それはある晴れた日のこと
「退位する!?」
ヴィーフィルド皇国皇都リーヴェルレーヴに聳え立つ歴代皇王の居城、リーヴェルレーヴ城は内殿。ごくごく限られた者にのみ入室を許された特別な休憩室で、皇女シェランティエーラの悲鳴染みた素っ頓狂な声が上がったのは、ヴィーフィルド皇紀4014年六の月十二日のことであった。
「またきつい冗談を……」
ははは、と乾いた笑いを禁じえない孫娘に、皇王リダーロイスは至って真面目な顔をして首を振った。
「冗談ではない。前々から考えておったのだ」
「だってお祖父様、去年ですよ。きょ、ね、ん! たった一年前なんですよ、『即位二十五周年記念式典』なんてものかましたの!」
「シェラン、言葉遣いが」
「だって、お父様!」
「唐突な話で驚いたことはわかるが、とりあえず机を叩くのはやめて座りなさい。成人したのだから、それに行動を伴わせなさい」
一言たりとも反論できず、シェランはばしばしと卓を叩いていた手を止めて大人しく席に着いた。
「……でも納得できません。お祖父様が退位されるなら私は皇太子になるわけですよね? 私自身は立太子されるにはまだまだ未熟だと自覚しています」
「それは良いことだな。だが決めた。今年中に退位する。もう紙の山に埋もれるのはうんざりだ」
誰がどう聞いても、最後の一言が本音である。シェランは顔が引き攣るのを感じた。
「……これから子育てという人生最大の課題をこなさなくてはいけない孫に更に負荷をかけようとするお祖父様なんか、甘いものの食べすぎで糖尿病になって、三大合併症になって苦しみながら余生を送ればいいと思います」
「お前の場合はソルディースもアルトレイスもいるだろう。イルヴァースもふらふらしておるし。……して、トウニョウビョウと三大ガッペイショウとは何だ?」
「端的に言いますと、甘いものの食べ過ぎで生きたまま体が色々なところから腐る病気です」
皇王はぴたりと焼き菓子を摘まむ手を止めた。さすがに効いたらしい。
「……脅しにしては性質が悪いな。お前が言うと洒落にならんわ」
「残念ながら地球では極一般的な内科疾患です。体が腐るようになると外科的処置も必要になってきますが。そして完治する治療法は、私は知りません」
皇王は無言で菓子の皿を自身から離れた場所へ押しやった。それを見た皇太子は、視線だけで娘に「よくやった」と言い、娘も「でしょう?」とやはり視線だけで返す。
珍しく砂糖を入れずに茶を飲んだ皇王は、こほん、と仕切り直すように咳払いした。
シェランは祖父が口を開く前に、椅子の上でぐるりと窓側へ体ごと向きを変えた。庭園の花壇が見事だ。
「……シェランティエーラ」
「どうぞ?」
せめてもの抵抗だったが、父から無言の圧力を感じた。
「…………お、お父様はどっちの味方なんですか」
「何を言う、男同士だ。俺に味方に決まっているだろう」
「父上、妙な張り合いをするのはやめて下さい。敵か味方かではない、私は中立だ」
圧力に屈して向き直ったシェランである。そして父は味方になってくれないらしい。
「……お祖父様が退位して、お父様が即位されるのは別に良いんですよ。普通の世代交代だと思います。でも私は……」
「まあ確かに執務に関しては未知数だが、そこまで気にすることでもないと思うがな。成人したばかりで今まで表には出ていない。誰もそれほど期待してはおらんだろう。何事も経験だ」
それも地味に辛い。しかし事実だった。
黙り込んだシェランは、俯いて指先を絡ませた。
――立太子など、もっと先の事だと思っていた。
はっきり言って基礎的な、それも机上の知識しかない自分を、これほど早く皇太子に立てようとするとは思っていなかった。だが祖父はもう六十に差し掛かる。まだまだ現役とはいえ、老齢と侮られることもあるだろう。それに退位したとしても「表舞台から退いた老齢の王」という肩書きを目晦ましに使って色々と画策することはできる。
