許すまでの猶予
谷田 大 (たにだ まさる)
1.
ここのところ毎日いろいろな事に対して憤りを覚えている。
特に痴漢、自動車事故、SNSのトラブルの情報を目にすると気持ちが泡立つ。
セクハラも痴漢に含めば、殆ど連日破廉恥な事件が報道されている。
最近驚いたのは、道を歩いている女性に欲情して付け回り、その女性が住むマンションに入り込んで、痴漢行為に及ぶという事件だ。
その犯罪者は、女性が勤めている会社から出てくる姿を見た瞬間に、「後ろ姿に興奮して欲情を抑えられなかった」と言う。想像力が逞しいのか乏しいのか、理解が及ばない。
その女性は勤め先から最寄り駅へ行き、電車に数駅乗ってから途中で他の路線へ乗り換え、自宅の最寄り駅で下車したのち、徒歩7分のマンションへ帰宅したという。当然朝はその逆の道程を辿ったのだから、その往復の間や職場も含めれば、多くの異性の目がその後ろ姿を認めたはずなのに、彼を除く男性は色欲を覚えなかった(もしくは欲情してもそれを抑えたか)。
彼一人は欲鬱とした感情を抑えがたく、数十分にわたり付け回り、あまつさえ襲い掛かるに至ったのだが、その行動は類稀なるエロティシズムの想像力のなせる業で、一方で、その行動が犯罪だという想像力は欠如していたのだろう。その矛盾が女性にとって身の毛もよだつような不幸な事件を起こしたように思う。
病気だと切り捨てることもできると思うが、その精神構造を医学的に説明すると、どのような合理的見解になるのだろうか。
自動車事故も後が立たない。
煽り運転に飲酒運転、スマホなどを見ながら運転したことによる事故の報道も後を絶たず、呆れてしまう。ドライブレコーダーの普及、違反者への取り締まり強化、民間も行政も違反や事故を減らそうと努力をしているのに、何故こうも違反や事故が後を絶たないのだろう。
煽り運転の被害者が提供している動画を見ると、理不尽極まりない暴力行為を披露する運転者が出てくる。以前からこの手の輩は居たのかもしれず、ドライブレコーダーの普及で一気に表化したのかも知れないが、その行動は常軌を逸している。いきり立つ行為は自己顕示欲の表れだろうか。そんなに自己を表現したいのならば、然るべき格闘技の試合に出れば良いと思う。
飲酒運転が無くならない理由も分からない。酒を飲んだら精神が緩和され正確な判断が出来なくなるのは、飲酒する人なら全員が知るところであり、ある意味ではその酔いを楽しむために酒を飲むという人は多いだろう。酔いの度合いにもよるが、まっすぐ歩いているつもりでも左右にぶれるし、走れば転ぶ人もいる。つまり精神の緩和に伴い運動機能も低下すると言う事だろう。だから酒を飲んで仕事をする人は少ないのではなかろうか。酔っ払っていては正常な判断が難しいからミスが多くなり、仕事上でのミスは組織にも個人にも大きな損害を出すことが容易に想像できるからだと思う。それなのに人を撥ねれば重大な損傷を与え、時には自らにも牙を剥く車を飲酒後に運転するのか、全く理解し難い。
“ながら”運転も同様に集中力が散漫になる行為だ。その中には事故を隠蔽しようと逃走する者までいる。自分の行いを恥じて詫びることが出来ない人間が一定数居ることに驚きを隠せない。
SNSに纏わるトラブルの報道も多い。虐めや誹謗中傷による自死や暴力、迷惑行為による個人情報の晒し行為や係争もある。毎日の様にどこかで事件が起きて、当事者が罰せられていると言うのに一向になくなる気配がない。
そのSNSで他国の人を捕まえて民度が低いと揶揄する日本人がいるが、日本のこの現状を見て自国民の民度をどう評価しているのだろうか。
江戸時代は武士が法を作り、破る者には罰を与えていた。更には豪商、豪農などの読書層が法の維持に参与して秩序を保っていたという。その時代の庶民はひたすら従う側で、自らが政治に関して発言する事すら許されなかった。気の毒ではあるものの、明治維新によって庶民も国政に参加する機会が与えられたときは、庶民も混乱したに違いない。
かつて江戸時代の日本を訪れた外国人は、対応した武士の知性や誠実さを称賛して記録している。しかし、その記録の中には武士と庶民との差に愕然として、これが同じ日本人かと驚いたとするものもある。
武士をはじめとする読書層は長年醸成された、馥郁たる知性や威厳が備わっていたが、庶民にそのようなものがある筈がなく、下卑て嘘つきが多かったのだろう。明治維新で庶民と同列に扱われるようになった読書層も、外国人同容に庶民の品性の乏しさには愕然としたのではなかろうか。
今日の日本に士農工商の差別は存在しないし、収入格差がそのまま精神格差につながるとは思えないが、収入格差以上に民度の格差が年々広がっている様に思えてならない。
何故自分の身に関係のないことに憤ってだらだらと考えているのか、理由はただ一つ。暇だからだ。
大学卒業後35年間務めた会社を、早期退職優遇制度と言う名のリストラで追い出され、妻にその事実を伝えた途端、家庭でもリストラされてしまい、これと言って趣味の無い還暦間近な男が、たった一人で一軒家居るという図は、まさに暇人を絵にかいたようなものだろう。
熟年離婚と言う記事もよく目にするが、理由の第一位が「定年退職」で、離婚を突き付けられた側の感想の第一位は「まさか自分が?」らしい。まったくその通りだった。
ある日の昼休み、昼食明けに事務所へ戻ると、執務机に「谷田 大様 人事部進展」と言う封筒が届けられていた。
人事異動の時期でもないのに何の用かと訝しんで開けてみると、中には綺麗に折り畳まれたA4用紙が入っており、それを開くと「早期退職優遇制度についてのお知らせ」と言う表題が見え、暫く身動きが取れなかった。
本文には人事部長が面談を希望している旨が書かれており、都合の良い日時を社内で共有しているスケジュールシステムに入れて欲しいと言う指示が付け加えられていた。
私は指示を無視してその日は退社したが、翌日出社すると、どこかで監視しているのでは無いかと疑うほどのタイミングで内線電話が鳴った。出てみると、人事部長自らの連絡だったので、逃げることも隠れることも出来ず、面談の日時を決めた。
まんじりともせずに数日を過ごしていよいよ面談の日、席に着いた人事部長は、何の前置きもせず、「もしもこの話を受ける意思がない場合は、然るべき部署への異動があるかもしれません」と脅してきた。
私は営業で長年会社に貢献してきた自負があったし、次期本部長だの次期役員だのと言われたこともある。実際はその通りにはならず、ここ数年昇進も昇級も無かったのは無念ではある。
それでも私が営業から外れたら困るのは会社だと思い、余裕の笑顔を作って「もう一度よく考課表を見直して、役員の皆さんとも相談し直したほうが良いと思うよ」と言ってやった。
人事部長は困った顔で暫く考えていたが、深く息を吐きだしてから厳しい表情にさらに力を入れ、封筒の中から人事資料を出してテーブルに広げて見せた。
一つは私に対する部下の評価シートで、内容自由記入形式のアンケートで、「やり方が古い」「創造性に乏しい」「頭が固い」と言う意味の言葉がいろいろな言い回しで書かれていた。
特に憤りを覚えたのは「上の指示をそのまま伝えてくるような上司は不要」と言うもので、匿名でなければ即座に嫌がらせをしてやるところだったが、人事部長の厳しい目に晒されて、犯人を特定することを思いとどまった。
次の一つは取引先へのリファレンスシートで、これこそは高い評価が記されているはずだと期待して資料を開いたのだが、これにも私の心を砕く言葉が並んでいた。
「馴れ馴れしい」「押しが強すぎる」「話の内容が薄い」「ビジョンが見えない」「食事、マージャン、ゴルフとしょっちゅう誘われて迷惑」と悪口のオンパレードだ。おいおい、あんなに良くしてやっているのに、どこのぼんくらが言っているのかと思ったが、これも黙るしかなかった。
最後の一つは役員の評価シートだったが、もう見なくても分かるような気がしたので資料を開くことなく人事部長に押し返し、その場で早期退職制優遇度を利用することに決めた。
私が素直に従った理由の大半は復讐心だったと思う。
きっと会社も取引先も困ることになるに違いない。そうなった時に助けを求められても、私が助けてやるかどうかは、私のその時の気分次第だ。
だから雑に引き継ぎを終わらせ、私の担当営業部が壊滅的ダメージを受けることを期待して、さっさと有給休暇の消化期間に入ってやった。毎日問い合わせの電話が鳴りやまず、いずれは「やっぱり谷田さんが居なと困ります」と言って、役員から復職を希望されると思っていたのだが、私の期待などどこ吹く風で、退職日までの有給消化の二か月間、ただの一人も連絡してくることは無く、まるで私など初めからそこに存在しなかったかのように仕事が行われているようだった。
退職日もお決まりの花束どころか、皆が席を立って長年の功績を労う言葉をかけるというイベントすらも発生せず、日常通りに業務している部下たちの背中に、静かに頭を下げるしかできなかった。
あんなに面倒を見てやったのに、何がいけなかったのだろう。
妻の由美は結婚当初「共に白髪の生えるまで仲良く暮らしましょう」と恥ずかしそうに私の手を握りながら言っていたのに、退職を伝えるとあの可愛さの面影など微塵もない冷たい表情で即座に、「じゃあ離婚しましょう。弁護士から連絡してもらうので、以降は弁護士経由でお願いします」と言って、事前に準備でもしていたのではないかと疑うほどの短時間で荷物を纏めて玄関へ向かった。
玄関で引き留めてどこへ行くのか尋ねると、既に社会人になって独立している一人息子の良太の家で暫く世話になると言ったので、事前準備の疑念はさらに深まる。
そういえばいつ頃からか、由美は私の指先が彼女に触れただけでも恐ろしい形相で睨み、触れた個所を除菌シートで拭っていたし、洗濯物も私用の洗濯籠を買ってきて自分で洗って仕舞うようにルール化されたし、トイレは二階のトイレを使い掃除も自分でするように言われていたし、湯船に入ることは禁止されていたけれど、きっと出産でホルモンバランスが崩れてそのまま更年期障害が出て常に機嫌が悪いのだろう思ってきたが、違ったのだろうか。
この家は妻と子供だけではなく子孫が末永く仲良く暮らせるようにと、最も評価の高いハウスメーカーに依頼して建てた注文住宅で、内外装も私が拘りにこだわったものだ。
当然由美も喜んでくれるものと思っていたのだが、料理好きの由美の為にサプライズで外国から取り寄せたシステムキッチンが気に食わなかったのか、私の好みをふんだんに盛り込んだ豪華な家具や家電が気に食わなかったのか、理由は判然としないが、メーカーとの打ち合わせに参加する回数が徐々に減り、契約までの数回は一回も顔を出さなくなってしまった。
引き渡しの時は私の高揚とは裏腹に嬉しそうな顔を一度も見せず、メーカーの説明もどこか他人事で相槌すら打たなかった。それでもいずれは喜んでくれるだろうと、私は楽観的に考えて、その後その出来事を忘れてしまった。
当然ローンは私の収入に相応しくないほど高額になったが、その分私は昼夜を問わず仕事に邁進し、平日は取引先と食事やマージャンの接待、空いている日は上司と懇親を深めるために食事や麻雀、休日にはゴルフや麻雀で取引先や上司と親交を深め、たまの休みの日はゴルフの練習に取り組み、営業成績を伸ばす努力を怠らず、家族のために身を粉に働いていた。その努力は報われて同期入社の誰よりも早く出世し、昇給も多かった。
ローンの返済のために生活は切り詰めざるを得なかったが、そのお陰で繰り上げ返済を数回行い、50歳の手前で返済を終わらせることが出来た。徐々に貯蓄が増えてきて、これから二人で趣味でも作って楽しく暮らそうと思っていた矢先に、何故こうなるのか。
一人息子の良太に関しては、ローンの返済が終わってこの注文戸建住宅が名実ともに私の物になった時に、私が「この家はお前に相続させてやるからな」と言うと、つまらなそうな顔で「嬉しくないしこの家に住むつもりはありません」と返答して私を驚かせた。
私は良太が伸び伸びと育つようにと放任主義を貫いたので、良太が就職を期に家を出ると言った時も特に何も言わなかったのだが、彼にはそれが気に食わなかったのか、吐き出すように「あんたのやっていた事は放任主義と言う名を借りた無関心だよ。だから僕が居なくなってもあんたの生活には何の影響もないだろうし、この家もあんたの好きなようにすればいい。これからはお互い干渉せずに生きていこう」と私に毒づいた。
何と生意気な事を云うではないか。母親の育て方が悪かったに違いないので、思い出しては由美に苦情を言っていたが、今はもう苦情を言える相手がいない。
由美が出て行って数日後、弁護士から連絡があり、さらにその数日後、離婚について話し合いが行われた。
早期退職優遇制度で上乗せのあった退職金の半分を渡すと言えば、機嫌をなおして戻ってくるかと思ったが、弁護士を経由した由美の申し入れは財産分与に関する具体的な話し合いだった。それは土地家屋の評価額と家財、預貯金から株などの有価証券に至るまで、全ての評価額に基づいて半額分の金額を由美に渡し、国民年金も分割するというものだった。
私が働いて稼いだ金で土地を買い、そこに私の金で家を建て、私の金で買った家具や家電や装飾品や車に至るまで、評価額を割り出して半分にするとはどういうことなのだろう。
流石の私も憤って弁護士を睨みつけ、そんな道理があるかと怒鳴ったが、弁護士は「法律で決まっておりますので。お子様が既に社会人になられているので、他のケースに比べれば比較的負担は少ないほうかと」と涼しい顔で言いやがった。
出費が退職金の半分だけのであれば、由美が帰ってこなかったとしても自分一人の老後は安泰で優雅に過ごせるだろう、と算段していた私の目論見は見事に外れ、家も家財も売却しなければ財産分与が成立しないという窮地に追い込まれてしまった。
由美が何に腹を立てているのか分からないが、もしかして私を困らせて謝らせようとしているのではないかと思い、弁護士にそれとなく探りを入れてみたが「大分ご見当違いなようで」と鼻で笑われてしまう始末だった。
「ああそうですか。それならもう全部売り払ってやりますよ。後になってやり直したいって言ってきても、もう一緒に住む場所はないからな」と独り言ち、不動産屋、家具・家電買取り屋、中古車屋に連絡して売れるものから売ることにしたが、これもまた腹に据えかねることの連続だった。
不動産屋は見積もりのために二人連れでやってきて、写真を撮ったりスケールで測ったり、私が事前に提出した図面のコピーに何やら書き込んだりしながら家の内外を見ていたが、最後にリビングで待つ私のもとにやってきて、「ご希望の額を大きく下回りそうです」と渋い顔で言った。
私が驚いて理由を問うと、あくまで当社の基準ですが、と前置きして「大きく六つ御座います」と宣告した。
内心「は?!六つも?」と思ったが顔に出さないように努力しながら話の先を促した。
「先ずはシステムキッチンですが、海外メーカーの製品でかなり高い様です」と言う。
それはそうだろう、奮発して注文したのだから驚くほど高額になったさ、流石によくわかっているじゃないか、と鼻を膨らまして頷いて聞いていたが、話の先でこれは私の勘違いだと気付いて赤面することになった。
「標準の高さは85cmなのですが、こちらは95cmもございます。身長が180cmほどの人なら使い勝手は良いと思いますが、日本人女性の平均的な身長では大変使い難いと思います。このキッチンはご主人様が主に使ってらっしゃったのでしょうか」
違う。私は調理などしたことは無いし、食器や調理器具を洗ったこともない。
家を買うときに由美が何やら言っていたが、私は無視して自分の趣味を優先したのだ。
由美はこの家で初めて調理した翌日、踏み台を三つ買ってきて、ガスレンジ前、調理台前、シンク前に配置したのは、その所為だったのか。由美が居なくなった今は邪魔なので捨ててしまったが。
「それに設備も古いのでシステムキッチンは入れ替えたほうが良いと思います」
背の高い古風な人を探してこい!と怒鳴りつけたかったがぐっと堪えた。
「二つ目はリビングの吹き抜けと大きな窓です。開口部が南に向いているので採光は抜群だと思うのですが、その分空調の効きが宜しくないように思います。リビングと言う集いと憩いの場があまり快適ではないという懸念があると、買い手が付きにくくなる恐れがあります」
これも由美が何やら言っていたが、明るいリビングでの家族団らんを夢見ていた私は強引にこの造りにしたのだ。
空調は確かに効きにくい。続きで設えたダイニングも空調の効きが悪いので、エアコンを追加したが、気休め程度にしかならなかった。それが原因なのかリビングに家族が集う事は年に数えるほどで、ダイニングも食事が終われば即解散と言う有様だった。
「三つ目は床です。油分が切れてところどころささくれや捲れが生じ、かなり傷んでいます。年に一度はワックスでメンテナンスが必要なのですが、前回のお手入れはいつごろでしょうか。ここまで酷い状況ならば、恐らく全面張替えが必要になると思います」
前回のワックス掛けがいつだったか、恐らく引き渡し後の翌年が最後だと思う。この作業は男の私がやるべき仕事だと宣言して一回やったのだが、恐ろしく疲れたので翌年からずっとさぼってきたのだ。
一緒に住んでいたのだから由美や良太も自発的にメンテナンスすべきなのに、それを放置したのだから彼女たちも同罪だろう。いや、むしろ住まわせてやっていたのだから、あの二人が積極的にメンテナンスすべきだったのではなかろうか。
「四つ目はバスルームです。大人三人が入れるような広さで立派ですが、床全面と壁面の腰高までのタイル張りは、目地のいたるところにカビが目立ちます。洗浄しても落としきれないかもしれませんし、タイル張りは冬場に足が冷たい事と、洗剤で滑り易いと言う理由で最近は人気がございません。それに、あの広さですから冬場は浴室全体がかなり冷えると思いますし、天面や壁面の木材もカビと浮きでかなり見栄えが悪くなっていますので、作り変えを想定して費用を考えたほうが良いと思います。もしもあの造りを維持して修繕するとすれば、費用は抑えられるかもしれませんが、あの大きさの浴槽にお湯を張るための水道光熱費を考えると、買い手がつかない可能性があるとお考えいただいたほうが良いと思います」
これも私が拘ったのだ。自宅に居ながら温泉気分を味わいたいと思い、由美の意見を聞かずに作らせたのだが、残念ながら家族揃って風呂に入ることは一度もなかった。
「五つ目はエアコンです。二十年以上前のセントラルエアコンが付いています。エネルギー効率の点から、これは入れ替えが必要です。今のままでは買い手が付きません。更に言えばセントラルエアコンを嫌がる人もいるので、入れ替えたとしても評価は下がる可能性があります」
そうですか。それも私の拘りなのですけれどね。
家を建てるときハウスメーカーの営業は、家中どこに居ても快適な温度で暮らしたいと言う私の要望を聞きながら、にこやかに「素晴らしいお考えです」と言っていたではないか。何ならどんどん後押しをしてきたから予算を大幅に上回ってしまったのではないか。
「最後は立地です。駅までは徒歩30分と遠く、徒歩10分のバス停までは急な坂を上り下りする必要があります。また最寄りのコンビニまで徒歩15分、スーパーまでは徒歩20分と、車を所有しているか、足腰に自信のある若い人であれば良いと思いますが、老後の事を考えると土地の評価も高くはございません」
この土地だって、高台で気分が良いし、買った当初は小さいながらも商店があって不便じゃなかった。私は通勤で足腰を鍛えられてゴルフのスコアが上がり、由美は車を使わずに買い物へ行き、良太も学校通いで足腰を鍛えられたから、大病せずに生活できた。健康を手に入れられるリッチであることは証明済みなのだから、その点も土地の評価に加えるべきだと思う。
そう言えば厚生労働省が旗を振っている健康増進法は、国民が健康に生活をすることを推進して、国の保険料負担を下げようとしていると言われているが、ならばこんなに健康的になる土地に住んでいる住民は、税負担の軽減などの優遇があって然るべきではないかと思う。
不動産屋に散々貶されて途中からはそっぽを向いて話を聞いていたので、流石に気まずくなった不動産屋は「建物はしっかりしているので、リフォームするだけで建て替える必要はないと思います」とお慰みを言って、見事な作り笑いで帰っていった。
家具・家電の買取り屋にもさんざん馬鹿にしたような事を言われた。
家電は日進月歩だというのは分かる。だから日増しに買い取り額が下がるというのは理解できるが、家具は違うのではなかろうか。
それを流行りがどうの、アンティークの定義がどうのと、苦笑いをしながら「粗大ごみの回収費用を出すよりはましでしょう」と言って見せてきた電卓に表示されていた数字は、近年の大学新卒の新入社員の初任給と大差なかった。
ダイニングセットも、リビングセットも、キングサイズのベッド(由美と一緒に寝たことは無いが)も、その他調度品も、どれもこれも買った当時は最高級とは言わずとも高級で高価なものだったにもかかわらず、ここまで値が下がるとは世の中はどうなっているのだろう。
家具屋の店員は「長年使っても飽きがこないデザインで、素晴らしいお見立てです。更に将来的な価値を考えますとこういうものもご検討されてはいかがでしょうか」と言って私を煽てながら、値段の高いものを紹介してきたではないか。それがどうしてこういう結果になるのか、全く納得がいかない。
中古車の買い取りも似たり寄ったりだった。
「こちらのお車はあまり市場の人気が高いとは言えませんので」と言って廃車に掛かる費用よりはましな程度の見積額を提示してきた。
この車だけは由美にも責任がある。
私は当時最大手の自動車メーカーが販売していたスポーツクーペに憧れ、何回もディーラーに足を運んだのだが、由美はこんな高価な車を運転する自信がないと言って難色を示した。住宅ローンの事もあるし、なるほどそうかと思ったのだが、丁度その人気車に対抗すべく二番手メーカーが売り出した、似たようなスポーツクーペが多少安かったので、由美に喜んでもらおうと思って内緒で注文して、納車の日を楽しみに待っていた。
