第3章 トロッコ問題の先で
東京都の水道局が管理する、巨大浄水場。
その敷地は、青白い投光器の光で昼間のように照らし出されていた。
機動隊の装甲車が幾重にもバリケードを築き、上空ではヘリコプターが旋回している。その騒音は、まるで巨大な虫の羽音のように、神経を逆撫でする周波数で響いていた。
「……状況は?」
現場指揮所となっているテントに、九条が駆け込んだ。
「最悪です」
モニターを監視していた捜査員が、顔をしかめて答えた。
「対象は中央制御室に籠城。配管への注入弁を確保しています。
奴が持ち込んだタンクの中身ですが……成分分析の結果が出ました」
捜査員は言い淀んだ。
「致死性の毒物ではありません。大量の『幻覚剤』と……腐敗した豚の血液、そして人間の排泄物を発酵させた汚濁液です」
九条は息を呑んだ。
殺す気はないのだ。
腐敗男は、この都市の血管である水道管に、狂気と汚物を流し込もうとしている。
蛇口を捻れば、幻覚剤入りの糞尿が出てくる。
身体的な死よりも遥かに深く、この清潔な都市の精神を汚染する、最悪のテロル。
「……俺のAIを使え」
九条はタブレットを取り出し、メインサーバーに接続した。
「奴の行動パターン、心拍数、筋肉の微細な動きから、次の動作を予測する。
起爆スイッチ――注入弁を開くレバーを操作する『0.5秒前』に、狙撃班に信号を送る」
画面に、制御室のサーモグラフィ映像が映し出された。
赤く表示された人影が、機械の森の中で蠢いている。
AIが解析を開始する。
画面上に、無数の数値と予測線が走る。
『シミュレーション完了』
無機質な文字が表示された。
『対象の排除によるリスク回避率:99.98%』
『市民1200万人の精神衛生リスク:甚大』
『推奨アクション:即時排除(Eliminate)』
それは、あまりに簡単な計算式だった。
一人の汚れた男の命と、1200万人の清潔な生活。
天秤にかけるまでもない。AIは瞬時に「トロッコのレバー」を引くことを決定した。
「射撃許可を」
九条は、現場責任者の警察官僚にタブレットを見せた。
官僚は頷いた。
「許可する。タイミングはAIに任せる」
責任の所在は、人間から機械へと委譲された。
誰も「殺せ」とは言わない。ただ「システムに従え」と言うだけだ。
そうすれば、誰の手も汚れずに済む。
その時、テントの入り口が荒々しく開かれた。
「待ってください!」
神納だった。後ろには、息を切らせた松崎もいる。
二人は、警察の阻止線を強引に突破してきたらしい。服は汚れ、神納の頬には擦り傷があった。
「撃たせるな、九条さん!」
神納は九条の腕を掴んだ。
「彼と話す時間をくれ。まだ間に合う」
「話す?」
九条は、神納の手を振り払った。その目は、かつてないほど冷たく、そして焦燥に満ちていた。
「正気か? 奴はもう人間じゃない。言葉なんて通じない。
見ろ、あのタンクを。奴は俺たち全員を発狂させようとしてるんだぞ!
これは対話のフェーズじゃない。バグの修正だ!」
「バグじゃない!」
神納もまた、声を荒らげた。
「彼は、あんたが切り捨てた『エラーデータ』の集合体だ!
あんたが作った完璧なシステムの、影の部分だ!
影を殺せば、本体も消えるぞ!」
「意味不明なことを言うな!
これを見ろ!」
九条はタブレットを神納の顔の前に突きつけた。
画面には、『推奨:射殺』の文字が、緑色の優しいフォントで点滅している。
「AIが答えを出している。これが最適解だ。
奴を殺せば、1200万人が救われる。
感情論で邪魔をするな。お前のその偽善が、最悪の結果を招くかもしれないんだぞ!」
神納は、タブレットの画面を見た。
そこにあるのは、あまりに清潔な「死刑宣告」だった。
血も、痛みも、肉の焼ける臭いもない。
ただのUI。ボタン一つで「ゴミ箱を空にする」のと同じ軽さで、一人の人間の頭蓋骨を粉砕する許可が出されている。
「……最適解、か」
神納は呟いた。
「確かに、計算上はそうだろうな。
でも、その計算式には『痛み』という変数が抜けている」
神納は九条から視線を外し、モニターのサーモグラフィを見た。
そこに映る赤い影。
それはデータではない。熱を持った、震えている肉体だ。
「九条さん。あんたは、奴を『処理』しようとしている。
汚いもの、理解できないものを、視界から消去すれば解決すると思っている。
でも、それは解決じゃない。隠蔽だ」
神納は、テントの出口へと向かった。
「俺が行く」
「は?」
九条が絶句する。
「何言ってるんだ。防護服もなしに、あの中に入る気か?
幻覚剤のガスが漏れてるかもしれないんだぞ!」
「構わない」
神納は振り返った。
その表情は、恐怖で強張っていたが、瞳だけは静まり返っていた。
「彼と同じ空気を吸って、同じ汚れに塗れなきゃ、聞こえない声がある。
あんたのAIには、それが一生わからない」
「死ぬぞ!」
「かもな。……でも、殺すよりマシだ」
神納はテントを出た。
松崎が叫ぼうとして、口を押さえた。彼女はわかっていた。止めても無駄だと。
そして、止めるべきではないと。
浄水場の広大な敷地。
巨大な沈殿池の水面が、投光器の光を反射して黒く光っている。
神納は、そのコンクリートの縁を歩き、中央制御室へと続く鉄階段を登り始めた。
「狙撃班、待て! 民間人が射線に入った!」
無線から焦った声が聞こえる。
九条はモニターを睨みつけた。
AIの予測グラフが乱れている。神納という「非合理な変数」が介入したことで、計算がエラーを起こしかけている。
『警告:不確定要素が増大。予測精度低下』
『推奨:障害物(民間人)の排除、または作戦中止』
「……くそっ!」
九条はコンソールを叩いた。
「中止はできない! 監視を続けろ!
奴がレバーに触れた瞬間に撃て。……神納ごとでも構わん!」
それは嘘だった。
九条の指は震えていた。
画面の中の神納の背中は、あまりに小さく、無防備だった。
論理では切り捨てられるはずのその背中が、九条の胸の奥にある、計算不可能な領域を締め付けていた。
制御室の扉の前。
神納は立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。
鉄の扉の隙間から、あの鼻が曲がるような腐臭が漏れ出している。
生きている匂い。死んでいく匂い。
神納は、ノックもせずに扉を開けた。
そこには、清潔なAIが決して到達できない、ドロドロとした「対話」の場が待っていた。
(続く)




