今宵、月照らすあの場所で
騒がしい喧騒を抜け出したその先に、切なげに月を見上げる君がいた。
ひたむきに夜空に君臨する女神に儚く照らされる君は、まるで触れれば消えてしまうという花の精のようだった。
……眉間の皺を見なければ、の話だったが。
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皇女の十六歳の生誕日――成人を祝う皇族達の内輪での集まりが、彼女が目覚めて七日の後に開かれた。急なことだったが、都合のつく皇族はほぼ全員が集まった。
成人したということで生まれて初めて酒に口をつけた皇女は、慣れない刺激に眉を寄せた。
「……まずい」
「いきなり辛口の赤葡萄酒ではそうでしょうな。こちらの林檎酒ならば甘く口当たりも良いですぞ」
「ヴィランド公、そういきなりお勧めするものではない。殿下、お口直しに果実水をどうぞ」
「ありがとう、キティ。あ、団長、そっちも後で試してみたいから置いといて」
以前は禁酒至上主義とか言っていたくせに現金なものである。
「シェラン、大丈夫か? 気分は悪くなっていないか?」
「大丈夫」
「酒は体質的に合わないことがあるからな? 飲めなくてもどこかおかしいとかじゃないんだぞ」
「……それを確かめる目的もあって試してるんじゃない」
「だがいくら飲めても飲み過ぎはだめだ」
「知ってるから。そして今そんなに飲まないから」
「本当に大丈夫か? 気持ち悪くなったらすぐに言うんだぞ」
自分の周りをおろおろと動き回る従兄に辟易したらしい皇女は、一旦酒杯を置いた。
「アル従兄様、うるさい。あ、ディー、ユリス、ちょうど良いわ。これ引き取って」
通りがかりに声をかけられた二人の青年、ディートハルトとユリスディートはにやりと笑って頷いた。めいめいにアルトレイスの腕を掴んで引き摺っていく。
「さあ、アル。今日は皇女殿下の成人祝いだ。飲むぞ、付き合え」
「はあ!? おい、放せ!」
「祝い酒だ、拒否は許されんぞ。おーいアスト、ジェラルド、お前らも来いよ。アル捕まえたから久しぶりに飲み比べしようぜ」
「ちょっ、待て!」
「何だよこの期に及んで。お前ザルだろ」
「ならルヴァとソールも呼んで来いっ!」
「ソールは駄目だろ。ルヴァは見当たらんし。往生際の悪い奴だな」
遠ざかる会話を聞きながら、シェランは首を傾げた。父皇太子と談笑していたジェレストールの袖を引っ張る。
「ジェス小父様」
「はい?」
「ソールはお酒、飲めないんですか? 今ディーが、飲み比べするけどソールは駄目って」
一瞬面食らった様子のジェレストールだったが、苦笑して首を横に振った。
「あれは酒には強いですよ。おそらく、姫様の御前で婚約者が飲んだくれる様を御目に入れぬための配慮でしょう」
「別に良いのに。ソールだけ仲間外れなんて可哀そう」
ますます苦笑を深くしたジェレストールは、騒ぐ若者達に一転して厳しい目を向けた。
「それよりも姫様の成人祝いだというのに、あやつらは」
「いいですよ。皆が限界まで飲んだらどうなるか、面白そうだから見てみたいです」
「……そこまでの醜態は曝さぬだけの分別があると信じたいものですね」
額に手を当てて嘆息するジェレストールを、皇太子ファナルシーズが鼻で笑った。
「お前だって二十年前はあんなものだっただろう」
「否定はしないが、貴方の成人祝いに羽目を外した覚えもありませんよ……」
遠い目をしたジェレストールである。そこへ件のソルディースがやってきた。
「ソール、ディー達が飲み比べするって。混ざりに行ったら?」
「いや、いい。父上、兄上の姿が見当たらないのですが、ご存知ありませんか」
「ん? ……いや、知らないな。抜け出していなければいいが」
「最初の挨拶には来たけど……どこ行ったのかな。ディー達も探してたみたい」
「あれは頭数が欲しいだけだ。……おかしいな、アルがあそこにいるなら嬉々として張り付いてからかっていそうなものなんだが」
イルヴァースはこういう席では騒ぎの中心に近いところにいて、傍から騒動を楽しむことが好きな性格である。その姿が見当たらないとあって、揃って首を捻る四人であった。
その頃のイルヴァースはといえば、皇女の成人祝いからただの酒飲み会に移行しつつある同胞に絡まれては堪らないと、露台に避難して夜風に当たっているところだった。別に酒に弱いわけではないが、今行けば確実に巻き込まれるのが面倒だ。