納車の日、由美は天を仰いで深いため息を吐いたきり、何も言わなかった。
注文住宅の打ち合わせ以来、めっきり口数が少なくなった彼女は、これを期に一段と無口になったように思う。
翌年良太が生まれたが、全く車を使おうとしない由美に、ある日理由を尋ねると「ツードアのスポーツクーペは車高が低くノーズの長いので運転し難く、子供の乗り降りが不便」と言われた。それなら最初の段階ではっきりとそう言うべきだったと思う。
由美と良太は一度もこの車に乗ったことは無いし、私も週末のゴルフに使う以外は殆ど使わなかった。
そんなこんなで多方面とやり取りをしていたので、離婚に向けた協議は遅々として進まなかった。
有価証券の評価額も考慮すれば、退職金を含めた預貯金の多くが由美に行くことは必定なので、直ぐに売却できそうな資産の評価を進めたのだが、売ったとしても大した額にならない事がわかった。それならばいっそのこと何も売らずに有価証券を現金化し、ここでの生活を継続させたほうが良いかとも思ったが、嫁に逃げられたと哀れな男とご近所から嘲りを受けるのは我慢できないので、当初の計画通りすべて売却する方向で話を進めた。
問題は今後の私の住まいだ。私は大学入学を期に両親のもとを離れ、以来疎遠であること久しく、就職、結婚、引越し、出産に至るまで、すべて手紙で事後報告をするだけの関係になっていたので、今更実家に入れてくれと言っても、到底受け入れて貰えるとは思えない。
そうなると新たに住まいを購入するか賃貸契約するかだが、有価証券を現金化したとしても、購入することは現実的とは思えない。つまり一人優雅な老後は夢のまた夢、寧ろ爪に火を点す様な老後の生活になる事が明らかになったわけであり、ここからの選択肢は間違えられないと言う緊張感が生まれた。
そこで、有価証券の売却を最終手段と考え、再就職の活動を開始した。
就職が出来れば、その職場の近くにマンションの一室を借りればよいし、収入次第では購入しても良いと考え、就職活動に力を注いだのだが、次の誕生日で59歳になる男の再就職は茨の道だった。
前職の収入を基準に職探しをしたのだが、募集要項の多くに「英会話必須」「Word、Excel、PowerPointが自在に操れること」「マーケティング経験があること」「新規事業の創出から構築まで経験があること」と言う条件が多く、応募すら出来なかった。
日本の企業で働く日本人であり、取引相手も日本人であるならば、英会話など必要ない、それよりも正しい日本語を身に着けるべきだ、というのが私の信念だ。その信念の影響か、若い頃から異国後で話しかけられると思考が停止して、その間の記憶がなくなってしまうし、カラオケの歌詞にカタカナにした英語が表示されても、声が出なくなるほど英語は苦手なのだ。
パソコンに関しては全て部下に任せていた。部下へ私の意思を浸透させる目的で、私の考えをじっくり聞かせてから資料を作成させ、間違いがあれば直ぐに訂正させる。たまに「ご自身でお作り頂いたほうが、間違いも手間も少ないと思うのですが」と言う部下がいたが、そういう奴に限って私の言っていることがちゃんと理解できずに、二度三度と訂正する羽目になっていたので、当然評価はガッツリと下げてやった。
そういえば一人だけ「毎回言っている事が違う」と食って掛って来た部下もいたが、そいつは地方へ飛んでもらった。
マーケティングも新規事業もやったことは無いし、そんなものは頭でっかちの学者気取りがパソコンを使って資料をこね回して、あれやこれや机上の空論を戦わせるものであって、営業の最前線がそんなことをやっている暇などない。
何年か前に本部長から市場についてちゃんと分析しているのか、と聞かれたのでので「営業の最前線にそんな暇は有りません」と言ってやったら、本部長は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。少しは現場の苦労を分かって欲しいものだ。
新規ビジネスの創出をやたらと進言する部下がいたけれど、営業で忙しい筈なのに何を言っているのかと思い、あいつは管理部門に移動させてやった。そこであればゆっくり新規ビジネスを考えられるであろうという、いわば親心だった。
ここまで来てハタと気が付いた。これって家屋や土地、家具や車と同じ状況なのではないかと。
価値が上がる家屋や土地は住みやすくメンテナンス性が高くて頑丈な家、価値が上がる家具は職人が丹精に作り上げ何世紀にもわたって愛されるようなアンティーク、価値が上がる車は時を超えても普遍的な人気を誇るデザインと性能。
私は自分の能力をメンテナンスしてアップデートしたことは無いし、手に職があるいぶし銀の職人でもなく、技を身に着けようと思ったことも無い。
つまり現代社会に適応できる人間性を持ち合わせていないと言う事なのかもしれない。
「職安」と言う暗鬱とした通称を払拭して、「ハローワーク」と言う明るい通称に塗り替えようと努力を続ける「公共職業安定所」には、老若男女が絶えず出入りしている。
明るい看板をくぐって中に入ると、どういう仕組みか、途端に雰囲気が暗くなり、無職は悪い事だと言われているように感じてしまう。
そうやって厳しい現実に打ちひしがれながら、何とか前へと進もうと藻掻いていたある日、鞭を打つように弁護士から財産分与の督促の電話が入った。
もうやけくそだった。就職先が決まらないにもかかわらず、見切り発車で売れるものは家屋から有価証券に至るまで、すべて売却の手続きに入り、現金化で来た際に都度半額を由美へ送るという誓約書を結んで離婚が成立した。
2.
会社をリストラされてから1年が経った。
家を手放したのち、仕事がいつ決まっても身動きがとりやすいようにと、マンスリーアパートに住んでもう半年が経つ。
新居選びの当初は、以前の住まいの近くに手頃な物件を探そうと思い、家の売却を仲介してくれた不動産屋に相談したが、「本当にお近くでよろしいのですか」と言われて考え直した。確かに駅や買い物先でご近所の人に会って、気まずい思いをするのは避けたい。
不動産屋の手引きで改めて住まい選びを始めたのだが、譲れない条件は駅に近く買い物の便が良い事だった。
車を売ってしまうと、かの住まいの不便さが身にしみてわかったからだ。買い物、銀行、病院、役所、どこへ行くにもとても不便だった。由美も良太も車を使わずよく平気でいられたものだと、その点には強く感心した。
同時に土地の買取り価格が私の想像をはるかに下回った理由にも納得がいった。散々不動産屋に文句を付けた当人が、駅の近くで買い物の便が良い場所を探しているのだから、あの評価額は当然と言えよう。
駅は以前の最寄り駅から20分以上都心に近い場所を選んだ。その駅の周辺は食事も買い物も店を選ぶのに手間取るほどたくさんあり、銀行は二つのメガバンクが支店を構えており、病院も多く役所も近いという好立地だった。
当然駅に近い場所にある賃貸住宅の家賃は想定よりも高く、家賃を抑えようとすると、専有面積が狭く築年数も長くなるか、駅から遠ざかる物件しかない。しかし、いずれ働くことを考えれば妥協はせず予算を上回っても良いと判断し、駅徒歩7分、南向きの築浅物件の木造二階建てアパートの一階に決めて契約した。
これがいけなかった。
木造の薄っぺらな構造は防音性能など完全に無視しており、両隣のテレビの音、電話の話声や鼾に歯ぎしり、果ては二階から降ってくる屁の音まで、あらゆる生活環境に悩まされる結果となった。
加えてエアコンの効きが恐ろしく悪い。暑さを凌いで漸く涼しくなってきたと思ったら朝夕の室内の冷え込みが、「ここは屋外か?」と思うほどに寒いのだ。
冬の間は厚着をして、日中はホットカーペットの上で過ごし、就寝時は電気毛布にくるまって凌いだが、これから始まる暑い時期を想像すると、それだけで気分が滅入ってしまう。
寝不足の影響もあってか、就職活動は全く上手くいかない。面接にさえ辿り着けないのだ。
元の会社の連中にも、その取引先にも頼るつもりは毛頭なく、ハローワークが頼みの綱なのだが、窓口の担当者からは「条件を見直したほうが良い」と言われるだけで、私に相応しい仕事を探してきては貰えない。
就職活動を始めた当初、スマートフォン一つでは心もとないと思い、ノートパソコンを買ってみたが、電源は一度きりしか入れていない。
家電量販店で購入時に「セットアップはどうしますか」と聞かれたが、パソコンに不慣れな年寄りだと見下されているように感じ、「自分で出来る」と見栄を張ってしまったのが良くなかった。会社に勤めていた頃は、分からないことは部下に全部丸投げしていたので、自分では何一つできないのだ。
これはスマホも同じで、いつも由美に頼りきりだった。だから自宅ではWi-Fiに繋がっていたことすら知らず、引っ越し先に用意されていたWi-Fiへ接続する設定をする必要があると言う事すら知らなかった。結果、馬鹿高い通信料金が発生して、漸くWi-Fiの存在を知るという有様だった。
そのスマホも、電話とメッセージアプリとWEBサイトの閲覧以外に使ったことが無い私にとって、テレビコマーシャルなどで目にする転職サイトのアプリケーションを探すこともできず、当然ダウンロードすることも叶わないので、やはりハローワークに頼るしかない。
そんな日常のストレスを解消するために、毎週のようにスーツを着込んでなじみの店へ繰り出し、気分が良くなると接待でよく使っていた銀座や六本木の店を訪れて女の子をからかう。気が付けば預金残高は離婚成立後から大幅に減ってしまっていた。
もう誰にも何にも期待できないと思っていたし、最も期待できないのは自分自身だと薄々わかってきたころ、郵便ポストに溜まったチラシを捨てようとして、ふと手が止まった。
数台のキャンピングカー印刷された広告に目が奪われ、瞬間的に幼い頃の記憶が蘇ったのだ。あれは確か小学校へ上がる前、5歳か6歳の頃だったと思う。父がどこかからキャンピングカーを借りてきて、短い旅をしたのだ。母がそこにいたかは定かではないが、私にとってそれは唯一と言って良いほどの楽しい思い出だった。
この広告は何かのお導きかもしれないと思った。
再就職は期待できない、住環境は最悪で心身ともに疲弊しきっている。それならいっそ社会とのしがらみを捨て、自由に日本中を旅して自然の中で健康に生きろ。そう言うお告げの様に思ったのだ。
早速広告記載された連絡先に電話をかけ、応対した女性に打合せ日時を相談する。最も早い二日後の午前11時にアポイントを決め、その日を境にハローワーク通いを打ち切って、キャンピングカー生活をあれやこれや想像する夢の世界に逃避することになった。
広告の店は、栄えているとは言い難い駅から徒歩15分ほどの幹線道路沿いにある中古車販売店だった。広い敷地に大小さまざまな車が彩り豊かに並んでおり、その一角にキャンピングカーが置かれていた。
プレハブ建ての事務所のドアをノックして入店すると、まだ二十代と思しき健康的な笑顔の女性が応対してくれた。奥の事務机には私と同年代と見える女性がパソコンに向かっており、この二人以外に女性の姿が無い事から、一昨日の電話はあの年配の女性だろうと想像できた。
案内してくれた女性はとても明るくはきはきと喋るので、私も二十代に戻ったような錯覚を覚え、普段なら聞かれても言わないような、私の今の事情まで詳しく話してしまった。
私の現状を聞き終わると、女性は大きな目を更に見開き真剣な表情で「キャンピングカーで素敵な第二の人生を歩めるよう応援します」と力強く言ってくれた。
女性の名札には「草野ひなた」と書いてあり、名は体を表すとは斯くやあらんと思われた。
聞けばこの会社は彼女の父親が経営しており、奥に座っている事務員が母親で、彼女も従業員として働いていると言うが、姿の見えないその父親は、腰を痛めて今の時間は治療に出ているという。
「私はまだ働き始めて日が浅いので、本当は父と話をして貰ったほうがいろいろと詳しく説明できるのですが」と恐縮しながらも、使用目的や使用頻度などを丁寧にヒヤリングしてくれ、車のタイプやメリットやデメリットを詳しく説明してくれた。
そして車上生活を考えている人への注意事項として、住所が無いと諸々都合が悪いので安直に現在の住まいの契約を解除しないようにと教えられた。
私はまさに住まいを解約しようと考えていたので、盲点を突かれて動揺した。
ひなた曰く、住所が無いと税金や健康保険、運転免許証、マイナンバーカードなど、いろいろな情報に齟齬が生じてしまうので、今の住まいを引き払うのであれば、その先も必ず連絡が取れる場所に住民票を移動させなければならず、それを怠ると罰則があるというのだ。
それならば勝手に母親の現住所へ移動させようかと思ったのだが、既存居住者の同意を得ていない場合、悪質なケースとして刑事罰を科される可能性があると教えられ酷く悩んだ。
私は子供の頃に問題行動が多かった。時折衝動を抑えることが出来ず奇声を上げたり、物を壊したり校舎に落書きしたりした。奇行と言っても良いだろう。
問題を起こすたびに母が学校に呼び出され、担任教師から私の悪行を神妙な顔で聞いては頭を下げていたが、私の奇行は小学生の間は治まることがなく続いた。
特に問題になったのは、図画工作スプレー事件だろう。小学生の高学年になった頃の夏休み明けで、「夏休みの思い出」と題した工作や絵を教室の後ろに並べたり貼ったりしていた時期に、私は工作室からくすねてきたスプレーで作品一つずつ奇麗に塗りつぶしたのだ。この事件はいつも以上に騒ぎになって、担任教師からの叱責にとどまらず、PTAにも呼び出されて謝罪をさせられた。
だから当然のごとく友達は出来なかった。そして漸くこれではまずいと漸く悟った私は、中学校に入ると衝動を抑える術を身に着け、まじめに勉強をするようになった。
面白かったのは中学二年生の夏休みが明けた頃、一部の男女の制服が奇抜になり、行動も奇行が多くなったことだ。それらの行動は私が小学生以来やってきたものと大差なく、私の感覚では、彼らが退化したように見えたのだ。
彼らと私の唯一の違いは暴力だ。
私は人や生き物に暴力を振るうと言う事を、悍ましいと思うところがある。それは小学校に上がるか上がらないかの頃に、父から受けた教育が強く作用しているように思う。父は暴力の恐ろしさと、それによってもたらされる悲劇について、酷く熱心に私に言い聞かせたからだろう。。
いずれにせよ、外面はすっかり落ち着いた私は、その後の学生生活を大過なく過ごした。
しかしながら、内面には相変わらず凶器を宿しており、その後も家庭内では無遠慮に問題行動を続けていた。
但し、法に触れる様な罪とは無縁で、せいぜいカーテンを破ったりシーツを破ったりする程度で、家族以外の他人に迷惑をかけることは一切無かった。
両親が一度真剣に私に精神鑑定を受けることを進めてきたが、黙って工具箱から鋸を持ち出してダイニングチェアの背もたれを切り落としたら、二人ともそれ以上何も言わなくなった。
大学に合格すると、父は仕送りをするから学校の近くに住めと言い、私を強引に不動産屋へ連れていき、早々に賃貸マンションを契約した。両親にとってみれば厄介払いのつもりだったであろうが、これは私にとっても渡りに船だった。
元来が私は綺麗好きで、インテリアにも興味があったので、自室は自ら入念に掃除し、何かにつけ父親にねだって家具を新調してきた。それが親の金で新しく奇麗なマンションの一室が契約され、家具や家電も私の好みにあわせて購入されたのだから、喜びはひとしおだった。
かなりの出費だった筈だが、両親は一切文句を言わず気前よく支払ってくれた。
今思えば、私が気に入った空間であれば、私がそこから離れることは無く、必然的に実家にも寄り付かなくなるであろうことを両親は期待したのかも知れない。果たして私は盆暮れ正月も実家に帰ることは無かった。
それから40年以上が経過するが、就職も結婚も出産も全て電話で報告するだけで済ませたので、以来一度も両親の顔を見ずに過ごし、由美も両親の顔を知らない。
異常だと言われることもあるが、両親から家に来ないで欲しい、祝い金は出すが会いたくはない、と言われているのだから仕方が無かろう。
父が亡くなった時も納骨が終わってから母が手紙で知らせてきたが、送り主の住所は私に馴染みの無いものだったし、墓の場所についても書かれていなかったので、仏前にも墓にも一度も参ったことがない。そもそも墓参りなど幼少の頃の僅かな記憶しかない。あれは誰の墓だったのか。
その馴染みのない住所に関しては、父が生前に手紙で引っ越したことを知らせてきたものと同じで、父からのその手紙を私は気にも留めずに放置していたのだが、由美がそれを見咎め、何かあった時のためにと、私のスマホに入っているアドレス帳の住所を変更したので、それが今も残っている。
その住所を勝手に使おうとしていたのだが、前科が付くと聞いては考え直さざるを得ない。由美の新住所は知らないが、良太の住所は知っていたので、協力を仰ぐことを考えてはみたが、母に頼るよりもハードルが高いように思い、何十年かぶりに母へ電話をしようと決めた。
ひなたの説明を聞きながら実際の車を見て回るうちに、治療を終えたひなたの父親が戻ってきたので、更に詳しく話を聞かせて貰えた。
曰く、車上生活にしたからと言って、水道光熱費がタダになるわけではないので、しっかりとした資金計画が必要だし、所詮は車なので睡眠中も揺れて不快感を覚えたり疲労を訴えたりする人がいるので車両選びは慎重に行う必要があり、設備は用途をよく考慮して費用との兼ね合いで決めないと後で後悔する子になる、と言う事だった。
この日は車両サイズと種別ごとに資料を抜粋して貰う事にしたが、草野ひなこが「うちの店のホームページやキャンピングカーのビルダーさんのホームページも参考にされたほうが良いと思うので、サイトのアドレスをスマホのメッセージアプリに送っておきますね」と言ってくれたが、素直にスマホとパソコンの使い方が今一つよく分からないと自白すると、馬鹿にする素振りも見せずに「キャンピングカーの旅を楽しむなら、デジタルツールを仕えたほうが何かと便利なので、もし宜しければ次回ご来店の際にパソコンをお持ちいただければ簡単な操作をレクチャーしますし、スマホに関しては今簡単にお教えしますね」と言って私の隣の椅子に座りなおして、スマホの画面を一緒にみながらいろいろ手解きをしてくれた。
最後に「もし分からない事があったらいつでもメッセージでご連絡ください。出来るだけ早く回答するようにするので」と言って、名刺に個人の連絡先を書いて渡してくれた。
アパートに帰ってから母に電話をしようと思い、最寄り駅から歩いている途中で考えを改めて再び駅までの道を辿って、駅の近くにあるカラオケボックスへ入った。隣人の電話での会話が聞こえると言う事は、私の会話も筒抜けになる事に思いが至ったのだ。
まだ夕方だったがビールとつまみを頼んで、それらが届くのを待ってからスマホのアドレス帳を開き「谷田 翠」を探し、一度深呼吸をしてから通話ボタンを押した。呼び出し音を8回数え終わると、音声案内がメッセージを録音するように促してくる。
何年も連絡をしていなかったのに、留守番電話で用件だけ伝えるのは如何なものかと思い通話を終えると、その直後にメッセージの着信を知らせる通知音が鳴った。送信者は「谷田 翠」。母である。
「お久しぶりです。お元気でしょうか。暫く電話に出られないので、要件はメッセージで送ってもらえると助かります」
文面からは相変わらず拒絶の意思が伝わってくる。
とは言え私自身も電話で話すよりはメッセージで済ませたほうが気楽ではあるので、簡潔に現状(リストラされて離婚して安普請のアパート暮らしをしている)を伝え、車上生活をするので住民票だけ母の住まいへ移したいと書き込んで返信した。
どうせ気乗りのしない返信が来るのだろうと思っていたが、案に反して「住民票は移すが同居はしないという理解であっていれば、別に構いません」と言う事だったので、感謝を伝えて進捗については改めて報告するとした。
翌週改めて中古車販売店を訪れた際は、ノートパソコンを携えていた。
前回の訪問後、草野ひなたには何回かスマホの使い方を教えて貰い、スマホでいろいろな事を調べる知識は習得できていた。そのうえで、こんなにも便利なものを何故今まで使いこなそうとしなかったのか、自分に呆れる思いがしたし、同時に、パソコンを使えるようになったらどれだけ世界が広がるのか楽しみに胸を躍らせた。
だから今日は私のパソコンを使えるようにして貰い、そのパソコンを使って車の事を教えて貰うという趣向にして貰っていた。
パソコンの初期設定は画面の指示に従って進めるだけだったが、仕事中のひなたに聞きながらの作業だったので意外に時間がかかり、11時から始めた作業が終わったのは13時30分だった。
途中でひなたが昼食の弁当を用意してくれて、「食事が終わったら、パソコンの設定はわたしが変わるので、父と展示車両を見ながら話を進め来ては如何ですか」と声を掛けてくれたが、少しでも操作に慣れておきたかったので、お手間でもお付き合いくださいとお願いして、最後まで作業を続けた。
結局本題のキャンピングカーの話に移ったのは訪問から2時間半も経っていたが、私のパソコンに資料をダウンロードして貰ったり、各社のホームページのURLを登録して貰ったりしたので、車選びが一層楽しいものになった。
キャンピングカーにはさまざまな種類があるが、ベース車両は大別してバス、トラック、バンの三種類で、それらの市販車を改造(変換/コンバージョン)して居住空間を作る仕組みだ。
私はスマホと前回貰った資料を頼りに、車両はバンにすることを考えていたが、いま改めてひなたの説明を聞きながら車を見ていると、トラックベースも捨てがたいものに思えてきた。
