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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
32/32

第6章  傷口としての世界


 事件から三日が過ぎた。

 東京は、何事もなかったかのように機能していた。

 地下鉄は定刻通りに走り、水道からは透明な水が出た。ニュース番組は、テロを未然に防いだ警察と最新AIの功績を称賛し、死亡した男については「社会に不満を持った精神異常者」として、わずか数十秒のクリップで処理した。

 男の名前は報道されなかった。

 彼が最期に何を叫び、何を求めたのかも、語られることはなかった。

 彼は文字通り、社会というシステムから「削除デリート」されたのだ。

 神納は、アパートの自室にいた。

 窓のカーテンは閉め切られ、部屋は昼間でも薄暗かった。

 彼は畳の上に座り込み、目の前にある「それ」を凝視していた。

 透明なビニール袋。

 その中には、赤黒く変色したシャツが入っている。

 三日前、彼が着ていたシャツだ。

 胸元から袖にかけて、茶色く乾いた血糊と、白くカピカピになった脳漿の飛沫がこびりついている。袋の口は縛っていなかった。そこから、鉄の錆びたような臭いと、腐敗した脂の臭いが、部屋の空気に滲み出していた。

 「……神納くん」

 玄関の方で声がした。鍵は開いていたらしい。

 松崎だった。彼女は靴を脱ぎ、部屋に入ってくると、その異様な臭いに一瞬顔をしかめたが、すぐに表情を戻して神納の隣に座った。

 「……私塾、閉めたんだってね」

 「ああ」

 神納は、視線をビニール袋から外さずに答えた。

 「聴く資格なんて、僕にはなかったんだ」

 「そんなことない」

 「あったら、救えていたはずだ」

 神納の声は、枯れ木のように乾いていた。

 「僕は、彼の手を握った。体温を感じた。彼は泣き止んだ。

 ……でも、結果は同じだった。

 僕の『共感』なんて、ライフルの弾丸一発よりも軽かったんだ」

 松崎は沈黙した。

 彼女の視線も、あの汚れたシャツに吸い寄せられていた。

 普通の感覚なら、それは「汚物」であり、即刻焼却すべき「医療廃棄物」だ。

 だが、神納がそれを捨てられずにいる理由を、彼女は痛いほど理解していた。

 それを洗濯機に入れて洗剤で洗うことは、あの男の存在を、あの男の体温を、この世界から完全に洗い流してしまうことと同義だからだ。

 「……臭うでしょ」

 神納が自嘲気味に言った。

 「大家に怒られるかもしれない。死体が隠してあるんじゃないかって」

 「ううん」

 松崎は首を振った。

 「生きている匂いがするわ。……すごく、痛々しいくらいに」

 ドアがノックされた。

 返事をする前に、扉が開いた。

 九条だった。

 彼は、以前のような精悍なエンジニアの顔をしていなかった。無精髭が生え、目は充血し、高級なジャケットは皺だらけだった。

 彼の手には、手土産も資料もなかった。ただ、手ぶらで立ち尽くしていた。

 「……ここに来れば、会えると思った」

 九条の声は掠れていた。

 彼は部屋に入ると、直立不動のまま神納を見下ろした。そして、床に置かれた血まみれのシャツを見て、喉を鳴らした。

 「……警察からは、感謝状が出ることになった」

 九条は、誰に言うでもなく呟いた。

 「俺のAIは完璧だった。予測精度100%。市民の被害ゼロ。

 公安は、このシステムを正式採用すると言っている。

 俺は英雄だそうだ」

 「おめでとう」

 神納は淡々と言った。皮肉ではなかった。事実として、九条は多くの命を救ったのだ。

 「ふざけるな!」

 九条が叫んだ。

 彼は膝から崩れ落ちるようにして、神納の前に座り込んだ。

 「俺は……俺は、間違っていたのか?

