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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
30/32

第4章  汚れた手


 制御室の空気は、腐敗した臓器の内部のように濃密だった。

 計器類の電子音がかき消されるほどの、圧倒的な有機物の臭気。

 部屋の中央、巨大な円筒形のタンクの縁に、その男――腐敗男は立っていた。

 至近距離で見る彼は、人間というよりは、泥と油で塗り固められた彫像のようだった。

 何ヶ月も洗っていない髪は、頭皮の脂で固まってドレッド状になり、その隙間を小さな羽虫が這い回っている。露出した首筋や腕の皮膚は、垢が層を成して黒く変色し、所々ひび割れて赤黒い体液が滲んでいた。

 彼が着ている作業着は、もはや布の質感を留めていなかった。何層にも塗り重ねられた排泄物や吐瀉物が乾燥し、硬化して、茶色い鎧のようになっている。

 男は、タンクの投入口に手をかけていた。

 その中には、数百万人の精神を破壊する幻覚剤入り汚濁液が波打っている。

 レバーを引けば終わりだ。

 「……来るな」

 男が低い声で唸った。

 彼が口を開くと、歯の隙間に詰まった食べかすと、胃から上がってくる腐敗臭が、熱風のように神納の顔を打った。

 「臭いぞ。お前らみたいな清潔な人間が一番嫌う匂いだ。

 俺は生ゴミだ。近寄るだけで服に臭いがつくぞ」

 神納は足を止めなかった。

 胃袋が裏返りそうなほどの吐き気が、喉元まで迫り上がっていた。本能が「逃げろ」と叫んでいる。呼吸をするたびに、微細な汚物の粒子が肺胞にこびりつく感覚がある。

 だが、神納は一歩、また一歩と距離を詰めた。

 「……臭いな」

 神納は、ハンカチで鼻を覆うこともなく言った。

 「吐き気がするほど臭い。目が痛い。

 でも、それはあんたが生きて、食って、排泄してきた証拠だ」

 「きれいごとを言うな!」

 男が叫んだ。唾液の飛沫が神納の頬にかかる。

 「お前も心の中では見下してるんだろ! 『かわいそうなモンスター』だってな!

 俺は知ってるんだ。人間はな、自分より汚いものを見ると、優越感に浸るんだよ。

 『自分はあっち側じゃなくてよかった』ってな!」

 男はタンクのレバーに手をかけた。

 指の関節が白くなるほど強く握りしめている。その爪の間には、黒い泥と、乾いた血が詰まっていた。

 神納は、男の目の前まで来た。

 距離、五十センチ。

 男の体温が伝わってくる。

 悪臭の発生源は、データでも映像でもなく、確かに熱を持って鼓動している、一人の人間だった。

 「……見下してなんかいない」

 神納は静かに言った。

 「ただ、羨ましいんだ」

 「あ?」

 男が怪訝な顔をした。

 「あんたは、隠していない。

 僕たちは、綺麗な服を着て、デオドラントで臭いを消して、トイレの音さえ消音して生きている。

 自分が動物であることを必死で隠して、『人間』という役を演じている。

 でも、あんたは全部晒している。

 中身をぶちまけて、これが俺だと言い放っている。

 ……それは、僕たちがどうしてもできないことだ」

 神納は右手を差し出した。

 白く、細く、清潔な手だった。毎朝石鹸で洗い、アルコールで消毒された、文明社会の手。

 「触らせてくれ」

 男は目を見開いた。

 「……は? 正気か?

 この手はな、クソを掴んだ手だぞ。腐った肉を引き裂いた手だぞ。

 ばい菌だらけだ。触ったら病気になるぞ」

 「構わない」

 神納は、躊躇うことなく、男がレバーを握りしめている右手に、自分の手を重ねた。

 ぐにゅり。

 不快な感触があった。

 男の手の甲には、汗と脂と汚れが混ざり合った、ぬるりとした粘液が浮いていた。

 それが神納の乾いた掌にへばりつく。

 温かかった。

 いや、熱いほどだった。

 その熱さと湿り気が、皮膚を通して神納の体内へ侵入してくる。生理的な拒絶反応で、鳥肌が立つ。

 男は凍りついたように動かなかった。

 レバーを引くことも、神納を振り払うことも忘れ、自分の手の上に重なった白い手を見つめていた。

 神納は、さらに強く握りしめた。

 指と指を絡ませる。男の爪の間の汚れが、神納の皮膚に食い込む。

 自分の手が、見る見るうちに茶色く、黒く汚れていく。

 「……俺の手を見ろ」

 神納は、震える声で言った。

 「汚れただろう?

 臭いも移った。菌も移った。

 これで俺も、あんたと同じだ。共犯者だ」

 神納は、男の濁った瞳を真っ直ぐに見据えた。

 「あんたが世界を汚したいなら、まず俺を汚せ。

 世界中をクソまみれにする前に、目の前のたった一人の人間を、その手で触って、体温を感じて、汚してみろよ」

 「……なんで……」

 男の唇が震えた。

 「なんで、離さないんだよ……。気持ち悪いだろ……」

 「気持ち悪いよ」

 神納は即答した。嘘はつかなかった。

 「最高に気持ち悪い。早く手を洗いたい。吐きそうだ。

 ……でも、離さない」

 神納は、男の手をレバーから引き剥がすのではなく、ただ包み込んだまま、そこに留まった。

 「理解なんてしない。同情もしない。

 ただ、あんたが『触れられない存在』として処理されることだけは、俺が許さない。

 ここに、体温がある。

 あんたの手は、レバーを引くための部品じゃない。

 誰かと繋がるための、温かい肉だ」

 男の喉の奥から、獣の唸り声のような音が漏れた。

 それは威嚇ではなかった。

 あまりにも長い間、誰にも触れられず、誰からも直視されず、透明な「汚物」として扱われてきた魂が、急激な「接触」によって軋みを上げる音だった。

 モニター越しのAIには、決して観測できない現象。

 垢と脂の不快な被膜の下で、二つの脈拍が、不規則に、しかし確かに共鳴し始めていた。

 「……あ、あぁ……」

 男の目から、涙が溢れた。

 それは清らかな涙ではなかった。目やにと脂で濁った、粘り気のある液体だった。それが汚れた頬を伝い、口元のよだれと混ざり合う。

 男は泣きながら、それでも神納の手を握り返した。

 強く。骨が痛むほど強く。

 まるで、溺れる者がわらを掴むように。あるいは、地獄の底から垂らされた、たった一本の汚れた糸にしがみつくように。

(続く)


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