2.ガル
魔獣とは、この世界に満ちた魔力を肉体に取り込んで云々かんぬん。
だから食事は一週間に一度で云々かんぬん。
よって水さえ飲んでいれば云々かんぬん。
そんな基礎情報が頭の中をグルグル回り続けていた。
「デニス姉ちゃ――」
デニスは、ジムの口を手で押さえた。良くできたと自分でも思う。
鼻水が掌に付いたが、気にしていられない。
生か死かの線上に立ってるのだ。
心臓が音を立てて跳ねている。膝が笑って、立っているのが辛い。
デニスは、魔獣の目を見ながら、そっと後ずさった。
物音を立てないように。
怯えを滲ませないように。
魔獣の目は、とても澄んでいて綺麗だった。
噂に聞く宝石とは、あんな色なのかもしれないと考えている自分が信じられなかった。
二人は木々の間から抜け出た。開けている場所まで出た。
幸い魔獣は追ってこない。
何とか逃げられそうだ。
「おーい、デニス!」
全身から汗がドッと出た。
ジムの性格に輪をかけたようなやんちゃ坊主、カイルが笑いながらデニスを呼んでいる。
答えられる訳ないでしょ?
なんとか目で合図を送ってみる。これは、この特殊な村にのみ通用する危険信号だ。
だが、遊びほうけているカイルにその合図が通じない。
あろう事か、手にした薪をデニスに放り投げてきた。
薪がデニスに当たれば良かった。
驚かせるのが主目的だった故、薪はあらぬ方へと飛んでいた。
回転する薪は、放物線を描き木々の中へ消えていく。
あの魔獣がいる位置へ消えていく。
デニスにとって永劫とも思える時間が消費されていく。
全ての音をかき消して、のっそりと巨大な獣が姿を現した。
魔獣の肩が、デニスの父の背丈より高かった。目の高さは軒先ほどだった。
牛より遙かに大きい。騎士様を乗せる戦馬なんか比べものにならない。
―― ガルム犬? ――。
それはフェンリルの眷属とされている魔犬。
漆黒の毛並みで有名だが、青い毛並みの個体がいても不思議では無い。
そもそもガルム犬自体が不思議の存在なのだ。
脅威レベルAの魔獣。それがガルム犬。
村で使役されている魔獣はレベルCのサラマンダーやワイバーンが最高レベル。ほとんどが、レベルDの地走りトカゲ。
ちなみにフェンリルはSクラスを超えた存在。歩く災害だ。
薪拾いに来た子供達は、一瞬で固まった。
子供とはいえリデェリアル村の一員。
魔獣と遭遇したときの対処法は、体に染みついている。
けっして動いてはいけない。目をそらしてはいけない。後ろを向いて走ってはいけない。
このまま、魔犬が去るのを待つか、食べられてしまうかの二択。
魔犬が一歩を踏み出した。
いけない!
なんとかできないか?
口を半開きにしたまま、デニスは考えた。
腐っても族長の娘。
魔獣を支配下に置く技術は、奥義を含めて一通り憶えている。
いくつかの方法があるが、共通していることは、魔獣の五感の内、二つに訴えかける事。
五感の内、触覚だけは論外。身体に触れるのは慣れてから。
いきなり触っても食われるのがオチ。
例えば特別な香を焚き、特殊な笛を吹く。嗅覚と聴覚に訴えるのだ。
例えば秘伝の食べ物を与え、奥義の踊りを舞ってみせる。味覚と視覚に訴えるのだ。
だが、デニスは香を持っていない。楽器一つ持っていない。おやつの干し芋なら持っているが、どう見ても魔犬は肉食だ。
残りは……。
ここでデニスがパニクった。
いきなり踊り始めたのだ。
目は泳ぎ、体の動きは堅く、バックミュージックもない。
小枝の様な手足を振り振り、奥義の舞いを披露しはじめた。
ステップを間違えた。右足と右手が逆に出た。小指を石にぶつけて動きが止まる。
焦りが間違いを呼び、間違いが失敗を呼び、失敗が焦りを呼ぶ。
ミステイクのスパイラル。
それでもデニスは舞った。
自分でも怪しい舞いだと思う。魔犬に通じないと確信する。
それでも舞う。
子供達を守るために舞う。
魔犬が襲いかかってこない間は、秘奥義の舞踏が通じている証拠と自分に言い聞かせる。
息が荒くなってとても苦しい。汗が滝のように流れる。顔色が赤くなったり青くなったりしているのが解る。
やがて舞いはクライマックスを迎え、最後のポーズに入る。
ぎこちなく間違えた。
だが、デニスは舞いきった。
できることはやった。全てを出し切った。もうどうなってもいい。
荒い息をつきながら、汗にまみれた顔も拭かず、やりきった感を前面に出していた。
身体を擦りつけてくれば成功。噛み砕かれれば失敗。
青白い魔犬は、じっとデニスを見つめていた。
果たして……。
魔犬が大きな口を近づけてきた。
鼻息がデニスの前髪を乱す。不思議と涙が出ない。
魔犬の鼻面が、デニスの顔に擦りつけられた。
ふんふんと匂いをかいで、また擦りつけてくる。
奇跡が起こった!
