邂逅
幼い頃の記憶は誰しも朧で、つぎはぎだらけだが、ふとした拍子に水に浮かぶ泡沫のように湧いては弾ける光景もある。
『自分の中で、一番古い記憶って覚えてるか?』
『質問そのものが破綻してるぞ。記憶というからには覚えているものだろう』
同胞の一人とそんな会話をしたのはいつのことだっただろうか。そう遠い昔の話ではないはずだが、すぐに思い出せるほど最近でもない。
いつの間にか軽く眠っていたらしく、窓から見える空はすっかり暗くなっていた。屋敷に帰った方がいいだろうが、それも従妹姫の状態を思うと躊躇われた。
今年の一月、彼の爵位継承の儀の日に懐妊が明らかとなった従妹姫の腹は膨れに膨れ、もういつ赤子が生まれてきてもおかしくない日数だった。彼女の夫も両親も祖父母も控えてはいるが、兄としては幾つになっても妹は妹なのである。出産はいつの時代、誰であっても命がけだ。遅くとも今日明日、とまで言われているのに、彼が皇城を離れるという選択肢は無かった。代わりに年末年始は領地で過ごす予定だ。爵位を継いで初めて向かえる新年だから、という事情もある。
それはさておき二の郭の屋敷に帰ろうか帰るまいか、それが問題だと再び思案し始めた彼の部屋を不躾に叩く者がいた。
「――っ、閣下、ヴィシュアール公爵閣下! いらっしゃいますか!」
「……何事だ、騒々しい」
思考を邪魔されたことで一気に機嫌が下降した彼を前に、まともに喋ることができる人物というのは非常に少ないのだが、飛び込んできた侍従はそんなことに構っている余裕はなかった。これをきちんと伝えないと、後でこの人に縊り殺されるのは自分なのだ。ぜえはあと全力疾走による喘鳴を交えながら必死に言葉を紡いだ。
「皇女殿下が――白の、暁の門が――先ほど、産屋に――」
彼は目を見開いた。即座に立ち上がり侍従の襟首をひっ捕まえて引き摺り――ぐぇえなどと妙な音が聞こえた気がするがきっと大したことではないだろう――後宮へ向かった。この時間なら彼女はそこにいるはずだ。
この世のどこにでも繋がっているという、白き暁の門。暁の門が開く、という表現は、出産という現象そのものの比喩でもある。緊急時にそんな詩的な表現をしなくてもいいとは思うが、これも宮廷の慣例だから仕方がない。
産屋の隣の控え室に入ってすぐ、彼を振り向いたのは、揃っていた中でも最も歳の近い金髪の同胞だった。
「お、来たか」
「シェランは」
「今始まったばかりだぞ。侍医の話だと、夜中まではかかるだろうと」
眉を顰めて、彼は問い返した。
「そんなに?」
「ソールと同じことを言うなよ。初産は時間がかかるものだって、常識だろう」
したり顔で頷くこの同胞は先日結婚したばかりだ。後日同じ状況になったときにうろたえたら、絶対に指差して嘲笑してやろうと誓う。
「しかし、時が過ぎるのは本当に早いよな。ついこの間まで、姫はよちよち歩きで私達の後を追いかけていらしたのに」
懐かしむように一人が言うと、我も我もと頷き出す。
「あの小さかった姫様が、もう母君になられるとはなあ」
「先を越されるとはちょっと考えてなかったなぁ……別にいいですがね」
「お前はいい加減身を固めろよ」
相変わらずな会話を聞き流し、アルトレイスは閉ざされた扉の横で佇む青年に近寄った。
数歩の距離に近付いたところで相手は顔を上げた。ああ、とぎこちない笑みが向けられる。
「アル、まだ残っていたのか」
アルトレイスは黙って踵を返し、空の杯を取った。なみなみと縁までを澄んだ水で満たし、彼に手渡す。
「飲め」
一転して怪訝な顔をした同胞に、気付いていないようなので指摘してやる。
「酷い顔をしているぞ、ソール」
「……」
ソルディースは何も言わずに杯を受け取った。ぐい、と一気に呷る。
「無事に終わるに決まってるだろう? シェランを信じていないのか」
「信じる信じないの問題じゃないだろうよ……」
過去に出産で命を落とした皇族がいないことは事実だった。産む側も、産み落とされる側も。もっとも産む側が皇族ではなかった場合はこの限りではない。
