実家を立て直すため、契約結婚をした旦那様に愛されて幸せです
アリーヌの父、マインドゥ伯爵が事業に失敗した。
借金の返済をするために、彼女は結婚支度金として莫大な額を提示した、シャスタニエ公爵家への嫁入りが決まった。
愛などない。
そもそも、貴族の結婚に愛を求める方が異端ではある。
だが、今は亡き母が生きていたころは、父と温かな家庭を築いていたこともあって、アリーヌは少しだけ、本当に少しだけ結婚というものに夢を見ていた。
父は母が亡くなってから、変わってしまったから、なおさら憧れが強い。
いつか自分も、愛する人を見つけて結ばれるのだと、現実から目を逸らしていたのだ。
だが、そう上手くは運ばない。
アリーヌを買い取る形で結婚を決めたジェラール・シャスタニエ公爵は、貴族の間では『冷血公爵』として有名な人物だ。
軍部派の頂点に立つジェラールは、一度敵視したものを決して許さない。
徹底的に痛めつけ、支配下に置くという噂はアリーヌの耳にも届いている。
(逆らってはいけない方)
そう心に刻んでいた。
愛のない結婚で、どんな無茶苦茶な要求をされても、ただ従順に頷かなければならない。
シャスタニエ公爵家に向かう馬車の中で、アリーヌは唇を噛みしめる。
夢に見た温かな家庭など築けるはずもない。それでも、結婚は貴族の務めの一つだ。
(痛く、ないといいなぁ……)
膝の上で握りしめた拳を見つめて、彼女はため息を吐いた。
気分は沈んでいるが、到着までに切り替えなければならない。
第一印象は大事だ。にっこりと笑って、愛想を振りまかなければ、今後の人生に暗い影を落とす。
軽く頭を振って、気持ちを入れ替える。笑う練習をしてみたけれど、美味く笑えているかは、わからなかった。
「初めまして、ジェラール様。アリーヌと申します」
「……初めまして」
にこりと笑ってした挨拶にはそっけない返事が返ってきた。
冷血公爵に相応しい、愛想のない態度だ。
シャスタニエ公爵家に到着し、応接室に通されての初めての会話がこれでは前途多難である。
綺麗なカーテシーを披露したアリーヌを一瞥して、ジェラールはすたすたと歩きだした。
「ジェラール様?」
「寝室へ案内する」
日はすでに暮れている。
『そういうこと』だろうかと緊張で体を固くしたアリーヌに気づいたのか、扉のドアノブに手をかけてジェラールは浅く息を吐き出した。
「お前が望まないのならば、手は出さない」
「え?」
冷血公爵らしからぬ、意外な言葉にぱちりと瞬きをする。
間の抜けた声が出てしまった。
夫婦となったのに、アリーヌが望まなければ夜の営みをしない、と宣言したジェラールの言葉に純粋に驚きがある。
「突然の結婚で、心がまだ追いついていないだろう。望むなら、寝室も分けるが?」
「いえ! そんな、大丈夫です」
そこまでしてもらうのはさすがに申し訳ないし、外聞が悪い。
慌てて両手を左右に振ったアリーヌに、ジェラールが小さく笑う。
「そうか。……ついてこい」
「はい」
ガチャリとドアノブが回される。応接室を出る広い背中を追いかける。
鵜沢と違って、意外と優しい人なのかしら、というのがアリーヌのジェラールに対する第一印象になった。
実家の三倍は広い寝室に案内される。
落ち着いているが品のいい部屋をアリーヌがそっと見回していると「ソファに座ってくれ」と言われた。
大人しくソファに腰を下ろすと、なにか書面を持ったジェラールが対面に座った。
「これは、君の家との契約書だ」
「契約書、ですか?」
「ああ。君も目を通しておいた方がいいだろう」
ローテーブルの上に置かれた一枚の紙を手に取る。
目を通していくと、そこにはアリーヌの結婚にあたり、莫大な金額がシャスタニエ公爵家からマインドゥ伯爵家に支払われた旨が書かれていた。
「……こんなに」
思わずぽつりと言葉が零れ落ちた。
これだけあれば、失敗した事業の分を補填できるどころか、余って贅沢ができるだろうという金額だ。
