十七 心の行方
「ルーエ……!」
その声の主に、ルイセルーエは思わず駆け寄った。
「エヴァ! ああ、無事で……!」
「それはこっちの台詞だよ! ルーエ、大丈夫だった!?」
ひしと抱き合うエヴァリストとルイセルーエは、どこからどう見ても微笑ましい若い夫婦だ。そしてその後ろには、なぜかうっすら貰い泣きする皇女シェランティエーラの姿があった。ちなみに「阿呆臭い」と呟いたとある人物は思いっきり皇女に脛を蹴られていた。
一頻り互いの無事を喜び合った夫婦は皇女に対して深々と頭を下げた。
「聖下、この度は御温情を掛けて頂き……何と感謝したら良いか」
「ミルフェンは一層、忠勤に尽くします。……あの、アルモリック卿、大丈夫ですか」
俯いて激痛をやり過ごしていたアルトレイスが返事をする前に、シェランが二人の手を取った。
「気にしないでいいのよ。今回は本当に災難だったわね。でもこうしてまた会えて嬉しいわ」
ちら、とエヴァリストもルイセルーエも一瞬アルモリック卿へ視線をやったが、とりあえず何も言わずに頷いた。現時点で一番災難なのは誰かという問題はさておき、危うくミルフェンが滅亡するところだったかもしれないのだ。
「エヴァはしばらくミルフェンに残っていた方がいいかもしれないわね。議会に目に物見せてやるいい機会だもの。空席になった議席を埋める人材に、心当たりはあるの?」
「はい……でも、僕の指示に従ってくれるかどうか」
頷くエヴァリストの目は少し不安そうに揺れていたが、その背にそっと添えられるものがあった。
ルイセルーエの手だ。
「わたくしも、お手伝いしますわ」
微笑み合う二人からは互いを支え合う決意のような――覚悟のようなものが見て取れた。議会に何か一言文句でも言ってやろうかと考えていたシェランだが、それを見て考えを改めた。ここはもう自分が下手に嘴を挟まない方がいいようだ。
これからミルフェンの議会は荒れるだろう。けれど今の彼女達なら、乗り越えられるのではないか。根拠のない思いを漠然と抱いて、シェランはもう一つの頭を占めていたことを口にした。
「話は変わるけど、エリアス王子は任せていいのかしら。ヴィーフィルドで引き取ろうか?」
ルイセルーエの心情を慮っての言葉だったが、これに首を横に振ったのはエヴァリストだった。
「いいえ、ミルフェンのことですから。……交渉はお任せしてる状態ですし、この上捕虜のことまでお願いするわけには参りません」
頷いたのは皇女に同伴して来た大公ソルディースである。
「いい心がけだ」
当然といえば当然である。流れや掲げられた名分だけ見れば、今回ヴィーフィルドはほとんど関係ない。でも、と言い募ろうとしたシェランだが、エヴァリストが次に言ったことに言葉を失った。
「それに……ルーエはエリアス王子とちゃんと向き合って、一度しっかり話し合ってみるべきだと思う」
*******
石造りの廊下は冷えていた。
冷気が足元から這い上がる。それを阻止するためにルイセルーエは一層毛皮の上掛けを体に強く巻きつけた。北方に位置するミルフェンの冬は早い。だが今年は取り分け早いように感じられた。
吐いた息が白かった。夕闇の迫る暗がりの中でもわかるほど。
ふと、懐の奥に忍ばせた小さな袋が揺れ、ルイセルーエは足を止めた。上掛けをほんの少しだけ寛げ――僅かに迷って、袋をしまい直す。
その袋は、ルイセルーエが嫁いで来たときから持っていたものだった。故国からの侍女は全て帰しているから、存在を知っているのはルイセルーエだけ……だった、はずなのだけれど。
『後生大事に鏡台の机の奥にしまってある物があるでしょ? あれ、ガルダニアから持って来た物だよね。中身は見てないけど』
どこか抜けている同性の夫に知られていたとは。
『何なのかは知らないし、訊かない。でもあれを持ってるって事は、まだルーエはガルダニアに未練がある。……別に責めてるわけじゃないよ。僕だってよく村に帰りたいなとか思うし。でもルーエはさ、ちょっと色々ありすぎたじゃない』
そう、色々あった。懐かしいとか、そんな単純な一言では到底語り尽くせないほど。
『だから、話しておいでよ。エリアス王子に、もうあんたの顔なんか一生見たくないって言ってやりなよ』
