第6話
お嬢様とセオドア様の手紙を届ける役目を降りてから、どれくらいの時間が経ったのか。いま、その手紙を預かっているのはハミールで、私はただ、屋敷の中で淡々と日々の仕事をこなすだけ。
顔を合わせることも、声を聞くこともない。以前は騎士団の前を通るたびに、ちらりと視線を向けてしまっていたのに、今はもう足を向けることすらやめてしまった。
あの日、セオドア様と交わした言葉――いや、言葉にならなかった想い。あれを最後に、私は自分からその扉を閉じてしまった。
(……いや、違う。閉じたのではなく、怖くて開けられないだけ)
お嬢様に本当のことを聞かされて、ようやく全ての勘違いに気づいて、それでもなお、どうしたらいいか分からなくて、ただただ情けない自分に呆れるしかなかった。
思い出すたびに、胸の奥がチクリと痛む。たった一歩が、どうしてこんなにも遠いのだろう。
彼が何を考えているのかも、今どんな顔をしているのかも、もう分からない。知るすべもない――はずだった。
そんなある日、ハミールがぽつりと、あの人の名前を口にした。
「セオドア様、ミレイユの事気にしてたよ。」
ハミールの言葉に、思わず手が止まった。洗濯物をたたむ指先が、微かに震えるのを自分でも感じる。
「……そう。お元気そうだった?」
「うん。でも、最近少し……浮かない顔をされている気がする。」
(そりゃあ、顔も合わせないまま……逃げてばかりの私に、何も言えないよね。)
その一言だけで、胸がずきんと痛んだ。会いたい。声が聞きたい。けれど、どんな顔をして会えばいいのかわからなくて、足がすくむ。
セオドア様の姿が頭に浮かぶたびに、心のどこかがきゅっと締め付けられる。でも、今の私は、面と向かって話す勇気が湧かない。
「……もう、そんな顔しないの。元気出して!」
にっこり笑って、ハミールは私の肩をポンと叩いた。
「最近、王都にすっごく可愛いケーキ屋さんができたの。ね、今度の休みに一緒に行かない?甘いものでチャージしたら、少しは気も晴れるかもよ。」
――そんな風に誘われた、数日後。
お嬢様のご厚意で、ふたり一緒にお休みをいただくことができた。たぶん、お嬢様も気づいてくれていたのだ。ずっと落ち込んでいた私を、少しでも元気づけようとしてくれたのかもしれない。
王都へ向かう道すがら、私はふと思い出して、申し訳なさでいっぱいになった。
「ねえ、そういえば……私、まだあのときのお礼、ちゃんとしてなかったよね。」
「え? そんなの、気にしなくていいのに~。」
「だめ。今日は、私が奢らせて!付き合わせてごめんね、って意味も込めて!」
そんなやり取りの末にたどり着いた、王都の中心部。石畳の通り沿いにあるそのケーキ屋さんは、外観も可愛らしくて、通りすがりの女の子たちが歓声を上げていた。
(わあ……ほんとに人気なんだ……。)
店内には花をあしらったショーケース、宝石みたいに並んだ小さなケーキたち。どれもキラキラしていて、まるで夢の中みたい。
「じゃあ、私はこの苺のミルフィーユにしよっと♪ミレイユは?」
「えっと……じゃあ、私はレモンのタルトで。あと、紅茶も頼もうかな」
しばし乙女たちの甘やかな時間を満喫し、名残惜しくもお店を出たあとは、食後の運動も兼ねて、公園までの道をのんびり歩くことにした。
陽も傾き始め、王宮の白壁が夕陽を受けて淡く輝いていた。そのときだった――。
前方から、すらりとした背の高い男性がこちらへ歩いてくるのが見えた。
「……あれ、あの人……。」
気づくより先に、向こうから声がかかる。
「やあ、ミレイユ嬢に、ハミール嬢もご一緒か。……今、少し時間ある?」
声の主はダリオン様だった。いつもよりきっちりとした騎士の礼装に身を包み、普段とは違う雰囲気を纏っている。
(……なんで王都に?しかも正装で?)
そんな疑問が浮かんだ瞬間、ハミールがすかさず私を小突いた。
「おっと、私ちょっと、あっちの噴水までお散歩してきますね~。二人とも、ゆっくりお話しを!」
「えっ、ちょ、ハミール……?」
にやにやと手を振るハミールを見送る間もなく、気づけば私とダリオン様は二人きりになっていた。
「……気を悪くさせたらすまない。ほんの少しだけ、話がしたくてね。」
ダリオン様は、私と目を合わせないまま、ゆっくりと口を開いた。
「本当は、セオドアから伝えるべきことなのかもしれないけど……今、アイツにはそれができない事情があるんだ。」
「……事情?」
私が避けてしまっている以外にも、何かあるの?