だが産みの苦しみが消えるわけではない。基本的に苦痛とは無縁な彼等にとって、ほとんど唯一と言っていいほどの生と死の狭間の苦しみだった。
奇妙なことに、大抵の感情や感覚を共有できるはずの彼等が、これだけは共有できない。新たな同胞を得る瞬間だけはわかるが、必死になっているはずの母親の苦しみだけは知ることができないのだ。
わからないからこそ恐れるのかもしれない、とは誰が呟いたのだったろうか。辛いのも苦しいのも分かち合えればやりようがあるけれど、わからないものは何をしてやってもこれでいいのかと不安になってしまうのだと。
そういう点では、やはりアルトレイスは、自分と従妹とは別の個体だという認識が今一つあやふやになるのだった。苦しいだろうが彼女は無事にやり遂げると、そんな根拠のない確信がある。生まれた場所も年も性別も何もかも違う、その後に歩んだ時の過ごし方さえも違うというのに、時折こうしてわかるのだ。
彼は奇妙なほど落ち着いていた。
一番に騒ぎそうな彼が言葉少なに、居眠りまで始めたのを見て、同胞達の何人かが呆れる気配がした。ざわめきが遠くなっていく。
ぱち、とどこかで泡が弾けるような音が聞こえた、気がした。
――『初めて姫にお会いした時のこと、覚えてるか?』
********
『この方が、貴方の従妹殿で、主君ですよ』
それは、彼が生まれて初めて見た赤子だった。
姿を一見しただけでは、死んでいるのか生きているのかわからないくらい深く眠っていた。微かに上下する胸と腹が、それが生きていることを証明する唯一のもののように思われた。
幼かった彼にとっては未知の存在だった。
きらきらと金の光がその存在を彩っていた。祖父と従祖叔父と、伯父と母と自分と。五人だけだった黒髪を持つ親族がまた一人、増えて、それまで彼を中心に回っていた世界は、その小さな存在を中心に回り始めた。
眠りから覚めた漆黒の目はくりりとして、好奇心を湛えて周囲を見回す様が何とも言えず愛くるしい。その後何人か知人の赤子を見る機会はあったが、なぜか可愛いと思ったのは後にも先にも従妹ただ一人だった。
かわいい、と呟いて、自分は手を伸ばしたのだと思う。
小さな小さな手が、僅かに触れた自分の指をきゅっと握った。ふにゃふにゃとした見るからに、明らかに無力な存在が、そうとは思えぬほどの力で彼の指を握ったのだ。
その瞬間に彼の全身を震わせたのは、何だったのか。いまだにそれをどう表現していいのかわからない。
敢えて言葉にするなら、欠けていた何かがようやく埋まったような、閉ざされ渦巻いていた水が行く先を見つけて奔流となって流れ出していくような、そんな感覚だった。
『シェラン、というのです。どうか妹とも思って、仲良くしてやって下さいませ、ラウルス様』
従妹の母が微笑みながら言うことに、うん、と大きく頷いた。そう、この子は妹だ。自分には兄としてこの子を守る義務がある。それは誰にも侵されることのない権利でもあり、もし妨げられるなら原因は排除しなければいけない。
きゅ、と自分の指を握ったまま放さない従妹にしばらく悦に入っていたが、後でそれは赤子特有の反射行動だと母に盛大に笑われたのは少しだけ苦い思い出だ。
********
ふみゃああ、と特有の、自己主張だけは一人前な泣き声が聞こえてきたのは日付も変わろうかという頃だった。女官の一人が産室から飛び出して平伏する。
「お生まれになりました……! 男御子です。皇子殿下、ご誕生でございます!」
ばたばたと女官が行き交い、清潔な布を、お召し変えを、と数拍前までと打って変わって騒がしくなる。ひとまず父親となったソルディースに祝辞を述べたオルトリーエが、その中の一人を捕まえて問うた。
「皇女殿下にお目通りは叶いますか。直接お祝い申し上げたいのです」
「伺って参ります。お待ち下さいませ」
あれこれと整えているのだろう。しばらくかかって、まずは女性だけ、と通された(そういえばソルディースはいつの間にか姿がない)。きゃあ、と歓声が上がる。