対して父は三十の半ば、今が最も働き盛りと言っていい。皇位継承に最適な年齢だ。正妃である母も公務に復帰し、嫡子の自分は成人し、延期されたとはいえ秋には結婚する。
皇室の世代交代――それを印象付けるためには、今年は全ての条件が整っていた。
別に皇王が代替わりしたからといってすぐに皇太子を立てねばならないわけではないが、新たな体制を作るには勢いというものがある。始めから皇太子として参画していればそうでもないが、途中から立場を変え、権限の幅を変えるのは瑣末だが余計な混乱を呼びやすい。
背負う覚悟がないといえば嘘になる。けれど。
「――……時間を、頂けますか。継承に最適な時機なのは分かっています。でも少しだけ」
皇王と皇太子は顔を見合わせた。俯いたままだったシェランはその表情を見なかったが、二人はまるで予想していたように微かな笑みを交わし合い、頷いた。
「構わぬ。納得できるまでよく考えると良い」
ま、結果は変わらんがな、と余計な一言を付け加えた皇王である。
シェランは乗馬が好きだ。
母方のセライネ伯爵家は馬術と弓術で知られた名門で、彼女の乗馬の教師も伯父であるセライネ伯爵家の嫡子だったからか、上達も早かった。最初の頃は全身筋肉痛に襲われて身動きが取れなくなるほどだったが、半年程で馬術だけなら近衛騎士と張れるほどになった。集中的に訓練した結果である。
成人に当たって許可を得ずとも皇城の外へ出られるようになった彼女の行動範囲は、その乗馬技術も手伝って随分と広がった。六の月十五日のことを例にすると――
「ひ、姫様! 皇女殿下! せめて護衛をお付けなさいませええぇぇえ!」
「大丈夫ー、夕方までには戻るわ!」
泣き縋る皇城一の郭の厩番を置いて、皇女は愛馬を駆った。強大な神力を持つ彼女は、実のところ護衛の必要性を感じていない。懸念事項だった魔力保持者も指導者を失い離散している。それでなくても一人で過ごせる時間が減っているのだ、皇女脱走を聞きつけた近衛騎士が追いついてくるまでの短い時間を謳歌したとて罰は当たるまい。
最短距離で都内を抜けると、長閑な田園風景が広がっている。初夏の晴天の下、青々と形容するにはまだ早い麦畑を手入れしたり、そろそろ旬が終わる春野菜を収穫する民の姿が其処此処に見受けられた。日本と違って梅雨に相当する時期はないが、ヴィーフィルドでは一年を通して適度な量の雨が降る。今年の作物の育ちも良さそうだと、風に吹かれながらシェランはそっと微笑んだ。
遠目に皇女の姿に気づいたのか、農作業をしていた民がわらわらと顔を上げる。そのまま平伏しようとするのを手で制し、風霊に命じてそのまま作業を続けて構わない、ただの散歩だからと伝えさせる。
親を手伝っているのだろう、小さな子供達が大きく手を振った。
「姫様ー!」
父親らしき男が慌てて抑えるが、シェランは笑って手を振り返した。子供達が親の手を振り払って駆けてくる。十歳くらい、だろうか。
「姫様でしょう!?」
「本物!?」
怖いもの知らずの子供達は大騒ぎだ。おろおろと遠巻きにする親に構わないからと首を振って見せ、シェランは馬を下りた。従者や護衛がいれば民の前で皇女が下馬するなどありえないが、一人なのだからいいだろう。
「そうよ。わたくしはシェランティエーラ。見ていたわ、貴方達。お父様やお母様のお仕事をお手伝いしているのね? 偉いのね」
美貌の皇女に満面の笑顔で褒められ、子供達はぱっと一人残らず赤面した。気弱そうな子や、恥ずかしがりなのだろう数人は年長の子の陰に隠れてしまう。
「……ぼ、僕たち、その」
言いよどむ様子が可愛い。年下の子供に長らく縁のなかったシェランは、小さな姿に内心で身悶えていた。持って帰りたいくらい可愛い。本当は弟妹が欲しかったのだが、先日父に申請したところ無情にも却下され、あまつさえ『お前が自分の子を生んだ方が早い』とまで言い渡されてしまったのだ。
「ひ、姫様!」
年長の一人が、意を決したように叫んだ。
「何かしら」
「あの、この前は、ありがとうございました!」