「君は俺に買われている。とはいえ、俺のものになった以上、不便はさせない」
「ありがとうございます」
ローテーブルに契約書を置いて、アリーヌは頭を下げた。実家を救ってもらったのは事実だ。
しばらく沈黙が下りる。
アリーヌがそっと顔を上げると、難しい顔をして正面に座っているジェラールが、ゆっくりと口を開いた。
「君はシャスタニエ公爵家の女主人になった。屋敷のことは頼んだ」
「はい」
「……子を、という奴もいるだろう。だが、君がその気になるまで、無理はしなくていい」
「はい」
「それだけだ」
立ち上がったジェラールに従ってアリーヌもまた立ち上がろうとした。
だが、彼に押しとどめられる。
「ゆっくりしていい。俺は政務に戻るが、好きに過ごしてくれ」
「ありがとうございます」
二度目の礼を口にする。ジェラールは僅かに目を細めて、一つ頷いた。
寝室を出ていく背中を見送って、アリーヌはやっと肩の力を抜く。
「……悪い人ではなさそうね」
アリーヌを気遣ってくれているのが伝わってくる。
特に夜を強制されないのは、助かる。
嫁に入った身としては次代を残すのは義務ではあるのだが、気持ちが向いてからでいいといわれると、気分が楽だ。
「お金で買われた……。契約結婚のようなものね」
貴族の間でありがちな損得による結婚だが、それでもジェラールの態度から、少しは幸せになれる気がして、アリーヌとしては嬉しく感じた。
ジェラールの妻として、シャスタニエ公爵家の女主人として過ごすこと、三ヵ月。
寝室は一緒ではあるが、ジェラールは宣言通りアリーヌに手を出してはこなかった。
少しずつ心の距離を縮めていき、最近のアリーヌはすっかりジェラールに心を開いていた。
冷血公爵と呼ばれるのが嘘のように、ジェラールはアリーヌを優しく甘やかしてくれている。
三ヵ月の間に徐々に歩み寄り、アリーヌはいつの間にか彼を愛するようになっていた。
だから、いつジェラールに夜も大丈夫だと伝えようか迷っている。
本日、ジェラールは仕事で登城している。
それを知らずに屋敷にやってきた伝令の騎士が、ジェラールへの書類を持ってきた。
不在を伝えると、顔を真っ青にした騎士が可哀そうで、アリーヌは代わりに書類を預かったのだ。
執事が対応する前に、ちょうど玄関にいたアリーヌが受け取ったので、彼の部屋に置くために執務室に入る。
(ここに入るのは初めてだわ)
執務室への出入りが禁止されているわけではないが、特に用事がなかったので足を踏み入れたことはない。
部屋を見回すと、室内は綺麗に整頓されていた。
几帳面な性格が伺えるようだと、小さく笑ったアリーヌは、絨毯の上をすべるように歩いてジェラールの執務机の前に立つ。
書類を机に置こうとした彼女は、出しっぱなしにされている白い便箋に気づいた。
普段なら気にしないが、そこに綴られた文字にあまりに見覚えがあって、思わず目を見開いてしまう。
「お母様の字……?」
少し丸っこくて、斜めに上がった字。
それは、アリーヌの亡き母の書き文字にあまりに似ている。
思わず封筒を手に取ったアリーヌは、裏返してそこに綴られた母のサインに「やっぱり」と声を漏らした。
「ジェラール様とお母様が知り合い……?」
好奇心が顔を出す。
いけないこと、と思いつつ封筒の中身の便箋を取り出すと、そこにはやはり母の字が綴られている。
『ジェラール様へ
貴族街で迷子になり、攫われかけた貴方を助けて、立派になって数年が経ちました。
病が体を蝕んでおり、きっともう長くはありません。
私が死ねば、きっと夫は錯乱し、立ち上げたばかりの事業は失敗するでしょう。
貴方が私に恩を感じているのを知っています。付け込むような形になって、申し訳ないけれど、どうか願いを聞いてほしいのです。
事業に失敗するであろう、夫を助けてください、とはいいません。どうか、娘を助けてはもらないでしょうか。
