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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
31/32

第5章 沈黙の炸裂


 男は泣いた。

 それは、映画や小説で描かれるような、美しく静かな涙ではなかった。

 顔中の筋肉を歪め、鼻水を垂れ流し、喉の奥から獣のような嗚咽おえつを漏らす、ひどく無様で、汚らしい泣き方だった。

 「……誰も、触らなかった」

 男は、ヒック、ヒックとしゃくり上げながら、絞り出すように言った。

 「みんな……スマホの画面越しに俺を見て、指先一つでブロックした。

 俺は、ここにいるのに。

 駅のホームにも、公園のベンチにも、コンビニの裏にも、俺はずっといたのに……!

 誰も、俺の体温に気づかなかった……!」

 男の目から溢れ出た涙が、頬のこびりついた垢を洗い流し、白い筋を作っていく。

 その白い筋だけが、彼がかつて赤ん坊だった頃の、汚れる前の皮膚を晒していた。

 神納の手の中で、男の手の力が緩んだ。

 骨が軋むほど強く握られていた指が、一本、また一本と解けていく。

 レバーを握りしめていた強張りが消え、ただの温かい肉の塊へと戻っていく。

 「……あったかいな」

 男は呟いた。

 「あんたの手……汚しちまったな」

 「ああ」

 神納は頷いた。

 「汚れたよ。真っ黒だ。

 でも、洗えば落ちる。……いや、洗わなくてもいい。

 この汚れは、僕たちが今日、ここで会った証拠だ」

 「……へへっ」

 男は力なく笑った。

 憑き物が落ちたような顔だった。

 テロリストの顔ではない。ただの、寂しさに耐えかねて癇癪を起こした、孤独な子供の顔だった。

 「もう、いいや……。

 あんたみたいな奴が一人でもいるなら……世界中をクソまみれにする必要も、ねえか……」

 男は、完全にレバーから手を離そうとした。

 神納の手を、両手で包み込むように握り直すために。

 その、一瞬の動作。

 男が肩を震わせ、大きく息を吸い込み、神納に向かって一歩踏み出そうとした、その刹那。

 九条のAIは、その動作を「和解」とは認識しなかった。

 『警告:対象の感情値、極めて不安定』

 『心拍数の急激な変動を検知』

 『予測:自暴自棄による突発的な自爆行動の可能性、98%』

 システムにとって、泣き崩れる男の痙攣は、起爆への予備動作と酷似していた。

 非合理な感情の揺れは、計算機にとって最大のリスク要因バグでしかない。

 AIは、即座に「結論」を出力した。

 『推奨アクション:即時排除(Execute)』

 現場指揮所のモニターに、赤い文字が点滅する。

 人間の指揮官が躊躇するよりも早く、自動化された指令が、数百メートル離れた給水塔の上にいる狙撃手のインカムへと送信された。

 『射撃許可ファイア』。

 乾いた音がした。

 パン、という、風船が割れるような軽い音。

 神納の目の前で、男の顔が消滅した。

 比喩ではない。物理的に、弾け飛んだのだ。

 大口径のライフル弾が、男の右のこめかみから侵入し、頭蓋骨の中で運動エネルギーを爆発させ、左の側頭部を吹き飛ばして抜けていった。

 バシュッ。

 スイカをハンマーで叩き割ったような、湿った破砕音。

 神納の視界が、瞬時に真っ赤に染まった。

 熱い液体が、散弾のように顔面に叩きつけられる。

 目に入った。口に入った。

 鉄の味。塩の味。そして、生臭い脂の味。

 「……え?」

 神納は、呆然と立ち尽くしていた。

 目の前にいたはずの男の首から上が、なくなっていた。

 下顎だけが辛うじて残り、そこから上が、赤と白とピンク色が混ざり合ったミンチ状の肉片となって、制御盤や壁、そして神納のシャツに飛び散っている。

 ピンク色の塊――脳漿の一部が、神納の肩に落ち、プルリと震えて床に滑り落ちた。

 ドサリ。

 頭を失った男の体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

 だが、手だけは。

 神納の手を握っていたその手だけは、死後硬直のような反射で、さらに強く神納の指に食い込んだ。

 「……あ……あ……」

