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そこから  作者: 未世遙輝
エピソード2
23/32

第十二章 壊れたレコード


 知らせは、八月の酷暑がアスファルトを溶かすような午後に届いた。

 高山からの電話だった。声は震えていた。

 「川本のお母さんが、倒れた。脳梗塞らしい」

 神納がタクシーで病院に駆けつけると、無機質な匂いのする待合室に、高山が座っていた。そしてその隣には、見覚えのある男がいた。

 九条だった。

 神納は足を止めた。


 「……どうして」

 「親戚なんだ」九条が短く答えた。「高山は俺の従兄弟だ。川本さんの家のこと、以前から相談を受けていた」

 九条はいつものパーカーではなく、襟付きのシャツを着ていたが、その目は相変わらず分析的で、感情の色が希薄だった。

 「一命は取り留めた。ただ、言語中枢をやられたらしい。さっきから、ずっとループしてる」

 「ループ?」

 「ああ。バグったレコードみたいに」

 集中治療室の面会時間が来ると、三人は無言で入室した。

 ベッドには、数多のチューブに繋がれた川本の母が横たわっていた。その身体はシーツに埋もれるほど小さく見えた。


 彼女は目を開けていた。だが、その視線は虚空を彷徨っていた。

 そして、唇が動いた。

 「……あ、あ、……そこ……」

 「……あ、あ、……そこ……」

 掠れた声が、一定のリズムで繰り返されていた。意味を成さない音声。壊れた玩具のような反復。

 九条が眉をひそめた。

 「ウェルニッケ失語の症状だね。音韻が崩壊して、意味のある単語を構成できていない。本人も何を言っているかわかっていない可能性がある。脳の電気信号が、損傷した回路でショートして、同じパルスを出し続けているんだ」

 九条の言葉は、冷徹な事実だった。

 「かわいそうに。システムエラーの中に閉じ込められている」

 神納は、ベッドの脇に立った。


 機械のモニターが、心拍数を電子音で刻んでいる。ピッ、ピッ、ピッ。

 その規則正しい電子音の隙間を縫うように、彼女の声が響く。

 「……あ、あ、……そこ……」

 神納には、それが「エラー」には聞こえなかった。

 彼女の視線が、わずかに神納を捉えた気がした。その瞳の奥で、必死に何かに手を伸ばそうとしている光が見えた。

 「そこ」とは、場所のことか。それとも、あのノートに書かれた「そこ」のことか。

 意味はわからない。文法も壊れている。

 だが、そこには確かな「呼びかけ」があった。

 神納は、彼女の痩せ細った手を握った。

 冷たくて、骨ばった手だった。

 「……いますよ」

 神納は言った。

 「僕は、ここにいます」

 「……あ、あ、……」

 彼女の声がわずかに揺れた。握り返す力は弱かったが、指先が微かに動いた。

 「神納さん」九条が言った。「通じてないよ。それは反射だ」

 「いいえ」神納は振り返らずに答えた。「意味は通じていなくても、『届いた』という事実は残ります」


 神納は両手で彼女の手を包み込んだ。

 「九条さん、あなたはこれを『壊れたレコード』と言うけれど、僕には『祈り』に聞こえます。同じ言葉を繰り返すのは、それ以外の言葉では、今の彼女の切実さを支えきれないからだ」

 九条は口を開きかけたが、何も言わずに目を逸らした。

 病室には、電子音と、彼女の声と、エアコンの送風音だけが満ちていた。

 神納は、その反復音の中に、かつてアノテーションの現場で削除してきた「ノイズ」の尊厳を見た気がした。


 意味にならなくても、声はある。

 論理が破綻しても、人間はそこにいる。

 面会時間が終わり、廊下に出たとき、高山が涙を拭っていた。

 九条は壁にもたれ、複雑な表情で神納を見ていた。

 「……君は、非効率だな」

 それは軽蔑ではなく、どこか諦めに似た響きを持っていた。

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