そうよ、と便乗したのは友人となった皇女だった。
『毎回毎回どの面下げてって怒る権利があるわよ、ルーエには。横っ面引っ叩いて、悪いと思ってるなら一生顔出すなぐらい言ったって罰は当たらないわ。むしろ私が許す!』
二人とも、自分のことのように憤慨しているのが見て取れた。二人が気炎を上げるその後ろではヴィーフィルド人の青年達が苦笑していた。
……終わったことだと、思っていた。
全て終わらせたと思っていた。閉ざされた宮を出て、賑やかなこの国へ来た。もう二度と故国の地を踏まぬ覚悟で臨んだ、あの日のマルティールの景色を今でも覚えている。両親と兄を弔って泣くのは、もうこれで最後にしようと決めた日。
かつ、とルイセルーエは再び歩き出した。
(……終わってなど、いなかった)
嫁いでからも事あるごとに姿を現す従弟。母の仇。飄々とした態度に不遜な物言い、どれほど殺してやりたいと思ったか。でも――でも。
(ただ憎ませてくれれば、楽だったのに)
今でも甦る、声がある。
ルイセルーエは首を振った。今まさに、過去と決別しようとしているのだ。今更思い出して何になる。
重苦しい何かが、手足に絡み付いているようだった。だがもう兵士達が守る扉はすぐそこだ。向こうも近づく公爵妃に気付いたようだった。
「これは、公爵妃殿下!」
跪く彼等に開扉を告げる。特に疑問を持った様子もなく、兵士達は扉を開けた。豪奢な牢獄へと続く廊下を隔てる扉を。
これまでとは明らかに違う足音に、エリアスは運び込まれた火桶から顔を上げた。
(……兵士ではないな。音が軽い……女、か)
侍女か誰かが追加の炭でも持って来たのだろうか。だが火桶を持ち込んだのは兵士だったので、エリアスは首を傾げた。一国の国主である公爵家に仕えるような侍女が、果たしてそのような労働をするものだろうか。
疑問には思ったものの、それ以上の興味は湧かなかったので、エリアスは再び火桶に視線を戻した。煌々と紅く輝く炭が美しい。先ほど入れたばかりの炭にも火が移り始めていた。
だが、寒い。火桶一つでは到底温まることなどできはしない。毛布にくるまって寝台で寝転んでいる方がましかもしれなかった。だが壁には厚手の綴れ織りが掛けられ、断熱と保温に幾らか貢献していた。それが許されているだけ、ましというものだろう。吐いた息も白くはない。
もう、今日は寝てもいいかもしれない。夕食は済んだし、体も温水と布で拭った。冬だからそれほど汗を掻いているわけでもない。訪問者の用事が終わったら寝よう――そう考えて、立ち上がったときだった。
影の中、その人は立っていた。
記憶の中にあるより、静かな佇まいだった。篝火に照らされた髪は本来の色合いではないように見えたが、青い眼差しは一層深みを増したように見えた。珊瑚のような唇が、開く。
「……お久しゅうございます、王太子殿下。不足はございませんか」
硬い声音に、どう答えればいいのか。否の意味を伝えようと首を振る。
「ルーエ……久しぶりですね。元気に、していましたか」
震えそうになる喉を意地で抑えて、努めて笑ってみせる。そう、自分は笑うことができる。いつかのように。
案の定、ルイセルーエの瞳は揺れた。胸の下で組まれた白い手が、硬く握り締められる。
「それで? まさかもう父が賠償金を支払ったのですか。だから私を解放しに来られたと?」
皮肉を込めて言えば、いいえ、と細い声が返ってくる。
「では何の御用事でしょうか。私はもう眠るつもりだったのですが」
言外に面会には非常識な時間を指摘すれば、立ち尽くす彼女は海の瞳をゆるゆると伏せた。一つだけ、と小さな囁きの後に。
「嘘つき」
かつ、とルイセルーエが一歩、鉄格子に近づいた。
「貴方は、わたくしとの約束を破ったわ」
エリアスは瞠目した。もう叶えられない幼い日の約束。まだ彼女も、覚えていた――覚えていて、くれたというのか。
「エリアス。わたくしが何より叔父上を赦せないのは、父上と兄上を騙し討ちにしたことよ」
ルイセルーエは上衣を手繰り寄せた。まるで自分を守ろうとするかのように。
