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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
24/32

第十三章 その場所(トポス)


 川本の母は、そのまま療養型の病院へ転院することになった。家に戻れる見込みは薄かった。

 親族の同意のもと、神納と高山は、空き家となる家の片付けを手伝うことになった。

 九月の初旬、残暑がまだ厳しい日だった。

 雨戸を閉め切った家の中は、蒸し風呂のように暑く、埃と古紙の匂いが充満していた。


 神納は応接間に入った。

 時間は止まっていた。飾り棚の写真、飲みかけのまま干からびた急須、そしてテーブルの上に置かれたままの、茶色い大学ノート。

 神納はノートを手に取った。

 表紙は湿気で波打ち、手垢で黒ずんでいた。

 ページを開く。

 そこには、川本の筆跡と、神納が書き加えた言葉、そして何も書かれていない余白があった。

 


 神納はポケットからペンを取り出した。

 最後にもう一言、書き加えるべきか迷った。

 『お母さんは、精一杯生きました』あるいは『僕たちが引き継ぎます』。

 そんな言葉が頭をよぎった。

 だが、ペン先が紙に触れる直前で、彼は手を止めた。

 書くことは、空白を埋めることだ。

 意味を確定させ、沈黙を終わらせることだ。

 だが、このノートが持つ価値は、言葉そのものよりも、言葉と言葉の間に横たわる「語り得ぬ領域」にあるのではないか。

 川本が遺し、母が撫で、神納が迷い続けた、この物理的な紙の束。

 そこにこれ以上、意味を上書きする必要があるだろうか。

 「……そのままでいい」

 神納はペンを仕舞った。

 書かないこと。


 それは、怠慢ではなく、もっとも強い意志による保存だった。

 デリダが言った「差延」――意味は常に遅れてやってくる。決定的な答えを先送りにし続けることこそが、未来への可能性を開く。

 このノートは、答えの書かれていない「場所トポス」として、この家に残り続けるべきだ。

 「神納」

 高山が顔を出した。手には小さな桐の箱を持っていた。

 「これ、遺骨の一部。分骨してあったんだ。おばさんが前に言ってた。『あの子を、いつか海に連れて行ってあげたい』って」

 神納はノートを元の位置に丁寧に戻した。

 「……行こうか。海へ」

 「ああ。松崎さんにも声をかけた。駅で待ってる」


 神納は部屋を出る前、もう一度振り返った。

 薄暗い部屋の中で、ノートだけが白く浮き上がって見えた。

 それはもう、誰にも読まれないかもしれない。

 だが、そこに「ある」ということ。

 データとしてクラウドに保存されるのではなく、質量を持って、風化しながらそこに鎮座していること。

 その静寂こそが、川本と母親を守る最後の砦のように思えた。

 「行ってきます」

 神納は小さく呟き、扉を閉めた。

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