第6章 傷口としての世界
事件から三日が過ぎた。
東京は、何事もなかったかのように機能していた。
地下鉄は定刻通りに走り、水道からは透明な水が出た。ニュース番組は、テロを未然に防いだ警察と最新AIの功績を称賛し、死亡した男については「社会に不満を持った精神異常者」として、わずか数十秒のクリップで処理した。
男の名前は報道されなかった。
彼が最期に何を叫び、何を求めたのかも、語られることはなかった。
彼は文字通り、社会というシステムから「削除」されたのだ。
神納は、アパートの自室にいた。
窓のカーテンは閉め切られ、部屋は昼間でも薄暗かった。
彼は畳の上に座り込み、目の前にある「それ」を凝視していた。
透明なビニール袋。
その中には、赤黒く変色したシャツが入っている。
三日前、彼が着ていたシャツだ。
胸元から袖にかけて、茶色く乾いた血糊と、白くカピカピになった脳漿の飛沫がこびりついている。袋の口は縛っていなかった。そこから、鉄の錆びたような臭いと、腐敗した脂の臭いが、部屋の空気に滲み出していた。
「……神納くん」
玄関の方で声がした。鍵は開いていたらしい。
松崎だった。彼女は靴を脱ぎ、部屋に入ってくると、その異様な臭いに一瞬顔をしかめたが、すぐに表情を戻して神納の隣に座った。
「……私塾、閉めたんだってね」
「ああ」
神納は、視線をビニール袋から外さずに答えた。
「聴く資格なんて、僕にはなかったんだ」
「そんなことない」
「あったら、救えていたはずだ」
神納の声は、枯れ木のように乾いていた。
「僕は、彼の手を握った。体温を感じた。彼は泣き止んだ。
……でも、結果は同じだった。
僕の『共感』なんて、ライフルの弾丸一発よりも軽かったんだ」
松崎は沈黙した。
彼女の視線も、あの汚れたシャツに吸い寄せられていた。
普通の感覚なら、それは「汚物」であり、即刻焼却すべき「医療廃棄物」だ。
だが、神納がそれを捨てられずにいる理由を、彼女は痛いほど理解していた。
それを洗濯機に入れて洗剤で洗うことは、あの男の存在を、あの男の体温を、この世界から完全に洗い流してしまうことと同義だからだ。
「……臭うでしょ」
神納が自嘲気味に言った。
「大家に怒られるかもしれない。死体が隠してあるんじゃないかって」
「ううん」
松崎は首を振った。
「生きている匂いがするわ。……すごく、痛々しいくらいに」
ドアがノックされた。
返事をする前に、扉が開いた。
九条だった。
彼は、以前のような精悍なエンジニアの顔をしていなかった。無精髭が生え、目は充血し、高級なジャケットは皺だらけだった。
彼の手には、手土産も資料もなかった。ただ、手ぶらで立ち尽くしていた。
「……ここに来れば、会えると思った」
九条の声は掠れていた。
彼は部屋に入ると、直立不動のまま神納を見下ろした。そして、床に置かれた血まみれのシャツを見て、喉を鳴らした。
「……警察からは、感謝状が出ることになった」
九条は、誰に言うでもなく呟いた。
「俺のAIは完璧だった。予測精度100%。市民の被害ゼロ。
公安は、このシステムを正式採用すると言っている。
俺は英雄だそうだ」
「おめでとう」
神納は淡々と言った。皮肉ではなかった。事実として、九条は多くの命を救ったのだ。
「ふざけるな!」
九条が叫んだ。
彼は膝から崩れ落ちるようにして、神納の前に座り込んだ。
「俺は……俺は、間違っていたのか?