春が近いとはいえまだ夜は冷える。それが酒精で火照った身には心地よかった。見上げれば零れそうなほど星を抱く夜空。清かな月の光が柔らかい。
こうして主君の成人を祝うことができて、本当に良かった。一度はその生存さえ危ぶまれていた彼女が、硝子越しに笑っている。正直なところ、自分の成人や聖騎士位叙勲のときなど比べ物にならないほど嬉しい。
神に捧げる感謝の聖句を呟いたのは無意識だった。そしてそれを誰かに聞かれているのは、想定外だった。
「珍しいのね、イルヴァース。貴方が聖句をきちんと覚えていたなんて」
「……マリア」
振り向けば露台に出てきた同胞の姿があった。……いくら酒が入っているとはいえ、人の気配に気付かないとは。
「今、わたくしに気付かなかったでしょう。貴方も大概浮かれているわね」
「……まあね。三年前は無事に姫の成人を祝えるとは思っていなかったし」
「そうね」
「君こそ珍しいね」
隣に並んで露台の欄干にもたれ掛かった彼女は、言われた意味がすぐにはわからなかったようだった。イルヴァースはそんな彼女に手を伸ばす。
「髪。下ろしているなんて珍しいなと思って。いつもきっちり結ってるだろう」
「……シェラン様が、下ろしたところが見たいと仰ったから」
彼女は困ったように微笑んだ。
「久しぶりに見たけど、やっぱり似合ってる」
「ありがとう」
緩い癖のあるマルヴィリアの髪は細いが指通りがよく、さらりとイルヴァースの手から逃れるように滑り落ちた。もう一度掬い上げようとするが、持ち主からその手を叩かれる。
「いい加減にして頂戴。貴方にべたべた触られるために下ろしているのではなくてよ」
「いいじゃないか」
「良くないから言っているの」
言って、マルヴィリアは一歩イルヴァースから離れた。動きに合わせて髪が揺れる。
「ずっと訊きたかったんだけど」
「……何?」
「初めて私が夜会に出席した日のこと。あのときもこんな風に、マリアは大広間の露台に一人でいただろう? で、しかめっ面で月を見てた」
当時イルヴァースは十四歳だったから、マルヴィリアは十七歳だった。花も盛りの公爵令嬢がなぜ、と思ったことを覚えている。
しかしマルヴィリアは眉を寄せた。
「……そうだったかしら」
「そうだったよ。あれはどうして?」
「覚えていないわ。大体貴方が最初に出席した夜会ってどれ? 蘭の宴?」
「それはうちの弟だよ……私は蓮の宴」
正反対の季節である。あの時期はイルヴァース、アルトレイス、ソルディースの順で立て続けに夜会への出席を始めたし、それ以前にも同世代の同胞が表に出始めた時期なので覚えていなくても仕方がない。
「後ろ姿だけ見ればすごく綺麗だったのに、眉間の皺で全てが台無しだと思ったよ」
「……貴方に熱を上げている貴族の女性の気持ちが全くわからないわ」
「知りたい?」
「いいえ、全く」
にべもなく撥ね付けられる。ふむ、と考え込んだ末、イルヴァースは直球勝負に出てみることにした。
「君は気になる男はいない?」
「今のところは」
「じゃあマリア、私と結婚しないか?」
淡い紫の双眸が一瞬見開かれた。ざわり、と二人の間を風が吹き抜ける。
「……寝言は寝てから言うものよ」
「寝言じゃないさ。前から考えていたんだ。結婚するなら君かなって」
「……年下は趣味ではなくてよ」
「年齢は関係ないだろ?」
ぼやきながら、イルヴァースはマルヴィリアの手を取った。
「マルヴィリア=エリーゼ・レイア・ユイネフィール・オルス・クライネルト公爵令嬢、私と結婚して頂けませんか」
手の甲に唇を落とす。抵抗はなかった。これはいける、と思った。
……しかし、いつまでたっても答えはなく、訝しんだ彼が顔を上げると、そこには一見慈愛に溢れた笑顔があった。
「……酒の席とはいえ、悪ふざけが過ぎましてよ。カルスルーエ卿」
「は? いやふざけてなど――」
するりと握っていた手が引き抜かれ、むにっと鼻を摘ままれた。
「言い訳は結構。いくら無礼講に近い席とはいえ、年長者に対する礼儀は弁えるべきではありませんこと?」
そのまま鼻先を弾かれる。その一瞬の隙をついて彼の横を通り抜け、マルヴィリアは一切振り返らずに室内へ戻っていった。
「…………やっぱり正面突破は難しいか」
方向性の問題ではなく、時と場所の問題であろう、と彼に苦言を呈してやる者は、いない。
成人といえば、と思いついた酒ネタでした。
というわけでイルヴァースは最初に盛大に振られます。タイミングが悪すぎました(笑)。