第5章 沈黙の炸裂
男は泣いた。
それは、映画や小説で描かれるような、美しく静かな涙ではなかった。
顔中の筋肉を歪め、鼻水を垂れ流し、喉の奥から獣のような嗚咽を漏らす、ひどく無様で、汚らしい泣き方だった。
「……誰も、触らなかった」
男は、ヒック、ヒックとしゃくり上げながら、絞り出すように言った。
「みんな……スマホの画面越しに俺を見て、指先一つでブロックした。
俺は、ここにいるのに。
駅のホームにも、公園のベンチにも、コンビニの裏にも、俺はずっといたのに……!
誰も、俺の体温に気づかなかった……!」
男の目から溢れ出た涙が、頬のこびりついた垢を洗い流し、白い筋を作っていく。
その白い筋だけが、彼がかつて赤ん坊だった頃の、汚れる前の皮膚を晒していた。
神納の手の中で、男の手の力が緩んだ。
骨が軋むほど強く握られていた指が、一本、また一本と解けていく。
レバーを握りしめていた強張りが消え、ただの温かい肉の塊へと戻っていく。
「……あったかいな」
男は呟いた。
「あんたの手……汚しちまったな」
「ああ」
神納は頷いた。
「汚れたよ。真っ黒だ。
でも、洗えば落ちる。……いや、洗わなくてもいい。
この汚れは、僕たちが今日、ここで会った証拠だ」
「……へへっ」
男は力なく笑った。
憑き物が落ちたような顔だった。
テロリストの顔ではない。ただの、寂しさに耐えかねて癇癪を起こした、孤独な子供の顔だった。
「もう、いいや……。
あんたみたいな奴が一人でもいるなら……世界中をクソまみれにする必要も、ねえか……」
男は、完全にレバーから手を離そうとした。
神納の手を、両手で包み込むように握り直すために。
その、一瞬の動作。
男が肩を震わせ、大きく息を吸い込み、神納に向かって一歩踏み出そうとした、その刹那。
九条のAIは、その動作を「和解」とは認識しなかった。
『警告:対象の感情値、極めて不安定』
『心拍数の急激な変動を検知』
『予測:自暴自棄による突発的な自爆行動の可能性、98%』
システムにとって、泣き崩れる男の痙攣は、起爆への予備動作と酷似していた。
非合理な感情の揺れは、計算機にとって最大のリスク要因でしかない。
AIは、即座に「結論」を出力した。
『推奨アクション:即時排除(Execute)』
現場指揮所のモニターに、赤い文字が点滅する。
人間の指揮官が躊躇するよりも早く、自動化された指令が、数百メートル離れた給水塔の上にいる狙撃手のインカムへと送信された。
『射撃許可』。
乾いた音がした。
パン、という、風船が割れるような軽い音。
神納の目の前で、男の顔が消滅した。
比喩ではない。物理的に、弾け飛んだのだ。
大口径のライフル弾が、男の右のこめかみから侵入し、頭蓋骨の中で運動エネルギーを爆発させ、左の側頭部を吹き飛ばして抜けていった。
バシュッ。
スイカをハンマーで叩き割ったような、湿った破砕音。
神納の視界が、瞬時に真っ赤に染まった。
熱い液体が、散弾のように顔面に叩きつけられる。
目に入った。口に入った。
鉄の味。塩の味。そして、生臭い脂の味。
「……え?」
神納は、呆然と立ち尽くしていた。
目の前にいたはずの男の首から上が、なくなっていた。
下顎だけが辛うじて残り、そこから上が、赤と白とピンク色が混ざり合ったミンチ状の肉片となって、制御盤や壁、そして神納のシャツに飛び散っている。
ピンク色の塊――脳漿の一部が、神納の肩に落ち、プルリと震えて床に滑り落ちた。
ドサリ。
頭を失った男の体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
だが、手だけは。
神納の手を握っていたその手だけは、死後硬直のような反射で、さらに強く神納の指に食い込んだ。
「……あ……あ……」
神納は、自分の顔を掌で拭った。