あの時、発砲許可を出さなければ、奴は自爆していたかもしれない。
何百万人が汚染され、発狂していたかもしれない。
リスクを回避するためには、あれしかなかったんだ。
論理的には、俺が正しいんだ。絶対に、正しいんだ……!」
九条は両手で顔を覆った。
指の隙間から、嗚咽が漏れた。
「なのに……眠れないんだ。
目を閉じると、あの瞬間の映像が焼き付いて離れない。
奴の手だ。
頭を吹き飛ばされて、死んでいるのに……お前の指を握り返していた、あの汚い手が……」
九条の「清潔な論理」は、あの泥だらけの死後硬直によって、修復不可能なバグを抱え込んでしまったのだ。
計算できない執着。
死んでもなお、他者を求め続けた肉体の重力。
神納は、ビニール袋に手を伸ばした。
中から、血と脂で固まったシャツを取り出す。
腐臭が、爆発的に部屋に広がる。
九条が顔を上げた。松崎が息を呑んだ。
神納は、その汚れた布を、愛おしむように膝の上に広げた。
「九条さん。あんたのAIは正解したよ」
神納は静かに言った。
「最大多数の最大幸福を守った。システムとしては満点だ。
あんたが自分を責める必要はない」
「じゃあ、なんで……なんで俺はこんなに苦しいんだ!」
「それは、あんたが人間だからだ」
神納は、シャツの袖口――あの男の脳漿が飛び散った部分――を指でなぞった。
「AIは、正解を出したらスリープモードに入れる。
でも、人間は違う。
正解を選んだとしても、その選択によって切り捨てたものの『感触』が、手に残る。
その残像に苦しむ機能こそが、僕たちが機械じゃない証明だ」
神納は、机の引き出しから、一冊のノートを取り出した。
あの日、九条に見せた、何も書かれていない新しい大学ノートだ。
彼はページを開いた。
かつて川本の言葉を書き写し、自分の言葉を探した場所。
そこに、ペンを走らせた。
『倫理とは、正解を出すことではない』
神納は書いた。
ペンのインクが、紙に滲む。
『倫理とは、他人の沈黙に耐えること。
そして、他人の血で汚れた手を、決して洗わないこと』
書き終えると、彼はノートを九条の方へ向けた。
「九条さん。
倫理は、きれいな場所にはない。
無菌室や、サーバーの中や、教科書の中にはないんだ。
血と汚物の中にしかない。
だって、人間がそこでしか生きられない生き物だからだ」
九条は、ノートの文字を食い入るように見つめた。
涙が、彼の頬を伝って畳に落ちた。
「……俺は、洗いたい。
この記憶を、恐怖を、全部消去して、楽になりたい」
「洗えばいい」
神納は言った。
「でも、汚れは落ちても、染みは残る。
僕たちは、その染みを隠すためにファンデーションを塗るんじゃなく、その染みを見せびらかして生きていくしかないんだ。
『俺は人を殺した』『俺は見殺しにした』『俺は無力だった』と、顔に書いて歩くしかない」
神納は、血まみれのシャツを抱きしめた。
自分の胸に、他者の死の臭いを擦り付けるように。
「僕は、このシャツを捨てない。
彼がテロリストだったとしても、狂人だったとしても。
最期の瞬間に、僕の手を握り返したあの体温だけは、誰にも否定させない」
部屋に、長い沈黙が満ちた。
それは、以前のような重苦しい閉塞感ではなく、傷口がかさぶたに変わっていく時のような、静かな治癒の気配を孕んでいた。
やがて、松崎が立ち上がった。
彼女は窓際のカーテンに手をかけ、一気に開け放った。
冬の午後の光が、薄暗い部屋に奔流となって雪崩れ込んだ。
埃が舞う。
血の臭いと、外の冷たい風が混ざり合う。
「……見て」
松崎が言った。
窓の外。
東京の空は、残酷なほど高く、澄み渡っていた。
雲ひとつない青。
その下で、何百万もの人々が、今日も「正常」に働き、笑い、食事をしている。
地下鉄の汚物は清掃され、壁の落書きは消され、不快なノイズはすべてミュートされた世界。
「きれいね」
松崎が呟いた。
「本当に、悔しいくらい綺麗」
「ああ」
神納も窓の外を見た。
世界は美しい。なぜなら、汚いものをすべて殺して埋めたからだ。
その美しさは、犠牲の上に成り立つ虚構の美しさだ。
だが、それでも世界は続いている。
神納たちは、この「傷口としての世界」で生きていかなければならない。
神納は、大きく息を吸い込んだ。
肺の奥まで、冷たい空気が入ってくる。
そして、深く、重く、息を吐き出した。
スーッ、ハァーッ。
その呼吸音だけが、AIにも、社会にも、誰にも制御されない、彼自身の命のノイズだった。
「……行こうか」
神納は言った。どこへ行くあてもなかったが、ここに留まるべきではない気がした。
九条がよろりと立ち上がる。松崎がコートを羽織る。
神納は、血のついたシャツを丁寧に畳み、再びビニール袋に入れた。
そして、それを鞄の一番底にしまった。
重石のように。あるいは、道標のように。
三人は部屋を出た。
鍵をかける音。
カチャリ。
その小さな金属音は、新しい日常へのスイッチではなく、終わらない問いを抱え続ける覚悟の引き金だった。
彼らは歩き出した。
消毒された街の、決して消えない汚れとして。
(完)