バンベースのキャンピングカーの事をバンコン(バン・コンバージョン)と言い、車両サイズが市販車と同じものが多く、機械式駐車場に停められるものもあるので、乗用車として使いやすいと説明されていたので、その利便性に惹かれていたのだが、一年中車で生活することを考えると、車内を立って移動できるトラックベースのキャブコン(トラックの運転席部分=キャブを残して荷台部分をコンバージョンしたもの)の方が良い様にも思えて、なかなか決められずにいた。
更にこれまで教わった中で注意すべき点は、キャブコンはバンコンに比べて車高が高い分、橋梁などの高さ制限のある場所では通行できない場合がある事と、高速走行時の安定性は犠牲になってしまうと言う事だったので、一層悩みは深まった。
最初の訪問時に言われたことだが、使用目的や使用頻度は車選びの重要な要素だと言う事をこの段階で思い知しり、別の想いが去来して胸が小さく傷んだ。三人家族が日常使いする車は2ドアクーペでは不便なのだ。
ひなたのおすすめもバンコンかキャブコンだったが、ベース車両をこの場で決めることが難しいと判断し、設備の話に移った。
私の希望は、太陽光発電パネル、蓄電池、エアコン、床暖房、冷蔵庫、IHキッチン、シンク、電子レンジ、シャワー、トイレ、洗濯機と満載だったが、これを全て叶えるなら、それなりに大きなキャブコンかバスコン(バスをベースにしたバス・コンバージョン)になると言われ、更に迷うところとなった。
「日帰り温泉や銭湯などが近くにあるオートキャンプ場を利用されれば、シャワーは必要なく、一人旅であればトイレは緊急用の簡易トイレを使えば、その二つのスペースが要らなくなりますが、何もない山中などでの連泊をお考えでしょうか」とひなたから聞かれ、なるほどそういうものかと思ったのは、スマホでキャンピングカーの事を調べていた際に「要らなかった設備」と言うページを見つけ、その代表設備がシャワーとトイレだったからだ。
私は車を家として使うので、家にある設備は全部車にも詰め込まなければと思っていたが、そもそも車なので、必要な時に必要な場所へ移動すればよいのだと言う事に、漸く気付かされた。その考えを拡張すれば、コンビニエンスストアやスーパーを冷蔵庫代わりに使い、出来合いの物を買ってその店で温めてくれば、キッチンも電子レンジも要らない。洗濯物も食料を買いに行く合間にコインランドリーを利用すればよいではないか。極論、車の中は快適に眠れるだけの空間にすればよいと言う事だ。以前読んだミニマリストのコラムに、これに似た考え方が書いてあったように思う。
「キャンピングカーの一番の弱点は水と言う人が多いです。電気は走れば発電しますし蓄電池に充電もしてくれます。更に屋根に太陽光発電システムを積めば発電量が増えますから、電気の面は問題ありません。それにオール電化にすればガスも要りませんが、水は生み出すことも、全く使わないと言う事も出来ません。ガソリンと同じように補給が必要なうえに、ガソリンと違って排水処理が必要になります。ご想像できると思いますが、使った水はどこで捨てても良いというものではありません。一番常識的なのは自宅で捨てる事ですが、谷田様の計画ではこれは最大の難点と言って良いと思います。ですから、使う水の量は最小限にして、排水量を減らすことを考えたほうが良いと思います。最近ではオートキャンパーを受け入れる道の駅やサービスエリアも少しずつ増えていますし、風呂やトイレを24時間開放したり、コインランドリーが使えたりする施設もあるようなので、計画的にそういう場所を使うようにされてはいかがでしょうか」ともいわれ、シャワー、トイレと洗濯機は設備から外すことを決心した。
そうしてみると選択肢はかなり広がった。軽自動車のバンコンでもポップアップルーフの物は、居住空間を立って移動できるものがあり、軽キャブコンはその上に設備が充実している。更にサイズアップしたバンコンやキャブコンは写真で見るだけでも快適な居住空間であることがわかる。
イメージが膨らんだところで、改めて展示車両を見せて貰ったが、写真ではホテルの一室の様な高級感を感じていた内装が、実際は殆どがFRPに木目調のシールを貼って仕上げてあり、質感の安っぽさに鼻白んでしまう結果となった。これを本物の木にすることは出来るのか聞くと、殆どのキャンピングカーは注文生産だし、ビルダーに持ち込めば作り変えは可能だと言われたが、その代わり本当の木材を使う場合は、重量が増えるので重量制限と走行安定性を慎重に考慮して使う個所を選ぶ必要があると教えられた。
これも家を建てたときの記憶が蘇り、再び心が痛むことになった。見た目と使い勝手は慎重に考える必要があるのだ。
この日は夕方遅くまでひなたが車選びに付き合ってくれたおかげで、積載量1tのバンをベースにしたキャンピングカーを選択することが出来た。後はひなたが私の希望の設備が搭載されている中古車両や、製造可能なビルダーを探してくれることになり、この日は帰宅して、PCでキャンピングカーの情報サイトを見ながら晩酌をした。
一方のひなたは、その後も血眼になって車を探してくれたらしい。三日後に興奮した様子のひなたから電話があり、ご希望に叶う即納可能な車が見つかったと言われ、年甲斐もなく小躍りした。
聞けばビルダーに注文していたオーナーが、妻から離婚を切り出されて注文をキャンセルしてきた曰く付きの車らしい。片や私は妻から離婚を切り出されてキャンピングカーを買おうとするのだから、そんな曰くなど屁でもない。世の中の廻り合わせとは面白いものだ。
3.
キャンピングカー生活を始めて1年が過ぎた。
車両を引き取る際、車庫証明を取った母の住まいの敷地内へ車を運ぶことは、約束上できなかったので、納車後もアパートを引き払うまでは草野ひなたの店に預け、毎日の様に車に会いに行っては使い方を試したり、キャンピングカー生活に欠かせない道具や便利グッズを聞いて買いに行きがてら運転に慣れたりしていた。そしてキャンピングカー生活を始められたのは初夏に入ってからだった。
母の自宅に届く私宛ての書類は都度連絡をくれるので、インターネットで出来る手続きは自分で行い、役所や銀行へ書類持参で行かなければならない場合は母にお願いして、費用が掛かる場合は母の口座へ送金した。
預金残高は減る一方だったが、精神の高揚は日増しに増えているように感じる。それは居住空間の快適性と、旅の充実感が影響しているからに違いない。
車内泊の難点として挙げられる代表が音と揺れだと言われているが、車選びの段階でひなたがそれらを出来る範囲で解決できる車両を探してくれていたのだ。
この車は開口部以外に断熱材をふんだんに使ってあり、居住空間の開口部は二重窓にするなど、高い気密性を確保してあることから空調の効きが良いことに加え、防音性能にも優れている。車内でテレビの音を大きくしても殆ど車外に音漏れしないし、逆に車外の音が車内の居住空間に伝わることもほとんどない。
揺れに関しては車なのである程度仕方がないと思うが、強風の日はあまり気分の良いものではないと聞く。そこで揺れを抑えるための方法として、足回りを固くするという方法とジャッキアップをする方法があると言うが、足回りは硬くし過ぎると走行時に跳ね上がるような衝撃を感じるので、ジャッキアップをしたほうが良いとひなたは言う。私がそれを受け入れると、ひなたは整備士でもある父親に頼んで、操作が簡単な可変式のスタビライザージャッキをつけてくれたうえ、サービスに水準器をくれた。
ひなたのこれらの気遣いによって、あの安普請のアパートよりも遥かに快適な居住空間が手に入ったのだから、気分が高揚するのは当然といえる。
充実感に関してはひなたの手引きでノートパソコンがある程度使えるようになったことも手伝っている。その指導方法はSNSを活用することで、スマホで写真や動画を撮影して、サーバーに上げたそれらのコンテンツをPCで編集して文章を打ち込む、そして出来上がったものをSNSに投稿すると言うものだが、これが本当に楽しく、日課が出来たことが生活の張りにもつながった。
私の稚拙な写真撮影技術と表現力に乏しい文章では、楽しみにしてくれる人は少ないが、ひなたが毎回コメントをくれることが小さな喜びでもあったし、どこでどうやって見つけたのか、元妻の由美と息子の良太がいつの間にかフォローしてくれていることも、継続することの励みになった。
ただ、快適で楽しい事ばかりではなく、自分の無力さに呆れることもあった。
それは調理だ。これを蔑ろにして車上生活をすると、エネルギー問題に発展すると言う事を思い知ったのだ。調理に関してはひとり身になってから目を逸らし続けていた事なのだが、キャンピングカー生活を始めてからは喫緊の課題として、目を逸らすことが出来なくなった。
キャンピングカー生活を始めたほんの初期は、街中や海辺や川辺のオートキャンプ場を利用して、近くのスーパーマーケットやコンビニエンスストアで出来合いの物を調達してきて食べていたのだが、既にエアコンを使わずに寝ることが難しい時期だったこともあり、バッテリーの減りが激しく、充電目的で車を走らせる日々を送り、軽油の消費が著しく上がってしまったのだ。
そこで徐々に北へ移動し、高原のオートキャンプ場で過ごすことに決めたのだが、そうなると毎食分出来合いの物を調達するのが難しく、いよいよ自炊の必要性が生じてきた。
折角キッチン付きの車を選んだのに、買ってきた調理器具や調味料を使わなかったのは、億劫だったと言う事もあるが、一度作った料理が恐ろしく不味かったからでもある。旨くはなくとも不味いものを作らないというのが、こんなにも難しいとは知らなかった。
私は生まれてこの方、出てきた料理に文句を言った事は有るが、感謝したことがなかった。母も妻も、毎日の様に私に食事を提供してくれていたが、それが如何に尊い事だったか思い知ることになった。
自炊を始めて更に気が付いたのだが、私は整理整頓や掃除も下手なようだ。
買ってきた食材の収納、調理前後の調味料の出し入れ、使った調理器具の洗浄から収納、料理の配膳、シンク周りや食事用テーブルの掃除など、これは恐らく効率の良い段取りが出来るかと言う問題だと思うのだが、本来経験と共に培われるべきそのスキルは、いつまでたっても私に備わらなかった。
それでも諦めずに自炊を続けているのは、いつか誰かのために不味くはない料理を作って食べさせたいと言う欲望が芽生えたからだと思う。
諦めずに自炊をしていると、自然は最高のスパイスだと言う言葉がなんとなく理解できるようになった。青空や星空の下で摂る食事は少しだけおいしく感じる。たとえそれが雨や風でも、車窓からの景色や音が特別な味わいを与えてくれるのだから不思議だ。
そうやって天候の良い日はサイドオーニングだして、景色や夜景に目をやりながら食事をするのが楽しみになった頃、今度は英会話ができない事を悔やみ始めた。
オートキャンプ場ではお互い干渉しないという不文律が日本人にはあり、何か困ったことがあれば助け合う程度の付き合いになりがちだが、たまに外国人キャンパーが居ると、彼らはとてもフレンドリーに話しかけてくるのだ。私も何回か話しかけられたが、私が英語を解せないとわかると残念そうに顔を顰めて他の日本人に話しかけに行き、その日本人が英語を話すと途端に意気投合して和気あいあいと酒盛りを始める。私はそれが残念で悔しくて車に引き籠るしかできないのだ。
会社勤めの時に英会話など必要ないと思って、世の中がすでに国際社会になっていることを知りつつ、苦手な英会話の勉強から目を背け続けた。
英会話が出来れば世界が広がるというのに、私は自らその可能性に蓋をしてしまっていたことが悔やまれてならない。
恥を忍んでひなたに相談すると、スマホの翻訳アプリと英会話学習アプリを教えてくれたので、早速勉強を始めた。加えて日頃からAMラジオのFENを聴くようにしている。耳を英語にならすのに良いと学生時代の先輩が言っていたことを思い出したからだ。
お陰で今はラジオの会話に英語でツッコミが出来るほど上達しているのだが、実践の機会には恵まれていない、というか矢張り恥ずかしくて話しかけることは出来ず、話しかけられ待ちが続いている。
去年の夏の終わりに差し掛かる頃は怖い思いもした。
その時期は東北地方の山間の施設を利用していたので野生動物と遭遇する機会が多く、遭遇頻度の一位は猿で次いでニホンカモシカだったが、恐怖度の一位は熊だ。
夜間に外で大きな音がしたので、窓のシェードを開けて外を見たところ、近くのキャンパーが放置していた薪グリルを熊が襲っていたのだ。
薪グリルの持ち主と思われるキャンパーも、キャンピングカーの窓から顔を覗かせ恐怖に顔を歪めて、私に気が付くと思い切り頭を下げていた。
熊の居住区にお邪魔している身としては、一晩だけとは思わず出来る限り環境に配慮して、使い終わったものは直ぐに片付けるべきだと、自分への戒めとして強く心に刻むことになった出来事だった。
旅行費用を抑えるため、フェリーを使わなければ行けない北海道への上陸は諦め、東北地方の紅葉が始まる頃、青森県を離れ紅葉を追うように日本海側をゆっくり南下し始めた。
涼しくなると空気が澄んで景色が鮮やかになり、ドライブもキャンプもより一層楽しくなった。特にキャンプ地で過ごす時間は格別だった。
紅葉しかけの木漏れ日のもと、風を感じながらサンドイッチを食べ、コーヒーを飲む時間の何と贅沢な事か。
星のきらめきが瞬く夜空のもと、草原の香りを楽しみながらキノコのホイル焼きを食べ、白ワインを飲む時間の何と煌びやかな事か。
秋は食物の実りだけでなく眺望までもが美しく、恵みの秋と言う言葉を日に何度も呟く。
そして富山県に入る頃には自炊のメニューに鍋料理が増え、温泉地の近くでの宿泊も増えた。
35年の会社員生活で、47都道府県の全てに行った事は有るが、それは殆どが仕事だったため、駅・ホテル・取引先企業の三拠点以外に行ったためしはなく、特に北陸・中国・四国・九州はその回数が極めて少なかった。だからこの機会にそれらのエリアは出来る限り観光を取り入れようと思い、毎日次の日のルートを慎重に検討した。それも旅の楽しみだった。
北陸三県の中でも最も縁が薄かったのは福井県で、オタマジャクシの様な県の形を頭から尻尾に掛けて移動し、いくつもの観光名所に立ち寄った。
その中でも特に印象に残っているのは、尻尾の先端の方にある高浜原発の、更にその先にある音海と言う名の小さな集落で、海を背にした岩山の斜面に民家が建ち、湾内は波が静かで海水が透き通っていた。名前の美しさと相まって時間を忘れて景色を眺めていた。
以前は船小屋が並んでいたという場所には、コンクリートのスロープ付きの岸壁しか残されていないが、長年住んでいるという人が、船小屋があった当時の写真を見せてくれたので、往年の雰囲気を味わう事も出来た。
唯一の観光地である音海断崖は東尋坊ほどの恐ろしさは無いものの、長年の風雨にさらされた景観には圧倒された。
船小屋の写真を見せてくれた住人曰く、明治から昭和にかけてはブリの水揚げで栄え、以降は衰退したもののワカメやモズクなどの海藻を収穫したり、水揚げは少ないながらも漁業をしたりして生計を立てる家もあったそうだが、今はそれすらもなくなってしまったと嘆いていた。
音海断崖は外海に面しているため波が強く、岩場に生えるワカメやモズクは食感が良く、評判が良かったという。私も食べてみたいと思ったので、とても残念だった。
高浜町隣は京都府舞鶴市で、ここでは海上自衛隊の一般公開に参加して、初めて国防を担う艦船を間近に見学することが出来た。
街には元祖肉じゃがの町と言う幟やポスターがあり、スマホで調べてみると明治海軍の東郷平八郎氏が舞鶴鎮台の司令官だった時に、英国留学中に食べたビーフシチューを日本の食材で作らせたのが始まりとあったが、同じ主張を広島県呉市もしていて、一時期どちらの主張が正しいか論争をしていたらしい。現在は結論が出ぬまま仲良く交流しているというが、店主にその話を振ってみると、「呉に居った頃の東郷さんは司令官やなかったから、肉じゃがを広めるような力があるはずない。舞鶴がほんまの発祥の地や」と笑いながら教えてくれた。
余談だが、舞鶴で食べた肉じゃがの肉は牛だった。これは度々出張で訪れた大阪も同じで、豚に馴染んでいた私が驚いていると、「関東は食いもんが貧しいですねぇ」と馬鹿にされてしまった。
兵庫県、鳥取県、島根県と旅を重ね、九州に上陸してからは東側を南下し、佐多岬で初日の出を拝むことが出来た。
元日の未明、岬の周辺は初日の出を目的に集まった人達で賑わっていた。元旦とは元日に太陽が昇る姿を現した言葉とされており、皆もそれを拝みに来たのだろう。日の出の時間が近づくと一様に落ち着かない様子を見せ、水平線が白み始めるとそれぞれが日の出の方向に顔を向け、その時を今か今かと待っている。
太陽が水平線から僅かにその輝きを見せると、冷え切った顔に暖かさを感じる。歓声を上げる者、手を合わせて拝む者、写真を撮る者まちまちだが、その瞳は日の出の光を反射して一様に美しい。
私がこれより以前に初日の出を見に出かけたのはもう三十年近い以前の事だ。
息子の良太がまだ一歳に満たない時、妻の由美の反対を押し切って神奈川県の大山阿夫利神社を参ったのが最後だ。深夜に車で家を出て、大山の麓の駐車場に車を止めて歩いて上った。
良太は私がおぶって、由美は良太の尻を支えるように後ろからついてきた。参道の両側にある店は殆ど開いており、土産物や食事を提供していた。たまに閉まっている店のガラス戸に映る由美は、良太の顔を心配そうに覗いていた。
そうだ、あの時良太は少し熱を出していたのだ。だから由美は反対したのに、私は強引に良太を連れ出したのだ。生まれて最初の初日の出を見せたい一心で。
でも、その日は曇りで日の出は拝めず、しかも良太は風邪が酷くなり、正月早々入院することになった。妻は口にこそ出さなかったが、その怒りは流石の私でも痛い程に理解することが出来た。だから以来一度も初日の出を見に行こうと言い出せなかったのだ。
雄大に広がる水平線から刻々と姿をあらわにする太陽は、次第に水平線にその光を反射して、まるで別れを惜しむ様に繋がっていたが、太陽が完全に姿を見せると光の緒が切れ、それが合図の様に人々は散り散りにその場を離れていく。
私もその流れにのって車に戻り、朝食の準備を始める。
佐多岬で初日の出を見ることを決めたときに、佐多岬周辺でお節料理を提供してくれる店を探して注文したものを、昨日引き取ってきたのでそれが正月料理のメインだ。他に刺身の盛り合わせと、雑煮を用意した。
今日はここで寝正月と決め、朝から一人で酒盛りを始めた。日の出から酒盛りまでの様子をSNSに投稿すると、早速ひなたから新年の挨拶のメッセージが届いた。
正月三が日を鹿児島県ですごしたのち、北海道と同様にフェリーで渡らねばならない沖縄県は諦め、九州の西側をゆっくり北上し、九州上陸前は日本海側を通った山口県を、今回は瀬戸内海側に道を取って観光した。広島県呉市では京都府舞鶴市との違いを確かめるために肉じゃがを楽しみ、尾道からしまなみ海道を通って四国へ上陸した。
愛媛県から反時計回りで四国四県を巡り、香川県から瀬戸大橋で本州に戻り、岡山県から兵庫県、大阪府、奈良県、和歌山県、三重県、滋賀県、岐阜県、愛知県、静岡県、長野県を経由して、山梨県から関東へ戻った時には桜の蕾が芽吹いていた。桜を見ると元妻との出会いを思い出す。
慣れ親しんだ関東では思う存分花見を楽しみ、気の赴くまま移動して初夏が来ると、一年毎の法定点検のために草野ひなたの店へ戻った。
一年乗り回したので、車に傷みが出ているだろうと思ったが、一通り見てくれた経営者兼エンジニアのひなたの父親は「丁寧に乗っているようで目立った異常は有りませんが、一日預かって詳しく点検をして、必要があれば整備をします。代車に軽乗用車を用意しますので、今夜はお近くの宿泊施設をご利用いただけると助かります」と言い、点検項目と整備が必要になった際の費用の概算を説明してくれた。
その説明を最後まで聞き、私は代車の申し出を断り、助手席の足元に収めている折り畳み式のミニベロ(タイヤの径が20インチ程度の自転車)で宿泊施設まで移動することにした。
このミニベロは車の次に高い買い物だったが、買って良かったアイテムの第一位だ。
旅の途中で気が付いたのだが、腰回りに肉がついてきており運動不足が顕著になったのだ。車を運転して移動して、キャンプ場で飯を食う。途中買い物はするものの、駐車場から店舗までと、店舗内で買い物する程度の移動などたかが知れているので、当然と言えば当然の運動不足だった。
じゃあウォーキングでもすればよかろうと思い何回か挑戦したのだが、車での移動に慣れた目には、徒歩の速度で流れる景色が恐ろしく遅く、ストレスを感じたので断念した。
次に考えたのは自転車の購入で、車にサイクルキャリアを取り付けて、クロスバイクを積載するつもりでいろいろ検討を進めたが、自転車が風雨に晒されるのでメンテナンスに手間がかかることが分かり、自転車の購入も諦めて、ウォーキングをする日々に戻った。
そんな日々の中で出会ったのが折り畳み式の自転車だ。岩手県のオートキャンプ場でたまたま隣の区画に泊まっていたキャンパーが車から折り畳み自転車を出して組み立て、それに乗って軽やかにどこかへ走って行ったのだ。
「これだ!」と思い、改めてインターネットで折り畳み自転車を検索した結果出会った逸品がこのミニベロだ。そして丁度この時に旅していた岩手県に取扱店舗があったので、運良く手に入れることが出来たのは僥倖と言って良い。ロードバイク並みの軽さとクロスバイク並みのスピードを兼ね備えた優れものでありながら、簡単に折りたたんで輪行バッグに収納できるので、各地の観光でとても役立った。
軽快に観光ができるようになった喜びで、日に何十キロと走り回るようになり、お陰で運動不足は解消され、旅行前に比べ明らかに身体が引き締まった。
この日もミニベロを走らせ予約した大浴場付きのホテルに着くと、自転車を輪行バッグに収納して客室に運び込み、ホテル近くの居酒屋で肉じゃがをつまみに酒を楽しんだ。肉じゃがの肉はやはり豚のほうが私は落ち着く。
谷田 由美 (たにだ ゆみ)
1.