「この前?」
意味を図り損ねて首を傾げたシェランに、子供達は口々に叫ぶように言葉を繋いだ。
「あの、去年の秋の……」
「瘴気がたくさん出て、嫌な雨が降ったときのことです!」
「姫様が『きせき』を起こして下さったんだって、神殿の神官様が言ってました」
「お父ちゃんも気持ち悪くなってたけど、姫様が悪い雨をはら……はらって下さったから、治りました!」
「うちは、生まれたばっかの妹がいて、でも母ちゃんもばあちゃんも雨で具合が悪くなって、でも姫様のおかげでみんな治りました。ありがとうございます!」
ありがとうございますの大合唱に、シェランの方がうろたえた。彼女の中であれは特別なことではなかった。皇女として、聖女として、果たすべき役割を果たしただけだ。それに根底では、民のことなど頭になくて、ただ親しい人達を生かしたかっただけ。
「あの……」
気がつくと、子供達の親なのだろう数人が少し離れたところに立っていた。中の一人が頭を下げる。
「わ、私共からもお礼を申し上げます。本当にありがとうございました」
「姫様が穢れを浄化して下さったおかげで、今年もまたこうして作物を育てることができます」
「おいらの女房は子供を産んでからずっと体を悪くしていたんですが、姫様のお力のお零れに与って、元気になりました」
地に額を擦り付けんばかりの勢いである。驚くより先に羞恥の方が勝った。
「顔を上げて頂戴。わたくしは……ただ、役目を果たしただけです」
いいえ、と即座に平伏した男が返した。
「姫様がどのようなお考えでいらしたのかは存じません。私共のような者が想像することすら畏れ多いことです。ですが、姫様は私共をお救い下さったのです。そのことに何の変わりがありましょうか」
平伏した姿は揺るぎない。相手の方が低い姿勢を取っているのに、まるで諭されたようだった。シェランは瞑目した。
……この人達を守れて、良かったと思う。それが生まれたときから定められていたことだったとしても。事実は事実だ。私がこの人達を守った。それは純粋に、自分の誇るべき功績なのだと。
「まさか一生のうちで、姫様にお目通りが叶うとは思っておりませんでした。お礼を申し上げられて良かったです」
自分一人の功績ではないけれど、ここで自分が受け取らねば、彼らの感謝は行き場を失う。だから笑った。
「……そう言ってもらえて、わたくしも力を尽くした甲斐がありました。今日はたまたま城を抜け出せたのです。思いがけず直接こうして皆と話すことができて、わたくしも良かった」
そして、子供達の頭を順に撫でた。
「さ、もう戻りなさい。そろそろ近衛達が追いついてくるでしょう。謁見の手続きもせずわたくしと話していたと知れたら、ただでは済みませんから」
「……どんな風に?」
不安げに見上げてくる子供達に、シェランは出来る限り顰め面を作ってみせる。
「こーんな顔をして、決まりを無視したってわたくしを叱るのです。嫌になってしまうわ」
子供達がふふふっと笑い声を上げた。釣られた様に、大人達も笑った。
その後、彼らと別れて再び馬上の人となったシェランは、皇都を含めた周囲一帯を見渡せる小高い丘を見つけた。頂上にいい感じに大きな木が生えている。
「……あれは登られるために生えてる木よね。枝振りといい幹の凹凸の具合といい」
この世にそんな目的で生える木は存在しない。しかし幸か不幸か、この場にはそう彼女に言ってやる人間は誰もいなかった。
馬を繋ぐと、シェランは早速木に登り始めた。ドレスではなく乗馬用の動きやすい衣装で来て良かった。
ある程度の高さまで登ると、太い枝に座って休憩する。風が頬を撫でていく感触がとても気持ちよかった。枝もずっしりと安定感のある太さだったから、幹にもたれ掛かると椅子に座っているような感覚だった。ところどころの枝葉に遮られた陽だまりも温い。
だから、うとうとと眠気が襲ってくるのも仕方なかったし、そこで転寝してしまったのはもっと仕方のないことだったと思う。