第十三章 その場所(トポス)
川本の母は、そのまま療養型の病院へ転院することになった。家に戻れる見込みは薄かった。
親族の同意のもと、神納と高山は、空き家となる家の片付けを手伝うことになった。
九月の初旬、残暑がまだ厳しい日だった。
雨戸を閉め切った家の中は、蒸し風呂のように暑く、埃と古紙の匂いが充満していた。
神納は応接間に入った。
時間は止まっていた。飾り棚の写真、飲みかけのまま干からびた急須、そしてテーブルの上に置かれたままの、茶色い大学ノート。
神納はノートを手に取った。
表紙は湿気で波打ち、手垢で黒ずんでいた。
ページを開く。
そこには、川本の筆跡と、神納が書き加えた言葉、そして何も書かれていない余白があった。
神納はポケットからペンを取り出した。
最後にもう一言、書き加えるべきか迷った。
『お母さんは、精一杯生きました』あるいは『僕たちが引き継ぎます』。
そんな言葉が頭をよぎった。
だが、ペン先が紙に触れる直前で、彼は手を止めた。
書くことは、空白を埋めることだ。
意味を確定させ、沈黙を終わらせることだ。
だが、このノートが持つ価値は、言葉そのものよりも、言葉と言葉の間に横たわる「語り得ぬ領域」にあるのではないか。
川本が遺し、母が撫で、神納が迷い続けた、この物理的な紙の束。
そこにこれ以上、意味を上書きする必要があるだろうか。
「……そのままでいい」
神納はペンを仕舞った。
書かないこと。
それは、怠慢ではなく、もっとも強い意志による保存だった。
デリダが言った「差延」――意味は常に遅れてやってくる。決定的な答えを先送りにし続けることこそが、未来への可能性を開く。
このノートは、答えの書かれていない「場所」として、この家に残り続けるべきだ。
「神納」
高山が顔を出した。手には小さな桐の箱を持っていた。
「これ、遺骨の一部。分骨してあったんだ。おばさんが前に言ってた。『あの子を、いつか海に連れて行ってあげたい』って」
神納はノートを元の位置に丁寧に戻した。
「……行こうか。海へ」
「ああ。松崎さんにも声をかけた。駅で待ってる」
神納は部屋を出る前、もう一度振り返った。
薄暗い部屋の中で、ノートだけが白く浮き上がって見えた。
それはもう、誰にも読まれないかもしれない。
だが、そこに「ある」ということ。
データとしてクラウドに保存されるのではなく、質量を持って、風化しながらそこに鎮座していること。
その静寂こそが、川本と母親を守る最後の砦のように思えた。
「行ってきます」
神納は小さく呟き、扉を閉めた。