私は両親と妹の四人家庭で育ち、決して裕福とは言えないものの、何不自由なく育てて貰ったと、今も感謝をしている。
とは言え今思えば両親は私達の為にかなり我慢を重ねて、無理をしていたように思う。
父方の祖父母はとても厳しく、会うたびに私の躾について両親に強く当たっていたし、妹が生まれたときは露骨に嫌な顔をして、抱こうともしなかった。その当時の出来事は、幼いながらに嫌な経験として記憶に刻まれている。
後に聞いた話ではあるが、長男である父に男児が授からない事で、母は随分と責められたらしい。それが引き金になって、父は両親の因習から逃れるべく、実家との縁を切ったという。だから私は、父方の祖父母の思い出と言えば、あの頃の陰鬱な表情以外殆ど思い出せなし、それ程縁遠い存在となっている。
父は両親との縁を切るにあたり、祖父が経営していた会社を辞めて転職したが、収入面はかなり厳しくなったようだ。私と妹を母方の実家に預けて、母も働きに出るようになった。
そうやって私たちに不自由をさせないように無理をして育ててくれたのだと実感したのは、私が高校卒業後の進路選択を就職にしたときに、両親の安堵した表情を見たからだ。
私は女子御三家と呼ばれる大学へ進学できる程度の学力があり、学校の先生からも両親からも進学を勧められていたのだが、その当時はまだ女性の進学率はそれほど高くなく、私自身も特に学びたいことがなかったことから就職を選んだ。学校の先生は強要できる問題ではないので諦めてくれたが、両親が就職を許してくれるのか不安でもあったので、あの時の安堵の表情は意外に感じたりもした。
元来が真面目で堅実な行動を好む私は、社会に出ても性格そのままに仕事をこなし、先輩や上司から高い評価を得られた。
それでも二十歳を過ぎてアルコールを飲めるようになると、一気に世界が広がったように感じて、羽目を外したいと思うようになったのは、反抗期が遅れてやってきたのだろうか。
先輩や上司に連れられて酒席に侍るようになると、自宅では食べたことのない料理が、奇麗な皿に彩り豊かに盛り付けられ、紫煙の揺蕩う中で語られる会話は、その場にいるだけで自分も大人になったように錯覚させてくれた。
同僚に連れられてディスコへ行った事もあるが、あそこはアルコールを飲む前から悪酔いをしたような頭痛に見舞われ、同僚に断りを入れて先に帰らせて貰った。帰路もあの大音量の所為で耳が遠くなり、翌朝目覚めたときに二度と行くまいと心に誓った。
アルコールは嗜むが舐める程度で、当時流行りの遊びは肌に合わず、地味な外見の私に恋など訪れることは無く、谷田大と出会う22歳まで恋人は一人もいなかった。
私は入社四年目で大は入社三年目の一つ後輩だが、大学を卒業している大の歳は、私の三つ上の25歳だった。
出会いの場は桜の花見だった。休日に仲の良い若手が集まって、上野公園で花見をするという話があり、同じ職場の後輩から拝み倒されて出席することになったのだ。
その時隣の席に座ったのが大だったが、大は花にも酒にもつまみにも見向きもせず、隣席の同僚を捕まえて仕事の話を滾々とするので煙たがられ、宴の半ばになると周囲に人がいなくなってしまった。
孤立してしまったその姿が、一匹狼の様に頼もしく見えたのは酔いの所為だったか、それとも彼を蔑ろにする他人の振る舞いに対する反抗心だったか、今になっても分からない。
私は大の隣席に腰を下ろし、酌をしながら黙って大の話を聞いた。その時も私は地味な服装だったし、酌をするだけで一言も喋らない女の事など、大は気にも留めていなかっただろう。
だから、お開きの間際に私が話しかけたときは、急に石が喋ったかのように驚いていた顔をした。先程までの頼もしさとのギャップが一層私の興味を引き、はしたないとは思いながら連絡先を教えて貰い、後日私から連絡し交際が始まった。
大は大学生の時から一人暮らしを始めたというが、実家は電車で移動しても30分程度の近い場所にあると言う。何か事情があるのかと思ったが一度も詮索することはしなかった。
交際は順調だったと思う。自信がないのはお互いが初めての交際相手だったので、接し方を手探りしていたからに他ならない。
大は入社五年目にして異例の出世をし、仕事に対する自信を深める一方、私との結婚に前向きな発言をするようになった。当時のサラリーマンの多くの夢は、庭付き一戸建てと自家用車を手にすることだった。彼もご多分に漏れずその派で、会うたびその話を私にするようになったのだ。
そして交際から二年の節目に、彼の住むマンションでとても簡素で事務的なプロポーズをうけた。
私はそのシチュエーションに驚きながらも喜んで「共に白髪の生えるまで、宜しくお願いします」と返事をして手を握ったが、大はさも当然というような顔で「じゃあ、お互いの両親に挨拶に行こう」と抑揚のない声で言ったのには少なからず幻滅した。
プロポーズと言えば、テレビドラマや小説で描かれているような、ロマンティックな展開を想像していたので、肩透かしを食らったように感じたのだが、同時に私の心の中では小さく「このままこの人と一緒になって大丈夫か」と言う疑問も湧いた。それでも男性とはこういう生き物なのだろうと自らを納得させてしまったあたり、恋愛初心者の恐ろしさと言って良いだろう。
その場で大が自分の両親の自宅へ電話をしたが、着信音がむなしく響くだけで誰もそれに出ることは無く、暫くすると留守番電話の「要件をメッセージでお願いします」と言う音声が流れてきた。先程の疑問が疑念へと変化したが、それでも私はそれを放置してしまった。
大は留守番電話にメッセージを残したのち、自分の両親への挨拶は不要だと言い、私の両親へ挨拶する日程を調整するように私を促したので、私もその場で母に電話して日程を調整し、後日両親と妹が待つ自宅へ大を招いた。
この時両親が大へ抱いた印象は、あまり良いものにはならなかった。
両親は大の話を聞いても曖昧な物言いを繰り返し、話を中断して食事を出し、食後は早々に大を家から送り出し、大の気配が消えまでドアの内側で息をひそめ、もう近くに居ないと確信すると、それまで顔に張り付けていた愛想笑いを納め、「本当に彼でいいのか?」と父が怖い顔で詰問するように聞いてきたのだ。
「彼は短い挨拶のあと、自分は長男だから家名を守る義務がある、と言ったことを覚えているかな」
「そうね。それはそうだろうと私も思っているわ」
母は隣で困ったような顔で二人の話を聞いていた。
「そのうえで、家名を絶やさないためにも由美には男児を産んでもらいたいし、妻の役割を全うするために仕事を辞めてもらい家事に専念してもらおうと思う、とも言った」
「そうね。それも以前からそれとなく言われてきたから分かっているわ」
「食事中には、近隣の住宅と同じような外観ですが建売ですか、と言って品定めするように室内のいたるところに目をやっていた」
そこで漸く父の言いたいことが少し分かったような気がした。
男児を産まなかった母を侮辱し、建売を安物のよう言い、自分たちが見下されたと思ったのだろう。
「あの手合いは苦労すると思う。もう一度よく考えたほうが良いと思うぞ」
母は黙っていたが何度も小さく頷いた。
私はこの時の忠告を聞かなかったことを後に悔やむことになるのだが、初めてできた恋人を喜んで迎い入れてくれなかったことが悲しく、意地を張って反発してしまった。
「よく考えたとしても彼と結婚しないという選択肢はないと思う」と言って自室に戻り、力任せにドアを閉めた。
2.
両家の顔合わせも結納も結婚式も披露宴も、大は形式だけでも執り行いたいと言って粘ったが、そもそも当人の両親が頑なに会う事を拒んだため、何一つ実現することなく、私の両親も相変わらず良い顔はしなかった。
結局私たちは婚姻届けを提出するだけで夫婦になった。大は負け惜しみの様に「所詮この紙切れを役所に届ける以外に、俺たちが夫婦であることを認める手段はないのだから、その他の些末な行事は時間の無駄で意味がない」と言っていた。
この時も私は想像していたテレビドラマや小説に描かれているような、賑やかで煌びやかな場所で多くの人に祝福してくれるような結婚式と披露宴が失われたことに失望したが、両親に啖呵を切った手前、もう流れに身を任せるしかなかった。
新婚生活は大の賃貸マンションで始めた。
大の希望通り私は仕事を辞め専業主婦となったが、賃貸マンションの狭い空間ではやることが少なく、掃除は壁や天井の埃落としから始め、床に掃除機をかけた後は雑巾がけをし、買い物は近隣のスーパーマーケットと専門店を梯子して1円でも安いものを買い、洗濯物はその日のうちにアイロンがけをして綺麗に畳んで箪笥に仕舞っても、まだ時間が余るという毎日だった。
趣味があれば余った時間を使って楽しむこともできたであろうが、そもそも趣味などはなく、自然と料理に割く時間が増えていった。インターネットが普及する以前だったので、古本屋で買った料理本と調味料会社が提供する料理番組を手本にして、毎日手の込んだ料理を作って大の帰りを待った。
結婚してから子供を授かるまでの大は、毎日決まった時間に帰宅して、食事をして風呂に入ってから、日課のように私を引き寄せて抱いた。翌朝は前夜の余韻を味わう素振りもなく、私が作った朝食を黙って食べ出勤していった。
律儀な日課のお陰か同居三か月で運よく懐妊の兆候があり、産婦人科で受けた検査の結果を伝えたときの大は、喜びよりも安堵の表情で「よくやった。後は無事に産んで貰いたい」と言った。
その日を境に大の帰宅時間が連絡もなしに遅くなることが増え、それが顕著になってひと月が過ぎた頃に「折角用意した料理が無駄になる」と苦情を言うと、平日の夕飯は外で食べるので必要ないと言われた。
私は浮気を疑ったが、その時期に大は戸建住宅を購入すると言い出したので、収入を上げるために努力してくれているのだと解釈するようにした。
戸建住宅は当時のサラリーマン家庭にとって将来の夢の一つだった。それがどうしてこんなに早く実現できるのか疑問が湧かないわけではなかったが、久しぶりに見る大の自信に溢れた表情の前では、疑問を口にすることは憚られた。
それでも家を造るというのは、私にとっても心の踊るものだった。料理が趣味の領域に昇華しつつあった私にとって、キッチンとリビング・ダイニングは出来る限り私の希望を組み入れて貰いたいと思い、自分なりの夢を持っていた。キッチンは使いやすい高さと配置。リビング・ダイニングは何時間過ごしても疲れを感じない空間。
だから、ハウスメーカーとの打ち合わせは体調が許す限り同席していたのだが、途中で雲行きが怪しくなってきた。
最初に「おや?」と思ったのはハウスメーカーが斡旋してきた土地に対する感覚の違いだった。
山を切り開いた土地にできた分譲地は、バス停への往復も急坂を使わねばならず、最寄り駅までは更に長い坂道が加わって徒歩30分はかかるが、それを加味してか、分譲価格は拍子抜けするほど安かった。
更に理由を探ると買い物が不便だと言う事がわかった。近くにあるのは雑貨屋が食料品も扱っている小さな商店があるだけで、スーパーマーケットは徒歩20分の場所に一件あるだけだった。八百屋も肉屋も魚屋も辺りには一軒もなく、唯一の趣味になりつつあった料理を楽しむには、その手前でかなりの重労働が必要だと言う事がわかった。
私のやんわりとした不安を聞いた大は、車を買うから問題ないだろうと言うのだが、私は社会人になって早々に身分証明書代わりにと軽い気持ちで取得しただけのペーパードライバーで、平日に一人で買物をする自信はなかった。更にその事を言うと、大きな冷蔵庫を買って、週末に自分が一週間分の買い出しに行くというので、それ以上は何も言えなくなってしまった。
次に疑問を持ったのは、新築のキッチンとリビング・ダイニングだが、これはもう思い出すだけで腹が立って泣きそうになる。
特にキッチンについては何回も希望を伝えたのに「海外の有名メーカーのキッチンだから間違いはない」と言って、私の話を聞いてくれないのだ。結果出来上がったキッチンは、私の身長には合わず、楽しみにしていた新居での料理が苦痛の種へと変わってしまった。
キッチンに関してはハウスメーカーの営業も悪いと思うが、リビング・ダイニングは完全に大に責任がある。
リビングは吹き抜けにして高窓を付けたいと言うのが大の希望だったが、ハウスメーカーの営業は「空調効率が良くないという意見も多いです」と忠告した。それでもその忠告に耳を貸さずに、大はその方向で話を押し進めてしまったのだ。
後日譚だが、リビングの続きにあるダイニングも当然空調の効きが悪く、特に夏は食事をしながらの団欒など出来るものではなかった。
もうこの人には何を言っても駄目なのかもしれないと思い、家造りの打ち合わせは途中から同席せず、大に何を説明されても意見を言わなかったが、それで調子に乗ったのか、今度は車選びでも大は自我を爆発させた。
2ドアのスポーツカーを買うと言い出したのだ。
私はペーパードライバーだから運転に自信がないと言ったのに、彼の記憶からは削除されてしまったのだろう。一度ディーラーに連れていかれて運転席に座ってみたが、益々運転する自信を無くしたので、値段が高いことを理由に挙げて反対したのだが、その後他社の良く似た車が安かったからと言って買ってきたので呆れてしまった。
その頃には大と会話をするのが憂鬱になっていた。何を言ってもこの人には響かない。そう思ったのだ。
翌年一月に良太が誕生した。
出産の知らせを聞いた大は急いで産院にやってきて、良くやったと大袈裟なほどに喜んで見せたが、看護師は浮かない顔で「電話したときに真っ先に“男ですか”って聞かれて、ちょっともやもやしてる。生んだばかりの人に云う事じゃないけど。ごめんなさいね」と言って部屋を出て行った。
看護師と入れ替わる様に私の両親と妹がお祝いと見舞いに来てくれて、「お疲れ様だったね。身体は大丈夫?」と産後初めて暖かい労いの言葉を聞いたことに気が緩んで、自然と涙が流れた。大はその場の雰囲気が居心地よくなかったのだろう、仕事に戻ると言って部屋を出ていった。その時も大の両親には留守番電話に出産した報告を録音したが、相変わらず顔を出すことは無く、ご祝儀だけが現金書留で送られてくるだけだった。
産後の肥立ちは大事だという母の指示に従い、産後は実家で一か月過ごすことに決めたが、その間に大が訪ねてくることも私を気遣う言葉を送ってくることもなく、建設中の家の写真と進捗を報告してくるだけだった。そして良太が生まれてから二か月経って桜の蕾が綻び始めた頃に新居が竣工し、賃貸マンションを引き払った。
引っ越した翌日からも大は早朝から出社し、帰宅は決まって深夜。引っ越し作業はすべて産後間もない私の役割だった。
乳飲み子の面倒を見ながらの作業はなかなかに骨の折れる作業で、新たに購入した家具や家電を届けに来る業者の人が同情して、本来であれば含まれていない設置作業を無料で行ってくれた。
その間も食材や日用品を買うために徒歩20分のスーパーマーケットへ行ったが、良太を抱えていては一回に運べる量に限りがあり、日に何回も往復する毎日だった。
慣れない育児をしながら広くなった家の家事は私を疲弊させ、使い勝手の悪いキッチンは神経を苛立たせたが、食事はしっかり作り続け、毎日朝食を大に食べさせて玄関まで見送った。これは大が結婚前に私に求めたことで、新婚当初は多少浮かれた気分だったが、この時期は苦行以外の何物でもなかった。
大はそんな私の心の変化を慮ることもなく、毎夜遅くに帰宅し私の貴重な睡眠を阻害し、週末の買い物の約束は反故し、ゴルフに時間を割くようになった。
私の中に大に対する悪感情が芽吹いたのは、これらの積み重ねだった。だからもし誰から夫婦仲が悪くなった理由を尋ねられても、一言では言い表すことが出来ず、きっと困った顔を見せることしかできないと思う。
そしてその悪感情に決定打を与えたのが、翌年元日の初日の出参拝登山だ。
既に腰が据わっているとはいえ良太はまだ一歳に満たず、しかも大晦日の朝から微熱と鼻水が出ていたので、私は連れ出すことに強く反対した。それにも関わらず、大は「三人家族の最初の正月初日の出を一緒にみないなどありえない」と、謎の拘りを見せて半ば強引に私たちを車に乗せたのだ。目的の山の麓で車を降りると、日頃は殆ど良太に触れたことがないのに、良太を自分に背負わせろと言いだしたので、この人は宇宙人か何かに取り憑かれて支配されているのではないか、と真剣に心配してしまうほどだった。
そしてその結果は、山腹にある神社で参拝はしたものの初日の出は拝めず、良太は熱が上がって正月一日から緊急入院することになると言う、良太にとっての大惨事になった。
私の怒りは頂点に達していたが、両親の忠告を聞かずに結婚した手前、離婚することは思いとどまり、以降は大の事を、私の家事と育児に対する給料を払ってくれる同居人、と考えるように心掛け、何とか心の平衡を保つようにした。
3.
