第7話
真っ青な空に流れる雲。湿度も低く、カラッとした暑さが、夏の始まりを知らせていた。
中庭で洗濯物を干していた私は、ハミールの駆け足の足音に顔を上げた。
「ミレイユ!聞いた?ダリオン様、ついに爵位を授かったんですって!」
「――えっ?」
一瞬、頭が追いつかなかった。あまりに急で、現実味のない言葉。けれど、ハミールの顔は真剣だった。
「今日、王都の公報で発表されたって。騎士団の人から聞いたの!」
「……じゃあ、ということは……。」
喉まで出かけた言葉を、私は飲み込んだ。セオドア様とお嬢様の婚約は、表向きだけのもの。それを知っているのは、当事者以外だと、たぶん私だけ。
だから、ハミールに本当のことを言うわけにはいかなかった。
「……そっか。すごいね!」
私の胸に真っ先に浮かんだのは――お嬢様の笑顔だった。これで、お嬢様はようやく、好きな方と並び立つことができる。
心から思った。――よかった。本当によかった、と。
けれど。
ふと、胸の奥が、きゅっと小さく痛んだ。
それが誰の顔を思い浮かべたせいかなんて、考えなくてもわかってしまう。
セオドア様。これであなたも、もう誰のものでもない――なんて。
そんな風に思った瞬間、私ははっとして、思わず目を伏せた。
(私は、いったい何を期待してるの……?)
だって、まだ何も聞いていない。あの優しさも、あの微笑みも。全部が「お嬢様のため」だったのかもしれない。
それなのに、こんな風に胸が高鳴る自分が、少し情けなくて。
それでも、止められないこの気持ちが、怖くて仕方なかった。
◇
私は「知らないふり」を続けたまま、いつも通りに仕事をこなしていた。
朝は廊下の掃除、昼は買い出し、午後は洗濯と夕食の準備。時々、お嬢様の為に紅茶を入れて差し上げる。手を動かしていれば、余計なことを考えずに済むと思っていたのに――気がつけば、心の中は同じ問いを繰り返している。
(……このまま、忘れられたらどうしよう。)
(……あれで、本当に、全部終わってしまったのでは?)
セオドア様のことを考えまいとしても、ふとした瞬間に、思い出が押し寄せる。
初めて手紙を渡したときの不器用な笑顔。雨の中で立ち尽くしていた横顔。ベンチでリボンを褒められたあのときの、ささやかなときめき――。
全部、夢だったのかもしれない。私が勝手に、恋をして、勝手に勘違いして、勝手に終わらせた。
そんな風に思い込もうとするたびに、胸の奥が痛んだ。
ある日、台所から廊下へ出ると、遠くの方で見覚えのある背中を見つけた。
――セオドア様だった。
屋敷の奥、応接室の方へと向かう足取り。きっと、また何かの手続きか話し合いなのだろう。立ち止まってしまいそうになる足を、ぐっとこらえて、私は黙って背を向ける。
声をかけようなんて思わない。かけられるはずもない。
ただ、見て見ぬふりをするしかないのだ。彼がそこにいたことも、私の胸が少しだけ疼いたことも、なかったことにして――。
距離は、ただ広がっていくばかりだった。話さなければ、近づけるわけもないのに。
(……でも、今さら、どんな顔をして会えばいいの?)
勇気なんて、とっくに使い果たしてしまった。
その日の夜、洗濯物を干し終えた手で、窓の鍵を閉めながらふと空を見上げる。
風が冷たくなってきた。もうすぐ季節が変わる。あの人が、笑って「似合ってる」と言ってくれたあのリボンも、そろそろしまわなきゃいけないかもしれない。
胸の奥に、小さなため息が落ちた。
それからしばらくして、屋敷の中で、ささやかな噂が静かに広がっていた。
「ねえ、聞いた?セオドア様とお嬢様の婚約、解消されたらしいわよ。」
「でも、聞くところによると、最初から期限付きの契約だったって。」
「へえ、そうだったのね……。」
その話題が持ち上がるたびに、私は胸の奥にぽっかりと穴が空くような気持ちになった。
だが、それ以上に驚いたのは、セオドア様の姿が屋敷でほとんど見られなくなったことだ。
その代わりに、ダリオン様がよく顔を見せるようになっていた。彼は以前よりも屋敷に馴染んでいて、どこか居心地の良さそうな様子だった。
私は、目の前の事実を受け入れようと努めた。けれども、セオドア様の不在は、胸の奥で小さな棘となって刺さり続けた。
ある日、偶然、廊下で彼とすれ違った。私の顔を見ることもなく、少しだけ俯きながら通り過ぎていった。
その瞬間、私は心の中で呟いた。
(セオドア様は……いつだって、私に正しいことを教えようとしてくれていたんだ。)
でも同時に、自分への疑念も感じていた。
思い返すと、セオドア様が、私のことを……好き、なのかもしれない──そう感じた瞬間があった。
あのときの視線、あの一言、そして手紙を受け取るときの少し嬉しそうな顔。胸が高鳴って、心のどこかで期待が膨らんだ。
だけど、今となっては、それもすべて私の一方的な勘違いだったのかもしれない。セオドア様の優しさは、きっとお嬢様への礼儀と気遣いから来るものだったのだろう。私に向けられた言葉も、親切な友人としての言葉だったのかもしれない。
そんなことに気づいたとき、胸がぎゅっと締めつけられた。
嫌でも、初恋の彼の事を思い出した。もう勝手に期待して、勘違いだと笑われるのは辛い。
(もしかしたら、また何かを勘違いしているのかな。)
何度も自問自答するけれど、答えは見つからない。
ただ、確かなのは、私が好きだと思った人は、もしかしたら私をそう思っていなかったという現実。
