君がこの手を望むなら 1
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その人に、名前を呼んでもらうのが大好きだった。
自分はその人の一番に限りなく近くて、でも一番にはなれないのだと知った時にはこっそりと泣いた。どう頑張っても勝てる人ではなかったから。
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第173代皇王ファナルシーズ=アリオスが皇太子、シェランティエーラ=リディオスといえば――と問われて、一言で返せる者は非常に少ない。
希代の巫女姫、学問開放の先駆者、反戦派の先鋒と、様々な答えが返ってくるだろうが、エルフェリーゼならこう返す――この世でたった一人の、大好きなわたくしのお母様。
物心ついた頃から、エルフェリーゼは母が大好きだった。それはエルフェリーゼだけではなく、一つ上の兄エクシリオン、二人の妹のイリアティーヌとユーディリアもそうだ。いい加減大きくなった現在では、もう面と向かっては言わないけれど。
流れ落ちる美しい黒髪は美しく煌いて、満天の星空を凝縮したような両の瞳は常に慈愛に満ちている。どんなに忙しい時でも子供たちが請えば寝付くまで傍にいてくれたし、抱きしめてもくれた。覚えていないけれど、普通は上流階級の貴婦人はしない自己の母乳による子育ても時間が許す限りしていたとか。
そんな母シェランティエーラは、今でも四人の子供がいるとは思えぬほどの若さを保っている。その美貌と、優しく慈愛に溢れた性格、深く広い知識で、国内外問わず絶大な人気を誇っていた。『聖女』という特殊な称号を持っていることで、神の末裔という一族の中でも特別な位置にある女皇は、一部の熱狂的な者からはもはや現人神と崇められている。その辺で怪しい新興宗教集団を摘発したら、信仰の対象が聖シェランティエーラだった――という例は、最近では珍しくなくなってきている。
父ソルディースとの仲の良さでも有名だった。ちょっと父の方が鬱陶し……束縛が強い気がしないでもないが、互いを尊重し慈しみ合う姿は、子供の目から見ても憧れの夫婦だった。ただ、そろそろ新婚気分は抜けて欲しいと思う。
そんな二人の第二子として生を享けたエルフェリーゼは、兄妹の中でも特に母に似ていると評判だった。生き写しと言っても過言ではない。唯一違うのが、瞳の色だった。父譲りの鮮やかな緑柱石のそれは、新緑のよう、萌え出ずる春の色と賞賛されている。とはいえ、その賞賛は兄妹全員に向けられるものだったので、エルフェリーゼとしてはそんな十把一絡げに括られた文句を聞いても全く嬉しくない。
「やっぱりお姉様達もそう思われますわよねっ?」
勢い良く頷くのは、八歳になったばかりの第三皇女ユーディリアだ。
「同じ言い回しで、今一つ独創性に欠けていますもの。というか、皆が皆、星やら石やらを引き合いに出して褒められたから嬉しがるだろうというあの短絡的な思考、どうにかなりませんの?」
冷静に冷徹な評価を下すのは、来月で十二歳の第二皇女イリアティーヌ。
「長ったらしい褒め言葉だけで謁見の時間が潰れることもあるし……正直、時間の無駄ではあるわね」
妹達の言葉に肯定を返しつつ、ちら、と横目で兄を見遣ると、どちらかというと父に似た顔立ちの彼はすっと視線を逸らした。
「ねえ、そうですわよね、お兄様?」
「お兄様もそう思われますわよね? ねっ?」
下の妹二人に詰め寄られ、更には飲み干した茶碗を取り上げられ、兄エクシリオンは両手を挙げた。
「だからといって、私にどうしろと?」
嘆息混じりに言う姿からは、顔立ちの美しさと均整の取れた体躯と妙に肝の据わった雰囲気を除けば、大国の皇子の威厳は感じられない。
イリアティーヌが取り上げた茶碗を卓の上に戻しながら、にこやかに答える。
「まぁ、お兄様。お茶会は会議ではありませんのよ? 解決策を練るならば、場所を変えなければ」
翻訳すると、黙って愚痴に付き合っていればいい、である。
エクシリオンは苦笑して茶菓子を取った。妹達の取り止めもない会話に付き合うのは慣れたものだ。慣れすぎて他の女性にも無意識にこの聞き上手が発揮され、結果的に幅広い年代の女性から高い支持を得ている――というのは余談である。
