第1章 肉のノイズ
冬の気配は、空気の乾燥とともにやってきた。
神納が営む私塾『聴くための部屋』の窓ガラスは、外気との温度差で薄く結露していた。指でなぞれば冷たい雫が垂れるそのガラスの向こうで、東京の街は相変わらず、巨大なサーバーのように静かな駆動音を立てて動いていた。
その日、塾に訪れる生徒はいなかった。
神納は一人で湯を沸かし、古い文庫本のページを繰っていた。静寂は彼にとって馴染み深い友だったが、今日の静けさには、どこかざらついた違和感があった。
スマートフォンの通知が鳴ったのは、午後四時を過ぎた頃だった。
松崎からだった。短いメッセージと共に、動画リンクが貼られていた。
『見て。今、渋谷のビジョンがジャックされてる』
神納はリンクを開いた。
画面いっぱいに映し出されたのは、薄暗いコンクリートの部屋だった。
壁には黒いカビが地図のように広がり、床にはゴミと排泄物が混じったような茶色い染みがへばりついている。
その中央に、一人の男が座っていた。
年齢は不詳。髪は油で固まり、皮膚は垢で黒ずんでいる。着ている服は、何度も吐瀉物を浴びたかのように変色し、硬化していた。
男は、カメラに向かって何かを語りかけるでもなく、手元の「塊」に食らいついていた。
それは、生の豚肉だった。
赤黒い血が滴る肉塊を、男は両手で掴み、獣のように引きちぎる。
クチャ、クチャ、ジュルリ。
咀嚼音が、不快なほど鮮明にマイクで拾われ、増幅されていた。
男の口の端から、ピンク色の肉片と唾液が混じった泡が垂れる。彼はそれを汚れた袖で乱暴に拭い、また肉に歯を立てる。
喉が鳴る音。嚥下する音。胃袋に異物が落ちる重たい音。
それは食事というよりは、有機物が有機物を取り込む、グロテスクな化学反応の映像だった。
数分間、ただその「食べる」映像だけが流れた。
コメント欄には『グロい』『吐きそう』『通報した』という言葉が滝のように流れていたが、映像は遮断されない。
やがて、男は肉を食い尽くし、血に濡れた指を一本ずつ舐め取った。
そして、カメラのレンズを覗き込んだ。
その瞳は、濁った泥水のように暗く、しかし底知れない熱を帯びていた。
「……綺麗だな」
男の声は、痰が絡んだように湿っていた。
「お前たちの世界は、綺麗すぎる。抗菌処理された便器みたいに真っ白で、ツルツルしてやがる。臭いものには蓋をして、汚いものはデータごと消去して、それで生きてるつもりか?」
男はゲップをした。胃酸の酸っぱい臭いが画面越しに漂ってきそうなほど、生々しい音だった。
「俺は**腐敗男**だ。お前らがトイレに流した汚物だ。
AIも、警察も、俺を見つけられなかった。なぜだかわかるか?
俺が『汚すぎた』からだ。
お前らの作った完璧なシステムは、俺みたいなノイズを『存在しないデータ』として処理した。見たくないものを見ないふりした結果がこれだ」
男はニタリと笑った。歯茎から血が滲んでいた。
「だから、俺が思い出させてやる。
人間はな、肉だ。クソだ。腐るんだよ。
この清潔な街に、本物の『リアル』を流し込んでやる」
映像がプツンと切れた。
直後、ニュース速報のテロップが流れた。
『地下鉄大手町駅構内で爆発音。異臭騒ぎにより多数の利用客が搬送』
神納は、震える手でスマートフォンを置いた。
胃の奥が冷たくなるのを感じた。それは恐怖というより、生理的な拒絶反応だった。
あの映像には、倫理的なメッセージなど微塵もなかった。
ただ、圧倒的な「不快」の質量だけがあった。
一時間後、ドアがノックされた。
立っていたのは九条だった。
彼はいつになく顔色が悪く、着ているコートには微かに焦げ臭いような、鉄錆のような匂いが染み付いていた。
「……入れてくれるか」
神納は無言で頷いた。
部屋に入ると、九条は椅子に崩れ落ちるように座った。
「現場に行ってきた」
九条は絞り出すように言った。
「酷いもんだったよ。火薬の爆発じゃない。あいつが使ったのは、圧力鍋を使った即製の『汚物爆弾』だ」
九条は手で口元を覆った。
「中身は……豚の血液、腐った内臓、そして人間の排泄物だ。それらを密閉容器で発酵させ、メタンガスで内圧を高めて破裂させた。
殺傷能力は低い。物理的な怪我人は数人だ。だが、精神的な被害は甚大だ。
駅の構内は、地獄のような悪臭で満たされていた。吐瀉物の海だ。逃げ惑う人々が、互いの汚れを擦り付け合い、パニックになって将棋倒しになった」
九条は震える手でポケットからタブレットを取り出した。
「俺の作った監視AIは、奴を検知できなかった。
なぜだかわかるか?
