それはある晴れた日のこと2
糖分注意?
「……ラン、シェラン。起きろ、全くこんなところで」
軽く揺すられ、シェランはうーんと伸びをした。いつの間にか本格的に眠ってしまっていたらしい。誰かの呆れた声が自分の名を呼ぶ。
…………誰かの呆れた声? 名前を呼ばれている?
意識が急速に覚醒した。同時に目もしっかり開く。見回すまでもなく真正面に、輝く金髪と澄み切った緑柱石の瞳。
「うあぁっ……なんだソールか。びっくりさせないでよ……」
「なんだとは何だ。びっくりさせるなはこっちの台詞だ。で? お前はこんなところで一体何をしているんだ?」
シェランは目を泳がせた。城を堂々と脱走した自分が悪いという自覚があるだけに。
「……気晴らしに遠乗り?」
「ほお。気晴らしに遠乗り」
言葉をそのまま繰り返したソルディースは、シェランが座る太い枝の上に自身も腰を下ろした。しかし枝は小揺るぎもしない。枝というより幹の分かれ目のような箇所だからだろうか。
逃げ場のないシェランはひたすら身を小さくしてお叱りを待つだけである。ぎゅっと目を閉じて覚悟を決めた。
ソルディースはそんな婚約者を見て思わず溜め息をついた。自覚があるなら改めて欲しい。自分達の心の平穏のためにも。
「――心配した。厩番が止めるのも聞かずに走っていったと聞いて、アルなんか発狂寸前だ。お前の力を信用していないわけじゃないが、隙がありすぎるから」
言いながら、艶やかな黒髪を梳くように撫でる。閉じられていた星空の双眸がそろそろと開く。柔らかく微笑んだソルディースに、雷を落とされるわけではないと悟ったのだろう。強張っていた細い肩から力が抜け、甘えるように腕が伸ばされた。
応えて抱きしめたソルディースは、自分の肩口に顔を埋めた彼女が小さく謝罪の言葉を呟いたのを、確かに聞いた。受け入れた返事の変わりに、こめかみに音を立てて唇を落とす。
少しだけ離れて額をソルディースの肩につけた状態で、シェランはぽつりと呟いた。
「……ねぇ、ソール。お祖父様が退位するって」
「聞いたのか」
「知ってたの?」
驚いて見上げるシェランに、ソルディースは頷いた。
「ああ。お前が目覚める前……年が改まってすぐだったかな。僕達の婚儀が終わったら皇太子殿下に御位を譲られると宣言された。公式な場じゃないが、皇族は全員知っている」
「知らなかったのは私だけ?」
「知ったらお前はまた変なことで悩むだろう。折を見て伝えると仰っていた。……こんなに急に城を抜け出した原因はそれか」
図星を指され、シェランは項垂れた。
「お前が悩む気持ちはわかる。実際、お前が立太子されれば僕も大公という立場になる。これまでやってきたことの延長と知っていても、不安がないわけじゃない」
「……そう、なの? ソールも?」
「もちろん。シェラン、相手がお前じゃなかったら引き受けない」
一房取った黒髪に口付けられる。
自身も不安だと、そう打ち明けてくれた婚約者に、シェランは素直に内心を吐露していた。
「……皇太子になるのが嫌なわけじゃないよ。前々から決まってたことだし。でも、私は、私にできるのかな? 私で、本当にいいのかな。適任者はもっと他にいるわ。たくさん。そう思ったら、どんどん不安になるの。だって、私が皇太子になる正当性なんて、血筋しかないんだもの」
自信など、あるわけがない。大きすぎる父の背中。その更に上を行く皇王としての祖父が纏う威厳。必死に追いかけても到底埋まらないその差に、絶望して俯き、立ち止まれるならどれほど楽だろうか。
歩き続けなければいけない。どれほど遠くても、自分達の後ろには無数の民がいる。自分が立ち止まることは、国が立ち止まることだ。
姫様、と手を振る民の姿が脳裏を過ぎった。
「……さっきね、畑仕事をしている人達と話したの。瘴気を浄化してくれてありがとうございますって、言われたわ。それが嬉しかった。私にとってはただやるべきことをやっただけでも、それでもお礼を言われるって、こんなに嬉しいものなんだって」
守り、繋ぐということ。その本当の意味の片鱗が、少しだけ見えたような気がした。
「守りたい、って、思ったよ。でも、私にできるかしら。お父様やお祖父様みたいに、できるかな。……私が継いでも、いいのかな」
その椅子に座るのは、本当に自分でいいのだろうか。
「……シェラン」
「うん?」
「僕達の世代の顔ぶれをよく考えてみろ。あれの統率を取るだけでもかなりの重労働だぞ。特にアルの手綱は、お前でなければ絶対に取れないと思う」
「…………それは、そうかもしれないけど」
「経験なんてやっていたら後からついてくるものだ。この二、三年やってみてつくづく感じた。悩んでいる方が馬鹿らしい。というか、皇王の執務や祭祀や視察その他諸々に加えてアルの直属の上司なんて、頼まれても他の誰もやりたがらない。だからお前がやるしかない」