 神納は、自分の顔を掌で拭った。

 べっとりと、赤いものがつく。

 それは汚物ではない。

 さっきまで泣いて、笑って、何かを語ろうとしていた男の、「命」そのものだった。

 タンクの中身は漏れ出さなかった。

 爆弾は作動しなかった。

 世界は守られた。

 静寂が戻った制御室に、ドアを蹴破って九条たちが飛び込んできた。

 「神納! 無事か!」

 九条は、床に倒れた死体を確認し、大きく息を吐いた。

 「……確保! 状況クリアだ!」

 武装した隊員たちが雪崩れ込み、死体の周囲を固める。

 九条が神納に駆け寄った。

 「怪我はないか!? ……くそ、酷い返り血だな。すぐに洗浄班を呼ぶ!」

 九条の声は弾んでいた。

 ミッション・コンプリート。

 最悪のテロを防ぎ、市民の安全を守り抜いた。AIの予測は完璧だった。

 「……間に合ったな」

 九条は神納の肩に手を置いた。

 「もう少し遅れていたら、奴はレバーを引いていたかもしれない。ギリギリのタイミングだった」

 神納は、ゆっくりと顔を上げた。

 血と脳漿で塗れたその顔の中で、目だけが白く、異様な光を放っていた。

 彼は、自分の右手を握りしめている、死体の手を見つめた。

 まだ温かい。

 脈は止まっているのに、体温だけが、しつこく残っている。

 「……間に合った?」

 神納の声は、低く、掠れていた。

 「ああ。被害はゼロだ。君のおかげで時間を稼げた」

 九条は屈託なく言った。

 神納は、九条の手を振り払った。

 ビチャリ、と血の飛沫が九条の清潔なジャケットに飛ぶ。

 「何に、間に合ったんだ?」

 神納は、足元の死体を指差した。

 頭のない肉塊。首の断面からは、まだ鮮血がポンプのように噴き出し、床に赤い池を作っている。

 「彼は、止まろうとしていた。

 レバーから手を離して、僕の手を握り返してくれたんだ。

 あと一秒あれば、彼は『爆弾』じゃなくて『人間』に戻れたんだぞ!」

 神納の叫びが、制御室に反響した。

 「なのに、あんたのAIは殺した。

 彼が泣いたからだ。彼が人間らしい迷いを見せたからだ!

 それを『エラー』だと判断して、ゴミみたいに掃除したんだ!」

 九条の表情が凍りついた。

 「……それは結果論だ。

 あの状況で、奴が自爆しないという保証はどこにもなかった。

 AIは確率論で動く。98%のリスクがあるなら、排除するのが正解だ」

 「正解……」

 神納は、口の中に入り込んだ血を吐き出した。

 鉄の味がする。

 これが、九条の言う「正解」の味だ。

 「見てみろよ、九条さん」

 神納は、血まみれの両手を広げて見せた。

 「これが、あんたの守った『清潔な世界』の代償だ。

 あんたのAIは、手を汚さずに人を殺せるかもしれない。

 でも、その血は消えない。

 ここに、僕の体に、全部ぶちまけられているんだよ!」

 九条は後ずさった。

 神納の姿は、まるで地獄から這い上がってきた亡者のようだった。

 全身を他人の血と脳で汚し、強烈な腐敗臭と死臭を纏って立っている。

 それは、九条が最も忌避し、システムから排除しようとしてきた「ノイズ」そのものだった。

 「……神納、落ち着け。君はショックを受けている」

 「落ち着いてなんかいられない!」

 神納は、死体の手を――まだ強く彼を握りしめているその指を、無理やり引き剥がした。

 死後硬直が始まりかけているのか、指は硬かった。

 パキリ、と乾いた音がした。

 「……熱いんだよ」

 神納は、自分の掌を見つめて呟いた。涙が溢れて、血で汚れた頬を伝った。

 「あんたが『排除』したこのゴミは、こんなにも熱かったんだ。

 AIには、この熱さは一生わからない。

 あんたにもだ」

 神納はよろめきながら出口へと向かった。

 警官たちが道を開ける。

 誰も、彼に触れようとしなかった。

 彼があまりにも汚れていて、あまりにも神聖に見えたからだ。

 外に出ると、冬の夜空が広がっていた。

 星が綺麗だった。

 その無関心な美しさが、今はただ、嘔吐したくなるほど憎らしかった。

(続く)


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