとでもいう様に。
眉頭を顰めるリップさんに、アルヴィは陽気に言いました。
「早くしないとシリンが死んじまうぜ、ファルハド!引き金を引く、それだけで全部終わりだ。」
「アルヴィ!」
引き金が絞られると同時にその名を叫びました。アルヴィは、きっと弾丸を避けたりしないから。
―――暫しの沈黙。みんなが死んでしまったような、そんな無言の時間。
アルヴィの頭を狙ったはずの弾頭は外れ、頬に赤い傷を作っただけでした。
アルヴィは、如何にも愉しくなさそうに鼻笑いを漏らします。
「大層なエンディングだ。麗しい仲になってきたじゃないか、マスター。」
「俺はお前とは違う。我儘で、融通が利かなくて、阿呆のお前とは。それだけだ。」
リップさんは銃をカウンターに放ると、近くの椅子に座り込みました。
「同じさマスター。君が撃っても、僕が撃ってもどちらも等しく人殺しだ。」
頬についた血を払いながら言うアルヴィに、私は抱き着きました。
この人はまだここにいる。大丈夫。何度もそう言い聞かせながら。
彼を見上げた時、私はほんの少し驚きました。
アルヴィが悲しそうに私の顔を見て、知らず知らずのうちに流れていた涙を指で掬ってきたのです。
「すまない。心配をかけたね。」
「そう思うのなら、お願いだから生き急ぐのをやめて。」
色んな個所を切り落としてでこぼこを作る、おかしな胴体にぎゅっと腕を廻します。
アルヴィは何の答えも出してはくれず、
嘘でも真っ当に生きるとは言わないのだ、と、私は心の中で唱えました。
この人が素敵だと思う度、この人は反対に離れていく気がする。
私の方を向いたかと思えば、自傷して、人を殺して、もっともっと先の道へ行ってしまう。
どうすれば、アルヴィは目を覚まして、私の傍に居てくれるのか。
考えていると、リップさんが些か疲れた声を出して、私達に言いました。
「アルヴィ、スイ。それからラクサも、今日は悪いが引き取ってくれないか?
これからのことを、もう少し深く考えなきゃいけないと思うんだ。」
「これから?ふん、てめえの女房を精神病院に送る手続きか?」
さっきまでずっと隅っこで、暇そうにしていたラクサは
勝手にビール瓶を取り出して口をつけます。
その言葉に、力なくリップさんは左右へ逞しい首を振りました。
「病院に行かせる金なんかない。行かせたとしてもどうなると思う?
拘束着を着せられて、あの世に行くまで延々と投薬療法するだけだろう。
こういう時は、家族が必要なんだ。」
基本的に、リップさんは何でも見渡せる人。
優しくて賢いのに、何だか奥さんのことになると周りが見えないみたい。
精神的な医学には素人の私達と、専門の場所では違うと思いましたが
精魂尽き果てたその人の姿を見ていると、一概に責めることも出来ず、
ただ心の中で「そんな簡単じゃない」と呟きます。
革靴の先をほんのちょっと見つめていたアルヴィは、肩を竦めて見せます。
「その、“家族”が居ながらもジュシャは死を選んだんだ。
生きるだの死ぬだのは、そんなに難しい話じゃない。
そして、その理由は複雑そうに見えて、いつだってシンプルなんだ。」
「俺の家庭に問題があったっていうのか?」
ぎり、と噛み合わせた歯を鳴らして瞳を歪めるリップさんに、
アルヴィはようやく、いつも通りに笑って見せました。
「違うね。生まれ持っての人間性さ。だが、精神が弱いと云う訳じゃない。
人は、いつもどこかで死に惹かれている。それだけなんだ。」
だから、貴方も自分を“殺す”の?
そうとは聞けない私に代わり、殺気を孕んだ静寂のみがバーに漂います。
やがて、リップさんの少しふっくらとした唇が、にがにがしげに微笑みました。
「お前とは永遠に分かり合えない気はするよ、アルヴィ。
いや、お前は最初から、理解者なんか求めちゃいなかったな。」
「あんたが人を心配し過ぎるだけさ。ただ、足元は見えちゃいない。
酔っ払い共にそれなりの酒とそれなりの食事を提供しているうち、
娘さんは何だか頭をぶっ放したい気分になった。それだけだろう?」
笑顔ですらりと言うアルヴには、もう誰も何も言いません。
呆れているのか、怒りのあまり声も出せないのか。
遠くで事を見ていたラクサが煙草を喫いだすと、甘い香りがしました。
そうして、煙草を器用に人差し指と中指で押さえて、言うのです。
「シリンとファルハドが心中するのを待てよ、ハゲリップ。
崖から降りて赤く飛び散りゃ、てめぇの憂さも少しは晴れるさ。」
ラクサの言葉で、ひとつ、リップさんは大きな拳でテーブルの表面を叩きました。
その轟音が意味するものが、懺悔か、憤怒か、アルヴィの獲物を見殺しに来てきた私には
少し分かりません。
ただ理解できるのは、またもファルハドは誰も助けられなかった。
それが恐らく、自分でも分かっているのでしょう。
リップさんの金の斑点混じりの鳶色の瞳には、正直な深い悲しみが浮かんでいました。
ブラッディーファルハド、リップのお話でした。
ファルハドとは民話で、シリンという恋人を持ち井戸を掘り続けた青年のこと。
(ほぼ、アルヴィが話したとおりです。気になる人は調べてみて!)
リップは、冷静だけれど家族のことになると絆を信じるばかりに愚かしさも表れる
良いように言えば、愛情深さがアルヴィと対立する所を書いておりました。
ラクサの最後のセリフは、「アルヴィとスイも、ファルハドとシリンのように放っておいても死ぬ。そうすれば憂さが晴れるんだからいいだろ?」と、リップを軽く励ましている意味でもあります。
ちなみに、全員名前の由来が花から取っているので、完結したら載せようかと。
あと、2話ほどで完結すると思います。