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最終話






 私は、決意が揺らがないうちに、侍女長に辞職の意を伝えることにした。


 長年この屋敷で仕えてきた方だから、どんな反応をされるかと緊張していたけれど――返ってきたのは、思ったよりもずっと、温かな叱咤だった。



「……あんたねぇ。これから忙しくなるっていうのに、なに考えてんの。けど……。」



 小言交じりの声には、どこか寂しさも滲んでいた。



「ま、あんたの性格からして、一度決めたら聞かないってのは、よーくわかってるけどね。ったく……泣かないだけマシか。」



 そう言って、侍女長は重いため息をついた。



「ご主人様には私から話しておくよ。……ちょうど懇意にしてるお屋敷が、侍女を探してるって言ってたのを思い出した。紹介状、書いてもらうようにお願いしてみるから、恥をかかせるようなことはしないでよ?」


「……はい。ありがとうございます。」



 そう答えた声が、思ったより震えていた。


 泣くつもりなんてなかったのに。侍女長に、少しだけ背中を押された気がして。胸の奥に、熱いものがこみ上げた。



「まったく、結局泣くんじゃないかい…。」



 言葉とは裏腹に、その声音は優しさを含んでいた。



(ちゃんと、終わらせないと。全部、私の気持ちごと。)



 心の中でそっと呟きながら、私はその場を深く一礼して後にした。



 屋敷での最後の朝。


 いつもと同じように、制服に袖を通し、同じ時間に廊下を歩く。けれど、心の奥で何かが少しずつ離れていくような、そんな感覚があった。



(……結局、ちゃんと伝えられなかったな。)



 ハミールにも、お嬢様にも。


 伝えようとするたび、喉の奥に言葉が詰まってしまった。別れの言葉なんて、簡単に言えるものじゃない。


 でも――。



(最後くらい、ちゃんと、挨拶しなきゃ。)



 そう思って、私は中庭を通って応接間へ向かう途中だった。緑の香りが揺れるその瞬間――。



「ミレイユ!」



 声とともに、ドレスの裾を揺らしながら、リゼットお嬢様が駆け寄ってきた。


 まるで風のように、焦った様子で私の目の前まで来ると、肩で息をしながら言う。



「お父様から、聞いたわ……本当に、辞めてしまうの?」



 思わず、私はその場に立ち尽くした。


 お嬢様の目には、驚きと戸惑い、そして……少しの寂しさが浮かんでいた。



「……はい。もう、決めたことなんです。」



 私の声は、思った以上に穏やかだった。でも、胸の奥では、何かがギュッと締めつけられる。



「どうして、何も言ってくれなかったの?」


「言ったら、止めてくださるでしょう?……それが、辛かったんです。」



 それは、正直な気持ちだった。


 お嬢様の優しさに、甘えてしまったら。私はきっと、ここを離れることなんてできなかった。



「私のせいね……。」



 お嬢様が、何か言いかけて、言葉を飲み込む。唇を噛みしめるその姿に、胸が痛くなった。



「お嬢様には、本当にお世話になりました。わがままで、不器用な私を、ずっと傍に置いてくださって……感謝してもしきれません」


「……そんなの、私の方こそ……。」



 そう呟いたお嬢様の目に、かすかに涙が光っていた。


 でも、泣かせたくなかった。これ以上、何も言えなくなるから。



「これからも、どうかお元気で。……幸せになってくださいね。」



 そう言って、私は小さく一礼した。視界が滲まないように、涙をこらえて。


 それが、屋敷で過ごす最後の朝だった。









 ミレイユが去っていく背中を見送ったあとも、リゼットはしばらくその場を動けずにいた。


 軽く握りしめた両手が、ほんの少し震えている。胸の奥に突き刺さった“どうしようもない寂しさ”を押し込めるように、静かに深呼吸をひとつ。



「……これは、もう放っておけないわね。」



 ぽつりとこぼれた言葉には、覚悟が滲んでいた。


 すぐさま屋敷の執事に声をかける。



「――セオドア様をお呼びして。今すぐ、です。」


「……かしこまりました、お嬢様。」



 返事を聞いた瞬間、リゼットはドレスの裾を払ってきびすを返した。


 これ以上、もたもたしている時間はない。


 あのふたりは、確かにすれ違ってばかりいたけれど、それでも想い合っていることくらい、側で見ていた自分には手に取るようにわかった。



(だったら、あとひと押し。ちゃんと向き合わせてあげるのが、私の役目でしょう?)