べっとりと、赤いものがつく。
それは汚物ではない。
さっきまで泣いて、笑って、何かを語ろうとしていた男の、「命」そのものだった。
タンクの中身は漏れ出さなかった。
爆弾は作動しなかった。
世界は守られた。
静寂が戻った制御室に、ドアを蹴破って九条たちが飛び込んできた。
「神納! 無事か!」
九条は、床に倒れた死体を確認し、大きく息を吐いた。
「……確保! 状況クリアだ!」
武装した隊員たちが雪崩れ込み、死体の周囲を固める。
九条が神納に駆け寄った。
「怪我はないか!? ……くそ、酷い返り血だな。すぐに洗浄班を呼ぶ!」
九条の声は弾んでいた。
ミッション・コンプリート。
最悪のテロを防ぎ、市民の安全を守り抜いた。AIの予測は完璧だった。
「……間に合ったな」
九条は神納の肩に手を置いた。
「もう少し遅れていたら、奴はレバーを引いていたかもしれない。ギリギリのタイミングだった」
神納は、ゆっくりと顔を上げた。
血と脳漿で塗れたその顔の中で、目だけが白く、異様な光を放っていた。
彼は、自分の右手を握りしめている、死体の手を見つめた。
まだ温かい。
脈は止まっているのに、体温だけが、しつこく残っている。
「……間に合った?」
神納の声は、低く、掠れていた。
「ああ。被害はゼロだ。君のおかげで時間を稼げた」
九条は屈託なく言った。
神納は、九条の手を振り払った。
ビチャリ、と血の飛沫が九条の清潔なジャケットに飛ぶ。
「何に、間に合ったんだ?」
神納は、足元の死体を指差した。
頭のない肉塊。首の断面からは、まだ鮮血がポンプのように噴き出し、床に赤い池を作っている。
「彼は、止まろうとしていた。
レバーから手を離して、僕の手を握り返してくれたんだ。
あと一秒あれば、彼は『爆弾』じゃなくて『人間』に戻れたんだぞ!」
神納の叫びが、制御室に反響した。
「なのに、あんたのAIは殺した。
彼が泣いたからだ。彼が人間らしい迷いを見せたからだ!
それを『エラー』だと判断して、ゴミみたいに掃除したんだ!」
九条の表情が凍りついた。
「……それは結果論だ。
あの状況で、奴が自爆しないという保証はどこにもなかった。
AIは確率論で動く。98%のリスクがあるなら、排除するのが正解だ」
「正解……」
神納は、口の中に入り込んだ血を吐き出した。
鉄の味がする。
これが、九条の言う「正解」の味だ。
「見てみろよ、九条さん」
神納は、血まみれの両手を広げて見せた。
「これが、あんたの守った『清潔な世界』の代償だ。
あんたのAIは、手を汚さずに人を殺せるかもしれない。
でも、その血は消えない。
ここに、僕の体に、全部ぶちまけられているんだよ!」
九条は後ずさった。
神納の姿は、まるで地獄から這い上がってきた亡者のようだった。
全身を他人の血と脳で汚し、強烈な腐敗臭と死臭を纏って立っている。
それは、九条が最も忌避し、システムから排除しようとしてきた「ノイズ」そのものだった。
「……神納、落ち着け。君はショックを受けている」
「落ち着いてなんかいられない!」
神納は、死体の手を――まだ強く彼を握りしめているその指を、無理やり引き剥がした。
死後硬直が始まりかけているのか、指は硬かった。
パキリ、と乾いた音がした。
「……熱いんだよ」
神納は、自分の掌を見つめて呟いた。涙が溢れて、血で汚れた頬を伝った。
「あんたが『排除』したこのゴミは、こんなにも熱かったんだ。
AIには、この熱さは一生わからない。
あんたにもだ」
神納はよろめきながら出口へと向かった。
警官たちが道を開ける。
誰も、彼に触れようとしなかった。
彼があまりにも汚れていて、あまりにも神聖に見えたからだ。
外に出ると、冬の夜空が広がっていた。
星が綺麗だった。
その無関心な美しさが、今はただ、嘔吐したくなるほど憎らしかった。
(続く)