良太が就職を期に家を出たのは必然だったと思う。
私は古風で奥ゆかしい母に育てられたので、その母に倣って夫の悪口を例え家族の前でも言う事がなかったと思うし、寧ろ良太には「あなたの父はしっかり働いて私達を養ってくれる立派な人」と言い聞かせてきて来たので、良太も幼い頃は父を尊敬していたと思う。
それでも良太は中校生の頃から父親の事を「あの人」と呼ぶようになってしまった。
ただの思春期の反抗心かと思っていたのだが、私に対して反抗することは無く、彼の矛先は明らかに大に向けられていた。
「俺は母さんに育てられたという記憶しかなくて、あの人からは何をして貰ったという記憶がない。母さんがあんな男の何が良くて結婚したのか不思議だ」
確かにあの「日の出登山」による良太の入院で、大は子供の命の危うさに恐れを抱いたのであろう。それまでにも増して良太に触ることを避け、成長を見守る姿勢はどこか怯えていて、ともすると他人事のようにも見えた。
良太は大学生の頃には事毎にそう言っていたが、私はそれについて上手く答えることが出来なかった。そして、きっとこの子は早々に独立するのだろうな、と覚悟を決めていたのだが、いざ良太が出て行ってしまうと、改めてこの家に住むことの意義を考えるようになった。
使い勝手の悪いキッチン。
広くて空調が効かず落ち着かないリビング・ダイニング。
広くてタイルの冷たさに震え上がる風呂。
潤いを失ってところどころささくれ立った床は、私の心と同じだ。
良太ではないが「あの人」はいったい何のためにこの家を造ったのだろうか。
良太が居なくなったので、料理する喜びは完全に失ったが、それでも大から食事を希望されれば手を抜かずに料理した。大からはただの一度も味の感想も例も言われなかったが、これも給料の対価の一つだと思って、感情を殺して提供し続けた。
洗濯物が減り、料理の回数も減り、人との会話も減り、愛情と言う潤いを失った家の中で自由に使える時間だけが増えれば、余計な事をいろいろと考えてしまうものだ。
この頃になると、よく耳にする熟年離婚について興味を抱くようになった。
世の中は便利になった。スマートフォンとパソコンがあれば知りたいことをすぐに調べられる。私は良太の学校教育にあわせてパソコンの勉強をしてきたし、機械音痴の大に頼られて応えるうちにスマートフォンの使いかたも習熟していたので、調べ物は容易かった。
案の定、熟年離婚を専業主婦が考える場合のアドバイスがいくつも紹介されている。さしあたって重要なのは生活費と住まいと言うアドバイスが多かったので、現在の資産を思い付く限り羅列して、金額の分かるものと分からないものを分け、分からないものはインターネットで相場を割り出し、概算の総額を計算した。家も車もローンの返済は終わっているものの、相場は思いのほか低く拍子抜けしてしまった。結果、今離婚することはあまり良い選択ではないという結論に達した。
少し残念な思いもあったが、それでもこれは将来に向けて良い勉強だったと思う。
次に考えたのは、大の退職金が支給されるまで我慢した場合、どうなるかと言う事だ。元は同じ職場だったので、おおよその退職金の額は想定できたので、我慢して待って離婚すれば、その後の人生は切り詰めた生活をすることで何とかなりそうに思えた。
そこで大の定年退職を待つ間に自分の職を探すことにした。ハローワークに登録し求人広告を閲覧したが、20年以上専業主婦で50歳に手が届きそうな人物を雇ってくれそうな企業は少なく、やっと見つけても面接にたどり着けず、現実を目の前にして挫けそうになっていた時、毎日連絡を取り合っていた良太の一言が私を救ってくれた。
「一人暮らしをして外食ばかりしていると、母さんのご飯が如何に旨かったかがわかるよ。母さんの料理は素材を引き立てるように繊細な味付けだったけど、出来合いの総菜や外食だと、どれもこれも味付けが濃くて、調味料を食べているみたいですぐに飽きる」
私はこの時初めて料理が自分の武器になり得ると思った。それまで探していた求人は事務職だったが、調理に関する求人に目を向けてみると、高齢であっても、更には調理師の資格がなかったとしても募集しているところは意外にも多いことがわかった。
そこで心機一転、企業や学校の食堂や、民間の飲食店の厨房で働く方向へ切り替えると、面接の機会が貰え複数個所から採用の連絡がきた。どこも魅力的な条件だったが、私はその中から調理師免許取得支援制度のある、スーパーマーケットの総菜部門へお世話になる事に決めた。
就業時間は平日の8時から17時までで、途中こまめな休憩時間があるので、実質的な就業時間は8時間になる。平日に限定したのは大に私の長期計画を気取られることを恐れての事だった。
私が平日何をしているのか全く興味を示さない大に気付かれることなく七年間仕事を続け、調理師免許も取得できた私は、総菜部門の調理全般を任されるようになっていた。
私が開発した商品はどれも店の人気商品になり、順調に昇給した私はもう十分独り暮らしが出来るほどの月給を得るようになっていた。
そして長年温めていた計画を実行しようと、インターネットで熟年離婚に詳しい弁護士に相談を始めた矢先、大が呆然として表情で帰宅し会社をリストラされたと言った。
正直なところ心が全く痛まなかったわけではないが、それでも結婚して以来徐々に失ってきた私の感情を取り戻すのは今が好機だという思いが勝った。
私はつとめて冷静に「それでは私たちの関係も終わりにしてください」と言った。
大の顔は驚きの表情のまま固まり動かなかった。
私は急いで二三日分の荷物を纏め、未だリビングで立ち竦んでいる大に「暫く良太の家に世話になるつもりです。今後の事は弁護士経由で話しましょう」と声を掛け玄関ドアを開けて外に出た。
バス停へ向かう急坂を下るとき、先程感じた小さな痛みが嘘のように消え、心は晴れやかだった。それでもバスに乗り込む瞬間は、やはり少しだけ感傷的にはなった。それは慣れ親しんだこの住宅地への哀愁だと思う。
バスを降りて良太に電話で簡単に事情を説明すると、良太は住まいの最寄り駅まで迎えに行くと言ってくれた。良太の住まいへ行くのは引越しの手伝い以来だ。
駅の改札で待っていると、良太が可愛らしい女の子と一緒に現れた。恋人だと紹介された女の子はとても笑顔が素敵で、それだけでとても良い子なのだろうと想像できるほどだった。
彼女の自己紹介が終わっても、照れ臭そうに黙っている良太と対照的に、「荷物、代わりに運びますね」と率先して私の荷物を運ぼうとする女の子の、何と可愛らしく頼もしい事か。良太が慌ててひなたの手から私の荷物を奪い取る。男の子はいつまで経っても子供のままだ。
「もしかして、一緒に生活してたりするの?」と私が聞くと、慌てたように顔を見合わせて、「違うよ」「違います」と言う姿が微笑ましかった。
今日は一緒に外食していて、そこに私からの電話があったから、挨拶をしたくてついてきたのだという。
「だから良太さんのお家まで送ったら、私はそのままこの車で帰ります」と言って、彼女の体格には不釣り合いに思える大きな車に案内された。
結局良太の家には一か月も居ついてしまった。
居候当初は職場のスーパーマーケットの近くにアパートを探していたのだけれど、五十半ばのおばさん一人が部屋を探しているのは何やら訳ありと思われるようで、なかなか契約することが出来なかったのだ。
その間に何回か私物を取りに帰ったが、運よく大に会うことは無く、話し合いは弁護士を介して進んでいた。そんな折、弁護士から離婚届の証人を誰にするか決めて欲しいと言われ、初めて両家の親の存在を思い出して、自分の迂闊さに驚いた。
私の両親はいまだに健在で、近くに住む妹夫婦とその子供たちと賑やかな毎日を過ごしている。
大との結婚を危ぶんで忠告してくれたにも拘らず、それを無視して結婚した結果がこれだと思うと、どの面を下げて両親に会えばよいのかと逡巡したが、いずれ誰かの口からこの始末を洩れ聞いた時の両親の嘆きを想像して、早いうちに自ら報告すべきだと自分を奮い立たせた。
意を決して訪れた実家で私の報告を聞いた両親は、神妙な面持ちで「長年お疲れ様だったね。これからは自分の好きなように生きると良いよ。部屋は空いているから帰ってきても良いし」と優しい言葉をかけてくれた。
一方、未だお会いしていない大のご両親は、お義父様が何年も前に亡くなられ、お義母様が一人で暮らしていらっしゃるという話だった。結婚の時に門前払いを受けたのだから、離婚の挨拶をする必要はないように思ったが、縁があったことは事実なので最後くらいは礼儀を重んじて挨拶に行こうと思い直し、そのことを良太に話すと、良太も会いたいと言うので一緒に行くことにした。
大から教わっていた番号に曜日や時間帯を変えて何回も電話をしたが、一向に出て貰えないので、手紙をしたためてそれを持参することにし、週末に良太と連れ立ってお義父様が亡くなった際に連絡を貰った住所へ向かった。
谷田 良太 (たにだ りょうた)
1.
母が父方の祖母に会いに行くと言った時、何の感慨もなかったはずなのに、反射的に「一緒に行きたい」と言ったのは自分でも意外だった。
子供の頃に違和感を覚えた事を、今でもよく覚えている。
友達と会話をしていると、両親の帰省先が二か所あり、それぞれに祖父母が住んでいるというのだが、僕の親の帰省先は一か所で、祖父母は一人ずつと言う認識だったからだ。
それでもそれについて両親に聞くことはいけない事の様な気がして、中学生になるまで黙っていたが、中学生になると直接的な物言いで母に尋ねた「毎年正月にお年玉をくれるお爺ちゃんとお婆ちゃんは母さんの親だろ。あの人の親はどこにいるんだ。俺、会ったことないよな」と。
あの頃は何かにつけて苛立ちを覚え、分からない事や気に食わない事には、食い掛る様に本質を暴こうとしたり、抵抗されれば反抗したりした。あれが思春期の特徴だと言う事は、大人になった今ならわかる。
父と会話することなど年に数えるほどしかなく、僕の目にはただの同居人のおっさんとしか映っておらず、「父さん」と呼ぶことに嫌悪感があった僕は、いつしか父を「あの人」と呼ぶようになっていた。
それ程に同じ家の中に居ても父との関係は希薄だった。学校の行事や地域活動は母と共に参加したし、学業は母が一緒になって勉強してくれたしサポートもしてくれた。
父はいつも朝早くに出勤し、深夜に帰宅するので殆ど顔を合わせず、週末も朝早くからゴルフへ行き、たまに家に居ても自室から出てくることは無い。
学業の成績も習い事の進み具合も、父から尋ねられたことがないのだから、関係が希薄になり心の距離が広がるのは当然だろう。父が僕に興味を示さないのと同じように、僕も父に対する興味を失っていった。
父方の祖母を尋ねると言う母から、既に祖父は亡くなっているとこの時初めて聞かされたが、特に何の感情も湧かなかった。テレビのニュースやインターネットの情報で、一度も会ったことのない人が亡くなったと知ったのと同じ感覚だ。
それでも祖母が生きていると知ると会ってみたいと思うのだから、人の心の働きは不思議だ。
母は思い立ったら即行動に移す性格で、言い出したその週末の午前中に父方の祖母を訪問することになった。事前に何回も電話で連絡をしたそうだが通話に至らなかったというので、母の自筆による手紙を携えていた。
電車を乗り継いで降り立った郊外の駅から、住所を頼りに住宅街へと徒歩で向かう。地図アプリが示す住所に建っていたのは、小さな平屋建ての一軒家だった。庭と思われる空き地には雑草が生い茂っている。
表札がないので呼び鈴を押すべきか躊躇っていると、隣家から姿の良い老齢の女性が現れ「何か御用ですか」と声を掛けてきた。
「こちらは谷田翠さんのお宅で合っていますでしょうか。私、翠さんのご長男の大さんの妻なのですが」と母が名乗ると、女性は不審そうな表情をした。
「谷田さんにお子さんがいるなんて初めて聞きましたし、ここに越してらしてから人が訪ねてくることなんて訪問セールス以外に見たためしがありませんけど」
母は困ったような顔で僕の顔を見た。
「何分遠方に住んでおりますので、祖母とは手紙で近況のやり取りをしておりましたが、今回どうしても会って話したいことがあったので、訪ねてまいりました。事前に電話もしたのですが出てくれなかったので、突然と言う事になってしまったのですが、祖母は外出しているのでしょうか」僕が母に代わって説明をする。遠方と言う嘘は許して貰おう。
「外出と言えば外出だけど」と相変わらず警戒した表情で女性は言い淀み、自宅の奥に向かって「ちょっと」と声を掛ける。
奥から出てきたのは中年の男性だった。職場の上司と同じくらいの年齢に見えるので四十代かもしれない。女性が簡単に事情を説明すると「これから会いに行くから一緒に行ってみる?」と気軽に聞いてくれた。
男性が運転する車に同乗してから改めて自己紹介をすると、二人からも簡単な自己紹介があり、二人は親子で、婚期を逃した息子さんと二人であの家に住んでいるという。
女性と祖母は年齢が違うとはいえ、隣家のよしみで仲良くしているそうで、祖父が亡くなった時は葬式を仕切ってくれたそうだ。
連れていかれた場所は大きな総合病院だった。祖母は癌で入院しているのだという。隣家の女性は週に一回病院を訪れ、祖母の下着の替えを届け、着用した下着を引き取って洗濯してくれているという。更には二日に一度は祖母の家を掃除して、空気を入れ替えてくれているらしい。
母はしきりに頭を下げて感謝の言葉を口にしていた。僕もその隣で深く頭を下げた。隣近所の付き合いが希薄だと言われる昨今でも、このような心温まる関係を築けるのは双方に人徳があるからだろう。
僕達を一階の総合待合に残し、親子は病棟へ向かった。数分後に息子さんが戻ってきて、祖母の許可を得たと言って病室へ案内してくれた。
エレベータに乗って壁に設えた鏡を見ると、僕の顔はいつもの仏頂面だったが、母は思いのほか緊張しているようで、顔色がなかった。
案内された病室の入り口には確かに「谷田 翠」の名札があり、他に三名が居ることがわかる。
息子さんは「入って左側の窓際だから」と小声で言って、病室には入らずに立ち去ってしまい、取り残された僕達は暫く入り口に佇んでいた。
たっぷり時間をかけてから、母が意を決したように深く息を吐き歩き出す。言われた場所は廻りをカーテンで覆われており、中を伺うことが出来なかったが、カーテン越しに先程の女性の話声が聞こえた。
母が「失礼します」と言ってカーテンを開けると、背を高くしたベッドに凭れている老女がこちらを見た。その目元は毎日鏡で見慣れたものと似ており、父にも似ていた。
隣家の女性は「じゃあ私はこれで帰るから、後はタクシーかバスに乗って帰ってね」と僕達に言い、祖母に「じゃあまた来週来るから」と言って病室を出て行った。
母は女性に改めて礼を言い、病室の外まで見送り、強張った顔で祖母のもとに戻ってきた。何から話すべきか逡巡していることは明らかで、口を開いては結ぶという作業を繰り返していた。
「わざわざ遠くまで来てくれてありがとう。由美さんでよかったわよね」見かねた祖母が優しく母に話しかける。
「はい、由美です。長い間ご挨拶に伺わず申し訳ございませんでした。ご入院されていると知らなかったので、このようなものを手土産に持ってきてしまったのですが」
今にも泣きそうな顔で母が深く頭を下げながら、有名老舗和菓子屋の羊羹を差し出す。
「あら、あの店の羊羹は大好きよ。日持ちもするから治療が終わって食欲が戻ったら、ご褒美にいただくわね。それと今日まで会わなかったのは、私が会う事を拒んでいたからで、貴方に責任はないわ。あなたが私の孫の良太ね」
祖母は眩しそうな目で僕を見る。
「はい。もう三十歳になりました。会話は負担になりませんか?」
そう心配してしまうほど祖母はやせ細っていた。
「優しいのね。大丈夫よ、何時間でも話せるくらい元気」と言って力こぶを作る仕草をして見せたが、その腕はまるで擂粉木棒の様に細く窶れて見えた。
「退院はいつ頃のご予定でしょうか」母が尋ねる。
初めて会う義母の病床で離婚の話をすることを躊躇ったのだろう。
「今やっている抗がん剤治療が今回の最後の予定なので、再来週には退院できると思うけど、大にはまだ会えそうにないから、内緒にしておいてもらえるかしら」
祖母は苦虫を噛み潰したような顔で答える。
「わかりました、約束します。今回会ってお話ししたかった内容も、退院後に改めてお話しします」
母は顔を引き締めて、宣言をするかのように言った。
「あら、そんなにのんびりしていい話なのにわざわざ来てくれたの?あなたがそれで良いなら私は一向に構わないけど、それまで生きていられる保証は無いわよ」
祖母は目を細めて笑ったが、母は困った顔をしていた。多分僕も同じだっただろう。
2.
