第2章 解析不能な叫び
都市の裂け目としか言いようのない場所だった。
湾岸エリアの、再開発から取り残された一角。かつて食肉加工場だったという廃ビルは、高層マンション群の影に隠れ、腐った歯のように黒々と聳え立っていた。
「……ここね」
松崎が立ち止まり、コートの襟を合わせた。彼女の顔色は白かったが、その瞳には、かつて商業出版の現場で磨り減っていた頃にはなかった、鋭い光が宿っていた。
「警察の規制線が解かれたばかりよ。九条さんのAIが『居住の痕跡なし』と判断して、捜索を打ち切った場所」
神納は、ビルの入り口――鉄扉が蝶番から外れ、錆びついた鉄骨が剥き出しになった穴――を見上げた。
中に入る前から、鼻腔の奥が痺れるような感覚があった。
風に乗って漂ってくるのは、海風の潮の香りではない。もっと内臓に直接訴えかけてくる、甘ったるく、重苦しい、生物的な腐敗の臭気だった。
「行こう」
神納が先に足を踏み入れた。松崎が続く。
ビルの中は、外の光が届かない闇だった。
神納はスマートフォンのライトを点けた。
白い光の束が、コンクリートの床を照らす。
そこは、床ではなかった。
コンビニ弁当の空き容器、ペットボトル、脱ぎ捨てられた衣類、そして正体不明の有機物が、何層にも積み重なり、踏み固められた「地層」だった。
歩くたびに、靴底がジュッ、ジュッ、と湿った音を立てる。
何かが発酵し、ガスを発生させている音が、静寂の中で微かに聞こえる。
「……うっ」
松崎が口元をハンカチで押さえ、嗚咽を漏らした。
臭いは、奥へ進むほどに濃度を増していた。
それは単なるゴミの臭いではない。
人間の脂、古くなった汗、精液、そして排泄物。それらが密閉された空間で混ざり合い、熟成された、濃密な「人いきれ」の成れの果てだった。
最奥の部屋。
そこは、かつて冷凍倉庫として使われていた場所らしかった。
分厚い断熱材が壁を覆い、外部への音と臭いを遮断していた密室。
神納がライトを壁に向けた瞬間、その光景が網膜に焼き付いた。
壁一面に、文字が書かれていた。
スプレーでも、ペンキでもない。
茶色く、乾燥してひび割れ、一部はまだ湿り気を帯びて黒光りしている物質。
糞便だった。
『俺を見ろ』
『俺を嗅げ』
『俺はここにいる』
『きれいか?』
『これが俺だ』
壁という壁、床、天井に至るまで、指で塗りたくられた排泄物の文字が、呪詛のように埋め尽くしていた。
筆跡は荒々しく、所々に爪で壁を引っ掻いた跡があり、そこには乾いた血が混じっていた。
肛門からひねり出したばかりの汚物を、自らの指ですくい、壁に叩きつける。その瞬間の男の体温、息遣い、そして屈辱と快楽がない交ぜになった激情が、圧倒的な「悪臭」となって保存されていた。
「……ひどい」
松崎の声が震えた。彼女はハンカチを口に当てたまま、目を見開いて壁を見つめていた。涙が滲んでいた。それは臭気による刺激のせいだけではなかった。
神納は、ポケットからスマートフォンを取り出し、翻訳カメラアプリを起動してみた。
最新のAIを搭載したそのレンズを、壁の文字に向ける。
画面上のAR(拡張現実)枠が、文字を認識しようとして揺れ動く。
『認識できません』
『汚れ』
『幾何学模様』
『エラー:意味のあるテキストではありません』
「……やっぱりだ」
神納は力なく笑った。
「AIには読めない。これは文字じゃない。『汚れ』として処理される」
九条のシステムがここを見落とした理由がわかった。
AIの視覚野にとって、この壁はただの「不衛生な壁」であり、そこに書かれているのが言語であるとは定義されていないのだ。
排泄物は、情報ではない。ただの廃棄データだ。
だから、ここに書かれた『俺を見ろ』という叫びは、デジタルの世界では透明なのだ。
「……でも、読めるよ」
松崎が、ハンカチを外した。
彼女は、その耐え難い悪臭を、あえて深く吸い込むように胸を上下させた。
「書いてあることは乱暴だけど……私には、全部同じ言葉に見える」
松崎は、汚れた壁に一歩近づいた。
「『寂しい』って……そう書いてある気がする」
神納は壁を見た。
排泄行為。それは生物にとって最も無防備で、恥ずべき瞬間だ。
男は、その恥部を壁に塗りたくることでしか、世界と接続できなかった。