奴の行動パターンが、あまりに『人間離れ』していたからだ。
奴は、駅のゴミ箱から残飯を漁り、公衆トイレの床で寝て、防犯カメラに向かって排泄行為をした。
AIのアルゴリズムは、それらを『脅威』ではなく『異常値』として弾いたんだ。不快すぎて、学習データセットに含まれていなかった『外れ値』だ」
九条は神納を見た。その目には、かつての自信に満ちた光はなく、深い困惑の色が浮かんでいた。
「俺たちは、社会を清潔にしようとして、システムから『汚れ』を排除した。
だが、その排除された汚れが、意思を持って戻ってきたんだ。
神納、君は以前言ったな。『エラーが祈りだ』と。
……あんなものも、祈りなのか?
あんな、吐き気を催すだけの汚物の塊が、本当に人間なのか?」
神納は、沸いたまま冷めきった急須のお茶を、自分の湯呑みに注いだ。
湯気が立ち上る。
その湯気の向こうに、先ほどの動画の男――腐敗男の、濁った瞳が重なって見えた。
「……人間だよ」
神納は静かに答えた。
「彼が食べていた肉も、撒き散らした排泄物も、僕たちの体の中にあるものと同じだ。
皮膚一枚めくれば、僕たちはみんな、血と肉と汚物の袋だ。
彼はただ、その『中身』を、パッケージせずにぶちまけただけだ」
「それをテロリズムと言うんだ!」
九条が声を荒らげた。
「奴は、社会の生理的嫌悪感をハックしたんだ。
恐怖ではなく『不快感』による支配だ。
こんなものは議論の余地もない。ただの害虫だ。駆除しなければならない」
「駆除……」
神納はその言葉を反芻した。
「そうやって『害虫』と呼んで切り捨てた瞬間、僕たちは彼と同じ土俵に乗ることになるんじゃないか?
彼が求めているのは、まさにそれだよ。
自分を『ゴミ』として扱った世界に、自分というゴミの臭いを強制的に嗅がせること。
『俺はここにいる』『俺は臭い』『だから無視するな』という、最も原始的な自己主張だ」
九条は黙り込んだ。
部屋の外では、遠くでパトカーのサイレンが鳴り響いていた。
その音は、清潔な都市の表面に走った亀裂から漏れ出る、悲鳴のように聞こえた。
神納は窓の外を見た。
冬の夜空は澄み渡り、星がきれいに見えた。
だが、その美しさは、地上の汚濁をすべて闇に塗り込めた上での、虚構の美しさのように思えた。
「……来るよ」
神納は呟いた。
「彼はまだ、挨拶をしただけだ。
もっと深く、僕たちが一番見たくない場所に、指を突っ込んでくるはずだ」
腐敗男。
その名前は、AIが管理する「無菌室」としての社会に対する、もっとも痛烈で、もっとも汚れたアンチテーゼだった。
神納は自分の手のひらを見つめた。
かつて川本の母の手を握ったその手。
これから、その手で何ができるのか。
汚れることへの恐怖と、それでも触れなければならないという予感が、冷たい汗となって滲み出していた。
(続く)