父と母の別居から、つまり父方の祖母に初めて会った日から約半年後、両親の離婚が成立し、父は以前の住まいよりも都心に近い駅の近くにアパートを借りて住み始めた。
母は僕のアパートに一か月ほど住んでいたが、転職先を決めて出て行った。
祖母とはその後何回も会っていろいろな話を聞くことが出来たが、僕の知りたかった父と言う人間の内面を知る手掛かりについては、時間をかけて話を聞いても掴むことは出来なかった。
母も「複雑な人」と言うほどの父の事を、今更知って何になるのかと思うのだが、恋人の草野ひなたとの結婚を考えるようになってから、自分のルーツの最も近しい人間の事は知っておいたほうが良い様な気がして、父の事を知る手掛かりがあればと祖母と会話を重ねている。ただ、祖母は父の話をするときは本当に苦しそうな顔をするので、つい僕の想いが削がれてしまい、話を途中で切り上げてしまう事が多く、それが理由でなかなか捗々しくなく、当然理解も深まらないのだった。
なんの収穫も得られないまま一年近くが過ぎようとした頃、ひなたが会社を辞めて父の会社を継ぐと言い出し、二人の将来について更に真剣に考える必要が生まれてきた。
ひなたは同じ会社で働く二歳年下の後輩だ。五年ほど前に僕が初めて任された企画に、経理から応援として派遣されたのがひなたで、それをきっかけに仲良くなった。
その後交際が始まり、ひなたの両親にも何回か会ったことがあるが、ひなたが自慢する通り、両親は優しく明るい性格で、僕の事も昔から知っている近所の子供の様に、簡単に受け入れてくれた。
その両親は中古車販売会社を営んでいるが、父親は社長業務の他に整備士も兼ねており、デスクワークと力仕事の繰り返しで、何年も前から腰に痛みを抱えており、それがここにきて急速に悪化し、会社自体を廃業するか悩むほどになってしまったと言う。
大好きな両親のために彼女が会社を継ぐことを考えたというのは、少し妬けるが羨ましくもある。
ひなたには兄と弟が居ると聞いていたので、その兄弟が引き継げば良さそうなものだが、二人とも幼少の頃から家業は継がないと宣言していた通り、兄は大手企業に就職して海外勤務が長く、弟は学生時代に起業した会社が順調で、全く家には寄り付かないという。
会社と言ってもひなたの両親が従業員数名を雇って営んでいる小さなものなので、廃業するにしてもあまり手間はかからないと思うが、それでも子供たちを育む糧を得るために両親が汗水たらして経営してきた会社を潰してしまうのは、ひなたには忍びないのだろう。
とは言え、サラリーマンの僕と中古車販売会社の次期社長の彼女、二人の結婚生活が想像できないのだ。数日悩んだ末に、僕は直接ひなたにこの悩みを打ち明けたが、満面の笑みで答える彼女の言葉は僕を更に混乱させた。
「結婚したら良太も社長でいいよ。二人社長でパパは会長で、ママは今まで通りCFO」
社長が二人いる企業はたまにあるが、そういう事ではなく、結婚即ち中古車販売会社を共同経営するという発想に混乱したのだ。それとちょっとだけ母親がCFO(Chief Financial Officer=最高財務責任者)を名乗っていると言う事に、少し可笑し味も感じた。
共同経営の話は冗談だろうと思ったので、「それなら会社の事も良く知らないといけないから、過去三年間の財務諸表を公開して貰わないとね」と言ってその場は話を打ち切ったのだが、その翌朝「よく検討してみてね」と言うメッセージに財務諸表のデータファイルが添付されているのを見て、ひなたが本気だったことを思い知った。
僕は今の職場では取引先企業の財務諸表を確認する立場にあるので、書類を見るコツの様なものを心得ている。だから会社の昼休みに一通り目を通した段階で、かなり経営能力が高いという印象をうけた。
その夜アパートに戻ってからじっくりと財務諸表を確認して、いくつかの質問を彼女に送ったが、その回答はいずれもしっかりと立証できるもので、書類作成には非の打ち所が一切なく、印象は確証に替わった。
ひなたの両親の会社は、中古車販売と民間車検とはじめとする整備の売り上げのバランスが良く、全国の業者とネットワークを構築し、幅広いユーザーの要望に応えて、安定的に車や部品、サービスを提供していることが資料からわかる。
ひなたが自慢する父親の人当たりの良さに加え、確かな腕が無ければこうはならないだろう。そしてその営業力をCFOの母親が支えてきた、と言うところだろう。
これまで全く想像したこともなかったが、書類を確認した後はひなたと一緒に会社を経営するのも楽しそうだと思うようになり、そんな自分に少し驚いたりもした。
経理畑のひなたはCFOを引き継ぐことになると思うので、僕は整備士の資格を取る必要がある。そうなると僕も早く会社を辞めて見習いを始めなくては、などと想像を膨らませていた矢先、ひなたが僕の部署へ現れ「退職届出してきた。早く整備士の資格を取らなきゃ」と燥いで言うのでまた驚く。じゃあ僕がCFOって事なのかな。
これは改めてよく話をしなくてはならない思い、ゆっくり話をできる纏まった時間が欲しいというと、週末が良いと言われた。しかし、その週末は祖母の家の雑草取りをする約束を母としていたので都合が悪いと言ったのだが、「それなら私も手伝いに行くよ」とこれまた燥いで言うものだから、ついつい了承してしまった。
車はひなたがいつも父親から借りてくるキャンピングカーで、以前一度見ていた母はその大きさに驚かなかったが、祖母は驚いたように目を見開いて暫く何かを考えているようだった。
母は初めて祖母と会った病院からの帰り、一人物思いに耽っていたが、退院を手伝った二週間後はスマホで何やら熱心に調べはじめ、アパートに帰ると僕のパソコンで履歴書を作って転職活動を開始した。転職活動は数日で実を結び、母はめでたく祖母が入院していた病院の食堂に採用され、祖母に断られてもお構いなしに祖母の家に引っ越して、そのまま居ついてしまった。
父と離婚すれば義理の母娘関係は解消されるというのに、今更同居するというのが僕には理解できないのだが、母に云わせると「良太のお婆ちゃんには変わりないし、もう一人のお婆ちゃんには私の妹家族が付いているけど、あちらのお婆ちゃんにはお隣さんしかいないから可哀そうでしょ」と言う理屈があるらしい。
そしてその後は何か力仕事があれば呼び出される、と言う事が続いているというわけで、この日は定期的に開催される庭の草むしりに駆り出されたという次第だ。
朝から始めた雑草駆除は午前中に片付いたので、家に上がって母が作ってくれた昼食をゆっくり味わいながら食べていると、祖母が庭に駐車している車に目をやって「あれキャンピングカーって言うのよね」とひなたに聞いた。
「そうです。あのサイズだと大人4人が余裕で寝られるんです。後で中を見てみますか?」
嬉しそうに言うひなたに、祖母は少し困ったような顔をした。
「思い出したのよ。大がまだ小学校に上がる前に、お父さんが、あ、主人の事ね、お父さんが知り合いからあれに似たような車を借りてきて、大と一緒に一泊二日で出掛けたのよ。私はその時ちょっと体調が優れなくてついていかなかったけど、帰ってきたあの子がそれはもう興奮しちゃって、大きくなったら自分もキャンピングカーを買って、私達をいろいろなところに連れて行ってあげるって」
そこまで話すと何故か祖母は目を逸らして黙ってしまった。もしかすると涙を堪えていたのかもしれないが、僕からはそれは分からなかった。暫く気まずい沈黙の時間が流れる。
「お庭なんですけど」場の空気を換えようとしてひなたが努めて明るい声で言う。
「折角日当たりが良い敷地だし、家庭菜園をしたりしませんか?」
「あら、それは良いかもしれないわね。お義母さんどうですか?」
母もひなたの想いを組んで明るく同意して祖母に確認する。
「私にはそんな元気はないから何も手伝えないけど、由美さんがやりたいならやっても構わないわよ」
祖母も表情を取り戻して頷く。
「じゃあ区画と栽培品目を決めましょう」
ひなたは母からメモ用紙を借りて土地の形状を描き出す。
4m道路の北側に綺麗な正方形の土地があり、その正方形を半分にして北側に平屋が建っている。南側の東側は玄関までのアプローチと、車が余裕で二台置ける石畳のスペースになっており、今は母の軽自動車とひなたのキャンピングカーが親子のように並んで停まっている。その石の間にも雑草は生えていたが、特に雑草が生い茂っていたのは、以前は芝生を貼っていたという西側で、芝生は育つ前に雑草にやられて根付かなかったという。
ひなたは、それならばしっかりと土壌改良をして実り豊かな家庭菜園を目指しましょう、と母を焚きつけているが、そもそも二人とも野菜作りなどしたことがなく、スマホで調べてはあれこれと議論している。
祖母がそれを微笑みながら見ており、僕はその三人を静かに見守っている。まるで本物の母娘三世代のように見えた。
午後はキャンピングカーに乗って四人で買い物に出かけた。祖母は今も癌の治療を続けているので体力の心配から外出しないであろうと思ったが、買い物に行く前にキャンピングカーの中を案内すると、あちらこちらを見て回って「これは家の中と変わらないわね」と言って、走っている時の乗り心地も知りたいと言い出して、買い物に付き合う事になった。
ショッピングモールの駐車場に着くと、キャンピングカーがよほど気に行ったのか、ベッドで寝てみたいと言いだしたので、買い物は三人で行くことにして、祖母のために蓄電池で動くエアコンを作動させた。
「エンジンを止めたらバッテリーが上がっちゃうんじゃないの?」と祖母が心配するので、仕組みを説明すると「凄いのねぇ」と感心しきりだった。
買い物を終え二人を自宅に送り届けると、夕飯を食べて行けと言われたが、また来週菜園づくり用の道具をもってくるので、その時はお世話になると言って帰路に就いた。
道中の話題は今後の事だったが、ひなたはどこまで本気なのか自分が整備士兼経理として働くつもりなので、一緒に働いてくれるなら私には営業をやって欲しいという。
「ところで良太はお父さんと連絡とってるの?」
「何だよ、唐突に。もう何年も連絡とってないよ」
「住所は知ってるの?」
「母さんに教えられて一応スマホに入れてるけど・・・だから何だよ」
「じゃあカーナビに住所を入れてください。良太の最初の営業先はお父さんです」
赤信号で止まるとダッシュボードから数台のキャンピングカーの写真が並んだひなたの店のチラシを取り出して渡される。
「は?意味が分からないんだけど」僕は呆れて溜息を吐く。
「まあまあ、駄目で元々だし、お父さん子供の頃キャンピングカーに乗って喜んでたって言うし、行ってみましょう!」ひなたは鼻歌を歌って楽しそうだった。
父の住むアパートに着いても、郵便受けにチラシを投函しただけで、部屋を訪ねることはしなかった。
父のアパートからひなたが待つ車に戻る途中、漸く自分の行動に得心した。
自分のルーツを知っておくと言う漠然とした理由ではなく、自分が父と同じ性格なら結婚に向いていないのではないかと言う、漠然とした恐れを払拭したかったからに他ならない。
だから父の事を知りたかった。そのために祖母に会いたかったのだと思う。
谷田 翠 (たにだ すい)
1.
大を産んでからの日々は、愛おしさと忙しさと驚きと喜びの連続で、今思えば感情の洪水に押し流されて溺れているようだった。
大が笑った、寝返りを打った、座れるようになった、初めてママと言った、ハイハイが出来るようになった、つかまり立ちが出来るようになった、初めて一歩を踏み出した!
大と過ごす時間が楽しくて、毎日ほぼ全ての時間を大に捧げた。成長は順調で、夫も毎日早くに帰宅して育児に参加してくれた。人も羨むほどの良い夫で可愛い子供だった。
だから自然と二人目も生みたいと思うようになり、夫婦で努力をしたが期待通りにはいかず、知人の容赦ない「二人目は?」と言う言葉に重圧を感じるようになり、夫婦でもう諦めようかと話し合っていた矢先、漸く二人目を授かることが出来た。その時大はもう5歳になっていた。
大の時は苦に思わなかった悪阻が、二人目の時は一日中寝ていても治まらない日があり、遊びたい盛りの大の相手をしてやることが出来ない日が続いた。
あの夏、そんな大を喜ばせつつ私をゆっくり休ませようと、夫は知人からキャンピングカーを借りて大を遊びに連れて行った。その時期の私は、ふとした時に鏡に映った自分の顔に驚いて声を上げてしまうほど、血色の無い険しい顔になっていたから、あの時間は私にとって大きな救いになった。
キャンプから帰ってきた大はとても興奮して身振り手振りで話をしてくれたが、私はどんな顔でそれを聞いていたのだろう。
次の日からも大が話すことはキャンプの話ばかりで、私は曖昧な返事をしていたのだと思う。そんな私の態度が気に入らなかったようで、大の悪戯が日増しに酷くなり、ある日それを強く叱った私に腹を立て、私に向かって突進してきたのだ。
お腹に衝撃を受けた私がバランスを崩して転んでしまい、その時の打ちどころが悪かったようで、二人目の子供は流れてしまった。
私が産婦人科医院に入院している間は、私の母が来て大の面倒を見てくれていたが、退院した日、玄関ドアを開けて家に入ろうとしている私の姿を認めると、大はよほど嬉しかったのだろう、廊下を貸しって抱き着こうとしたが、私はつい数日前の忌々しい体験を思い出して「やめて!」と怒鳴ってしまった。もうお腹の中に子供はいないとはいえ、数日前に泣きながら謝った行動を。また繰り返そうとするその姿に悍ましさを覚えた。あの時の大の怯えた顔は今でもありありと思い出せる。
それ以来私の心は大に向かなくなった。流れてしまった子供は女の子だった。夫は名前を付けて墓に埋葬してくれたが、私は火葬にも納骨にも立ち会わず、夫が亡くなるまで一度も墓を参ったことは無かった。
子供は大人が思う以上に敏感だ。大は私に近づくことを恐れつつ、私の気を引こうと家でも学校でも奇行を繰り返すようになった。一度夫が大にカウンセリングを勧めた時は本当に恐ろしかった。大は道具箱から鋸を持ち出して、ダイニングセットの椅子の背もたれを切り出したのだ。私が以前の様に優しく接することを期待したのかもしれないが、私には全部お前の所為だと主張しているように見えてしまい、心は冷える一方だった。
中学校へ進むと、私の歓心を得ることを漸く諦めたのか、学校での問題行動は無くなり、勉強に打ち込むようになった。それでも時に奇声を上げて自室の器物を破壊するので、同じ家に屋根の下に住んでいることが心底怖くなってしまった。
だから夫に相談して大学合格を期に大には家を出て行って貰い、それ以来私は一切の交渉を立つことにした。
子供を殺された事、その記憶を刷り込むような行動、注意された後の奇行の数々、私は大を許すことが出来なかった。
2.
夫は亡くなるまで常に私に寄り添ってくれた。その所為で大との関係を断つことになっても。
夫は死期が近づくと「そろそろ許してやったらどうか」と何回も大との関係修復を促したが、今更何をどうすれば関係が修復できるのか、私には想像できなかったので、私は笑顔で首を傾げることを繰り返した。
大と住んでいた家は都市開発の影響から好条件で手放すことになり、新たな土地も好条件で斡旋して貰えたので、手元にはかなり纏まった金額が残ったが、夫はそれを大の名前で作った銀行口座へ毎月少額ずつ送金して、亡くなる前に全額が大の物になった。
大からはたまに電話がかかってきたが、私はそれに出ても素っ気なく対応することしかできなかったので、大も諦めたのか手紙でのやり取りがメインになり、最近では携帯電話のメッセージを使うようになった。
大からの手紙は「大学卒業と就職」「結婚」「土地の購入と注文住宅の購入」「長男誕生」「長男入院」「長男小学校入学」「長男中学校入学」「長男高校入学」「長男大学入学」「長男就職と独立」と言った人生の節目に送られてきた。私は読んでいないが夫が読んで概要だけ私に教えて、その後は夫の私物入れに大切に保管した。だから夫は引っ越した際も住所を知らせる手紙を書いて大との交流を続けていたようだ。
自ら望んでの事だが、大とはそのように希薄な関係だったので、大の妻を名乗る女性が病室を訪ねてきたときは、タイムマシンに乗って人が訪ねてきたのではないかと思うほどの衝撃だった。しかもその女性の隣には大によく似た立派な成人男性がいるのだから、治療で弱っている心臓にはとても宜しくなかったと思う。
名前は夫から聞かされていたがうろ覚えだった。それでも顔を見たらなぜか急に思い出したのは謎だ。由美さんは年相応の落ち着いた美しさがあり、良太は社会人としての自信が漲って頼もしさがあった。
短い時間での会話だったが、二人からは温もりを感じて自然と打ち解けてしまい、退院の手伝いの申し入れも有難く受けることにしたが、それが由美さんの転職や転居を決断させたり、それによって迷惑をかけていたりしていない事を願うばかりだ。
退院の日、二人は車で病院から私の家まで送ってくれ、荷物をそれぞれの場所へ仕舞ってくれた。一段落ついてからお茶を淹れると、そもそもの用件を話し始めた。想像はしていたが大と離婚協議中だという。結婚の時ですら何の意見もしなかった私に、反対する理由はないと言うと、由美さんは困ったような笑顔で頷いていた。
由美さんが「最後にご焼香をさせてください」と言って、二人が代わるがわる仏壇に手を合わせてくれたのだが、由美さんは二つある位牌が気になったのか最後に振り向き、誰の位牌か聞いてきた。適当な嘘を言えばよいものを、咄嗟に頭が回らず娘の物だと答えると、手に取って良いかと確認され頷いてしまった。
由美さんはとても賢い人だと思う。没年月日と俗名、行年の代わりに書いてある「当歳」をみて何かを悟ったのだろう。何も言わずに位牌をもとに戻し、改めて手を合わせてくれた。帰り際に「またお義母さんにも、ご仏前にも挨拶に伺います」と言って帰っていった。
それがまさか数日後に、私が入院していた病院の食堂に就職が決まったので私の家に住まわせてくれ、と言ってくるとは思わなかった。あの人には驚かされてばかりだ。
由美さんの申し入れの深意が分からず、離婚協議中の夫の母親と住もうと思う人の心情も理解出来ずに黙っていると、「大さんの問題で住まいを無くして、今は息子にも早く家を出て行けと言われて困っているんです。家事は得意ですしきっと役に立ちますから、次の住まいが決まるまで家においてください」と情に訴えるように矢継ぎ早に言われてしまい、断る事も出来ずに了承してしまった。
由美さんは自薦した通り私よりも家事が丁寧で効率も良かった。料理の腕は調理師免許を持っていると言うだけあって、私が作る家庭料理の数段上のレベルだ。その上、病院食よりもはるかにおいしい料理なのに、病院の管理栄養士の指導で作っているので、病院食とそん色ない栄養とカロリーだというのだから驚かされる。
一月も経たないうちに今度は私の方から、これからも一緒に住んで欲しい、とお願いすることになった。ついこの前までは全く知りもしない人だったのに、まさかこんなお願いをすることになるとは想像もしていなかったが、それほど由美さんとの生活は楽しく快適だったと言う事に他ならない。
大との離婚が成立しても、由美さんは谷田姓を名乗る事を選び、引き続きここに住むことを決めてくれて、財産分与されたお金の中から中古の軽自動車を買ってきた。
軽自動車の登場により私達の行動範囲は格段に広がり、体調の良い日は一緒に買い物に出たり、少し離れた大きな公園でピクニックを楽しんだり、まるで本当の母娘の様に毎日楽しく過ごした。それと同時に生きていれば由美さんと同世代の娘の事を思い出して、心が沈むこともあったが、由美さんはまるで私の心が読めるかのように、そっと寄り添ってくれた。私の心の傷は一生癒えることは無いと思っていたのに、よりによって大と離婚した由美さんによって癒されるとは思ってもみなかった。
奇妙な同居が始まって一年近くたったころ、雑草取りを手伝いに来た良太が乗ってきた車を見てあの辛い記憶が蘇ったが、逆に大があれほど喜んだ理由も知りたくなり、中を見せ貰ったついでに買い物に便乗してみることにした。
それを機会に記憶が喚起され気持ちが落ち着かない日々を過ごす中で、大から電話がかかってきた。由美さんが対応してくれたので、私が直接やり取りせずに済んだが、その晩はなかなか寝付くことが出来ず、寝支度している由美さんを呼び止めて、初めて大との関係性について話をして、大が過去に送ってよこした手紙を見せた。
私は解かっている。あの子を捻くれた性格にしてしまったのは私で、私をそうさせたのはあの子だ。夫はあの子を許してやれと言ったけれど、あの子を許してしまったら、亡くなってしまった娘が私を許さないのではないかと思ったし、今では大も私を恨んでいかも知れないと思うと、今はもう何もせず静かな最期を迎えたいと思っていた。
でも今は由美さんのお陰で私の人生が大きく変化して、大に対する思いも少しだけ変わったような気がする。
3.
高齢の影響で癌の進行は緩やかで、その分苦しむ時間も長い。時にはもう楽になりたいと思う事さえあったが、由美さんが献身的な介護をしてくれたので、毎回気持ちを持ち直して治療を受けてきた。
それでも由美さんとの同居が二年を過ぎた頃、担当医からもう手の施しようがないと宣告された。終末医療でペインマネージメントが始まると、苦しみが緩和されたが、同時に行動範囲は格段に制限された。ただ、並行して精神ケアを受けることが出来たのは、人生の最期に向けて良い変化をもたらした。人に対する感謝の念が強くなり、それは大に対しても同様の効果があった。
人生の最後に由美さんと過ごせたのは、何ものにも代えがたい幸せだったと思う。
由美さんと過ごした二年の間に、大からくる連絡は全部由美さんが対応してくれた。
その最初が住民票を移したいという話だった。由美さんは同居しないことが条件なら問題ないと思いますけどどうしますか、と私の意思を尊重して方針を決めてくれた。
それ以来大宛てに届く書類は全て由美さんが開封して大に連絡し、大から処理を頼まれれば全て由美さんが対応してくれた。
孫の良太も、その恋人のひなたさんもとても気持ちの良い子だ。結婚をするつもりだとは言っていたが、仕事の都合があると言ってなかなか先に進まない。出来ればひ孫の顔を見たかったけれど、それはもう叶いそうもない。
大に対する気持ちはもう整理がついていた。亡くなった夫を尊重すると言う事ではなく、純粋に私の気持ちとしてあの子を許したいと思うし、あの子に許して欲しいと思う。
でも今更会いたいとは思わない。会って私の想いを伝えたときに、あの子がどんな反応をするのか想像するだけで心が竦む。だから手紙を残すことにする。
私にはペンを握って長文を描く体力はもう残されていない。だから口述したものを由美さんがパソコンに打ち込むという方法にした。
谷田 大 (たにだ まさる) 2
1.
