第十一章 アナログの逆襲
七月の風は、熱を含んで粘りついていた。
神納は、松崎と代々木公園のベンチに座っていた。
二人の間には、コンビニで買ったアイスコーヒーと、電源を切った二台のスマートフォンが置かれていた。
「……辞めたの、あの企画」
松崎がストローを回しながら言った。
「『泣けるエッセイ』の話?」
「うん。編集長には怒られたけどね。『数字が見込めるのに勿体ない』って。でも、どうしても筆が進まなかったの。
AIの手紙がバズった夜、思ったでしょ? 『摩擦』のない言葉は消費されて終わるって。私が作ろうとしていた本も、結局は読者を気持ちよくさせるだけのドラッグなんじゃないかって思ったら、もう一行も書けなくなっちゃった」
彼女の表情は、以前会ったときよりも憑き物が落ちたように明るかった。会社での立場は悪くなったかもしれないが、彼女自身の輪郭はくっきりとしていた。
「神納くんも、バイト辞めたんでしょ?」
「ああ。きれいなAIを作る手伝いは、もう十分だ」
二人は笑い合った。
無職の大学院生と、窓際になりかけた編集者。
社会的なスペック(仕様)で見れば、二人は「負け組」あるいは「エラー」かもしれない。だが、このベンチに流れている時間は、驚くほど豊かだった。
「ねえ、歩かない?」
松崎が立ち上がった。
「スマホ、置いていかない? どうせ誰も急用なんてないし」
「……いいね」
二人はスマートフォンを鞄の奥底にしまい込み、手ぶらで歩き出した。
通知のない時間。
それは最初、少し手持ち無沙汰だった。何か面白いものを見つけても、写真を撮ってシェアすることができない。沈黙が訪れても、画面を見て誤魔化すことができない。
だが、十分も歩けば、感覚が変わってきた。
砂利を踏む靴の音。
遠くで鳴く蝉の声。
すれ違うランナーの荒い息遣い。
木々の間から漏れる光の粒。
世界は、こんなにも高解像度で、情報量に満ちていたのだ。
6インチの画面の中にある「感情タグ」や「要約されたニュース」よりも、遥かに複雑で、ノイズだらけで、生き生きとした情報が、全身の毛穴から入ってくる。
「……あ」
松崎が足を止めた。
足元の草むらに、一匹のトカゲが顔を出していた。
二人は息を潜めてそれを見つめた。トカゲは喉を膨らませ、小さな黒い目で二人を見返し、やがてカサカサと音を立てて茂みへ消えた。
ただそれだけの出来事だった。
「かわいい」と呟くことも、「珍しい」と検索することもしなかった。
ただ、トカゲと目が合ったという「事実」だけが、二人の間に共有された。
「AIには、これ、できないよね」
松崎が静かに言った。
「トカゲの画像を生成することはできても、今この瞬間、私たちが息を止めて見守った時間は作れない」
「ああ。……偶然は、計算できないからね」
神納は、自分の身体を見下ろした。
汗ばんだ肌。少し痛む足。喉の渇き。
これらはすべて、デジタル空間ではノイズとして除去される「不快」なものだ。
だが、この不快さこそが、自分が世界に存在しているという錨なのだ。
「アナログの逆襲だね」
神納が言うと、松崎は吹き出した。
「何それ。地味な逆襲ね」
「地味でいいんだ。派手な革命は、すぐにシステムに取り込まれるから」
二人は公園を抜け、明治神宮の森へと入っていった。
木々の影が濃くなり、空気がひんやりと変わる。
言葉は少なかった。
だが、その沈黙は、かつて神納が恐れていたような「断絶」ではなく、二人の身体が同じ場所、同じ時間を共有しているという、確かな「接続」の証だった。
「……お腹すいたね」
しばらくして、松崎が言った。
「うん。何か食べよう」
「検索しないで、匂いで店を決めようよ」
「賛成」
二人は森を出て、街の雑踏へと戻っていった。
ポケットの中のスマートフォンは、沈黙を守ったままだ。
神納は知っていた。電源を入れれば、また無数の通知と、最適化された情報が押し寄せてくることを。
だが今は、隣を歩く松崎の足音と、自分の心臓の鼓動だけが、信じるに足る唯一のリズムだった。




