7.火炎地獄
ベヒモス。
その名は知っている。
新か旧かどっちかの聖書に登場する陸の怪物。
……ぐらいには知っている。
俺が育った施設はミッション系だった。聖書は身近な読み物だった。
読んだ記憶はほとんど無いが、怪獣関係だったので憶えている。
たしか、海の怪物リヴァイアサンと対になる大怪獣だ。
『我が命と名にかけて、お前をここで無に帰してくれる!』
イフリートが炎を吹いた。ここまで届かない。
あからさまな威嚇。
ジンの雷に比べれば児戯にすぎねえ!
こやつ火生土の相生を知らぬと見える。
軽く捻ってくれようぞ! うははははっ。
舞い上がった俺は、拳を握りしめ、太い両腕を頭上へ上げた。
「アンギャーオォン!」
俺の雄叫びが洞窟中に木霊する。
これは戦闘前のしきたり。由緒正しき威嚇合戦。
俺はゆっくり前進した。
俺の素早さを見誤らせるため、わざとスローモーに動く。
イフリートは、低い姿勢をさらに低くした。
太い四つの足にバネが貯まるのが見て取れる。
炎を吹く前に、飛びかかって一気にケリを付けてやる。
後一歩で間合い。
その時、イフリートが火を噴いた。
くっ! 先手を取られたか!
だがこんな炎くらいで……アチチチチッ!
ゴロゴロと転がり炎を避けた。
確かに熱かった。人間だったら黒コゲになっていた熱量だ。
だが、俺のボディになんら影響はない。ただただ熱いだけだ。
うわー……。
雷に続いて、またもや俺の人間だった部分での戦いになるのか。
でもさ、……燃えない?
いや、闘志が。
火炎デスマッチ。
いい度胸じゃねえか、コノヤロウ!
やろうてんのか、コノヤロウ!
爬虫類の分際で、霊長類の長にして万物の王者ヒトとヤロウってのか?
……ヒトって霊長類だったよな?
落ち着け、先ずは落ち着こう俺。
俺は無謀な戦いを挑んでいるつもりはさらさらない。
見ての通り、火気に属する火虫イフリート相手に打つ手が無い、というわけではない。
分析すると、火剋金の相剋により、金気に属する俺の部分がダメージを受ける。
変わって、火生土の相乗により、土気に属する俺の部分は何ともない。
むしろエネルギーを得ている。
俺の手持ちは土気、金気、木気の三つ。
この三つで火気のイフリートと戦う。
第二回戦。
俺は先ほどとはうって変わって、高速で動く。
左右に揺さぶりながらスルスルっと間合いを詰める。
上顎を叩きつぶせれば僥倖。
俺のハンマーパンチを喰えっ!
……あ、まずい。
イフリートの身体が炎でいっぱいになって……。
ぼふぅん!
今、イフリートの火炎放射を喰らったーっ!
熱い! 熱いけど俺は耐える。俺の身体はこの熱に耐えられる。
そして……。
腕を交差して炎に耐えている俺に対し、イフリートの吐き出す火炎は終わりを知らない。
少しでも長い時間抵抗する為、俺は膝立ちになる。
身体を丸めて投影面積をなるべく小さくする。
俺の足下が柔らかくなってきた。岩が溶け出している?
鍾乳石の融点は何度だろう?
柔らかいから千度以下だと思うんだが。
イフリートは俺を溶かすつもりだ。
だが、俺にも策はある。博打に等しい策ではあるが。
時々忘れそうになっているが、俺は風水師……の卵だった男。
俺の博打は、五行説で言うところの相乗に因る物。
土生金の相生の例を出すと、土気を表す黄色いハンカチを金気を表す方角である西に飾ると、金気がパワーアップする。と言われているアレ。
さて、火気は土気を産む。イフリートの炎はまさに火気。
火生土の相生により、ヤツの炎は俺の土気へパワーを与えている。はずだ。できるかな?