とはいえエクシリオンは成人を来年に控えている。祖父ファナルシーズの退位の話も出るようになった現在、忙しくなり始めた兄に、日中に会えるのは最近では珍しいことで、下の二人はあれこれとどうでもいい話題を出しては兄に振っていた。エクシリオンもこの年齢の少年には珍しく、辛抱強く妹達の相手をしている。
そろそろ鍛錬の時間では、とエルフェリーゼが声をかけようとした時だった。
「リオン、いるか?」
「おーい、そろそろ……ああ、またリアとユディがリオンを困らせてる」
先触れもなしに扉を開けて遠慮なく踏み込んできたのは、金髪の同胞二人だった。
「姫君がた、武芸の稽古がございますので、兄君をお借りしますよ」
口元に皮肉げな笑みを佩いて慇懃に礼をしたのは、西はヴィランド公爵家の跡取りセイルロッドである。
「リオン従兄上、参りましょう。今日の指南役はオルソール子爵だそうですよ!」
期待を抑えきれないといった様子の少年は、父方の従兄弟。こちらは北はヴィライオルド公爵家の跡取りラウリードだ。
その言葉を聞きつけたユーディリアが、ぴょんと椅子から飛び降りた。
「わたくしも行く! 子爵に、皆がこてんぱんにやられるところをしっかり見てて差し上げる」
「ユディには剣戟の軌跡だってもう見えないんじゃないのかい?」
「そんなことないわ!」
むくれる小さな妹に一瞥をくれて、イリアティーヌが立ち上がった。セイルロッドが気付いて手を差し伸べる。
「リア、よければ」
「わたくしはいいわ。ユディの言う通り、オルソール子爵が相手なら十合も持たずに手首を押さえるのを見るだけですもの。それよりもお祖母様のところで石占の練習をした方がまし」
この場合のお祖母様とは、皇妃イリアーナのことである。母から巫覡の才を強く受け継いだこの皇女は、兄妹の中でも少々浮世離れしていた。
「エルフェはどうする?」
兄に微笑みながら問われて、エルフェリーゼは少し迷った。だが末っ子を放り出すのは忍びない。この様子では誰も末妹の面倒など見ないだろう。
「ご一緒させていただきますわ」
まさかその人がいるとは思わなかったから、エルフェリーゼは驚いて一瞬だけ足を止めた。
「ルヴァ伯父様! アル伯父様も! 皆いるわ!」
その一瞬で、はしたなくも駆け出した妹を止めるのが一瞬遅れてしまう。
「待って、ユディ! 走ってはだめよ、転んでしまうわ」
だが妹は姉の言うことなど耳に入らないようで、伯父達の元へ駆けて行く。
これはこれは、と膝をついたのは、兄妹の父方の伯父に当たるヴィライオルド公爵イルヴァースだった。
「ユーディリア様。ご無沙汰しております」
「お久しぶりです、伯父様。お立ちになって。今日は皆お暇なの?」
「ええ、まあ」
笑いながら立ち上がったヴィライオルド公爵は、続くようにしてやってきたエクシリオンとエルフェリーゼにも丁寧な礼を取った。
「伯父上、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」
「おかげさまで。……皇子殿下はまた背が伸びたようで」
「いえ、まだまだです」
照れくさそうに笑う兄の横で、エルフェリーゼは緊張しながらその人に声をかけた。
「……ヴィシュアール公爵」
振り向いたその人は、鋭利な刃物のような眼差しをしていた。だがそれも一瞬のことで、すぐに微笑が浮かぶ。
「エルフェリーゼ殿下。しばらく無沙汰をしておりましたが、恙無くお過ごしでしたか」
その堅苦しい物言いに、真っ先に反応したのはまだ幼いユーディリアだった。
「アル伯父様が丁寧に喋ってる、気持ち悪ーい。どうなさったの? 変なモノでも召し上がったの?」
イルヴァース始め、勢揃いしていた四公爵とその伴侶、及び本日の武芸指南役達が吹き出した。
苦虫を噛み潰したような顔で小さな皇女と目線を合わせたヴィシュアール公爵アルトレイスは、次の瞬間少女の頬を摘まんで左右に引っ張った。
「いひゃい、いひゃい、いひゃい!」
「それはなぁ、ユディ、お前のようなお転婆娘と、エルフェのような淑女とでは態度を改めねば無礼にあたるだろう?」
遠慮なく第三皇女の額を弾いた公爵は、改めてエルフェリーゼに向き直った。
「エルフェ、たった半年会わない間に大きくなったな。見違えた。一瞬シェランが若返ったのかと思ったぞ」
「そんな……」
この人が母と自分を見間違うはずなどないが、心からの賞賛とわかる言葉は嬉しかった。うん、とイルヴァースも頷く。