母が亡くなったと元妻の由美から連絡があった。
既に荼毘に付し、繰り上げ初七日を済ませてあると言う。亡くなった直後に連絡をしなかったのは、母から生前に頼まれていたのだと言う。そして、これも母の願いだと言って、四十九日の法要と納骨に来て欲しい、と言われた。
その時私は二度目の日本一周旅行の最中で、前回は諦めた北海道を旅していた。別に何目的もない旅なので、いつでも切り上げることは出来るが、問題は私の気持ちだ。
何故由美が母の死を知っているのかも気になったが、由美は私に気付かれないように母と定期的に連絡を取っていたのかもしれない。私の連絡にはあれほど冷たかったのに、既に嫁でもなく言ってみれば赤の他人に死後を託すとは、死後であっても私とのかかわりを避けたいという意思表示のように思えてならない。
私は曖昧に返事をして、暫くは予定していた旅程を忠実に辿ることにした。このまま進んでも納骨の時期に墓地へ行くことは可能だからと言う事もあったが、今更何もできないという虚無感もあったし、たとえ実の親であっても嫌われていた人に対して義理を通す必要はないという退廃感もあった。
この旅行の一番の喜びは、時間を気にせず美しい景色を楽しめることだ。天気の良い夜は都会では見ることのできない星空が広がる。今年の晩秋は長野県にある日本一星空が綺麗だと言われる場所に近いオートキャンプ場に、一週間の予約を入れてある。
星座に詳しいわけではないし、興味があるわけでもないが、標高が高く街灯の無い場所で見るあの星空は毎回圧倒される。一瞬自分の目に異常があるのではないかと疑うほど、視界にびっしりと星が散らばっているのだ。その日本最高峰が長野県にあると知って、行かない理由はないだろう。
始めて見た満天の星空は恐怖すら感じたが、時間が経つにつれ現実感が伴い、妙な悟りが開けた。世の中の出来事の内、自分が見えている事なんて都会の夜空の星と一緒で、ほとんど僅かなものでしかなく、その周りには多くの事柄が隠れているのだろうと。そして今この満天の星空にも、肉眼では見ることのできない星が輝いている。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、SNS、動画配信、それらの情報はどれも些末で、全てを正確に伝えているものなど何処にもないのだろう。
僅か二年前には他人の不始末や不祥事にいちいち憤っていたのに、今では全く気にならなくなった。暇人と言う点では今もあの頃と変わりはないが、心の在りようは雲泥の差と言って良い。今は私に携わってくれたあらゆる人の事をゆっくり考えることが出来る。
ただ、それすらも私が見聞きすることのできた、ほんの小さな事象についての事で、その周りで何が起こっていたのか、当人がどう考えていたか知る由もない。
だからその晩も星を見て考えた。亡くなってしまった両親の事をこれ以上知ることは出来ないが、由美と良太の事は今からでも知ることが出来るのではないかと。
翌朝には意思が固まり、残りの北海道旅行の計画は翌年に持ち越し、進路を南にとった。
2.
教えて貰った霊園に着いてから、道中の紳士服店で購入した喪服に身を改める。
約束の時間には大分早かったが準備が整ったので、由美に到着を知らせるメッセージを送って、霊園内の散策に出た。
電車の駅からは、バスかタクシーを利用することが推奨されるほど離れた場所に作られた霊園は、傾斜を切り開いた構造で、敷地の周辺は木々で覆われて、樹木の葉音が煩く感じるほどで、その一帯に静謐さを感じる。
駐車場の横、霊園に入ってすぐの場所に立っている二階建ての葬儀場兼事務所に入ると、空調が程よく効いて、無料の給茶機が設置された寛ぎの空間になっている。壁には今日行われる法要の時間と施主の名前が書かれており、そこに「谷田家四十九日」の文字を見つけ、改めて母が他界したことを実感する。
事務所の入り口に戻り、霊園全体の見取り図を見る。数回に分けて整地を行い、そこを数百の区画に分け販売してきたようで、既に数千の墓石が建っていると書いてある。この中から谷田家の墓を探すことはかなり骨が折れるだろうと思いながらも、待ち合わせの時間までまだ時間があったので見て回ることにする。
墓地は斜面に段差を付けてあり、一段あたりでも墓石の数は数百もあると思われる。それが上に向かって数段あるのだから、かなりの規模の開発だったろうと思う。
一段目を端から全部見終わって、二段目に入ってしばらく経った頃、ポケットに仕舞ったスマホが振動して、由美が到着したことを知らせる。
事務所へ戻ると、職員と話している三人連れの中に由美と良太の姿を見つけて近づいていく。もう一人が振り向いて私を認め、笑顔を向けて手を上げるので私は驚いて足を止めた。
草野ひなたが何故ここに居るのか、皆目見当がつかず混乱した。
祭儀場で四十九日の法要を終えると、納骨の準備が整うまで暫くお待ちください、と言う職員に従って休憩所に入り、漸くひなたが何故ここに居るのか説明を聞くことが出来た。
ひなたは良太の恋人であり元同僚だったと言う。私のアパートのポストにキャンピングカーのチラシが入っていたのは、良太に頼んでの事だったそうで、その先は聞くまでもなかった。
キャンピングカーのチラシを入れた理由は、私が幼少期にキャンピングカーに乗って喜んでいた話を母から聞いたからだと言う。
全ての辻褄が合って、驚くよりも呆れてしまった。
もう一つの疑問だった由美と母との繋がりについて聞こうとすると、納骨の準備が出来たと声が掛かり、墓へと向かう。
初めてみる筈の墓は何故か既視感があり、墓誌には父の名前の隣に一行空けて「望」の名前が刻まれていた。私は何か重要な事を忘れているような気がして、しかもそれを思い出せないことに焦燥に似た感情にかられ、僧侶の読経が耳に入ってこなかった。
納骨が終わり事務所で簡単な打ち合わせが終わると、由美が「この後精進落としの席を設けているんだけど、一緒に来て貰えるかしら」と言うので、それに従う事にして、良太が運転する軽自動車の後について車を走らせた。
食事中に聞いた話も呆れる内容だった。先程の良太とひなたの話に対してもそうだが、呆れるのは自分自身の迂闊さに対してだ。
由美は家を出てから良太の住まいに身を寄せていたが、思い立って良太を伴って母に会いに行き、その後程なく母と同居し、ひなたも良太と一緒に母と会っていたと言う。
「痩せたっていうか引き締まったように見えるけど、日焼けの所為かしら」と由美が脈略なく話を変える。
「そうですね。初めてお会いした時より若返ったように思います」とひなたが同調する。
「車で移動するだけだと運動不足になるから、自転車で走ったり筋トレしたりしているからかもね」
「自転車ってあの車の中に入ってるの?」
「そう、折り畳みの自転車だから収納しやすいんだ」
こんなにリラックスして他愛のない話を由美としたのはいつぶりだろう。
「ご飯はどうしてるの?」
「殆ど自炊だね。自炊歴も長くなったから段取りも良くなって、なかなかの腕前になったと思うよ」是非今度一度馳走させて欲しい、と言う言葉は飲み込んだ。
「ふーん、人はいくつになっても成長できるって、本当みたいね」由美が良太と目を合わせてにやけながら肩をすくめる。
「このあと何か用事ある?話したいことと渡したいものがあるから、お義母さんの家まで来てもらえると助かるんだけど」
由美は遠慮がちに言うが、それが今日の二つ目の本題の様に感じた。私に用事などあろうはずがないので、行くことを約束して、母の住所を念のため確認した。
良太の運転はとても安定していて安全で安心だ。後続する私との距離を考えて、信号のある交差点では私が取り残されないように速度を調整してくれる。カーナビに母の家の住所を入る必要はなかったようだ。
案内された家は平屋の戸建てで、駐車場の横にある小さな畑には鳥よけのネットがかけられ、その中には何種類かの野菜が実っていた。
通された居間には今朝まで遺骨がそこに安置されていたと思しき白い布で覆われた祭壇があり、由美はその横にある仏壇に母の位牌を丁寧に置いた。
仏壇には四十年ぶりに会う父と母の遺影が並んでおかれていた。不思議な事に記憶の中の二人とは大きく異なっていたのに、見た瞬間に記憶が補正されて、それが自分の父と母だとわかるのだから、脳の働きとは不思議なものだ。
由美に促されて焼香して手を合わせる。由美が続き、良太、ひなたも焼香する。線香の煙の流れを追うように室内に目を向ける。室内は質素で必要最低限と思える家具しかない。初めて訪れる家なのに、ここで父と母が生活していたと本能が感じ取り、少しく心が落ち着く。
全員の焼香が終わると、由美に促されてダイニングキッチンに移動し、椅子に腰を下ろす。由美は四人分のお茶を淹れてテーブルに出すと「さて、何から話せばいいかな」と言って不格好なスツールに腰かける。ああ、私が背もたれを切り落とした椅子を捨てずにいたのか、と妙な感慨に意識を奪われる。
由美は暫く考えたのち「やっぱり先ずはお義母さんから貴方宛ての手紙を読んでもらったほうが良いわね」と言って席を立ち、仏壇の抽斗から分厚い封筒をもってきた。
「お義母さんがこの手紙を残そうと思った時、もう筆を持って机に向かう体力は残ってなかったの。だから私がお義母さんから話を聞いて、それをパソコンで打ち込んで、プリントアウトしたものをお母さんに添削して貰ったから、100%お義母さんの言葉だと思って読んでね」
母と由美がどうしてそこまでの関係になったのか、先にそれを知りたくなった。
「先に教えて欲しい事があるんだけど、良いかな」僕の言葉に由美が頷くのを見て話を続ける。
「君が母に会ったのは、俺との離婚を報告するためで、それ以前は一回も会ったことは無かったよな」
「そうね。会おうと思っても断られていたからね」
「それがどうして一緒に暮らして、遺書のようなものを描くのを手伝って、最後まで看取るっていう話になるのか、まだちゃんと説明を受けていない。母の手紙を読む前にそのあたりの事情を教えて貰えないかな」
「そうよね。謎だらけじゃ手紙を読んでも頭に入ってこないかもしれないものね」
由美はお茶を一口飲んで続ける。
「貴方の理解の通り、私は貴方との離婚を決意したとき、一度も会ったことのない義理の母に最後くらい挨拶したいと思い立ってここを尋ねたの。あの時は衝動的な行動で深い理由があるとは考えていなかったけど、お義母さんが癌で入院していることをお隣さんに聞いて、何かしら運命の様なものを感じて、そのまま病院を訪ねたの。病室でお母さんの顔を見たとき何故今お義母さんに会おうとしたのか、本当の理由が分かったような気がした。私は貴方の事をお義母さんから聞きたかったのよ。子供の時どんな子で、どういう教育方針で育てて、それは期待通りの成長だったのか。だって、貴方ちょっと変わった人だと思っていたから」
自分でも退職後に激変した生活環境でそれを痛いほど理解したので耳が痛い。
「でも、お義母さんは貴方の話題になると途端に苦しそうな顔になるし、聞くのは諦めようと思っていたんだけど、退院の手伝いをして初めてここに上がって、仏壇に手を合わせているときに見つけてしまったのよ。貴方の妹になる筈だった子供の位牌を。お義母さんが頑なに貴方の話をしたがらないのは、もしかしてこの仏様に関係があるのかも知れないと思ったら、何だか急に可哀そうになっちゃって。私も住むところを探しているところだったし、お義母さんが入院していた病院で調理師の募集もしていたし、あ、私貴方と一緒に居る間、良太が家を出た後に、家からバスで30分行ったところにあるスーパーで働きながら調理師免許を取ったの、知らなかったと思うけど」
知らなかった。料理が上手いことは知っていたが、働いて免許まで取っていたなんて。
「運良く採用されたからお義母さんに無理を言ってここに住まわせて貰って、身の回りの世話を勝手にさせて貰っていたの。良太がひなたちゃんを初めてここに連れてきたとき、キャンピングカーを見たお義母さんの様子が少しおかしくなって、その晩初めて貴方の事を話してくれたの。この手紙にはその事情も書いてあるから、読んでみてください」
「ちょっと待って。妹になる筈だった子供って誰?墓誌に刻まれてた「望」って子供のこと?」
「それもそこに書いてあるから、落ち着いてゆっくり読んでください」
谷田 翠 の 手紙 (たにだ すい の てがみ)
大へ
今更私の心に蔓延っていた蟠りを話しても、貴方は困ってしまうと思うけれど、私には貴方を突き放さなければ正気を保てなるくらい、貴方の事を許すことのできない事情が有ったことを、先ずは理解して欲しいと思います。
それについては夫婦の中でも禁忌にしていたし、貴方に自身の罪の記憶はないと思うから、ある時期を境に私の貴方に対する態度が変化したことに驚いたと思いますし、今更何を言っても貴方に許されるとは思わないけれど、せめて私が貴方を許して逝きたいと思うので、手紙に残すことにしました。
もうお墓の墓誌と仏壇の位牌は見たでしょうか。そこには貴方の妹の「望」の名前が刻まれています。あの子は分娩室の明るい光を感じることも、空気が肌に触れる感覚も、気管を空気が流れて産声を上げることも出来ず、私のお腹の中で息を引き取り、死産として取り上げられ、法に則り火葬され埋葬されることになりました。
あの子を殺した犯人は、私と貴方の二人。
私が知らず知らずに種をまいて、貴方は無意識にその芽を摘んでしまった。
貴方は私達夫婦の最初の子供で、私達の父母にとっても最初の孫でした。貴方は生まれたとき標準よりはるかに小さくて、だから、大きく育って人に優る人物になる様にと「大」と書いて「まさる」と読む名前を貴方のお父さんが付けてくれました。
両家の父母も私達も、とても貴方を可愛がって皆で大切に育てました。私は母乳の出が悪かったから粉ミルクで育てたのだけれど、授乳の時間になると順番を奪い合うようにしてミルクを飲ませ、夜泣きをすれば一晩中交代で貴方を抱いて過ごしました。
おむつの交換は健康観察を兼ねていたので、真剣に排便の状態を確認して、色や量や状態がどうだったか書き留めて、一日の終わりには夫婦で評価しあっていました。
あんなに小さく生まれたのに、成長は順調でした。平均よりも早く寝返りをしたりハイハイしたりしたように思います。あの小さかった子が元気に育っていることが奇跡のように思い、欲しがるものは出来る限り与えたし、食べ物の好き嫌いにも悪戯にも寛容でした。
我儘に育つのではないかと心配もしましたが、この奇跡はこの先のさらなる奇跡に繋がっていると、根拠もなく盲信していたので、皆が目を瞑っていたように思います。
でも、それがいけなかったのかもしれません。
私達夫婦が待ち望んだ二人目の子供は、貴方と違い私に強い悪阻を起こさせ、私は床に臥す時間が増え、貴方と遊んであげられる余裕も時間も無くなってしまいました。執拗に遊びをせがむ貴方にはその都度分かり易いように私の体調について説明をしたけれど、まだ5歳の貴方に理解出来る筈はなく、許してくれる事は有りませんでした。
困り果てた私を見かねて、夫がキャンピングカーを借りてきて、貴方を短い旅行に連れて行ってくれたのはそんなときです。
私にとってその時間はとても嬉しかった。誰にも邪魔されず身体を休め、体調にあわせて食べたいものを食べ、眠たくなったら眠る。ずっとこのままなら良いのにと思ってしまったほどです。
緊張が一時でも緩んだことも良くなかったのかもしれません。
酷い話ですが、貴方が帰ってきたとき、私は貴方を疎ましいと思ってしまった。
そして恐らく貴方はそれを敏感に察知したのだろうと思います。ただ、察知したとはいえ、その年頃の子供が相手を慮って気遣うなど出来ない相談でしょう。私の気を引くために悪戯が酷くなって、それでも私が相手にしなと暴れるようになりました。
そして私の感情は一層頑なになり、玩具を床や壁に投げつける貴方に、あの日初めて大きな声を上げて叱りました。貴方は驚いたのでしょう、泣くこともなく呆然としていましたが、処理できない感情の持って行き方を知らない貴方は、私に突進してきました。
私は貴方が散らかした玩具を片付けていたので反応が遅れました。貴方の頭がお腹に当たり、バランスを崩して倒れたところが玩具箱の上で、お腹に強い痛みを感じ動けなくなってしまいました。
必至に這って電話のある場所まで行って、病院へ電話をするか夫へ電話をするか悩むうちに、貴方の「ごめんなさい」と言う鳴き声が遠のき、鳴き声を聞いて心配した吉田さんが様子を見に来てくれるまで、何分間か気を失っていました。
覚えているかしら、お隣の吉田さん。お子さんは二人姉妹で貴方よりも大分年上だったけど、時々遊んでくれたわ。
吉田さんに支えられて起き上がった時は、もうお腹の痛みが治まっていたので、その日はそのまま過ごしたけれど、明朝お腹に違和感があって慌てました。
夫に相談して病院へ連れて行って貰うと、お腹の子の胎動が無く既に亡くなっていると言われ、私はまた意識を失う事になりました。
入院して薬を使ってお腹から取り出されたあの子の肌の色は、今も忘れることが出来ません。死産の場合は名前を付ける義務はありませんが、あまりにも不憫で、来世に望みを繋いで欲しいと願って「望」と言う名前を付けました。
退院して自宅に帰ると、貴方が嬉しそうに走ってきて私に抱き着こうとしました。私は反射的に、もうそこに居ない子供を護る様にお腹を庇って叫びました。貴方は何事が起きたのか理解できずに立ち竦みました。その貴方を夫が抱きしめながら優しく諭していましたが、私の感情は夫の優しさとは真逆の感情で満たされていました。娘を殺したこの子を許せないと。
貴方が生まれてから写真をたくさん撮りましたが、その写真は貴方が5歳のキャンピングカーでの旅行を最後に更新が止まっています。貴方が見る機会はなかったと思いますが、それはたとえ写真であっても貴方の笑顔を見ることが嫌だったからです。だから、夫に言って写真を撮ることを止めてもらい、アルバムは押入れの奥底へ仕舞って貰ったのです。
夫は私と違い貴方に寛容でした。子を身籠ることが出来ないから、私の苦しみを理解できないのか、それとも天性の楽天家なのか、それとも神の様に慈悲深いのか、私には到底理解することが出来ませんでした。
貴方は小学校へ上がると月に一度は学校で問題を起こし、家庭内でも奇行が目立つようになりました。私は学校が紹介してくれた無料カウンセリングに一度だけ相談したことがあります。カウンセリングの先生は、貴方の行動は親の気を引くためではないかと思うと、その対象は母親の場合が多いと言いました。それはその通りだと思いましたが、もう私の中で貴方と言う存在は異物以外の何物でもなく、そのような対象に優しくすることなど出来ようがなかったのです。
夫は私と貴方の間で苦しんだと思います。貴方にもカウンセリングを受けさせようと言ったこともありましたが、貴方が無言でダイニングセットの椅子の背凭れを鋸で切り始めたのを見て、これ以上問題を拗らせたくないと思ったのか、静観するようになりました。
その時の椅子は夫の言いつけで今でも残してあります。あの人はいったい何のためにあれを残せと言ったのか、未だに謎です。
中学生になると学校での問題行動は無くなり、家庭内でも比較的おとなしくなり、勉強の成績は学校の先生も驚くほど良くなりました。
夫はその時期に貴方の事を自立心の強い子供だと思ったようで、貴方の部屋を貴方好みのインテリアで揃えることに力を注ぎ、それ以外は口を出すことを止めました。
高校も大学も、貴方は偏差値の高い志望校へ難なく合格して、大学に合格した際は夫がご褒美にと一人暮らしを薦めて、貴方はそれを受けました。貴方がそれをどう受けとめたのか分かりませんが、私にとってもそれはご褒美でした。
貴方はそれ以来一度も帰省する事は有りませんでした。たまに電話がかかってくることがありましたが、私は用件を聞くだけで電話を切ってしまうので、貴方の近況を気にしていた夫は不満を漏らしていました。
貴方も徐々に電話をしてくることが減り、人生の節目には手紙を送ってくるようになりました。手紙は夫が読んで大切に保管し、私は最近になるまで一通も読んだことがありませんでした。
貴方が何年かぶりに電話してきたとき、携帯電話に表示されたあなたの名前を見て、死に臨んでもまだ貴方に怯えている自分に、情けなさと悔しさでどうにかなってしまうのではないかと思いました。
でもあの時は既に由美さんと一緒に住んでいたので、彼女にお願いして携帯電話のメッセージでやり取りをして貰いました。内容を聞くと、私の住まいに転入したいと言う事で驚きましたが、更には、実際に居住することはしないと言う得体のしれない話で、私の動揺に拍車がかかってしまい、由美さんには大分心配をかけてしまいました。
その日を境に夫が最期まで望んでいた、貴方に対する感情の整理をすることを決めました。あの人は本当に最後の最後まで貴方を気に掛けていたし、私の感情にも寄り添ってくれていました。だからこそ一日も早く私が蟠りを捨てることを願っていました。
由美さんに貴方との関りについて説明して、貴方から届いた手紙を探し出して由美さんと一緒に読むことから始めました。
手紙の中には、人生の節目に際して私達夫婦への感謝の言葉と、近況の報告が簡潔に書かれており、その時々の心情も綴られていました。
特に由美さんと良太へ対する貴方の心情は、私の知っている貴方からは想像することが出来ないものでした。
貴方は由美さんが毎日完璧に家事をこなして、美味しいご飯を用意してくれていることに感謝して、それに応えるために一生懸命働いたのね。
無理をして買った家や車は、全部これから生まれる子供との家族が楽しく暮らすためだし、私達を驚かせたかったのね。
でも、由美さんからも良太からも、その家と車について良いこと聞かないと言う事は、貴方が由美さんの意見を取り入れなかったからなのでしょうね。自分の世界に閉じこもって、自分の考えが全てになって仕舞ったのかもしれませんね。
良太が生まれて本当に嬉しかったのね。文脈にそれがにじみ出ているし、大事に育てるって何回も書いていますね。
でも、由美さんに聞いたら乳飲み子だった良太を初詣登山に連れて行って、大変な目に合わせたそうね。大事に育てる意味がきっと良く分からなかったのね。何でも体験させることが大事だと思っていたのかもしれませんね。
良太は貴方が自分に無関心だったって言っていたけど、もしかしてその事件があって怖くなっちゃったのかしら。それとも夫を真似て放任主義をやってみたのかしら。どちらにしても子供にそれが伝わっていないと言う事は、失敗だったのかもしれませんね。
そして手紙を全部読み終わった私は、私の失敗に漸く気が付きました。
私は何故あの時期、誰にも頼らず、貴方が癇癪を起こすようになるまで放置してしまったのか。夫にも両家の両親にも頼ろうと思えば頼れたはずだし、幼稚園で延長保育をお願いしることもできたはずでした。それにも関わらず誰に頼ることもせず、貴方に寂しい思いをさせて不安にさせ、結果的に事故が起き、私は反省するどころか全ての責任を貴方に求めて、貴方を孤独にしてしまい、幾つになっても自分の想いを他人に伝えることのできない、貴方をそんな寂しい人間にしてしまいました。
本当の孤独は村八分にされる事だと聞いたことがあります。近くに人がいるのに自分は居ないかのように扱われる。私のやったことはそれだったのかもしれません。
夫は私に貴方の事を許してやれと言っていましたが、それは同時に私が貴方から許されることを期待していたのではないかと今は思います。
でも今更ですよね。そもそも私が貴方を許すとか許さないとかいう話ではなく、あの時期の私を反省して貴方に詫びるべき話だったのですから。
本来なら貴方に会って直接謝るのが筋だと思いますし、夫ならきっとそうしろと言うと思いますが、私にはそんな勇気がありません。それに死を目前にした今、落城寸前で命乞いをするような、そんな憐れみ求める真似はしたくありません。
貴方は私の助けなど無くても成長して、素敵な女性と結婚して家も建て、賢い子供にも恵まれました。それで充分ですよね。今更私の存在など邪魔でしかないでしょう。
だから貴方はどうか私の事は忘れて、由美さんと良太との関係を取り戻して、幸せに生きてください。
ここからはお金の話です。
貴方が生まれ育ったあの家は都市開発の区画整理のために売りました。その時に今の住まいへ移ったのですが、それなりに纏まったお金が手元に残りました。そのお金には一切手を付けず、贈与税がかからない額で、夫が毎月あなた名義の銀行口座へ移し続け、完納しています。
夫が亡くなった時、貴方は相続放棄をしましたが、夫はそれを予想していました。生前私に、現金化できるものはその半額を、これも贈与税の心配がない範囲であなた名義の口座へ移すように指示し、夫の死後にその通り実行し、これも完納しています。
そして私が亡くなった後ですが、法定相続人は貴方と良太の二人です。貴方が相続放棄をするなら相続の権利は全て良太が有することになります。
因みに負の遺産は有りませんので、よく考えて結論を出して貰えればと思います。
そして、もしも由美さんがあの家に住み続けたいと言うようであれば、十分配慮して貰いたいと思います。
この先を書き留めることを由美さんは拒みましたけれど、これがあの子に伝える最後の母の言葉だと強要して書かせました。とはいえ、今更母親面する積もりはありませんので、読み流して貰って構いません。
由美さんは本当に素敵な人ね。良く見つけて結婚しました。その点で貴方の事を偉いと思いますが、最後まで添い遂げられないのは減点ですね。
だから、もし由美さんが貴方の事を許してくれたとしたら、その時は改めて夫婦の形をよく考えてやり直して貰えたらと思います。
私と貴方は、私の所為でお互いに話し合うことが出来ず死に別れになってしまいます。でも貴方達はそうならないで欲しいと思います。生きている間に許し合って欲しいと思います。
それと、別に土地や家に縛られる事は有りませんので、家をあの形のまま受け継ぐ必要はありませんし、土地も無用なら売ってしまえばよいと思います。「土地家屋を大事に子孫に残すと言う考えはもう古い」と言うのは夫の考えでしたが、私もそれは賛成です。ばらばらに住んでいても心が通じ合うなら、そういう新しい家族の在り方を探すべきだと思います。
今は祈る事しかできません。
私のたった一人の子供の大と、人生の最後に彩りを与えてくれた由美さんと、良太とひなたちゃんが、末永く幸せでありますように。
谷田 大 (たにだ まさる) 3
1.