俺は胸に秘めている土気の魔玉へ意識を集中した。
すると、なんとなくできそうな気がしてきた。
炎が燃えるという行為が――、化学反応する出来事が――、
自信のような力となって、俺の体を構成する土気の部分へ流れ、満たされていく。そんな気がする。
炎を吹き付けられる中、俺はさらに意識を集中。漠然とした力の流れが、確証となるのに時間は掛からなかった。
はっきりと土気の魔玉に力が満ちていくのを確認できた。
火気から土気への力の流れに慣れるため、しばらくそれだけに意識を集中させる。
体の一部が、イフリートの炎で溶け出してきた。
イフリートは、ここぞとばかりに火力を上げていく。
俺の体もそう長くは保たないようだ。
しかし、俺は力の流れを体が覚えるまで、無意識が意識できるまで、それだけを感じだけに集中していた。
ここが俺の天王山。
これを乗り越えられなきゃ、新しい人生が終わりを告げる。
……もっとも、一度終わった人生である。ここで終わっても惜しくない命であるが。
頃合いだろう。
力の流れを身体に取り込めたようだ。
息をするようにとはいかないが、問題はない。
次のステップへ移ろう。
十分に蓄えた土気のエネルギーを俺の本性である金気へと流す。
イフリートが放つ火気が土気に注がれる。
土気でブーストをかけた気の流れが金気へと流れていく。
これが結構難しい。
流れ落ちるコップの水を中間で受け、さらに最下層のコップへと流暢に流し込む様を想像してみてくれ。
ぎこちない気の流れである。
コントロールが未熟なため、ロスの多い気の流れとなる。
しかし、俺の体が溶ける速度が遅くなった。
僅かずつであるが、着実にイフリートの火力を凌駕しようとしている。
体得。
この難しい操作にもコツがある。
残念ながら、表現にぴったりのボキャブラリーが日本語に無いので説明できかねる。
乱暴な言い方をすると、軸受け風車と中学生レベルの電気回路を足して二で割ったイメージ。
ほら、わからないだろ?
これで火気から土気へ、土気から金気へとエネルギーの川を構築できた。
身体が溶け出すのも止まり、逆に外殻を修復していく。
熱さも暑さに変わり、さほど苦にならなくなっていた。
俺はイフリートに接近戦を挑むべく、敵に向かって歩き出した。
ここまでくるとさすがに気がついたのだろう。イフリートが火力を弱めだした。
炎で俺の姿が見えにくかったはず。視覚で確認するつもりだろう。
俺はそれを許さない。
最後の一手を打つ時が来た。
俺の持つ手札は、土気、金気、木気の三つ。これまで土気と金気を使った。
切り札の木気をここで使う。
炎の勢いが弱まりきる前にイフリートの開いた口に接触。
上顎と下顎をがっちり掴んだ。
エネルギーの流れはそのまま維持。残った木気の魔玉に意識を集中。
両腕を通じてイフリートの口から流し込む。
ボンと音を立て、イフリートの身体が膨れあがった。
肥満したトカゲ、あるいは河豚のスキルを得たトカゲ。いずれにしてもトカゲ。
弱まった炎が再び勢力を盛り返した。
とはいうものの、もはや俺には通用しない。暑いけど、まあたいしたことはない。
イフリートの顔を覗き込む。
目が飛び出してあらぬ方向を向いていた。陸に上がった深海魚である。
四肢をだらりと垂らしたまま炎を吹き出している。
うむ、こやつ既に意識が飛んでいる。
イフリートの身体を持ち上げる事になっるが、やたら軽い。
それは俺のパワーがイフリートを上回ったという事。
俺がイフリートに木気である風を送りつける事で、火気が強くなる。
火気が強くなれば、俺の土気が強くなる。
土気が強くなれば、俺の金気が強くなる。
もともと俺は金気の出自である。
つまり、イフリートの火力が強くなれば強くなるほど、回り回って俺の金気が強くなるのだ。
やがて相対的に強くなった金気が火気を圧する。
蝋燭の火で中華鍋を溶かす事は出来ない。
ライターの火で玄武岩は溶けない。
五行でいう金侮火の状態。
右手一本でイフリートを支える。
左手を水平に構え、肘を「く」の字に曲げる。肘関節を固定、強化。
左肘をイフリートの短い首に当てたまま、俺は全速で走る。
天井と床をつないだ太い石柱が迫る!
えらい勢いで、イフリートの首が柱と俺の右肘に挟まれた。
名付けて自走型・金気爆縮ラリアット! 今考えた!
