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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
29/32

第3章 トロッコ問題の先で


 東京都の水道局が管理する、巨大浄水場。

 その敷地は、青白い投光器の光で昼間のように照らし出されていた。

 機動隊の装甲車が幾重にもバリケードを築き、上空ではヘリコプターが旋回している。その騒音は、まるで巨大な虫の羽音のように、神経を逆撫でする周波数で響いていた。

 「……状況は?」

 現場指揮所となっているテントに、九条が駆け込んだ。

 「最悪です」

 モニターを監視していた捜査員が、顔をしかめて答えた。

 「対象は中央制御室に籠城。配管への注入弁を確保しています。

 奴が持ち込んだタンクの中身ですが……成分分析の結果が出ました」

 捜査員は言い淀んだ。

 「致死性の毒物ではありません。大量の『幻覚剤』と……腐敗した豚の血液、そして人間の排泄物を発酵させた汚濁液です」

 九条は息を呑んだ。

 殺す気はないのだ。

 腐敗男は、この都市の血管である水道管に、狂気と汚物を流し込もうとしている。

 蛇口を捻れば、幻覚剤入りの糞尿が出てくる。

 身体的な死よりも遥かに深く、この清潔な都市の精神を汚染する、最悪のテロル。

 「……俺のAIを使え」

 九条はタブレットを取り出し、メインサーバーに接続した。

 「奴の行動パターン、心拍数、筋肉の微細な動きから、次の動作を予測する。

 起爆スイッチ――注入弁を開くレバーを操作する『0.5秒前』に、狙撃班に信号を送る」

 画面に、制御室のサーモグラフィ映像が映し出された。

 赤く表示された人影が、機械の森の中で蠢いている。

 AIが解析を開始する。

 画面上に、無数の数値と予測線が走る。

 『シミュレーション完了』

 無機質な文字が表示された。

 『対象の排除によるリスク回避率:99.98%』

 『市民1200万人の精神衛生リスク:甚大』

 『推奨アクション:即時排除(Eliminate)』

 それは、あまりに簡単な計算式だった。

 一人の汚れた男の命と、1200万人の清潔な生活。

 天秤にかけるまでもない。AIは瞬時に「トロッコのレバー」を引くことを決定した。

 「射撃許可を」

 九条は、現場責任者の警察官僚にタブレットを見せた。

 官僚は頷いた。

 「許可する。タイミングはAIに任せる」

 責任の所在は、人間から機械へと委譲された。

 誰も「殺せ」とは言わない。ただ「システムに従え」と言うだけだ。

 そうすれば、誰の手も汚れずに済む。

 その時、テントの入り口が荒々しく開かれた。

 「待ってください!」

 神納だった。後ろには、息を切らせた松崎もいる。

 二人は、警察の阻止線を強引に突破してきたらしい。服は汚れ、神納の頬には擦り傷があった。

 「撃たせるな、九条さん!」

 神納は九条の腕を掴んだ。

 「彼と話す時間をくれ。まだ間に合う」

 「話す?」

 九条は、神納の手を振り払った。その目は、かつてないほど冷たく、そして焦燥に満ちていた。

 「正気か? 奴はもう人間じゃない。言葉なんて通じない。

 見ろ、あのタンクを。奴は俺たち全員を発狂させようとしてるんだぞ!

 これは対話のフェーズじゃない。バグの修正デバッグだ!」

 「バグじゃない!」

 神納もまた、声を荒らげた。

 「彼は、あんたが切り捨てた『エラーデータ』の集合体だ!

 あんたが作った完璧なシステムの、影の部分だ!

 影を殺せば、本体も消えるぞ!」

 「意味不明なことを言うな!

 これを見ろ!」

 九条はタブレットを神納の顔の前に突きつけた。

 画面には、『推奨:射殺』の文字が、緑色の優しいフォントで点滅している。

 「AIが答えを出している。これが最適解だ。

 奴を殺せば、1200万人が救われる。

 感情論で邪魔をするな。お前のその偽善が、最悪の結果を招くかもしれないんだぞ!」

 神納は、タブレットの画面を見た。

 そこにあるのは、あまりに清潔な「死刑宣告」だった。

 血も、痛みも、肉の焼ける臭いもない。

 ただのUIユーザーインターフェース。ボタン一つで「ゴミ箱を空にする」のと同じ軽さで、一人の人間の頭蓋骨を粉砕する許可が出されている。

 「……最適解、か」

 神納は呟いた。

 「確かに、計算上はそうだろうな。

 でも、その計算式には『痛み』という変数が抜けている」

 神納は九条から視線を外し、モニターのサーモグラフィを見た。

 そこに映る赤い影。

 それはデータではない。熱を持った、震えている肉体だ。

 「九条さん。あんたは、奴を『処理』しようとしている。

 汚いもの、理解できないものを、視界から消去すれば解決すると思っている。

 でも、それは解決じゃない。隠蔽だ」

 神納は、テントの出口へと向かった。

 「俺が行く」

 「は?」

 九条が絶句する。

 「何言ってるんだ。防護服もなしに、あの中に入る気か?

 幻覚剤のガスが漏れてるかもしれないんだぞ!」

 「構わない」

 神納は振り返った。

 その表情は、恐怖で強張っていたが、瞳だけは静まり返っていた。

 「彼と同じ空気を吸って、同じ汚れに塗れなきゃ、聞こえない声がある。

 あんたのAIには、それが一生わからない」

 「死ぬぞ!」

 「かもな。……でも、殺すよりマシだ」

 神納はテントを出た。

 松崎が叫ぼうとして、口を押さえた。彼女はわかっていた。止めても無駄だと。

 そして、止めるべきではないと。

 浄水場の広大な敷地。

 巨大な沈殿池の水面が、投光器の光を反射して黒く光っている。

 神納は、そのコンクリートの縁を歩き、中央制御室へと続く鉄階段を登り始めた。

 「狙撃班、待て! 民間人が射線に入った!」

 無線から焦った声が聞こえる。

 九条はモニターを睨みつけた。

 AIの予測グラフが乱れている。神納という「非合理な変数」が介入したことで、計算がエラーを起こしかけている。

 『警告:不確定要素が増大。予測精度低下』

 『推奨:障害物(民間人)の排除、または作戦中止』

 「……くそっ!」

 九条はコンソールを叩いた。

 「中止はできない! 監視を続けろ!

 奴がレバーに触れた瞬間に撃て。……神納ごとでも構わん!」

 それは嘘だった。

 九条の指は震えていた。

 画面の中の神納の背中は、あまりに小さく、無防備だった。

 論理ロジックでは切り捨てられるはずのその背中が、九条の胸の奥にある、計算不可能な領域を締め付けていた。

 制御室の扉の前。

 神納は立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。

 鉄の扉の隙間から、あの鼻が曲がるような腐臭が漏れ出している。

 生きている匂い。死んでいく匂い。

 神納は、ノックもせずに扉を開けた。

 そこには、清潔なAIが決して到達できない、ドロドロとした「対話」の場が待っていた。

(続く)


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