第十二章 壊れたレコード
知らせは、八月の酷暑がアスファルトを溶かすような午後に届いた。
高山からの電話だった。声は震えていた。
「川本のお母さんが、倒れた。脳梗塞らしい」
神納がタクシーで病院に駆けつけると、無機質な匂いのする待合室に、高山が座っていた。そしてその隣には、見覚えのある男がいた。
九条だった。
神納は足を止めた。
「……どうして」
「親戚なんだ」九条が短く答えた。「高山は俺の従兄弟だ。川本さんの家のこと、以前から相談を受けていた」
九条はいつものパーカーではなく、襟付きのシャツを着ていたが、その目は相変わらず分析的で、感情の色が希薄だった。
「一命は取り留めた。ただ、言語中枢をやられたらしい。さっきから、ずっとループしてる」
「ループ?」
「ああ。バグったレコードみたいに」
集中治療室の面会時間が来ると、三人は無言で入室した。
ベッドには、数多のチューブに繋がれた川本の母が横たわっていた。その身体はシーツに埋もれるほど小さく見えた。
彼女は目を開けていた。だが、その視線は虚空を彷徨っていた。
そして、唇が動いた。
「……あ、あ、……そこ……」
「……あ、あ、……そこ……」
掠れた声が、一定のリズムで繰り返されていた。意味を成さない音声。壊れた玩具のような反復。
九条が眉をひそめた。
「ウェルニッケ失語の症状だね。音韻が崩壊して、意味のある単語を構成できていない。本人も何を言っているかわかっていない可能性がある。脳の電気信号が、損傷した回路でショートして、同じパルスを出し続けているんだ」
九条の言葉は、冷徹な事実だった。
「かわいそうに。システムエラーの中に閉じ込められている」
神納は、ベッドの脇に立った。
機械のモニターが、心拍数を電子音で刻んでいる。ピッ、ピッ、ピッ。
その規則正しい電子音の隙間を縫うように、彼女の声が響く。
「……あ、あ、……そこ……」
神納には、それが「エラー」には聞こえなかった。
彼女の視線が、わずかに神納を捉えた気がした。その瞳の奥で、必死に何かに手を伸ばそうとしている光が見えた。
「そこ」とは、場所のことか。それとも、あのノートに書かれた「そこ」のことか。
意味はわからない。文法も壊れている。
だが、そこには確かな「呼びかけ」があった。
神納は、彼女の痩せ細った手を握った。
冷たくて、骨ばった手だった。
「……いますよ」
神納は言った。
「僕は、ここにいます」
「……あ、あ、……」
彼女の声がわずかに揺れた。握り返す力は弱かったが、指先が微かに動いた。
「神納さん」九条が言った。「通じてないよ。それは反射だ」
「いいえ」神納は振り返らずに答えた。「意味は通じていなくても、『届いた』という事実は残ります」
神納は両手で彼女の手を包み込んだ。
「九条さん、あなたはこれを『壊れたレコード』と言うけれど、僕には『祈り』に聞こえます。同じ言葉を繰り返すのは、それ以外の言葉では、今の彼女の切実さを支えきれないからだ」
九条は口を開きかけたが、何も言わずに目を逸らした。
病室には、電子音と、彼女の声と、エアコンの送風音だけが満ちていた。
神納は、その反復音の中に、かつてアノテーションの現場で削除してきた「ノイズ」の尊厳を見た気がした。
意味にならなくても、声はある。
論理が破綻しても、人間はそこにいる。
面会時間が終わり、廊下に出たとき、高山が涙を拭っていた。
九条は壁にもたれ、複雑な表情で神納を見ていた。
「……君は、非効率だな」
それは軽蔑ではなく、どこか諦めに似た響きを持っていた。