娘には何の罪もありません。愚かなのは事業を立ち上げた夫と、賛同した私だけ。
娘の未来を守ってください。母として願うのは娘の幸せだけです。
サンドリーヌより』
「……これ、は」
大きく目を見開く。
母の筆跡で綴られた切実な内容に、心臓が嫌な音を立てた。
確かに、違和感を覚えていたのだ。
公爵であるジェラールが、破産寸前の伯爵家の令嬢にどうして突然結婚を申し込んだのか。なぜ、あれほどまでに優しくしてくれるのか。
(私の顔は、お母様によく似ている)
手から便箋が滑り落ちる。
ぺた、と頬に触れたアリーヌは泣きたくてたまらなかった。
ジェラールがアリーヌに結婚を申し込み、包み込むように優しくしてくれていたのは、ひとえに母の願いだから。
母に似ているから。
「……ばかみたい……」
愛などなかったのだ。
あったとしてもそれは仮初で、ジェラールが本当に慕っていたのはアリーヌではなく母の方だった。
唇を噛みしめる。悲しくて、悔しくて、泣き出しそうで。
涙をこらえるアリーヌの後ろで、ガチャリと扉が開く音が響く。
「アリーヌ……?」
立ち尽くす彼女を不思議に思ったのだろう、呼びかけられて涙をこらえた瞳で振り返る。
息を飲んだジェラールが、床に落ちている便箋に気づいたようだった。
「っ、みたのか」
「はい」
「……そうか」
釈明を期待していたわけではない。
ただ、静かに頷かれたのが、切なかった。
心臓がぎゅうと握りつぶされたように痛くて、たまらずアリーヌは駆け出した。
ジェラールを押しのけるようにして、廊下に出る。
「アリーヌ!」
珍しく焦った声が背後から呼んでくる。
けれど、構わずアリーヌは走り続けた。
そのままホールを抜けて玄関から外に出る。
走ることなどほとんどないから、息が上がって苦しい。
口の中がからからに乾いて、変な味がした。それでも、足を止められない。
衝動のままに周囲を見ることなく走り続けたアリーヌは、耳をつんざく悲鳴に気づいて思わず足を止める。
「ヒヒィン!!」
馬の叫ぶような鳴き声と、慌てる御者が目に入った。馬車の前に飛び出したのだ。
「っ」
走らなければ、逃げなければ、動かなければ、死ぬ。
頭では理解できているのに、体が動かない。
固まるアリーヌは、咄嗟に目を閉じた。
身を固くして、跳ねられるのを待つしかない彼女に、けれど触れる体温があった。
「!」
抱きしめられたまま、アリーヌは道路に転がった。
馬車が悲鳴を上げるように通過して、遅る遅る目を開いたアリーヌの瞳に飛び込んだのは、ジェラールだ。
「じぇ、らーる……さま……」
「大丈夫か、アリーヌ」
地面に転がったまま、ジェラールがアリーヌをぎゅうと抱きしめる。
どうして身を挺してまで助けられたのか分からなくて、混乱するアリーヌを痛いほど抱きしめて、ジェラールが必死な様子で口を開いた。
「君が死ぬかと思った……!」
心底安堵した様子で言われた言葉に、かっと顔に熱が上がる。
それは、喜びではなく、怒りだった。
「私を愛していないなら、放っておいてください!!」
いつもならありえないほど声を荒げて、ジェラールの腕の中から抜け出そうともがく。
だが、彼はますます抱きしめる腕に力を入れるだけだった。
「愛している!! 君がいないと生きていけない!」
冷血公爵の名にふさわしく、いつも物静かなジェラールが、初めてアリーヌの前で大声を上げた。
驚いて動きを止めたアリーヌに、ジェラールが掠れた声で言葉を紡ぐ。
「確かにきっかけは母君だった。だが、今の俺は君を、君自身を愛している」
「ジェラール様……」
真摯に紡がれた愛の言葉に、暴れるのを止めてしまう。
そっと腕の力が緩んで、ジェラールが立ち上がる。
手を伸ばされて、迷いながらも手を取ると、ジェラールが泣きそうな顔で笑う。
「本当に無事でよかった」
「ジェラール様……私……」