「実は、セオドアが婚約者としてリゼットと公に振る舞う義務は、まだ形式上は続いているんだ。俺が爵位を得るまで――あと、ほんの数ヶ月……その間だけ、彼らの婚約は“建前上”続けられている。」
お嬢様は、事情を話して婚約が解消になるとはおっしゃっていたけど、よく考えたらダリオン様も、私と同じ平民出身だ。ご主人様に正式に認められるには、いろいろ準備が必要なんだ。
「だから、アイツは動けない。誠実な奴だから、口に出して思いを伝えることすら、躊躇ってるんだ。君を守るために、アイツも距離を取るしかないんだ。」
その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かがゆっくりと溶けていく気がした。
(……ずっと、わからなかった。)
どうして何も言ってくれないのか。私が逃げ出したままなのに、どうして追いかけても来ないのか。でも、そうか。そういう理由だったんだ。
「いずれすべてが整ったとき、必ず君の前に立つと思う。そのときまで……待っていてくるか?」
私がゆっくり頷いたとき、ダリオン様は少しだけ視線を落とし、言いにくそうに口を開いた。
「……それから、もうひとつ。」
彼の声色がほんの少しだけ、柔らかくなる。
「本当に、巻き込んでしまって申し訳なかった。君には何の落ち度もなかったのに、あんな形で気苦労をさせてしまった。……リゼットのことも、セオドアのことも、全部、俺たちの都合だったのに。」
「……っ。」
胸の奥が、きゅう、と音を立てて縮むようだった。
お嬢様も、ダリオン様も私なんかの為に謝ってくださる。むしろ、私が勝手に勘違いして混乱して、自滅していたと思っていたのに。
「……いえ。私こそ、勝手に思い込んで……色々、すみませんでした。」
「でも、君がいたから、リゼットもセオドアも支えられた。それは俺が一番よくわかってる。本当に、ありがとう。」
優しい声に、思わず目を伏せる。
――ああ、こんな人がお嬢様を選んでくれて良かった。
「……教えてくれて、ありがとうございます。」
私の言葉にダリオン様が軽く微笑むと、なんだか急に、胸のあたりがあたたかくなるような、不思議な気持ちがした。
「……お嬢様のこと、本当におめでとうございます。」
そう口に出してから、少しだけ目を伏せる。
「爵位のことも、大変だと思いますけど……応援してます。お二人が、幸せになれますように」
それは心からの本音だった。自分の恋は、どうなるかわからないけれど――せめて、お嬢様には、ちゃんと幸せになってほしい。
「ありがとう。」
ダリオン様の優しい眼差しに、私はぎこちなく笑った。どうしようもなく胸がぎゅうっとして、でもそれを悟られないように、精一杯の明るさを装って。
「それじゃあ……私はこれで。ハミールを探さないと。」
「あぁ。今日は話せてよかった。ありがとう、ミレイユ嬢。」
私は頭を下げて、その場を後にした。
王宮前の並木道を歩くと、ほどなくして見覚えのある後ろ姿が目に入る。ハミールはベンチに座って、袋から小さなクッキーを取り出していた。
「……ハミール!」
私が声をかけると、彼女は嬉しそうに振り返った。
「おかえり、ミレイユ。終わった?どうだった?」
「……うん。ちゃんと話せた。ありがとう、待っててくれて。」
「まあね。クッキーで時間潰してた!」
にこにこと笑いながら、袋から一枚差し出してくれる。私がそれを受け取ると、ハミールはいたずらっぽくウインクした。
「で?何話してたの?めちゃくちゃシリアスな顔で別れたから、告白されたのかと思ったけど?」
「な、なに言ってるのよ!違うし!」
「ふーん?」
肩をすくめる彼女の顔に、少しだけ救われる。肩の力が抜けて、自然と笑いがこぼれた。
――そうだ、こんなふうに笑っていられるうちは、大丈夫。
「さ、そろそろ帰ろっか。日が暮れる前に屋敷に戻らないと。」
「はいはい、戻りましょう戻りましょう。あ、でもその前にもう一軒、寄っていい?道沿いにプリンの美味しいお店があるんだって!」
「もう……さっきケーキ食べたばっかりでしょ。」
「甘いものは別腹なの!」
私たちは笑い合いながら、王都の街をゆっくりと歩き出した。
夕暮れの空が、ほんの少しだけ優しく見えたのは――きっと気のせいじゃなかった。
◇
侍女長に頼まれたお使いを済ませて、市場を出る。
大通りを抜けて曲がり角に差し掛かった時、私はほんの少しだけ足を止めた。けれど、すぐに視線を落として、何もなかったように歩き出す。
寄り道せず、まっすぐ屋敷に帰るようになってからどれくらい経っただろう。
(……会いたいくせに、避けてるなんて。)
自分でもわかっている。向き合う勇気がないだけだ。どんな顔で、どんな言葉で向き合えばいいのかわからなくて、 ダリオン様から聞いた話を言い訳にして逃げている。
(――いつかきっと、終わるはずだから。この距離も、不安も、全部。)
私は足早に屋敷への帰り道を急いだ。背中に、まだ見ぬ誰かの視線を感じる気がして、一度も振り返らずに。
そんな日々が、淡々と過ぎていった。気づけば、季節の空気も少しずつ変わり始めている。
ある日――ぽつりと、空から雨粒が落ちてきた。
小雨が降り出した夕刻、私は買い出し帰りに慌てて雨宿り先を探して走る。傘もささずに走っていると、ふと、騎士団の営地の前で足を止める。
気づけば知らぬ間に、こちらの方に走ってきてしまったらしい。
ちょうどその時――アーチの向こうから、セオドア様が姿を現した。
(……!)
お互いに気づいた瞬間、どちらも立ち止まった。
でも、言葉は出なかった。
私は、濡れた前髪を手で払いながら、ただじっと彼を見つめた。彼もまた、濡れた肩を揺らしながら、こちらを見返す。
けれど、次の瞬間。
セオドア様は、静かに頭を下げると、そのまま何も言わずに歩き出した。
その背を見送りながら、胸の奥にじわりと冷たいものが染みてくる。まるで、空から降る雨が、心の奥まで流れ込んでくるようだった。
でも――。
(……もし、ダリオン様から話を聞いていなかったら。彼のこの態度も、また勘違いして、傷ついていたかもしれない。)
ぎゅっと胸が痛む。けれど、あの時きちんと聞けて、良かった。今は、少なくとも、私のために距離を置いてくれているのだと、信じられるから。
(……会いたいのに。声をかけたいのに。それでも、今は――仕方ないのよね。)
私はゆっくりと視線を下げ、そっと背中を向けて歩き出した。
雨に濡れた石畳が、やけに冷たくて、遠く感じた。