それを認めることは、誰よりも私自身が怖い。でも、そう思わずにはいられない。これまでの優しい笑顔や言葉が、まるで嘘だったみたいに感じてしまう。
こんなにも心がざわつくのは、好きになってしまったから。
それでも、私にはどうすることもできない。ただ静かに、遠くから見守るしかないのだろうか。
胸の奥が痛むけれど、これが現実なのだと、ゆっくりと自分に言い聞かせる。
複雑な想いが胸の内で絡み合い、私はただ俯くしかなかった。
手紙を届ける役目をハミールに任せてから、私は騎士団の営地へは寄り付かなくなっていた。だが、その間もハミールは騎士たちとの交流を絶やさず、私に情報をくれていた。
ある日、ハミールが言った。
「最近、騎士団の中でセオドア様が別の女性と再婚約するという噂が広まっているみたい。」
この頃には、ハミールも、私の気持ちには気づかれていた。口には出さずとも、私を気遣ってくれているのが分かる。
でも、私はその噂を聞いて、思わず胸をなでおろした。
(よかった……お嬢様との婚約が続かないのなら、誰か新しい方と幸せになってほしい。)
自分にそう言い聞かせ、強くそう願った。
だけど、胸の奥では違った。
(……これで完全に終わってしまったんだ。)
誰にも見せられないその思いに、涙が自然とあふれた。
夜、一人、部屋の薄暗い隅で、こっそりと涙を拭いながら私は呟く。
「終わったんだ……私の恋も。」
誰にも知られたくないこの切なさに、ただ静かに耐えた。
翌朝目覚めたとき、涙の跡はすっかり乾いていて、心もどこか落ち着いていた。たくさん泣いて、少しは気が済んだのかもしれない。
――もう、この恋は思い出にしよう。
私には分不相応だったのだ。勝手に勘違いして、勝手に舞い上がって、勝手に傷ついて。セオドア様の優しさも、距離の近さも、すべて誤解だったのだと、自分に言い聞かせた。
朝の仕事をこなし、昼前には買い出しに出る。空は晴れていて、少し歩くだけでじんわりと汗ばむ陽気。日常は、何も変わらない。
だけど、ハミールが前に話していた“隠れ家みたいなカフェ”のことを思い出して、私は少しだけ遠回りすることにした。確かこの辺りだったはず……。
小道の先に、白いテラスと花のアーチが見える。ああ、きっとここだ。まだお昼前だからか、人も少ない。風に揺れるレースのカーテンと、ゆったりした空気に、ほんの少しだけ気持ちがほどけた。
私は入口の前で立ち止まり、そして――その姿を、見つけてしまった。
お嬢様と、ダリオン様と、セオドア様。
三人が揃って席に着き、談笑している。思わずその場に立ち尽くした。
(……なんで、三人で……?)
お嬢様とダリオン様が一緒にいるのは、今や見慣れた光景だ。けれど、そこにセオドア様まで加わっているのは、どうしてだろう。目の奥がじん、と痛んだ。
見なかったことにしよう――そう思って踵を返しかけたそのとき。
「……両親にはもう話してある。後は紹介するだけだ。」
セオドア様の声が、風に乗って耳に届いた。
私は立ち止まり、心臓が大きく跳ねた。
(……紹介?まさか、例の新しい婚約者……?)
彼の口から出た名前までは、聞こえなかった。でも、それ以上聞いていたくなかった。聞こえてしまうのが怖かった。
急いでその場を離れ、人気のない路地に足を踏み入れる。胸の奥がまた、ひどく痛んだ。
(……やっぱり、終わったんだ。私の勘違いで始まって、何も伝わらないまま、終わったんだ……。)
恋を思い出に変えるなんて、そんなに簡単なことじゃなかった。
でも、だからこそ思った。――このままでは駄目だ、と。
いつまでも伯爵邸で働いていたら、ずっとこの気持ちを引きずってしまう。だったら、いっそ――。
私はその場でそっと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
――別の場所で働こう。そして新しい生活を始めよう。
そう決意したその瞬間、心のどこかが、少しだけ軽くなった気がした。
◇
昼下がりの街角、王都の賑やかなカフェの一角。窓際のテーブルで、セオドア、リゼット、ダリオンの三人がひそひそと話し込んでいた。
セオドアは表情を曇らせながら、リゼットとダリオンの鋭い視線を受けていた。彼の声は少し震えている。
「俺は……ちゃんとミレイユ嬢と婚約の話を進めるつもりだ。両親にも根回ししてあるんだ。ただ、まだ彼女に直接伝えられていないだけで……。」
リゼットは腕を組み、厳しい目で彼を見据える。
「それじゃ、ミレイユはいつまでたっても不安のままです。貴方の気持ちを知らずに、どれだけ傷ついているか分かってる?」
ダリオンも腕を組み、真剣な表情で言葉を続ける。
「婚約はただの形式だけじゃない。俺も人の事言えた義理じゃないけど…。彼女のことを本当に考えるなら、今すぐ伝えろ。俺が言ったことが嘘になる前に。」
セオドアは、王都でダリオンとミレイユが話したと言っていたことを思い出した。
待ってくれと直接言えたわけでもない。ましてや、気まずいままで顔を合わせなくなってしまっていたので、とりあえず外堀は埋めておかねばと、そちらを優先してしまっていた。
「わかっている……でも、どう伝えればいいかわからなかったんだ。怖かった。」
リゼットが少しだけ優しい声で促す。
「怖がっている場合じゃないわ。自分の気持ちを正直に伝えて。」
「これからはちゃんと向き合え。俺たちも力になるから。」
ダリオンは真っ直ぐにセオドアを見て言う。
三人の間にしばし静寂が流れる。月明かりに照らされたセオドアの瞳には、決意の光が宿っていた。