第4章 汚れた手
制御室の空気は、腐敗した臓器の内部のように濃密だった。
計器類の電子音がかき消されるほどの、圧倒的な有機物の臭気。
部屋の中央、巨大な円筒形のタンクの縁に、その男――腐敗男は立っていた。
至近距離で見る彼は、人間というよりは、泥と油で塗り固められた彫像のようだった。
何ヶ月も洗っていない髪は、頭皮の脂で固まってドレッド状になり、その隙間を小さな羽虫が這い回っている。露出した首筋や腕の皮膚は、垢が層を成して黒く変色し、所々ひび割れて赤黒い体液が滲んでいた。
彼が着ている作業着は、もはや布の質感を留めていなかった。何層にも塗り重ねられた排泄物や吐瀉物が乾燥し、硬化して、茶色い鎧のようになっている。
男は、タンクの投入口に手をかけていた。
その中には、数百万人の精神を破壊する幻覚剤入り汚濁液が波打っている。
レバーを引けば終わりだ。
「……来るな」
男が低い声で唸った。
彼が口を開くと、歯の隙間に詰まった食べかすと、胃から上がってくる腐敗臭が、熱風のように神納の顔を打った。
「臭いぞ。お前らみたいな清潔な人間が一番嫌う匂いだ。
俺は生ゴミだ。近寄るだけで服に臭いがつくぞ」
神納は足を止めなかった。
胃袋が裏返りそうなほどの吐き気が、喉元まで迫り上がっていた。本能が「逃げろ」と叫んでいる。呼吸をするたびに、微細な汚物の粒子が肺胞にこびりつく感覚がある。
だが、神納は一歩、また一歩と距離を詰めた。
「……臭いな」
神納は、ハンカチで鼻を覆うこともなく言った。
「吐き気がするほど臭い。目が痛い。
でも、それはあんたが生きて、食って、排泄してきた証拠だ」
「きれいごとを言うな!」
男が叫んだ。唾液の飛沫が神納の頬にかかる。
「お前も心の中では見下してるんだろ! 『かわいそうなモンスター』だってな!
俺は知ってるんだ。人間はな、自分より汚いものを見ると、優越感に浸るんだよ。
『自分はあっち側じゃなくてよかった』ってな!」
男はタンクのレバーに手をかけた。
指の関節が白くなるほど強く握りしめている。その爪の間には、黒い泥と、乾いた血が詰まっていた。
神納は、男の目の前まで来た。
距離、五十センチ。
男の体温が伝わってくる。
悪臭の発生源は、データでも映像でもなく、確かに熱を持って鼓動している、一人の人間だった。
「……見下してなんかいない」
神納は静かに言った。
「ただ、羨ましいんだ」
「あ?」
男が怪訝な顔をした。
「あんたは、隠していない。
僕たちは、綺麗な服を着て、デオドラントで臭いを消して、トイレの音さえ消音して生きている。
自分が動物であることを必死で隠して、『人間』という役を演じている。
でも、あんたは全部晒している。
中身をぶちまけて、これが俺だと言い放っている。
……それは、僕たちがどうしてもできないことだ」
神納は右手を差し出した。
白く、細く、清潔な手だった。毎朝石鹸で洗い、アルコールで消毒された、文明社会の手。
「触らせてくれ」
男は目を見開いた。
「……は? 正気か?
この手はな、クソを掴んだ手だぞ。腐った肉を引き裂いた手だぞ。
ばい菌だらけだ。触ったら病気になるぞ」
「構わない」
神納は、躊躇うことなく、男がレバーを握りしめている右手に、自分の手を重ねた。
ぐにゅり。
不快な感触があった。
男の手の甲には、汗と脂と汚れが混ざり合った、ぬるりとした粘液が浮いていた。
それが神納の乾いた掌にへばりつく。
温かかった。
いや、熱いほどだった。
その熱さと湿り気が、皮膚を通して神納の体内へ侵入してくる。生理的な拒絶反応で、鳥肌が立つ。
男は凍りついたように動かなかった。
レバーを引くことも、神納を振り払うことも忘れ、自分の手の上に重なった白い手を見つめていた。
神納は、さらに強く握りしめた。
指と指を絡ませる。男の爪の間の汚れが、神納の皮膚に食い込む。
自分の手が、見る見るうちに茶色く、黒く汚れていく。
「……俺の手を見ろ」
神納は、震える声で言った。
「汚れただろう?
臭いも移った。菌も移った。
これで俺も、あんたと同じだ。共犯者だ」
神納は、男の濁った瞳を真っ直ぐに見据えた。
「あんたが世界を汚したいなら、まず俺を汚せ。
世界中をクソまみれにする前に、目の前のたった一人の人間を、その手で触って、体温を感じて、汚してみろよ」
「……なんで……」
男の唇が震えた。
「なんで、離さないんだよ……。気持ち悪いだろ……」
「気持ち悪いよ」
神納は即答した。嘘はつかなかった。
「最高に気持ち悪い。早く手を洗いたい。吐きそうだ。
……でも、離さない」
神納は、男の手をレバーから引き剥がすのではなく、ただ包み込んだまま、そこに留まった。
「理解なんてしない。同情もしない。
ただ、あんたが『触れられない存在』として処理されることだけは、俺が許さない。
ここに、体温がある。
あんたの手は、レバーを引くための部品じゃない。
誰かと繋がるための、温かい肉だ」
男の喉の奥から、獣の唸り声のような音が漏れた。
それは威嚇ではなかった。
あまりにも長い間、誰にも触れられず、誰からも直視されず、透明な「汚物」として扱われてきた魂が、急激な「接触」によって軋みを上げる音だった。
モニター越しのAIには、決して観測できない現象。
垢と脂の不快な被膜の下で、二つの脈拍が、不規則に、しかし確かに共鳴し始めていた。
「……あ、あぁ……」
男の目から、涙が溢れた。
それは清らかな涙ではなかった。目やにと脂で濁った、粘り気のある液体だった。それが汚れた頬を伝い、口元の涎と混ざり合う。
男は泣きながら、それでも神納の手を握り返した。
強く。骨が痛むほど強く。
まるで、溺れる者が藁を掴むように。あるいは、地獄の底から垂らされた、たった一本の汚れた糸にしがみつくように。
(続く)




