第3話
出発の合図とともに、用意された馬車の扉が開かれた。
「では、乗りましょうか。」
セオドア様がお嬢様に手を差し出し、リゼット様が軽やかに応じる。その様子を見届けた私は、後ろに控えて小さく会釈した。
(よし、私は後ろに乗るか、あるいは徒歩でも……。)
「……って、え? 私も一緒に乗るんですか?」
続けてこちらを振り返ったセオドア様が、当然のように「どうぞ」と手を出して促してきた。私が思わず固まってしまうと、すかさずダリオン様が笑った。
「俺も平民の出だからな。メイドがどうこうって気にする気はない。席が余ってるなら、座ればいいさ。」
「え、あ……そ、そうですか……? で、では……お言葉に甘えて、失礼します……。」
こんな気まずいことってある? と思いながら、私はそろりと馬車に足を踏み入れた。お嬢様も笑ってらっしゃるし、大丈夫かしら…。
車内は決して広くはない。片側にお嬢様とダリオン様、もう一方に私とセオドア様が座る形になる。
ごとん、と揺れながら馬車が動き出す。窓から外の光が射し込んできて、車内は思ったより明るかった。
最初のうちは沈黙が流れていたものの、やがてお嬢様が、控えめな声で話しかける。
「お怪我の具合は、その後いかがですか?あの時は、少し無理をなさっていたように見えましたけれど……。」
「……ああ、あの時って、訓練中に転んだだけだよ。むしろ、あんな恥を見せたのが君の前でじゃなくてよかった。」
「ふふっ……でも、私はその場におりましたわよ?」
「え、まさか……!?」
「実は、こっそり遠くから拝見しておりましたの。」
「なんと! なんだ、だったらもっと格好つけておくんだったな……。」
会話が、やけに――軽い。
というか、なんだろうこの空気。楽しげで、弾んでいて、まるで……。
(あれ……?)
私の隣で黙って座るセオドア様は、腕を組んで、視線を泳がせている。何も言わないけれど、なんか察してる感じがする……。
私の頭の中には疑問符がいくつも浮かび上がってくる。
おかしいわ。だって今日はお嬢様とセオドア様のデートのはず。なのに、どうしてお嬢様はこんなに――。
「……お嬢様?」
「え?」
「さっきから、ダリオン様とのご会話、ずいぶんと楽しそうですね?」
気づけば、私はぽろりと口にしてしまっていた。
お嬢様が一瞬、きょとんとした顔をされ――すぐにふんわりと微笑む。
「ええ、とても楽しいですわ。ダリオン様は、以前からお話ししてみたい方でしたから。」
「……っ。」
(えっ? “以前から”……?)
いやいや、待ってくださいお嬢様。そんなこと一度も――聞いたことありませんけど?
私の胸の中に、もやもやとした霧が少しだけ立ち込め始めた。
セオドア様は相変わらず無言で窓の外を見つめ、何を思っているのか読めない。私はこっそり、買い物カゴの底にしまったハンカチをぎゅっと握りしめた。
(……ちょっと、ちょっとだけ、変じゃない? もしかして、私――何か見落としてる……?)
◇
湖のほとりを歩く風は涼やかで、草の香りと水の匂いがまじりあっている。陽は高く、けれど雲が時折それを隠してくれるせいか、眩しさは穏やかだった。
きらきらと光を跳ね返す水面を背景に、お嬢様とダリオン様は、まるで長年の知己のように並んで歩いている。
――というか、近い。……いや、ほんとに近い。
いやいやいやいや、ちょっと、あの距離感おかしくない!?
(え、あれ? 私、今日お嬢様とセオドア様の初デートに同行してるんですよね!?)
ダリオン様は時折お嬢様に何か耳打ちしては、からかうように笑い、お嬢様はそれに肩をすくめながら微笑まれていて――。
(え、なにその距離感!? なんでお嬢様、普通に笑ってるの!?)
と、焦りと混乱に襲われる私の横で、静かに歩くセオドア様がふと立ち止まり、こちらを見た。
「……歩きにくくありませんか?」
「えっ、あ……いえ、大丈夫です!」
必死に取り繕うと、彼はわずかに首をかしげて、それから自分の足元を見て、気づいたように言った。
「地面がぬかるんでいるようですね。……段差にお気をつけください。」
そう言って、さりげなく手を差し出される。驚いてその顔を見上げると、視線はまっすぐ私の足元を見ていた。
(……ほんとに、騎士様って感じ……。)
迷ったけれど、私はそっとその手を取る。指先はあたたかくて、でも強くは握らず、私が立ち止まるまで、ゆっくりと歩調を合わせてくれた。
そのまま、私たちはお嬢様たちから少し離れて歩き始める。
「……セオドア様。」
「はい?」
「……こういう場所って、女性は手を差し伸べられると、やっぱり嬉しいものですよね。」
冗談のように笑って言ったけれど、私の声はほんの少し震えていた。セオドア様は、少し間をおいてから答えた。
「……そう、ですね。嬉しいと……そう思っていただけたら、私としても幸いです。」
私は一瞬、返事の意味がわからず、目を瞬いた。
(……ん? なんか今、わたしに対して言いましたよね?)