私は子供のある時期から母の愛情が離れたことを感じ取り、何とかそれを取り戻そうと必死になったが、私の願いとは裏腹に、母との距離は縮まることは無く、寧ろ益々離れていった。私はもどかしさに苛立ちを募らせ、自分でも理由を説明できない奇行の数々へと繋がった。
私は単純に母の愛情を取り戻して、以前の様に抱き寄せて欲しかったし、頭を撫でて欲しい、頬に手を添えて欲しい、そう思っていただけだった。
私が疎まれる原因となった事故の記憶はなく、母の手紙を読むまで知りもしなかった。
それでも墓の記憶はあった。母の納骨の時にみたあの墓は、やはり子供の時にみたものだった。あれは私のせいで生まれることが出来なかった妹、「望」の納骨の日だったのだろう。
母の怒りはいかばかりだったか、想像するのが難しい。
母が手紙に残した父に対する疑問の様に、私が男だからだろうか。それとも防衛本能が働いて、心が壊れないように幼い私自身が記憶から抹消してしまい、それからあまりにも時間が経ち過ぎたからだろうか。
母の歓心が再び私に向くことが無いと悟った幼い頃の私は、勉強に打ち込むようになった。甘えることがかなわないなら、せめて喜んでもらいたい、褒めてもらいたいと、子供ながらにそう思って努力をした。お陰で学力は周囲が驚嘆するほど上がったが、それでも母が褒めてくれることは無かった。
私はどうすれば人に愛されるのか、分からなくなってしまった。
それは由美に対しても同じだった。
仕事を頑張れば褒めて貰えるかもしれない。由美の負担を減らしてあげれば喜ぶかもしれない。
だから、由美が身籠ってからは残業や接待を積極的に行うようにした。給料を上げるために仕事を増やし接待も増やせば、由美の夕飯作りの手間を省くことが出来る。一石二鳥の最高の手だと思って実行していた。
生まれてくる子供が男児だとわかると、その子のために立派な家を用意したいと思い、更に仕事に打ち込んだ。私は、家名を残し、土地家屋を残すのが人生の一大事だと信じていたし、それが親孝行だと信じて疑わなかったからだ。
良太が生まれてからも仕事の手を抜くことは無く、それが故に家事に加えて育児も由美に任せっきりになってしまったから、年末年始は張り切って家事も育児も頑張ろうと思い、二人を初日の出に連れて行ったが裏目に出てしまった。
良太を入院するまでに苦しめてしまったあの日、由美の冷たい眼は今でもよく覚えている。
だからあの日、もう二人に迷惑をかけまいと近い、私は放任主義と言う理屈を盾に育児を放棄して、家に居場所の無くなった私は仕事に邁進し、家事も顧みることが無くなった。
とにかく1円でも多く稼いで由美に報いたいと思った私は、今では受け入れ難い「猛烈社員」の見本だったと思う。それでもあの時代は受け入れられていたので、「企業戦士」のつもりになって成績を上げ順調に出世した。平日は出世の都度増える部下の尻を叩きながら営業に邁進し、週末は接待ゴルフや麻雀に時間を割き、休みなく必死に働いた。
それでも、由美の歓心も、良太の憧れも、部下の尊敬も得られず、誰に対しても私の期待していた通りにはならなかった。由美からは愛想をつかされ、良太からは無関心だと罵られ、部下からは無視された。
私の妄想はリストラと言う嵐で吹に消され、代わりに現れたのは厳しい現実だ。
私はあの家と車と一緒だ。全部私の独りよがりが招いた結果だ。
それらは全て誰にも受け入れられず、二束三文で引き取られていった。
母の遺産については良太と協議して法律に基づいて相続した。
自分も知らなかった貯蓄は驚きだったが、年金の受給までの期間も職に就かずにキャンピングカー生活を送っても余るほどの金額で、正直に助かる思いだった。
土地家屋は売らずに由美が住み続けることになった。
由美は病院の食堂で重宝されているようで、アパートを借りて生活しても十分やっていけるだけの月給があると言っていたが、不便をしない様なら住み続けて欲しいと私からお願いした。
母の手紙を読んで、土地家屋は権利のあるものに押し付けるものではなく、相続の権利があるものがどうするか決めるべきものだと、私は漸く気付かされた。
耕作や畜産を生業として代々受け継いできた家系ならまだしも、サラリーマンが土地家屋に拘るなど、今思えば滑稽な話だ。
日本は明治維新を境に急速に発展し、それまで越境を許さなかった藩が県に置き換わる廃藩置県が行われると、人の移動が自由になった。先進的な人は土地に縛られず移動し、その先々に定住し、その子孫もまた自由に移動した。
海を渡って移住する人も多い現代に、江戸時代の倫理観を持ち込んでいた異常さに、恥じ入るばかりだ。
家名もそうだ。男児の誕生に拘っていたのは、家名を残すためだったが、それはれっきとした伝承がある家系の人や、珍しい苗字の人が家系を絶やさないように考えることで、「谷田」姓は珍しくもなく、私の家系が途絶えたとしても「谷田」姓は無くなる筈もなく、大木の葉が一枚落ちたほどの影響もないだろう。
がむしゃらに生きた半生を否定するようで、虚しさは有るものの、それでも今気が付いてよかったと思う。人生はまだ終わっていないのだから。
良太とひなたは結婚について話し合いを続けている。
議論の中心は仕事をどうするかと言う事らしい。
良太は今の仕事にやりがいを感じており、このままキャリアアップしたいと言う思いがあり、一方のひなたは良太と中古車販売店を共同経営する夢を捨てきれずにいるらしい。
私は既にひなたの両親を知っていたので、良太との交際を知らぬ顔でいるわけにもいかず、由美を伴って改めて良太の親として挨拶をさせて貰った。
ひなたの父親は、商売の時と同じように優しい笑顔で接してくれて、母親は恐縮したように畏まって「不束者ですが何卒宜しくお願い致します」と深く頭を下げ、「男兄弟に挟まれて育ったからガサツなところは有りますが、打たれ強くて明るいのが取り柄です」と付け加えた。
結婚が決まったわけではないものの、こうやって外堀が埋まっていけば、彼らも動きやすかろうと思うが、大きなお世話だろうか。
2.
母が亡くなって一年が経ち、霊園で一周忌の法要を行った。
納骨の時と同じように近くの料理屋で精進落としをして、由美の家へ行き仏前に焼香を上げる。
私は相変わらずキャンピングカーで生活を続け、関東に居る間は何回か由美の家へ行き、良太とひなたに会っているので、去年のような緊張感はなくなっている。
私のキャンピングカーの今年の法定点検はひなたが担当し、父親が確認作業をしてくれた。父親に言わせると、ひなたの腕前は既に2級免許を取れるレベルだと言うように、引き取った車は点検個所が確認しやすいように細部まで綺麗に清掃されており、アクセルが軽く感じるほどパワーが改善され、ブレーキの効きも良くなったように思う。
秋に入り湿度が下がって空気が澄んできたので、今年も日本一の星空を見にキャンピングカーを走らせる。
今年はひなたの車と並んで目的地へ向かう。ひなたの車には由美と良太が同乗している。私の車は一人生活用に改造してしまったので、誰も同乗できないのは致し方ないが、寂しさを感じないでもない。
昼食を食べたサービスエリアでは雲が空を覆っていたが、オートキャンプ場に着くと雲が割れて空が覗き始めた。
予約したエリアに車を停めて設営を始めると、少し強くなった風に流されて雲が割れ、気の早い星々の輝きが覗いた。
まだ冬ではないとはいえ、標高の高い場所にあるキャンプ場の晩秋は、朝夕の冷え込みが尋常ではない。設営で汗ばんだ後じっとしていると、着衣の隙間から入り込む冷たい風で一気に身体が冷やされるので注意が必要だ。
夕飯は車のキッチンを使って私が用意した。私はキャンプ飯を作るうえで、出来るだけゴミ出さない事と洗い物を出さない事を心がけているが、今日は洗い物ができるサイトなので、幾分気が楽だ。
前菜はパンプキンサラダと根菜のマヨサラダ。メインはキノコをふんだんに使った鮭のホイル焼き。栗ご飯を炊いて、デザートはスイートポテトを焼いた。
良太もひなたも美味しいと言って褒めてくれたが、私が一番気になっている由美は微笑むだけで何も言ってくれない。やはりプロの調理師に認めてもらうためには、まだまだ精進が必要だと密かに決意する。
食後にコーヒーを淹れ始めるころになると風が柔らかくなって、それに伴って雲の動きも緩やかになり、満天の星空は期待できそうにないと密かに溜息を吐く。
去年は一人で一週間過ごしたので、あの恐ろしいほどの星空を見ることが出来たが、今回は三人の仕事の都合で今日一泊しか機会が得られなかった。彼らにもあの星空を見せてやりたかったが、また次の機会を作る口実が出来たと思えば、これでよかったようにも思う。
廻りのキャンパーも諦めたようで、片付けや寝支度の動きが活発になったので、私達も就寝の準備を始める。
ひなたが持ってきた一張りのテントは二人用で、ひなたは良太とそこに泊まる予定でいたようだが、由美がどうしても一度テントで寝てみたいと言うので、ひなたと良太はテントを譲って、ひなたのキャンピングカーで寝ることになった。
夜中に車が遠慮がちにノックされて起こされた。ドアの覗き窓を開けるとそこには由美が立っていた。寒くて眠れないのかと思って車の中に招き入れようとドアを開けると、「もしよかったらちょっと外に出てみない?」と白い息を吐きながら明るい顔で言う。
誘われるままに車外へ出ると、すっかり風がやみ満天に星空が広がっていた。
驚いて横を見ると、星灯りに浮かび上がる由美の横顔は幸せそうに微笑んで、じっと空を見上げていた。
私の視線に気が付いたのかこちらを見て、「お互いもう白髪頭になっちゃったね」と自嘲気味に由美が言う。
確かに由美の頭髪の生え際には白髪が目立つようになっていた。
いつからそうなったのか、私はその変化にも気が付かないほど、彼女を蔑ろにしていたのだと心が痛んだ。
「結婚してくれて有難う。毎日旨い飯を食べさせて貰って嬉しかった。良太を生んでくれてありがとう。立派な大人に育ててくれて嬉しかった」恐ろしいほどの星空を見上げていたら、今まで言えなかった感謝の言葉が自然と口から溢れてきた。
「ちゃんと君の話を聞かずに良太を危ない目に合わせてしまってごめん。家も車も君の事をよく考えずに話を進めてしまってごめん」感謝の言葉に継いで謝罪の言葉が出ると星空が涙で滲んだ。
「俺は君を愛していたし、愛されたいと思って一生懸命だった。良太を立派な大人に育てたくて、でもどうしていいかわからなくて、結局君に任せてしまった。会社では古いやり方を頑なに守ってきた結果、皆から煙たがられた。全部俺の独りよがりだった」
顔を空に向け涙が幾筋も頬を伝っても、それを拭う気になれなかった。星空に私の咽び泣く声が吸い込まれる。
由美がそっと私の頬の涙を指で拭う。
「貴方が頑張っていたことは知ってた。今日のお料理もびっくりして笑うしかできなかったけど、本当に美味しかった。お義母さんは貴方の想いは分かってたのに、最期まで貴方に何も伝えることが出来なかった。でも、私はまだ生きてるから後悔しないようにちゃんと伝えるね。今まで頑張ってくれてありがとう。貴方をちゃんと理解してあげられなくてごめんなさい。もしも許して貰えるならお義母さんの云う通り新しい家族の在り方を、これから一緒に考えない?」
僕はそっと由美の手に触れた。
以前なら触れた瞬間に弾けるように逃げていたその手は、私の手を優しく包み込むように握ってくれた。
いつかこれに似た星空を見て思ったように、人が見聞きできる範囲は限られている。それは人の心もそうだ。身近な存在とは嘘偽りのない本心を伝えあえることが出来れば、例え障害が生まれても解決できるのではないかと思う。
母は一つ思い違いをしていたように思う。許すとか許されるとかを考える以前に、会話をすることが何よりも大事なのだと私は思う。
翌朝はトーストにサラダ菜を敷き、ハムとスクランブルエッグ乗せて挟んだサンドイッチとコーンポタージュにした。
食事を終えてコーヒーを飲んでいると、良太が姿勢を正して私の目を見た。私はその視線を感じて目顔で先を促す。
「父さん。僕はひなたと結婚するよ」と言い出した。
この一年で良太は私の事を「父さん」と呼ぶようになった。ひなたは頬を赤らめ、珍しく恥ずかしそうにしている。
「僕が結婚をなかなか決断できなかった本当の理由は、仕事の事じゃなかった。僕は父さんみたいな親になるのが怖かったんだ。家事にも育児にも興味を持たず、それでいて趣味もなく仕事ばかりするような、そんな親になりたくなかった。でも、それが持って生まれた性格なのか、それとも成長の過程でそうなってしまったのか、それが分かれば僕は自分が理想としている父親になれるかも知れと思って、お婆ちゃんに会って話を聞こうと思ったんだ。お婆ちゃんは生きている間にちゃんとした話をしてくれなかったけど、父さん宛ての手紙を読ませてもらって少しわかった気がしたし、この一年の間は会って話す機会が増えて更に分かったような気がする。だから時間がかかったけど、父さんの子供の僕ならきっとひなたを幸せにすることが出来るって自信が持てた。それに、家族の形はいろいろあっていいって事も気付かせてもらった。だから、ひなた、結婚してください」
私は「へ?」と間抜けな声を上げたが、隣に座っていた由美からも「は?」と言う声が上がった。
ここでプロポーズするってなかなかだぞ。あれ?私は由美にどんなプロポーズをしたのだったか。
真っ直ぐ差し出された良太の右手を見て、ひなたは一段と顔を赤らめたが、満面の笑みで元気よく「ありがとう!これからも宜しくね!」と言って良太の手を握り締め、左手で良太の首を引き寄せてキスをした。
3.
今年も星空を見るために長野県を訪れた。
私は相変わらずキャンピングカーで旅を続けている。
良太とひなたの間には子供が生まれ、私はお爺ちゃんになった。孫には数えるほどしか会っていないので、会えば必ず泣かれてしまうのが辛いが、それでも可愛さはひとしおだ。
乳飲み子の間は中古車販売店の事務室に置いたベビーベッドで育て、ひなたの両親も交えて代わるがわる面倒を見ていたが、動きが活発になると保育園へ預けるようになった。
良太は勤めを辞めずに、中小企業診断士の資格を取って、ひなたの店の経営面に関するアドバイザーをしている。
由美は病院食コンテストの担当を任され、二年目の今年こそ入賞するのだと研究に余念がない。もしグランプリを取れたらレシピ本を出版すると言う話まであるらしく、印税生活を夢見ているらしい。
「好きこそものの上手なれ」とはよく言ったもので、SNSをフォローしてくれる人が着実に増えている。文章も写真も上達したと自負しているが、フォロー数が増えた直接の原因は、有名なキャンパーが私をフォローして、時々引用してくれていることのように思う。
今後は由美に教わった料理の調理動画も上げて、新たなフォロワーを獲得しようと意欲を燃やしている。
家族はバラバラに過ごしているけれど、一緒に過ごしていた時以上に紐帯は強くなったように思う。
世界最高感度の望遠鏡で夜空を見ると、肉眼で捉えられる星と星の間にも無数の星が確認できると言う報道があった。そこに添付されていた写真では、点描されている星の間を輝く雲が覆っているかのように見えた。
私たち家族も、世の中の人々も、きっと見えないだけで、どこかで何かが繋がっているのだろう。
そんな世界の中で、私は毎日を楽しく生きている。
だからもう、知らない誰かのために苛立つことは無い。
だって楽しく生きるためにはそれなりに忙しいのだから。