肉がひしゃげる音がする。骨が粉砕する音がする。
嫌な感触を無視し、俺は腕を振り切った。石の柱ごと砕いて叩く。キャシャー……。
あっけなく折れる柱。
勢い余って、身体が泳いだ。
爆発はその時だった。
イフリートの、風船の様に膨れあがった身体が光に変わった。
やべぇ、木気のエネルギーを送りすぎた!
鍾乳石と石筍を薙ぎ飛ばし吹き飛ばしながら、爆発のエネルギーが洞窟中に満ちていく。
風の前の塵みたいに舞う身体。
まるで転がる石の様な俺の生き様がごとし。
目は開けていたが(そもそも閉じられないが)白一色で暗闇と同一であった。
冒涜的なまでに暴力的な光の渦が収まると、洞窟は真っ暗だった。
と、視界の下の方に赤い光を見つけた。
もそりと起き上がり、ゆっくりと近づいていく。
光っているのは赤い宝石。俺はそれを手に取り目の前にかざしてみる。
チロチロと炎の揺らめきが見えた。
炎の魔玉だ。
イフリートは、遺言を残す事なく死んでしまった。
俺の勝ちだ。
両腕をゆっくり挙げていく。頭の上に上げていく。顔を天井に向け身体を反らす。
バンギャオーン!
俺は、勝利の凱歌を上げた。
クックックックックッ。
気の相乗循環によるエンジン……波動式五行循環エンジン? 波動五行エンジン? ……なんとか波動エンジンに繋げられない? 無理?
俺は、悪党みたいに笑っていた。
土のゴーレムみたいなのを倒し、風の聖獣ジンを倒し、今また炎の精霊イフリートを倒した。
レベルで言えば5(推定)になろうとしている。
俺の手にある炎の魔玉を胸に納めれば、俺はレベル5(推定)のベヒモスとなる。
無敵じゃね?
最強じゃね?
俄然面白くなってきた。
その気になれば魔王にもなれそうな気がしてきた。
どうせ人間の世界になじめぬ身体だ。ならばいっそ人間を服従させるのも一つの生き方に思えてきた。
ふふふ、下等な人間共め。ベヒモス魔王に平伏すがよい。我を恐れよ! そして敬……。
あ、いや、ちょっと前に不遜な主人公が自爆する話を読んだから、のぼせ上がるのは控えよう。この件に関してはもうすこし考える余地がある。
俺は掌に乗せた魔玉を見る。
勝者の権利として、また、イフリートへの敬意を込めて、炎の魔玉を胸に埋める。
俺の胸の奥には、金気と土気と木気と火気、4つの魔玉が存在する。
4大元素でも五行思想でも、残ると推測されるのは水。水気である。
五行で言う、太極が陰と陽に分解したのち、陰の中で最も冷たいのが北へ移動して生じたのが水気・水行。
五行の中で最初に生まれたのが水。
よって水は全ての命を産み、全ての命が帰る場所。
不吉な予感に身震いする。
俺は進むべき壁を見た。
壁には一カ所、色と形が違っている場所がある。俺が余裕で通れる程の大きさの壁。
そこに手を置く。
拳を小指から握っていく。堅くなれ堅くなれと念じる。
木気から火気へ、火気から土気へ、土気から金気へとエネルギーを循環させる。
精神を統一し、気の道を整える……。
土気から金気へ。金気から水気へ。水気から木気へ。木気から火気へ!
右足を後ろに下げ、腰をひねり、頭もひねり、右腕を大きく引く。
引き絞った拳を放った。
同時に手の甲にスラスター(自称)を構築。そこから凝縮させた火気を放出!
銃声が洞窟に轟く!
拳が火を噴く!
燃焼ガスにより爆発的加速力を得たアイアンパンチを壁にブチ込んだ。
堅い物同士が打ち合う音。凹面鏡状にへこむ壁。
明らかなパワーアップ。
音を立て、ヒビが放射線状に広がっていく。
全体に広がったところで壁が爆発。
何故かこっち側へ破片が飛び散った。
理由はすぐにわかった。
充分に圧力の掛かった大量の水が噴き出したのだ。
…風邪…ダウン…おかゆ…うま……
次回で第一章終了です!