 心の中で決意すると、まるで戦に臨む将軍のように、リゼットは背筋を伸ばした。









 夕暮れの光が屋敷の回廊をやわらかく染め上げている頃、私は中庭の片隅で、荷物の整理をしていた。最後の仕事を終えた後、偶然通りかかったハミールが、どこかぎこちない笑みを浮かべて声をかけてきた。



「ねえ、ミレイユ。本当に……辞めちゃうの?」



 その声は、冗談めかしてはいたけれど、奥に本音がにじんでいた。私は作り笑いでごまかそうとしながらも、胸の奥にざらりとしたものを感じた。


「うん。もう、ここにいる理由はないし……。ちゃんと前を向かなきゃって、思ったの。」



 口に出すと、それがどこか空虚な決意のように聞こえてしまって、自分でさえも苦笑いしたくなった。



「……ミレイユの気持ちも、わかるけどさ。でも、辞めるって、そんな……!」



 ハミールは言葉を途中で止めて、何かを探すようにあたりを見渡した。そして――何かに気づいたように、目を細める。



「……あれ。ねえ、あそこ見て。」



 言われて振り返った先には、遠くからこちらに向かって手を振る、お嬢様――リゼットの姿があった。ただ手を振っているだけではなく、口元が何かを訴えかけるように動いている。


 よく目を凝らすと、その後ろ、屋敷の門の向こうに見覚えのある騎士服の人影があった。



「……あれって……まさか」



 騎士団の制服に身を包んだその姿は、間違いなく――セオドア様だった。



「……ふーん、なるほどね。」



 ハミールがふっと意味深に笑って、私の肩を軽く叩いた。



「ミレイユ。ちょっと、行ってきたら?ほら、最後の日くらい、ちゃんと話しておかないと後悔するよ?」


「……え?」


「私は、ちょっと裏の倉庫に忘れ物思い出したから行ってくる。偶然にも。絶対、先に帰らないでよ?後でねー!」



 言い終わるや否や、ハミールは軽やかに踵を返し、気遣わしげな視線を残してその場を後にした。


 残された私は、目の前に静かに立つセオドア様と、遠くで見守るお嬢様の視線を感じながら、覚悟を決めるように一歩、前へと歩み出した。


 セオドア様は、いつもの騎士服に身を包み、夕暮れの中で立っていた。


 私が近づくと、彼は一瞬だけ口を開きかけたが、すぐにそれを飲み込んで、真っ直ぐに私の目を見た。その眼差しに、いつものような穏やかさはなかった。何かを決意した、そんな強さと緊張が入り混じっていた。



「……ミレイユ。話が、したい。」



 私は息を呑んだ。胸の奥がざわざわと波立つ。



「……でも、もうすぐここを出るんです。お別れの挨拶でしたら、受け取ります。」



 努めて穏やかに返したつもりだった。けれど、内心はぐちゃぐちゃだった。顔が熱い。喉が乾く。


 セオドア様は、私の言葉に一瞬だけ眉をひそめたが、ゆっくりと、首を振った。


「そうじゃない。……まずは、謝らなくてはならないことがある。」


「……謝罪?」


「俺は……ミレイユに、何の説明もないまま、リゼットの手紙を口実に近づいて……、ずっと、卑怯なやり方をしていた。」



 その声は、どこまでも真剣で、どこか苦しげだった。


 私は――胸が詰まって、咄嗟に、違うことを言ってしまった。



「……でしたら、新しい婚約者様と、幸せになってください」



 我ながら、自分でもわけのわからない言葉だった。口をついて出たその瞬間、セオドア様の目が見開かれる。



「……新しい、婚約者?」


「……だって、騎士団でそう言われてるって……ハミールが聞いたって……。」


「そんな話、あるはずがない。」



 思わず息を呑んだ。セオドア様の声は、はっきりと強かった。



「そ、それに…!私聞いたんです、もうご両親に紹介するだけだって…!」


「それも、謝らなければならないんだ。君に気持ちを告げる前に、外堀を埋めるような形になってしまって…。」


「――えっ?」



 私は一瞬、何を言われたのか分からず、口を開けたまま固まってしまった。



「それって……本当に、勘違い……?」


「…すまない。まさか、君がそんな風に受け取っているとは思わなくて…。」



 セオドア様は私に手を伸ばして、少しためらった後、そっと私の手を包んで告げた。



「――俺が婚約したいと思っているのは……ミレイユ、君だ。」



 その瞬間、世界が静まり返ったような気がした。


 胸が、きゅう、と苦しくなる。頭の中が真っ白になって、言葉が見つからない。



「……わ、私……そんな、勝手に思い込んで、八つ当たりみたいな態度取って……。」


「それは、俺のせいだ。何も言わなかった俺が悪い」



 セオドア様のまっすぐな声が、夕暮れの中に響いた。


 ――私は、またしても、何も言えなくなった。


 でも。


 でも、やっと今、ずっと知りたかった言葉を聞けたような気がして。


 胸が、温かくて、苦しくて、どうしようもなかった。


 沈黙の中、風が吹いた。庭の木々がさらりと音を立てる。


 私は何か言わなくちゃと思うのに、言葉が喉の奥で絡まってしまう。セオドア様の視線がまっすぐ私を貫いて、胸の奥が熱くなる。



 (私が……?)



