花の宴 夜風
「アルトレイス」
皇族席に程近い場所――とはいっても会場の隅、喧騒に背を向け柱の陰に隠れるようにして酒杯を一人で傾けていた彼は、かけられた声に閉じていた瞼を開いた。
「オリエか」
「探しましてよ。貴方、また踊らないの」
「必要性を感じない。お前、アストリッドはどうした」
「彼ならオルトニア大使と話していてよ。暇なのね? 少し付き合って頂戴」
アルトレイスは軽く眉を上げてその提案が不快であると示したが、オルトリーエは気付いていても取り合わなかった。この同胞にとってはこういった席そのものが不快なのだ。始まってからすぐに帰らなかったのは、単に従妹皇女がいるからに過ぎない。
その従妹姫にも婚約者という虫除けがついているのを確認しているため、ここで大人しくしているのだ。
オルトリーエは自らも適当に酒を選び、酒杯を持ってアルトレイスを露台へと押しやった。
「何だ、いきなり。酒ならアストに」
「違うわ」
動きにくいことが特徴の夜会用ドレスを着ているというのに、オルトリーエの動きは素早かった。露台に出ると窓を閉め、余人に聞かれぬように結界まで張る。
「穏やかな話じゃなさそうだな」
「それほど構えないで良くてよ。わたくしの個人的な興味だもの」
オルトリーエは欄干に背を預けて嘗めるように一口を味わった。
「興味?」
「そう。今ぐらいしか訊く機会がないと思ったから」
「俺に答えられることであればいいがな」
「貴方にしか答えられないわ。……ずうっと、不思議だったのよ」
オルトリーエは淡い紅の液体が入った硝子の杯を揺らしながら挑むようにアルトレイスを見た。
「なぜ貴方は、自分がシェラン様の伴侶になろうと思わなかったの?」
アルトレイスは眉を寄せた。
「何故……?」
「そう。どうして? 従兄妹同士は確かに避けられてはいるけれど、別に禁止されているわけでもないわ。貴方ならすぐに立候補するかと思っていたのに、実際は候補として他薦されただけ。その後もシェラン様を異界にお迎えに上がっただけで、昔のまま」
青金石の双眸は硝子玉のようだった。何の感情も映さぬ、そこにあるだけの輝き。
「直系に近い貴方の方が、むしろソルディースより歓迎されたかもしれなくてよ」
それは事実の一面だった。皇女の夫君にアルトレイスを推す声は確かにあった。最後はアルトレイスかソルディースの二択となり、血縁関係の近さと、近々に公爵位を継承するであろうことが明白であるがゆえにアルトレイスではなくソルディースとなった。
しかしそういった条件は後付けに過ぎない。皇女の相手はアルトレイスでも良かったのだ。
「……貴方の方から辞退したというのは、本当?」
当時、オルトリーエは成人前で、皇族会議には出席できなかった。ヴィルフォール公爵として出席していた叔母から聞いた情報が全てだ。
叔母が嘘をつくとは思っていない。だが、聞いた時には俄かには信じられなかった。
腐っても幼馴染、幼少時から顔を合わせてきた仲だ。物心つくかつかぬかの内からソルディースが皇女へ想いを寄せていたことも知っていたし、アルトレイスが自身の命などよりよほど皇女を大切に思っていることも知っている。最後はこの二人で決闘になると予想していた。
「ああ」
肯定を示す返事に、オルトリーエは重ねて理由を問うた。
「何故?」
「それはそれほど重要か」
「将来、皇室の血統についてあらぬ噂が立つのは避けたいわ。シェラン様や生まれ来る皇子、皇女殿下方の御為にも。わたくしも否定できる確たる材料が欲しいのよ。今の状態では貴方の考えが全くわからないから」
ありえないことではない。
かつて皇族達は近親婚を繰り返した歴史がある。従兄弟姉妹間はもちろん、伯叔父と姪、伯叔母と甥、果ては両親を同じくする兄弟姉妹間で婚姻を交わし世代を繋いでいた時代もある。
別に現代の皇族達はその歴史を恥じてはいない。伴侶として愛した相手が偶々そう呼ばれる続柄だったというだけの話だ。そもそも人間の器を持っているとはいえ神の末裔である皇族達に、そこらの人間と同じ価値観を持てという方が無理な話なのである。シェランティエーラは非常に特殊な例だ。