顔を上げると、彼は少しだけ、照れたように視線を逸らしていた。……あれ?もしかしてこの人……ちょっと可愛いかもしれない。
そんなことを思った瞬間、ドクン、と胸が鳴った。
それが、ほんの一瞬の気の迷いか、それとも――恋の予感かは、まだわからなかったけれど。
私は、ふと手をつないだままの指先に意識を向けて、そっと口角を上げた。
(……でも、今だけは、もう少しだけこのままで)
湖の水面に揺れる陽光が、いつもより眩しく見えた。
暫く散策を続けて、湖畔の木陰で休憩の時間。お嬢様たちは楽しそうに話していて、私とセオドア様は対面でお茶を飲むことになった。
「……その、紅茶はお口に合いましたか?」
「美味しい。ミレイユ嬢が淹れてくれたのか?」
「えっ、あ、はいっ。……私、まあまあ淹れられますのでっ!」
真正面から褒められて動揺してしまう。
(何その返事!?「まあまあ」って何!?緊張で語彙が消滅してるわ私!)
そんな私の内心の叫びをよそに、セオドア様は紅茶を見ながらポツリとこぼした。
「……さっき、砂糖を入れるとき、鼻歌歌ってた。楽しそうだったな、と。」
「えっ!?み、見てたんですか!?」
いつもお邸で淹れるときと同じように、無意識で歌ってしまったらしい。ものすごく恥ずかしい、穴があったら入りたいかもしれない……。
「すみません、お耳汚しを……。」
「そんな事はありません!…その、可愛らしいな、と。」
語尾がだんだんと小さくなって聞こえづらかったけど、この人、私に向かって可愛いって言いました!?
チラッとセオドア様の顔を見ると、涼し気な目元とは対照的に、耳のあたりが少し赤くなっていた。
(…えぇ!可愛らしいのは貴方の方ではないですか?)
女性を褒め慣れてないのか、何なのか。いや、お嬢様との会話の練習になるならこれが正解なのかしら。
とりあえず、この場の空気を元に戻すため、小さくお礼を返しておいた。
お嬢様とセオドア様が少し離れたベンチで談笑している間、私は湖畔に咲いた花を眺めながら風に髪を揺らされていた。
「メイドさんって、そんな顔もするんだな。」
突然背後からかけられた声に、私は驚いて振り返った。
ダリオン様が、どこか楽しそうに私を見ていた。
「え?あっ、すみません……なんだか、ぼーっとしてしまって。」
「いやいや、悪い意味じゃないよ。ほら、普段から気を張ってる人って、こういう場所じゃ緊張ほどけないだろう?」
言いながら、私の隣に腰掛ける。この人、距離感の縮め方が早いな。
「…………なんで、そんなに分かるんですか?」
「俺?顔に出やすいタイプだからね、人の表情に敏感なんだよ。」
そう言ってウインクを飛ばしてくるその余裕っぷりに、私はなぜか悔しさすら覚えた。
「……私は別に、緊張してるわけじゃありません!」
「そっか。じゃあ“意中の人と一緒の空間にいても”動じないタイプってことか。」
「なっ……っ!」
(い、意中!?誰のことですか!?いやいや、お嬢様とセオドア様のことだよね!?)
私の動揺などお構いなしに、ダリオン様はにこにこと笑っていた。
その笑顔は私の初恋の人を思い出させるものだった。ダリオン様と同じタイプで、誰にでも距離感が近くて、自分にだけこういう接し方なんだと勘違いしてしまうのだ。こっぴどく振られたことを思い出して、憂鬱になる。――どちらにせよ、苦手なタイプだ。
「あ、お嬢様がお呼びですよ!」
視界の端で、お嬢様がこちらを見ているのに気が付いた。
なんだか面白がってる表情を隠しもしないダリオン様から、一刻も早く離れたい。
ダリオン様に背を向けて、お嬢様とセオドア様の元へ駆け出した。
◇
湖から吹く夕風が、頬を優しく撫でる。日が傾きはじめた帰り道。お嬢様と私は並んで歩き、セオドア様とダリオン様は少し後ろを歩いていた。
木漏れ日の差す並木道を進むたびに、馬車に戻る足が惜しいとすら思えてしまう。
「ミレイユ、楽しい一日だったわね。」
お嬢様の声は穏やかで、どこか頼もしい響きがあった。
「ええ、本当に。セオドア様、思っていたよりずっと優しくて……。」
と、思わず感想を漏らしてしまい、ハッと口をつぐむ。私はお嬢様を前に何を言おうとしてるの!?
「それで、どう思ったの?」
お嬢様は、鋭くもあり、楽しげでもある目で私を覗き込んだ。
確かに今日のセオドア様は、いつになく穏やかで、優しくて。ときどき、視線が重なるたびに胸が高鳴ってしまったことは、認めざるを得ない。
「……え?あの、す、素敵な方ですね……?」
「ふふ、ミレイユもそう思うわよね。」
――その笑顔が、いつもよりほんの少しやわらかくてそれが私には、なんだかとても嬉しいような、少し心が痛むような、不思議な感覚だった。
「また来週も、手紙をお願いできるかしら?」
少しの沈黙の後、お嬢様に頼まれたとき、思わず胸がいっぱいになった。
「もちろんです!お二人の恋、私、全力でお支えしますから!」
そのときのお嬢様は、少しだけ目を伏せたように見えた。まるで何かを考えているような、そんな表情だったけれど――。
(きっと、お嬢様も照れていらしたのよね。お手紙のことも、セオドア様とのことも……。)
そう思いながら、私はお嬢様の横顔を見つめて、何故か再び感じる胸の痛みに気づかないふりをした。
それが、ほんとうの恋の痛みだと気づくのは――もう少しだけ、先のこと。