デジタル空間では、誰もがアイコンという仮面を被り、体臭のない言葉で会話する。
その清潔なネットワークから弾き出された男は、自分の存在を証明するために、デジタル化不可能な「臭い」という狼煙を上げるしかなかったのだ。
「……そうだね」
神納は呟いた。
「これはテロの声明文じゃない。赤ん坊の夜泣きと同じだ。不快で、うるさくて、でも無視できない生命維持のアピールだ」
その時、部屋の隅にある瓦礫の山から、電子音が鳴った。
ピ、ピ、ピ。
チープなアラーム音。
神納が瓦礫をのけると、そこには油まみれの旧型ラップトップPCが置かれていた。バッテリーランプが赤く点滅している。
画面には、ビデオ通話の着信が表示されていた。
神納は、躊躇なくエンターキーを押した。
画面にノイズが走り、男の顔が映し出された。
腐敗男だ。
背景は、どこかの配管室のようだった。
男は、画面越しに鼻を鳴らした。
『……来たか。物好きな連中だ』
男の声は、この部屋の臭いと同じくらい湿っていた。
『どうだ? 俺の部屋は。いい匂いだろ?』
「ああ」
神納は答えた。
「ひどい臭いだ。目を開けているだけで痛くなる」
『ハハッ! そうだろ、そうだろうよ!』
男は嬉しそうに笑い、黄色い歯を剥き出しにした。
『AIにゃあ、それがわからねえんだ。
あいつらは俺の芸術を「非衛生」のタグ一つで片付けやがる。
だが、あんたたちは違う。今、顔をしかめたな? 吐き気を催したな?
ざまあみろ。それが俺だ。俺の一部が、今、あんたらの肺の中に侵入して、粘膜にへばりついてるんだ』
松崎が、カメラの前に立った。
「……あなた、どこにいるの?」
『教えるわけねえだろ、お姉ちゃん。
でもな、俺はずっと見てたぜ。あんたらのこと。
「聴くための部屋」だっけ? 哲学者の先生』
男の濁った瞳が、画面越しに神納を射抜いた。
『あんたは言ったよな。「沈黙に耳を澄ませ」って。
高尚なご趣味だ。綺麗な沈黙、詩的な静寂、それらを愛でるのは楽しいだろうよ。
だがな……』
男は、画面に顔を近づけた。魚眼レンズのように顔が歪む。
『俺のこの「臭い」も、あんたの言う倫理の範疇か?
糞尿と腐った肉の悪臭。これに耳を澄ませられるか?
愛せるか? 抱きしめられるか?
……それとも、鼻をつまんで「処理」するか?』
究極の問いだった。
清潔な部屋で、紅茶を飲みながら語る「他者理解」など、この圧倒的な汚濁の前ではお遊戯に過ぎない。
神納は、肺いっぱいに充満した腐敗臭を感じながら、カメラを見返した。
吐き気は止まらない。生理的な嫌悪感は消えない。
だが、だからこそ、嘘はつけない。
「……愛せない」
神納は正直に言った。
「君の臭いは不快だ。耐え難い。抱きしめたいとも思わない」
画面の向こうで、男の表情が凍りついた。失望と、予想通りの拒絶に対する嘲笑が浮かびかけた。
「だが」
神納は続けた。
「僕は今、鼻をつまんでいない」
神納は両手を広げて見せた。
「この部屋に入ってから一度も、鼻を塞いでいない。
君の臭いを、全部吸い込んでいる。
吐き気がする。最悪の気分だ。
……でも、僕はここに立っている。君が残した痕跡の中に」
沈黙が流れた。
男は、じっと神納を見ていた。その目は、猛獣が獲物を品定めするような、あるいは迷子が親を探すような、揺れ動く光を帯びていた。
『……へえ』
男は小さく呟いた。
『口だけは達者だな。
いいぜ。じゃあ、最後の試験だ。
俺は今から、この街の水源を「汚染」する。
あんたが本当に俺の汚れを吸い込めるなら……ここまで来て、俺を止めてみろよ。
俺の手を握って、証明してみせろ』
プツン。
通信が切れた。
ラップトップの電源が落ち、赤いランプが消える。
残されたのは、完全な闇と、濃密な糞便の臭いだけだった。
「……行くのね」
暗闇の中で、松崎の声がした。
「うん」
神納は答えた。
「彼は待っている。誰かが、防護服なしで自分に触れに来るのを」
二人は廃ビルを出た。
外の空気は冷たく、冬の匂いがした。
だが、神納の鼻腔には、あの腐敗臭がこびりついて離れなかった。
それはもはや、単なる悪臭ではなかった。
彼が生きていく上で背負わなければならない、他者という名の「重し」の匂いだった。
(続く)