「仮に今、何らかの理由でソルディースが廃されて、代わりに貴方が指名されても、貴方はシェラン様を愛することができるはずよ。男として」
だから、わからなかった。
大手を振って彼女を守り、愛し愛される立場を、同胞とはいえわざわざ他の男に譲った、目の前の黒髪の同胞の心が。
「……それはお前も同じことだろう、オリエ」
長いような短いような沈黙の後、返された答えはオルトリーエの予想の斜め上を行った。
「は?」
「仮にシェランが男だったとしようか。后に望まれたら、お前はどうする?」
「もちろんお受けするわ。未婚の今ならね。でもそれと何の関係が……」
同じことだ、とアルトレイスは笑った。
「俺達はどんな形でもシェランを愛することができる。それこそ、今ならアストリッドだって望まれれば応えるだろう」
「当たり前でしょう。わたくしが叩き出すわ」
「マルヴィリアを追い掛け回しているイルヴァースも」
「でしょうね」
「逆に同じ愛なら、俺がシェランへ向けるものが恋情でなくてはならない理由とは何だ?」
答えに窮し、オルトリーエは黙り込んだ。
「間違いなく愛している。だがそれは、男として女を恋うものではなくてはならないのか」
「アルトレイス、そうではなくて……言い方が悪かったわね。わたくしにとって疑問なのは、なぜ貴方はシェラン様を伴侶として守るという選択をしなかったのか、ということなのだけど」
愛していないわけではない。そんなことくらい知っている。
「愛しているのでしょう?」
「愛しているとも。だが恐らく、お前が思っているのとは違う」
理解に苦しむという表情を隠さないオルトリーエに、アルトレイスは苦笑を交えて告げた。
「男女の愛とは、互いが独立した個体であるという前提が必要だろう。だが俺とシェランは違うんだ」
「……違う?」
「ああ。きっとシェランも無意識でわかっている。俺達は同じ何かの表と裏なんだ。異性として俺がシェランを選ぶことは、シェランが俺を選ぶことと同じくらいありえない」
オルトリーエは眉を寄せた。
余人はシェランティエーラとアルトレイスを、まるで兄妹だと評する。だが、実際はそうではないというのか。
「シェランが守らないものを俺が守る。シェランが捨てられないものを俺が捨てる。藍星とはそういう者だ」
「……呆れたわ。もう宰相気取り?」
氷の精霊王――その知略をもって王を扶ける者。その多くは宰相を示す星とされてきた。
「それこそ他の奴には譲れないからな。逆にソルディースにはできないだろう。あいつは何だかんだで最終的にシェランの意思に従う。皇公はそれでいいが、宰相は無理だ」
彼女には背負い切れない――統治者ではなく、支配者としての冷徹さを補う者。
なるほど、とようやくオルトリーエは得心した。
(同じものの、表と裏……)
もしくは、影と称してもいいかもしれない。様々な条件が重なってしまったが故に、シェランティエーラからは、本来ヴィーフィルド皇族として備わっているべき思考と――もっと本能的な何かが欠けてしまっている。アルトレイスはあの九年の間に失われてしまった皇女の、自己防衛本能を引き受けているのかもしれない。
「……必要なら、御意に刃向かってでも決断を下す覚悟がある。そういうことかしら」
「そう取ってくれて構わない」
口の端だけを持ち上げて笑った彼に、オルトリーエは酒杯を掲げた。
「そういうことね。では、飲み止しで悪いけれど……――未来の宰相閣下に」
応えて、アルトレイスも酒杯を掲げた。
「ヴィルフォール公爵に。襲爵の日取りが決まったら教えてくれ」
「もう少ししたらお知らせできるわ」
笑いながらオルトリーエが結界を解くと、特有の甘い香りを乗せた風が二人の間を吹き抜けた。
書けたので投稿しますが、誰得……。
アルのファンだと仰る方に捧ぐ。副題をつけるなら、オリエによるアルについての考察&突撃インタビューってとこです。