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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
26/32

第十五章 不在の輪郭


 季節は巡り、東京の街路樹が色づき始めていた。

 神納は、世田谷の古いアパートの一室を借りて、小さな私塾を開いていた。

 看板はない。SNSでの告知もしていない。ただ、口コミで知った数人の学生や社会人が、週に一度、夕暮れ時に集まってくるだけの場所だった。


 屋号をつけるなら『聴くための部屋』といったところだろうか。

 ここでは、カリキュラムもなければ、到達目標もない。

 誰かが話し出すのを待ち、話し出さなければ沈黙を共有する。言葉にならないモヤモヤを、安易なラベルで整理せずに、そのままテーブルの上に置いて眺める。ただそれだけの時間を過ごす場所だった。

 「先生、これ、答え出ないですね」

 高校生のひとりが、苦笑いして言った。

 「うん。出ないね」

 神納はお湯を沸かしながら応じた。

 「でも、答えが出ない問いを持っていること自体が、君の形を作っているのかもしれないよ」

 そんな緩やかな時間が過ぎ、最後の参加者が帰ったあと、ドアが控えめにノックされた。


 神納が扉を開けると、そこに立っていたのは九条だった。

 かつてのアクティブなパーカー姿ではなく、少しヨレたコートを着ていた。手にはコンビニの袋がぶら下がっている。

 「……入ってもいいかな」

 「どうぞ」

 神納は驚きを隠して、彼を招き入れた。

 九条は部屋の中を見回した。古い本棚、座り心地の悪そうな椅子、そして黒板代わりのホワイトボードには、誰かが書いた「わからなさ」という文字が残っていた。


 「非効率な部屋だ」

 九条はそう言って、少しだけ口元を緩めた。

 「褒め言葉として受け取っておくよ」

 神納は椅子を勧めた。

 「会社、辞めたんだ」

 座るなり、九条が言った。

 神納は手を止めた。「……どうして?」

 「完成したんだよ。あのグリーフケアAI。完璧な製品になった。レスポンスは超高速、顧客満足度は過去最高。誰もが『癒やされた』と言って課金する」


 九条はコンビニ袋から缶ビールを取り出し、プシュッと開けた。

 「でも、俺の中で何かが冷めてしまった。

 あの日、君が言った言葉が、バグみたいに残って消えないんだ。『沈黙こそが倫理だ』とか、『エラーが祈りだ』とかいう、あの非論理的な主張が」

 九条はビールを一口飲み、神納を睨むように見た。

 「聞きに来たんだ。俺は論理の人間だ。納得できないと前に進めない。

 なぜ、君はあんな不完全なものを肯定できた? なぜ、計算できない沈黙に価値があるなんて言えたんだ?」

 神納は、自分のカップに新しい茶葉を入れた。


 湯気が立ち上る。

 どう答えるべきか、彼は少し迷った。

 レヴィナスの言葉を引くことも、現象学的な説明をすることもできた。だが、今の九条に必要なのは、言葉による「解説」ではない気がした。

 神納は何も言わず、沸騰したお湯を急須に注いだ。

 ジョボボボ、という音が静かな部屋に響く。

 茶葉が開くのを待つ。三十秒、一分。

 沈黙が流れる。

 九条は答えを待って、じっと神納の手元を見ている。

 その視線には、以前のような「分析」の色はなく、ただ純粋な「問い」の色があった。


 「……どうぞ」

 神納は湯呑みを差し出した。

 九条はそれを受け取った。熱さが指に伝わったのか、一瞬「あつっ」と顔をしかめた。

 そして、恐る恐る口をつける。

 「……苦いな」

 「少し蒸らしすぎたかもしれない」

 神納も自分の分を啜った。

 「九条さん」神納は静かに言った。「今、あなたが『わからない』と思ってここに来たこと。わざわざ足を運んで、答えの出ない問いを僕に投げかけたこと。

 それが答えだよ」

 「は?」九条は怪訝な顔をした。

 「AIなら、そんな無駄なことはしない。わからないことは『データなし』で処理して終わりだ。


 でも、あなたはつまずいた。納得できないという『異物』を抱えて、立ち止まった。

 僕が美しいと思うのは、その姿だよ。

 正解に向かって最短距離を走るんじゃなく、わからないまま、お茶の熱さに顔をしかめている、その身体の不自由さが、たまらなく人間らしくて、信頼できると思うんだ」

 九条はしばらく黙って湯呑みを見つめていた。

 湯気が彼の眼鏡を少し曇らせた。

 「……不自由、か」

 彼は眼鏡を外し、コートの袖で拭った。

 「確かに、バグだらけだな、俺たちは」

 「ああ。修正不可能なバグだらけだ」

 その夜、九条は長居しなかった。「また来るかも」とだけ言い残して帰っていった。


 その背中は、以前よりも頼りなげだったが、確かな質量を持って地面を踏みしめていた。

 神納は一人になった部屋を片付けた。

 窓を開けると、秋の冷たい風が入ってきた。

 彼は机の引き出しから、一冊のノートを取り出した。

 今日の昼、文具店で買ってきたばかりの、真新しい大学ノートだ。

 あの川本のノートと同じ、茶色い表紙のもの。

 彼はそれを机の上に置いた。

 表紙をめくる。

 最初のページは、雪原のように真っ白だった。

 ペンを手に取る。

 何かを書こうとして、やめた。

 かつて彼は、書くことで空白を埋めようとした。沈黙を恐れ、意味で満たそうとした。


 だが今は違う。

 この空白は、欠落ではない。

 ここは「誰かが座るための席」だ。

 いつか出会うかもしれない他者が、言葉にならないため息を漏らしたり、迷ったりするための場所。

 あるいは、亡き友人がふと立ち寄って、沈黙のまま座っていくための余白。

 神納はノートを閉じた。

 何も書かない。

 ただ、机の端に置いておく。

 不在。

 それは、そこに「いない」ということではない。

 誰かがいた痕跡であり、これから誰かが来るという予感によって縁取られた、確かな輪郭なのだ。


 神納は部屋の灯りを消した。

 暗闇の中に、ノートの輪郭だけが白く浮かんでいる。

 彼はその輪郭を見つめながら、深く息を吸い込んだ。

 肺の中に、冷たくて、新しい空気が満ちていくのを感じた。

 明日は松崎と会う約束がある。

 川本の母の病院へ行く予定もある。

 言葉にならない時間は、これからも続いていく。


 けれど、もう怖くはなかった。

 ここからまた、始めればいいのだから。

(完)


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