「良く似てきましたね。ま、姫はいい加減老けた方がいいと思うけど――った、ちょ、マリア!?」
「あなた、お話がございます」
公爵夫人に引き摺られていく公爵を見送りながら、エクシリオンがぽつりと呟いた。
「止めなくていいのか? ラウル」
ラウリードは心底嫌そうな表情をした。
「無茶言わないで下さい、従兄上。父上と母上の話し合いに割って入るなんて、僕には無理です」
一日一回夫婦の話し合いの時間を持っていて、それが円満の秘訣と専らの噂のヴィライオルド公爵夫妻は、本日も仲がよろしいようである。
「殿下、そろそろ始めてもよろしゅうございますか」
苦笑しながら声をかけてきたのは、修練場にいたオルソール子爵セイルードだ。横にセライネ伯爵ライゼルト、爵位継承式を控えて多忙なはずのルジェット卿ジスカールも立っているところを見ると、今日は午後一杯かけてみっちり稽古する予定らしい。なるほど、それで錚々たる顔触れが勢揃いなのかとエルフェリーゼは納得した。
「はい。お願い致します、ウィズベルト卿、ディスフォルク卿、ルジェット卿」
エクシリオンを始めとした皇族の少年達は――セイルロッドやラウリードの他にも何人かいた――は、元気良く頭を下げた。
エルフェリーゼは妹や伯父達と共に侍女が用意した椅子に座り、その様子を見学する。ユーディリアは興味津々な様子で見ていたが、ふと彼女は大人達を振り仰いだ。
「ねえ、マリア伯母様。どうしてお母様は騎士におなりにならなかったの?」
その瞬間、大人達の空気が凍りついたのを、エルフェリーゼは感じ取った。
大人達の反応が鈍いことに焦れたらしく、ユーディリアは言い募った。
「だって、アル伯父様も、マリア伯母様もルヴァ伯父様も、オリエ伯母様もアスト伯父様もキティ伯母様もギル伯父様も、みんなみんな騎士の資格をお持ちでしょう?」
ヴィライオルド公爵夫人マルヴィリアは、この人には珍しくぎこちなさを残した笑みを浮かべた。隠そうとして、間に合わず失敗したような。
「それは……シェラン様はご幼少のみぎりに、大病を患われたのですわ。ユーディリア様もご存知でしょう」
「でも今のエルフェお姉様と同じお歳には直って、聖女になって、『光臨の奇跡』を起こしたんでしょう? 騎士になるくらい、お母様ならすぐだったと思うの。アル伯父様だって、二年もかからずに士官学校を卒業されたのでしょ」
「騎士位は神力だけでは得られませんのよ。剣術を始めとした武術も……」
「じゃあお母様、乗馬はすごくお上手なのに、どうして剣術は修練なさらなかったの?」
「それは……」
言いよどむマルヴィリアに、ユーディリアが更に問いを重ねようとした時だった。
「だって、お母様はユディが今、何年もかけて勉強していることを、たった二年で詰め込まなければならなかったんですもの。とても剣の修練をしている暇はなかったのよ」
軽やかな声が、笑いを含んでその場を駆け抜けた。
「お母様!」
椅子から飛び降りたユーディリアは、一目散に現れた両親に駆け寄った。受け止め、抱き上げたのは父ソルディースだ。
「皇太子殿下、大公殿下」
「そのままでいいわ。リオン達は頑張ってる?」
何がおかしいのか、シェランティエーラはくすくすと笑いながら手近な椅子に座った。
「お母様」
「エルフェもいたのね。ユディのことを見ていてくれたの……あら、イリアティーヌは?」
「お祖母様のところです」
「また? よく飽きないわね」
呆れた声を上げる母は、子供を四人も産んでも当代一と名高い巫覡の才は健在だ。修行しなくてもある程度その才を何となく適当に使いこなしている母には、日夜修行に勤しむ娘の心境は理解し難いらしい。
「シェラン、今日は視察じゃなかったのか」
「延期になったの。それでぽっかり時間が空いて暇になってしまったから、ちょうどいいと思ってこっちに来てみたの」
アルトレイスは眉を顰めた。
「誰だ、皇太子の予定を狂わせた慮外者は」
「誰でもいいでしょ。そんなに怒ってばかりだと、そのうち禿げてきたって知らないから」
「俺は禿げない」
「はいはい」
「お母様、お父様、聞いて! アル伯父様ったらひどいの。ユディの頬をまたぐみーんってして、おでこをぺしってしたのよ」
唐突な密告に、膝の上に娘を抱いていたソルディースは軽く目を見開いてみせる。