「こういうときだけは女性に生まれてれば良かったって思うよな」
少しやぐされた目をして呟く同胞に、残されていた男性陣は何度も頷いて同意を示す。何か不公平だ。では黄色い声を上げる女性の中に混じりたいかと問われると、それもちょっと違うのだが。
「でもお二人ともお元気そうだね。……へえ、やっぱり生まれたての意識ってこんなにまっさらなのか」
感覚を研いで意識を探ったのか、今一人が感嘆の声を上げる。幼い内は『防御』が甘いので意識も同調しやすい。こちらが優しく接触してやれば、好奇心からなのか同胞と判断してのことなのか、文字通りすぐに心を開いてくれる。
そうこうしている内に男性の皆様も、と通された。
生まれたばかりの皇子は既に曾祖母や祖母を始めとした親族の女性達の間を回されていたので、彼等は最初に母となった皇女へ祝辞を述べた。
「おめでとう存じます」
「お祝い申し上げます、我が君」
「お二人共に無事に暁の門をくぐられましたこと、この上なき慶事と存じます。お祝い申し上げます」
ありがとう、と微笑んでそれらを受け取る皇女は、あのときと同じようにきらきらと光を纏っているように見えた。神気のそれではないから、目の錯覚かもしれなかったけれど。
「大変だったな。おめでとう。……名前は決めたのか」
うん、と彼女は頷いた。
「男の子だったらエクシリオン、女の子だったらエルフェリーゼって決めてたの。ね、ソール」
自身に寄り添う大公と笑い合う彼女に、数人が奇妙な表情になった。ある者は笑い出しそうだったし、またある者は戸惑いや驚きを顕わにした。
「では――エクシリオンと?」
「そうなるわね。二代陛下みたいに、強くて優しい子になってほしいから」
二代皇王エクシリオン――その功績と紛うことなき半人半神という出自から、今までその名にあやかって名付けられた者は、皇族の中にもいない。暗黙の了解のようなそれを、あえて破ろうというのか。
「ダメなんてどこにも書いてないからな」
大公も肩を竦めて苦笑する。だが、ですが、と声が上がる前に、アルトレイスもその心意気を買って同意した。
「いいじゃないか。下手に捻り出すよりもよほどいい。二世が一世を越えればいいだけの話だろう」
「アル従兄様、そんなつもりじゃないわ。生まれた瞬間から変に持ち上げないで」
皇女が顰め面になった直後、きゃあああっと女性陣から尋常でない歓声が上がった。
「今、笑ったわ!」
「殿下、若君様、こちらを向いて下さいな。もう一度わたくしにも笑って見せて下さいませ」
「ずるいわ、わたくしも!」
何事かと振り向いた両親と男性陣は、しかし盛り上がっている女性陣にかける言葉も持ち合わせていなければ、割って入る勇気もなかった。
「いいんですか、姫。若君が完全におもちゃにされてますよ」
「いいのよ、ああやってまっすぐ可愛がってもらえるのなんて少しの間だもの。どうせ十年経ったらおちょくられて遊ばれてふて腐れるんだから」
身に覚えのある者――全員だが――は心の中でそっと皇子に手を合わせた。確かにその通りだ。
女性達の気が済んだのは明け方になろうかという頃で、皇子は一度寝入って、起きた後である。では、と一人、また一人と退出していく。もちろん最後まで残っていたアルトレイスは、うっすらと明るくなりつつある空を窓から確認しながら、息子を見守るソルディースに音を立てずに近付いた。
「俺も一度屋敷に帰るが……」
「ああ、明日からしばらく祝賀になるからな。手配はもう済んでいるが、お前も挨拶を受けてもらうことになるから少しでも休んだ方がいい」
頷いて、アルトレイスは籠の中で夢と現の狭間を行き来しているのだろう赤子の手にそっと触れた。父親と同じ緑柱石の瞳がぱっと開き、小さな手は記憶の中と寸分違わぬ強い力でぎゅっと彼の指を握りこむ。
苦笑してその指を外し、彼は短く辞去の挨拶を述べた。
アルが中心の話ってダントツで書きやすいので、つい。