「………………結局、そこに終始するのね」
真剣に悩んだ自分が馬鹿みたいに思えてくる。くすくすと笑ったシェランの頬を、つ、とソルディースの指先が辿る。
「僕がいる。兄上も、アルも。キティもオリエもマリアもヴィランド公もいる。一人じゃない。一人だけで全部抱え込まなくていい。お前が願うなら、僕達が支える。叶えてみせる」
どんな願いであっても。
「……うん。ありがとう」
吐息のように告げると、ソルディースはふっと笑った。
きっと、これからも自分の力不足には悩まされるのだろう。その度にこうして迷うのだろう。でも、瘴気が吹き荒れる中決断を下したあのときのように、一人ではない。
ソルディースの広い胸に頬を寄せると、包み込むように体に腕が回される。そのままじっとしているだけで爽やかな香草を思わせる、けれどどこか甘い香りが鼻腔を満たす。
うっとりと目を閉じて香りを堪能していると、顎を持ち上げられ、額に柔らかいものが触れた。何をされているのかわかって、そのまま目を閉じておく。すると肌から離れることなく、それは左の瞼に移動した。
口付けというよりも、食むとした方がいいだろうか。少々怪しくなってきたその動きに抗議の声を上げようとしたとき、今度はそれが耳に移動した。今度は判別に困るまでもない。食まれている。
「ひゃ……ちょっと、待って! 何で嘗めるの!?」
耳の裏を嘗められた。
「だめか?」
「耳元でその声は反則!」
元来が少し低めの、艶のある声なのである。掠れたそれが吐息混じりに耳をくすぐる。なんだかよくわからないけれど、ぞわぞわと何かが背筋を這い登ってくるような感覚がして落ち着かない。
ふむ、と思案に暮れる声がする。
「喋らなければいいのか」
「ちが……耳はやめて!」
「では首は?」
答える前に頚動脈に沿ってゆっくりと唇が這う。時折かかる吐息に触覚が鋭敏になるのがわかった。
ごく、と唾を飲む。
「……嫌か?」
「変な感じ……がして。触られるのは、嫌じゃないよ。でも変だから……怖い、かな」
体幹を固定されている上、木の上という場所の問題もあり、逃げるという選択ができない。素直に訴えるしかなかった。
「ソール、どうして? いきなり」
「悪い、だが久しぶりに人目がないから。お前は侍女一人だけでも気にするだろう」
「するよ、普通」
しない方がおかしい。それに返事はなく、代わりに笑った気配と共にちゅ、と濡れた感触が喉に来た。それ以上下に行くには襟元の釦を外さなければならないので断念したらしく、今度は顎に向かってつつ、と柔らかなそれが上ってきた。こういうところが律儀なので怒れない。
唯一の救いは茂った枝葉が隠してくれていることだろうか。これが木の根元とかだったら、婚約者を突き飛ばして馬に乗って逃げているところだ、とシェランは頭の一部の冷静なところで考えていた。
そこで熱く湿った感触に喉を撫でられ、びく、と体が震えた。
「……今、何を考えていた?」
「えーと……」
口ごもった少女に、半眼になったソルディースである。そっと頬を包まれ、シェランは素直に目を閉じた。
最初は挨拶代わりにされるのと同じ、羽毛が掠めるように軽いものだった。重ねられるごとに少しずつ時間が長くなる。同時に、シェランの鼓動も早く、大きくなる。ソルディースの服を掴む手に、徐々に力が籠もるのがわかった。
口付けの合間に囁かれた言葉に、私も、と囁き返した、そのときだった。
「こらあっ、ソルディース! 貴様、そんなところでこそこそと何をやっているッ!?」
ソルディースはがっくりと婚約者の首筋に鼻先を埋めた。
「……あの小舅め……っ」
「何で来たの?」
「お前を探すためだ、出てないわけがないだろう。本っ当にいつもいつも、いいところで……!」
それは少しだけシェランも同感だったので、そっと婚約者の広い背中を撫でた。かけられた声の感じから、まだ木の真下にいるわけではないが、そう遠くもないようだ。おそらく神気の『痕跡』を『見』て居場所を断定したのだろう。
「……下りようか、ソール」
「……ああ」
それは、ある晴れた初夏の日のこと――この後、皇女はもちろん勝手に皇城を抜け出したことを某公爵子息にほとんど涙ながらに叱られる。一方、皇女の婚約者の方は、その某公爵子息によって、皇城へ帰るまでの道すがら、ねちねちと取りとめのない嫌味を聞かされる羽目になったかどうかは、定かではない。
何か溜まってたらしいヒーロー。こいつは本来こんな感じです。そして兄は素でこの上を行く。
砂糖投下したつもりが何か間違えた気がしてなりません。途中から止まらなくなったので、仕方なく奴を招喚。
しかしこれR15の年齢制限入れた方がいい気がしてきました。今後もメイン二人の話はこのくらいです。お月様レベルではないと思うのですが、どうでしょう……。