 あの時、発砲許可を出さなければ、奴は自爆していたかもしれない。

 何百万人が汚染され、発狂していたかもしれない。

 リスクを回避するためには、あれしかなかったんだ。

 論理的には、俺が正しいんだ。絶対に、正しいんだ……!」

 九条は両手で顔を覆った。

 指の隙間から、嗚咽が漏れた。

 「なのに……眠れないんだ。

 目を閉じると、あの瞬間の映像が焼き付いて離れない。

 奴の手だ。

 頭を吹き飛ばされて、死んでいるのに……お前の指を握り返していた、あの汚い手が……」

 九条の「清潔な論理」は、あの泥だらけの死後硬直によって、修復不可能なバグを抱え込んでしまったのだ。

 計算できない執着。

 死んでもなお、他者を求め続けた肉体の重力。

 神納は、ビニール袋に手を伸ばした。

 中から、血と脂で固まったシャツを取り出す。

 腐臭が、爆発的に部屋に広がる。

 九条が顔を上げた。松崎が息を呑んだ。

 神納は、その汚れた布を、愛おしむように膝の上に広げた。

 「九条さん。あんたのAIは正解したよ」

 神納は静かに言った。

 「最大多数の最大幸福を守った。システムとしては満点だ。

 あんたが自分を責める必要はない」

 「じゃあ、なんで……なんで俺はこんなに苦しいんだ!」

 「それは、あんたが人間だからだ」

 神納は、シャツの袖口――あの男の脳漿が飛び散った部分――を指でなぞった。

 「AIは、正解を出したらスリープモードに入れる。

 でも、人間は違う。

 正解を選んだとしても、その選択によって切り捨てたものの『感触』が、手に残る。

 その残像に苦しむ機能こそが、僕たちが機械じゃない証明だ」

 神納は、机の引き出しから、一冊のノートを取り出した。

 あの日、九条に見せた、何も書かれていない新しい大学ノートだ。

 彼はページを開いた。

 かつて川本の言葉を書き写し、自分の言葉を探した場所。

 そこに、ペンを走らせた。

 『倫理とは、正解を出すことではない』

 神納は書いた。

 ペンのインクが、紙に滲む。

 『倫理とは、他人の沈黙に耐えること。

 そして、他人の血で汚れた手を、決して洗わないこと』

 書き終えると、彼はノートを九条の方へ向けた。

 「九条さん。

 倫理は、きれいな場所にはない。

 無菌室や、サーバーの中や、教科書の中にはないんだ。

 血と汚物の中にしかない。

 だって、人間がそこでしか生きられない生き物だからだ」

 九条は、ノートの文字を食い入るように見つめた。

 涙が、彼の頬を伝って畳に落ちた。

 「……俺は、洗いたい。

 この記憶を、恐怖を、全部消去して、楽になりたい」

 「洗えばいい」

 神納は言った。

 「でも、汚れは落ちても、染みは残る。

 僕たちは、その染みを隠すためにファンデーションを塗るんじゃなく、その染みを見せびらかして生きていくしかないんだ。

 『俺は人を殺した』『俺は見殺しにした』『俺は無力だった』と、顔に書いて歩くしかない」

 神納は、血まみれのシャツを抱きしめた。

 自分の胸に、他者の死の臭いを擦り付けるように。

 「僕は、このシャツを捨てない。

 彼がテロリストだったとしても、狂人だったとしても。

 最期の瞬間に、僕の手を握り返したあの体温だけは、誰にも否定させない」

 部屋に、長い沈黙が満ちた。

 それは、以前のような重苦しい閉塞感ではなく、傷口がかさぶたに変わっていく時のような、静かな治癒の気配を孕んでいた。

 やがて、松崎が立ち上がった。

 彼女は窓際のカーテンに手をかけ、一気に開け放った。

 冬の午後の光が、薄暗い部屋に奔流となって雪崩れ込んだ。

 埃が舞う。

 血の臭いと、外の冷たい風が混ざり合う。

 「……見て」

 松崎が言った。

 窓の外。

 東京の空は、残酷なほど高く、澄み渡っていた。

 雲ひとつない青。

 その下で、何百万もの人々が、今日も「正常」に働き、笑い、食事をしている。

 地下鉄の汚物は清掃され、壁の落書きは消され、不快なノイズはすべてミュートされた世界。

 「きれいね」

 松崎が呟いた。

 「本当に、悔しいくらい綺麗」

 「ああ」

 神納も窓の外を見た。

 世界は美しい。なぜなら、汚いものをすべて殺して埋めたからだ。

 その美しさは、犠牲の上に成り立つ虚構の美しさだ。

 だが、それでも世界は続いている。

 神納たちは、この「傷口としての世界」で生きていかなければならない。

 神納は、大きく息を吸い込んだ。

 肺の奥まで、冷たい空気が入ってくる。

 そして、深く、重く、息を吐き出した。

 スーッ、ハァーッ。

 その呼吸音だけが、AIにも、社会にも、誰にも制御されない、彼自身の命のノイズだった。

 「……行こうか」

 神納は言った。どこへ行くあてもなかったが、ここに留まるべきではない気がした。

 九条がよろりと立ち上がる。松崎がコートを羽織る。

 神納は、血のついたシャツを丁寧に畳み、再びビニール袋に入れた。

 そして、それを鞄の一番底にしまった。

 重石のように。あるいは、道標のように。

 三人は部屋を出た。

 鍵をかける音。

 カチャリ。

 その小さな金属音は、新しい日常へのスイッチではなく、終わらない問いを抱え続ける覚悟の引き金だった。

 彼らは歩き出した。

 消毒された街の、決して消えない汚れとして。

(完)


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