 思い返せば、最初に文通を頼まれた日も、初めて馬車に乗った日も、デートをした日も……全部、セオドア様は私に向けていた気がする。なのに私は――



「……私、ずっと……勘違いしてました。」



 ようやく、絞り出すようにそう言った。声が震えていた。



「手紙のことも……お嬢様のことも。勝手に思い込んで、自分には関係ないって、決めつけて……だから、逃げてばかりで……。」



 セオドア様は静かに頷いて、私の言葉を待ってくれている。



「それでも……私なんかで、本当にいいんですか?」



 やっとの思いで、私は本音を口にした。



 伯爵令嬢のメイドで、身分も釣り合わなくて。嫉妬して、八つ当たりして、それで……。


 そんな私を、なぜ?


 セオドア様は少し驚いたように目を細めて、そっと笑った。そして一歩、私に近づいて言った。



「俺は……ミレイユ、君が好きだ。」



 その一言に、胸の奥が熱くなって、張りつめていたものがふわりとほどけていく。



「最初は、お嬢様の文通の手伝いだった。でも、君と話すたびに、目が合うたびに、どんどん惹かれていった。優しさも、頑張り屋なところも、全部。」



 彼の声はまっすぐで、どこまでも誠実だった。


 涙が、こぼれた。


 止めようとしたけれど、無理だった。



「……私も、好きです。」



 震える声で、どうにか返した。



「あなたのことが、ずっと……好きでした。でも、自分でも信じられなかったんです。そんなわけないって、思いたかったんです……。」



 セオドア様は静かに微笑んで、そっと私の手を取った。



「信じてくれてありがとう。今度こそ、ちゃんと伝えられてよかった。」



 私の手を包むそのぬくもりが、ようやく現実を教えてくれる。


 ――これは、夢じゃない。


 やっと届いた、この言葉。


 やっと重なった、想い。



「これから、いろんなことを話していこう。ちゃんと、順番を守って。少しずつ、ちゃんと君に伝えるよ。」



 私は小さく頷いた。



「……はい。よろしくお願いします、セオドア様。」



 彼は苦笑して、そっと私の額に唇を寄せた。



「……その、“セオドア”って呼んでくれないか?」



 その冗談めいた一言に、私は顔を真っ赤にしながら、初めて名前を呼んだ。



「……セオドア。」



 彼は嬉しそうに笑って、ぎゅっと私を抱きしめた。









 あれから、ほんの少しだけ時間が流れた。


 セオドア――彼の名前を、まだ口にするのは少し恥ずかしくて、でも嬉しくて、慣れるにはもう少し時間がかかりそうだった。


 それでも、手を取り合って帰る道は、なぜだかまるでいつもの庭が少し違って見えて、不思議なほどに胸が満たされていく。


 すれ違っていた時間さえも、今日という日のためにあったのだと、今なら思える。


 庭の隅に咲いた小さな花が、風に揺れていた。


 彼がふと足を止めて、それを見下ろす。



「初めて見た。こんなところに、花なんて咲くんだな。」


「……いつの間にか、咲いていたんです。」



 まるで、私たちの恋みたいですね――そんなことを言いかけて、私は胸の奥で小さく笑った。


 あの日、自分の気持ちに蓋をして、終わらせようとしたけれど。


 想いは、ちゃんと届くんだ。願いは、時に、不器用なままでも叶うんだ。


 私は、もう逃げない。もう、知らないふりなんてしない。



  ――今度こそ、自分の気持ちに、胸を張って生きていく。



 そう決めた。そして、横を歩く彼の手を、もう少しだけ強く握った。









 「やれやれ、やっと終わったわねぇ…」



 数歩離れて木陰に隠れていたハミールが、ぼそっと小さく呟いた。



「……お嬢様が『さすがにもう動かなきゃだめよね』って仰ったときは、ついに来たかと震えたわ。」



 彼女は満足げに頷くと、ポケットから何かを取り出す。



「さて、私の賭けの勝ち分、ちゃんと貰わないと。騎士団のダリオン様との賭けだったし――ふふ、甘いケーキひとつじゃ許さないんだから!」



 そんなハミールの小さな声が、庭の風に紛れて消えていった。


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