「正々堂々と玉座を賭けて挑んで、その結果ならばわたくしも少しは納得できたでしょう。けれど違った。あの男は、よりにもよって私的に招かれていた団欒の場に剣を持ち込んで、あの男を弟として信頼していた父を、叔父として慕っていた兄を、背後から襲った!」
不意打ち――それは正々堂々を旨とする騎士として、最も卑怯とされる手段の一つだ。エリアスは直接関わっていなかったが、糾弾を甘んじて受け入れた。彼にはその義務があり、彼女にはその権利があった。
「あなたの父親は卑劣な簒奪者よ」
海の瞳が燃えていた。篝火が映りこんでいるのか、それとももっと奥でその炎は上がっているのか。
「……でも、もういいの。私がどんなに憎んでもあの男に天罰が下るわけでもなければ、父上様や兄上様、母上様が還ってくるわけでもない。それなら、あの男のことで悩んで心を使い果たすくらいなら、いっそ綺麗さっぱり忘れてしまおうと思っていたから」
でも、と続ける声は震えていた。
「貴方のせいよ、エリアス。あなたが、待っていてなんて言うから。あんなところに、こんなものを植えるから……!」
言葉と共に、ルイセルーエが何かを懐から取り出した。振りかぶって投げつけられたそれは、牢の格子に当たって鈍い音を立てる。撒き散らされた中身が、ばらばらと床を打った。
エリアスは思わず、腰を浮かした。
「貴方が植えていたのでしょう……!?」
泣き崩れるルイセルーエ、くたりと鉄格子の傍に落ちた小袋。そして――篝火に照らされて朱を帯びた、真珠に似た姿と光沢を持つ、真っ白な実。
ころんと足元に転がってきたそれを拾い上げ、エリアスは思わず声を漏らした。
「これ、は……」
……離宮の花壇にもう花が咲かないはずだ。
エリアスが自分の手で植えた真珠草。その実は全て、ルイセルーエが摘み取っていたのだから。
「ルーエ、君……」
もはや隠し切れない嗚咽が響く。膝をついた彼女への道を、冷たい鉄格子が阻む。
それでも格子の傍にしゃがみこんで、静かに告げた。
「父が憎いのは、僕も同じですよ」
はっとしたように、ルイセルーエの肩が一瞬跳ね上がった。
「気に入った者なら誰でも寝所に召し上げるあの節操の無さは大嫌いだし、露出癖は気持ち悪い。寝汚いし、未練がましい。父親として尊敬できるところなんか一つもありません」
全て、紛うことなき正直な心情だ。
「父上は――あの男は伯父上から玉座を奪った。それは否定しません。それに僕としてはそんなことはどうでも良かったんです。でも」
二年前のあの、春というには暑かった日。
「あの男は、僕から君を奪おうとした」
唯一生き残った、先王の血を引く王女。王太子と娶わせるより、自身の后に迎えた方が早い。いつだったかそう呟いているのを、聞いてしまった。
「だから……」
あの離宮に彼女を幽閉した。閉じ込めてしまえば、彼女が自分達の訪れを拒否することはわかっていた。それでも良かった。
守りたいと思った彼女が、父に穢される様など、絶対に見たくはなかったから。けれど。
想っているからなんて、そんなことは言い訳にもならない。
結局自分は止めようと思えば父エスライドを殺すなり何なりして、あの凶行を止めることができたのだ。止めなかったのはそうした方がルイセルーエへの風当たりが弱くなるだろうと踏んだからで、しかしそれは彼女から両親と兄を奪った理由になどなりはしない。
『貴君の精神は、恐らく我々に良く似ている』
耳の奥で再生された言葉に、エリアスは嗤った。
(ああ、そうだとも)
欲しくて欲しくてたまらなかった。何にも傷つけられないよう囲い込めたらどれほど楽だっただろう。心? そんなもの、彼女に捧げる以外の存在意義を、僕は知らない。知りたくもない。そして。
(それが僕にできる、精一杯の君を愛する方法だ)
エリアスは硬く目を瞑った。
「……ルーエ。泣いているのですか?」
「――っ、そうよ、見てわからないの……!」
嗚咽が一瞬止まった。青い瞳が苛烈な感情を映し出していた。
「知っていたわ。あの男が、自分の后に私を召し出そうとしていたことくらい。いっそ、最初からそうなったら良かった」
エリアスは息を呑んだ。
「ルーエ」
「そうなったら、私は心置きなく喉を突いて王女として誇り高く死ねたのに! なのに貴方が……!」