「それはひどいな」
「でしょ?」
「どうしてそうなったんだ?」
「伯父様が気持ち悪かったから」
シェランティエーラはこれを聞いて声を出さずに爆笑していた。ソルディースも笑いを噛み殺す。
「そうなのか。ではエルフェにも聞いてみようか。エルフェ、なぜユディはアルにお仕置きされることになったんだ?」
「伯父様がわたくしに丁寧なご挨拶をしてくださったのです。それをユディが、気持ち悪いと」
間髪入れぬ答えに、母が頷いた。しかしまだ笑っている。
「それは両方とも仕方ないわね。ユディはアルがちゃんとしてるところを見たことがなかったのだし。……ふふふ、それにしてもユディとアルは一緒に置いておくと三倍くらい面白いわね」
母の何気ない一言に、エルフェリーゼはつき、と胸が締め付けられるのを感じた。同時に、自己嫌悪が襲ってくる。
八歳の妹に嫉妬だなんて、情けなかった。
「エルフェ、どうした?」
俯いたエルフェリーゼに、父が心配そうに声をかけた。何でもありません、とエルフェリーゼが首を振ったとき、かん、と澄んだ高い音がした。
修練場へ視線を戻せば、エクシリオンが悔しそうにオルソール子爵に礼をするところだった。手にしていた木剣を弾き飛ばされたのだ。母シェランティエーラは残念そうな声を上げた。
「もう終わり?」
「十一合だ。セイルード相手に持った方だろう」
イリアティーヌの予測は外れたらしい。それでも一合多いだけだが。
苦笑したアルトレイスは腰を上げた。
「セイ相手に十一合か、悪くないな。皇子殿下に少しお相手願おう」
ソルディースが眉を顰めた。
「あまり虐めてくれるなよ」
「しばらく机仕事ばかりで鍛錬から少し離れていたから、ちょうどいい。心配ならソール、お前も来い。おい、そこのお前。剣を持て」
何がどうちょうどいいのやら、というイルヴァースの呟きを聞き流したアルトレイスは、侍従に持ってこさせた木剣を片手に修練場へ降りて行った。末娘を妻に預けたソルディースも続く。
オルソール子爵やルジェット卿、セライネ伯爵に次々に軽くあしらわれていた少年達だが、降りてきたソルディースとアルトレイスを見て何とも形容しがたい呻き声を上げた。
「げー、ヴィシュアール公爵……」
「父上、アル伯父上……」
「お前達、何だ、そのざまは。それで騎士位を持っているなど、よく言えたものだな」
弛んでいるぞ、と剣呑な光を青金石の瞳に宿し、楽しげに笑みを浮かべる様子に、少年達は顔を引き攣らせた。
「セイ、ちょっと下がってろ。一、二、三……九対二か。術の行使はなし。どこからでもかかって来い」
背中合わせに木剣を構えた皇公とヴィシュアール公爵に、少年達は覚悟を決めたように大声を上げて斬りかかった。
見ていたユーディリアが母の膝から身を乗り出す。
「あー、お兄様達ずるい!」
「ユディ、ちょっと静かにして見てましょう。ソールもアルもそんなに弱くないから」
大人二人が背を合わせていたのは最初だけで、後は縦横無尽に打ち込みを返している。少年達に背後から回り込む隙など見せず、全てを律儀に受けて返してやっていた。
そのうち面倒くさくなったのか、アルトレイスが一人の打ち込みをかわした後にその襟首を掴んで足払いをかけ、地面に転がした。それを皮切りに返し技で腹に一撃を入れるわ、鍔迫り合いから押し飛ばすわと段々遠慮がなくなっていく。
「……あらら」
ものの数分で、少年達は全員が地面に転がっていた。
ユーディリアが手を叩いて父と従兄伯父を讃えているのに引き換え、少年達の親はそれぞれ呆れていた。
「鍛錬不足ですわねぇ」
「もう少し粘ると思っていたのだけど……」
エルフェ、と声をかけられて母を見れば、侍女に手拭い用のタオルと飲み物を準備させていた。
「配るから手伝ってちょうだい。ユディもね。あ、起きてる人にしか渡しちゃだめよ」
起きてる人こと、指南役の大人達は自分から戻ってきて、杯に手を伸ばしていた。母は臣下達に労いの言葉をかけている。
「お父様、はい、どうぞ!」
「ありがとう、ユディ」
無邪気に父に手拭いを差し出す妹を横目に見ながら、エルフェリーゼは自分もそっとその人に差し出した。
「ヴィシュアール公爵……あの、よろしければ、お使いになって下さい」
ああ、と微かに笑って受け取ってくれたことが舞い上がるほど嬉しかったなんて、秘密だ。