「え?」
青白き魔犬は、腰を下ろした。
俗に言うお座り。
小首をかしげてデニスを見下ろしている。
デニスは恐る恐る、腕を伸ばした。
巨大な顎に触る。思ったより柔らかい毛並み。
魔犬は動かない。
そのまま手を這わせ、顎を撫でる。
魔犬の目が細まった。気持ちいいのだろうか?
デニスは確信した。
「わたしの支配下に入った」
それは奇跡だった。
一生に一度の奇跡が起こった。
デニスは、振り返りもせず後ろの子供達へ声をかけた。
「もう大丈夫。この子はわたしの使役魔獣になった」
ほー、という声が聞こえた。
張り詰めた空気が緩んでいく。緊張から解き放たれた子供が尻餅をつく。そんな音まで聞こえる。
お座りをしたままのガルム犬。その頬を撫で回す。
「そうね、名前をつけなきゃね」
にっこり笑ってその名を口にした。
「命名、コロ助!」
ネーミングセンス最悪である。
青白きガルム犬の鼻に皺が入り、牙を剥き出しにして立ち上がった。
気に入らない模様である。
「じゃ、ガルム犬からとって、ガルちゃん!」
ガルム犬の目が左へ泳いだ。続いて右へ泳ぐ。
やがて落ち着いたのか、ガルム犬の中で決着が付いたのか、大人しく腰を下ろした。
これ以上の事をデニスに求める事をやめ、ガルで妥協した様だ。
「ガルちゃん、一緒に村へ帰ろう!」
この後、村は大騒ぎとなるのであった。
黒い髭と黒い髪を綺麗に切りそろえた中年男が、肩を落として歩いている。
村から続く街道が森にさしかかったあたりで、声がかかる。
「首尾はいかがでしたか? ダレイオス司教」
木陰から、短い金髪の若い男が出てきて跪いた。
ダレイオス司教と呼ばれた男と共通する黒服を着ている。
「ゲペウか。だめだった。何とか武闘派からあの村を救いたかったのだが……」
今をときめく聖教会において、司教の地位は教皇から数えて三番目に値する。一つの地域をまとめる資格を持つ。
村人に司教だと名乗ると、その地位に不自然さを感じ、用心するであろう。よってダレイオスは、みすぼらしい説法師の服を用意したのだが、結局徒労に終わったようだ。
「我らには力がないのでしょうか?」
若い男は膝を地につけたまま項垂れた。
「……いや! ちがうぞゲペウ!」
ダレイオスの肩に力が入った。
「まだだ。まだ間に合う。神は、我らとリデュリアル村に時間を残しておられる。何度も足を運ぼう。石を投げられようと、魔獣をけしかけられようと……魔獣をけしかけられようと後には引かぬ。神は正しき者だけを導く」
ゲペウが黒いコートを取り出した。
「ゲペルよ、何度も通うぞ。覚悟せよ」
「仰せのままに」
ダレイオスは袖を通し、長い旅の続きを歩き出したのだった。
「命名、コロ助!」
未だモコ助の呪縛から解き放たれていない作者でした…。
そんなこんなで、ノリの軽いストーリーが動き出しました。
ゴーレム・スローライフを期待しておられた皆様、ごめんなさい。
これは、登場キャラが休む間もなく爆進するお話しです。