「屋敷に戻ろう。風呂に入ったら、昔話をするから」
地面に転がったから、二人とも泥だらけだ。
アリーヌのドレスは破けているし、ジェラールの洋服もほつれている。
馬車の御者にジェラールが詫びを入れた。
公爵であるジェラールに声をかけられて、恐縮しきりの御者に、後程、賠償金を支払うと約束する姿を遠くに感じた。
屋敷に戻り、慌てるメイド長が急いで用意してくれた風呂に入って、ドレスを着替え、アリーヌは寝室に足を運んだ。
ジェラールが待っている、といったからだ。
一足先に湯あみをすませた様子のジェラールが、先ほどとは違う綺麗な服に袖を通して、ソファに座っていた。
ローテーブルの上には、先ほどアリーヌが盗み見た便箋と封筒が置かれている。
「お待たせしました」
「座ってくれ」
「はい」
静かに対面のソファに座ったアリーヌに、ジェラールが小さく笑う。
少し苦い笑みだ。
「君の母君には世話になったんだ。幼い頃、屋敷を抜け出して冒険だといいながら貴族街で迷子になった。貴族街の端まで行ってしまった私は、悪漢たちに攫われかけた。そこを通りがかった君の母君が、見事な拳で退治してくれたんだ」
「母が……?」
「ああ、見事な制裁だった」
昔を懐かしむようにして言われた言葉に嘘は感じない。
だが、華奢で大人しかった母の過去だとはとても思えず、アリーヌは目を丸くしてしまう。
「冗談だ。正確には、サンドリーヌ様の護衛が悪漢を捕まえた」
ジェラールがくすりと笑う。
からかわれたのだと理解してアリーヌが唇を尖らせると、ますますくすくすとジェラールが肩を震わせる。
「すまない、話の腰を折ったな。それで、サンドリーヌ様は助けた俺を公爵家まで送ってくれた。両親はいたく感謝して、なにか困ることがあればいつでも頼るように、と伝えたらしい」
「それでこの手紙を」
「それまで音沙汰がなかったから、やっと頼ってもらえたと思って嬉しかった。だが、手紙を受け取った頃には、サンドリーヌ様は亡くなっていて、手紙の内容通りマインドゥ伯爵家の財政は傾いていた。俺は慌てて周囲を説得して、君に婚約の打診をしたんだ」
「……」
経緯は納得できた。恩を感じているのも理解できる。
だが、それはやはり、アリーヌが母・サンドリーヌとよく似た顔立ちをしているからではないだろうか。
疑念が拭えず、不安を顔に出したアリーヌに、ジェラールが優しく笑う。
最近見せてくれるようになった、心を許している笑み。
「最初は義理だったことは認めよう。だが、穏やかで優しい君と過ごすうちに、俺はどんどんアリーヌの虜になったんだ」
立ち上がったジェラールが、アリーヌの隣に座りなおす。
そっと見上げるように視線を向けると、ジェラールは甘く笑った。
「気持ちに嘘はついていない。どうか、俺と本当の意味で夫婦になってくれないだろうか」
指先を救い上げるように持ち上げられて、手の甲にキスを落とされる。
顔を赤く染めたアリーヌを、真摯に射抜く視線。
好意を持っている相手に、こんなことをされて、拒絶できる人がいたらみてみたいとアリーヌは思う。
「……疑って、すみません」
「うん」
「飛び出して、ごめんなさい」
「うん」
「……助けてくださって、ありがとうございます」
「伴侶だからな」
少し悪戯っぽい笑みで笑ったジェラールに、アリーヌもまた穏やかな笑みを浮かべる。
とられている手を抜いて、ジェラールの頬に両手を当てる。
ちゅ、と触れるだけのキスをすると、ジェラールが大きく目を見開いた。
「私も、貴方と夫婦になりたいです」
恥ずかしくてたまらない。はしたない女だと思われなかっただろうか。
真っ赤に頬を染めて、それでも笑うアリーヌに、ジェラールが大きく目を見開いて。
「ああ! もちろんだ!」
心底嬉しそうに、アリーヌを抱きしめた。
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