世俗の何もかもから隔離するように離宮に軟禁された。そしてその片隅に。
『この花を、貴女に。待っていて下さい』
夏の日差しの下、凛と立つ青い花。それを見て、ルイセルーエは今と同じように泣き崩れた。真珠草は人の手が入らなければ滅多に生えることがない。そしてその離宮に元々真珠草が植わっていなかったことは、父王が存命の頃に何度も足を運んでいたから知っていた。
そうしてこの従弟はあの約束を守ってくれたのだ。世界を見せてくれるという、その半分だけ。
閉ざされた箱庭から、諸国の中でも特に自由な気風のミルフェンへ。用意されていた最初の相手、伯爵家の三男とやらは恐らく彼自身の麾下か何かだったのだろう。それがわからぬほどルイセルーエは愚かではない。だからこそ、あのとき皇女の策に乗ったのだ。
この従弟を、自分という呪縛から解き放つために。
「ルーエ……」
再び俯いた彼女の耳に、途方に暮れたような声が届いた。声変わりが終わった彼の声は、もうルイセルーエの記憶にあるものと一致はしないけれど、抑揚は全く同じだった。
「泣かないで下さい」
エリアスは冷たい鉄格子の隙間から手を伸ばした。だがルイセルーエまでの距離は埋まらない。
「ルーエ」
再びの呼び掛けに、ルイセルーエが顔を上げた。泣き濡れた瞳に、彼の胸が痛む。こんなふうに泣かせたいわけではなかったのに。
「ルーエ……ここまで、来てくれませんか」
鍵を開けて欲しいなどとは言わない。だが直接、白い頬を伝う涙を拭うくらいは許されないだろうか。
どれくらいそのまま見つめ合っていただろう。もしかしたら一晩中そうしていたのかもしれないし、ほんの少しの間だったかもしれないように思われた。
エリアスが伸ばした腕を保ち続けるのが辛くなってしばらくした頃に、ルイセルーエの体が動いた。一歩、二歩、と靴の音が響く。伸ばしたエリアスの手の上に、そっとルイセルーエの手が置かれた。
エリアスは少しだけ躊躇って、だが結局従姉の手を握った。強く、逃がさないという意思を込めて引き寄せる。
格子越しの抱擁でもわかるほど、従姉の体は柔く、細かった。そして、彼が覚えているよりも小さかった。
(ルーエが小さくなったんじゃない。僕が大きくなったんだ)
返ってくるものがない抱擁は、普通ならば虚しいものなのかもしれない。エリアスとて女を知らぬわけではない。抱きしめたことも共寝をしたこともある。だが経験の中のどれよりもこの鉄格子に阻まれた抱擁に、満たされるものがあるのは何故だろう……。
不意に、胸元に抵抗があった。逆らわずに解放すると、ルイセルーエは一歩下がった。
「……私、貴方にあげられるものは何もないわ」
繋いだままの手が震えていた。ルーエ、と呼び掛けると視線を逸らされる。
「ものなんていりません。貴女に逢いたくて、僕はこんなところまで来たんです」
驚きに見開かれる瞳に微笑を返す。
(アルモリック卿、あなたは悟らせなければいいと言った……自分が勝手に想っていればいい、と)
それも一つの道なのかもしれない。けれど押し殺して、なかったことにするには、この想いは重すぎた。
「……どうして貴方は、物語の中みたいな、わかりやすい悪役になってくれないの……っ」
「この僕が、脳味噌まで筋肉に侵食されたようなその辺の下級騎士ごときに後れを取るはずがないでしょう。……まあ今回は相手が悪かったので、こんなことになっていますが」
何故か一層激しく泣き出した従姉をもう一度抱きしめながら、エリアスは内心で自嘲した。
今なら、わかる。
自分達はきっと、互いが互いの裏側なのだ。どちらも表側にはなれない。敢えて言うなら、彼女の亡き兄王太子が表側だった。けれど、もう彼はいない。
太陽はなく、月も出ない。そんな夜の静寂の狭間に、息を殺して潜むような。
(僕は一体、どこで間違ってしまったのだろう)
ただ、こんなふうに手を伸ばして――君を大切にしたかっただけなのに。
「でも、くださるというなら……心をください」
抱きしめた細い肩が怯えるように止まったが、エリアスは躊躇わなかった。
「貴女の心を、僕にください。ルーエ――僕の王女殿下」
とりあえず、前々回吐いた人への扱いが酷い。




